第12話 嫉妬の夢魔2
『まだ夏休みだからといってぐずぐずするな。さっさと来い味噌っかす』
いきなり電話をかけてきたと思ったら、一方的にそれだけ言って電話を切られた――スマートフォンをベッドに放り投げたのち里見夏穂はため息をつく。
夏穂を呼び出したのはスクールカウンセラーの三神京子であった。ここに入学してからの約四年半、夏穂は彼女の世話になっている。叔母の旧友なのだが――
「相変わらず、人使いが荒い。まだ夏休みだってのに。乱暴な言いかたとかどうにかならんのかね」
自分一人しかいない部屋で夏穂は呟いた。
今日は八月の二十八日。もうすぐ夏休みが終わるのは確かだが、まだ夏休みであるのも確かである。京子が夏穂を呼び出すときは大体決まっている。いつもの通りなにかが起こったのだろう――面倒なのは確かだが、こちらとしても無視するわけにもいかない。世話になってるのは確かだし。
夏穂はベッドから降り、内履きを履いてから立ち上がった。
「ねえ、今度はなんだと思う?」
夏穂は自分の裡にいるオーエンへと話しかけた。
オーエン――それは自分の裡にいる正体不明の存在。自分の裡に自分以外の『なにか』がいるというのは不思議な感覚である。はじめのうちは人らしさなど残っていない夏穂なりに驚いたものだ――しかし、それだって十年近くも続けば日常となる。
いまとなっては、オーエンは夏穂にとって当たり前の存在だ。相変わらずオーエンがなんなのかよくわからないけれど。わからなかったところで死ぬわけでもない。自分に対して実害がないことをいくら考えたって仕方ないのである。夏穂はこの十年間、なんとかそうやって生きてきた。
『さあな。いまのところ怪異の気配はないが――』
オーエンは素っ気なく告げた。オーエンが言うのなら、間違いないだろう。オーエンは怪異そのものだ。それも、まともな人間であったのなら一生かかわらない――かかってもいけない強大な怪異である。
怪異に対して絶大な力を持つ捕食者――それが夏穂の裡にいるオーエンという正体不明だ。捕食者である以上、捕食対象の気配にはとても敏感なのだ。
『だが、妙な気配がある。なんだこりゃ。なにか起こるかもしれんぞ。気をつけておけ』
「なにかってなに?」
『そんなもん知るか』
「思わせぶりなことを言ってそれはないんじゃないの?」
『なにか起こるかもしれないから、気をつけておけってだけだよ。……まあ、お前に気をつけるもなにもないだろうが』
「なにか起こったって大抵はたいしたことないし、気をつける必要とかなくない? 気をつけるとか面倒極まりないし」
面倒なことは極力しない、それがいまの夏穂の生き延びるために会得した知恵である。
『……お前、そんなのだからなにか起こるたびに殺されたり、殺されかけたりするんだな。学習能力のない奴め』
呆れたような声を夏穂の頭の中にオーエンは響かせた。
いまさらわかったのか。なかなか愚鈍である。
十年もの付き合いがあるというのに。
そんなの当たり前じゃないか。
なにしろ、怪異に関連した事件を終わらせるのなら、殺されたり殺されそうになったほうが手っ取り早く終わってしまうのだ。こっちが殺されれば、お前が勝手に報復するんだし。
それに、話して終わればそれに越したことはないが、怪異に憑かれるような輩は大抵話が通じない。こちらにその気がなくても、奴らのほうから暴力的な手段に訴えてくる。夏穂が殺されたり殺されかけたりするのは避けようがないことも多いのだ。
『だからといって自分が傷つくことに頓着を持たないのはどうかと思うぞ。人間として』
「別にいいんじゃないの? ほぼ人間じゃなくなっているんだし」
人間でなくなった者が人間らしくしてどうするのだと夏穂は思う。
里見夏穂という存在は十年前に人ではなくなっている。いまここにいるのはかろうじて人の形をしているだけのなにかだ。そんなものが人間らしくするなんて、あまりにも馬鹿馬鹿しい。人でなくなったものに、人でいられなくなった者に――人らしさなど必要なかろう。十年前に失われたそれらは、もう戻ってこないのだから。
『ま、どう生きようがお前の勝手だが――少しばかり思い切りがよすぎると俺は思うぜ。死ななくたって自分を大切にするほうがいいだろうよ』
「ご忠告どうも」
夏穂は部屋を出て寮の廊下を歩き出す。
もうすぐ新学期ということもあり、寮内は結構騒がしい。夏休み期間中かなり姿が減っていた生徒もその大部分が戻ってきたようだ。制服で大荷物を抱えた生徒の姿がちらほらと目に入る。
とはいっても、夏穂に友達など一人もいないので、いようがいまいがさして変わらない。夏穂にとって多くの生徒はどうでもいい存在であり、その逆も同じである。どうでもいい存在というのは、存在しないも同然だ。存在しないものなど、誰も気にしない。この学園における里見夏穂はどこまでいってもそういう存在である。基本的に。
そのとき、
背後から――
射貫くような
視線を感じた。
夏穂はそれが気になって足を止め、背後を振り返る。
しかし、こちらに向けられていた視線はすぐに消え去ってしまった。視界にあるのは夏穂のことなど存在しないかのように振る舞うお年頃の女子生徒だけ。夏穂に視線を向けそうな者など誰もいない。
『どうした?』
「なんか、誰かに見られていると思って。なにかいない?」
『いないな。気のせい……と言いたいところだが、お前はそういうことに限っては勘がいいからな。またなにかやったんじゃないのか?』
「……心当たりが多すぎてわからないわね」
『なにかやったんじゃないかと言われて、心当たりが多すぎると返す時点で女子高生として終わってるよな、お前』
「なに言ってんの。人間として終わってるんだから、女子高生として終わってるのなんて当たり前じゃない」
『そりゃそうだ。当たり前のことを訊いて悪かった』
オーエンはけらけらと笑い声を響かせる。性別も年齢も判然としない不思議な声だった。
「でもまあ、なんか違ったのよね」
『違った?』
どういうことだ、と言いたげな声をオーエンは出した。
「私のことを殺してやろうと機会を窺ってるって感じじゃなかったというか――なんていえばいいんだろ――声をかけたいけどどうしたらいんだろわかんないはあ好き尊い無理心臓止まっちゃう、みたいな視線」
『…………』
夏穂のその言葉を聞いてオーエンは黙り、数秒ばかりの沈黙が続いたあと、
『……いつものあほ後輩じゃないのか?』
取り直すように不思議な声でそう言った。
「あいつが、好意を寄せている相手に声をかけられない可愛いタイプだと思う?」
『……思わん』
あほ後輩――
どこまでも人当たりがよく、普通の感性を持っているのなら、彼女を嫌う人間まずいない。大抵の人間とは仲よくできる。彼女と仲よくできないのなら、仲よくできなかったほうが問題だと言いきれてしまう人間だ。底抜けに明るい善人。普段の言動はとんでもない馬鹿に見えるが、本当に馬鹿ではないため、その馬鹿な言動は不愉快に感じないというとてもレアなキャラクターである。
夏穂としても、そんな後輩から好意を向けられるのは嫌ではなかった。
嫌ではないのは確かだが、自分にかかわるとろくなことにならないため、そんな後輩に道を外してほしくない気持ちが、下水道の底にへばりついた髪の毛みたいな人間性しか残っていない夏穂にもあったりするわけだ。
そんな後輩の特徴の一つとして、普通の人間だと引くくらい直情的であることが挙げられる。好意を持っている相手に対し、なんの臆面もなく面と向かって『付き合って』とか『結婚して』とか言えるタイプだ。
そんな人間である以上、どこかのお姉ちゃんのようにしおらしく背後からひっそりと見ている、なんてことをするわけがない。そんなことをする前に、背後から抱きついて求愛行動をしてくるはずだ。
『あのあほ以外にお前に好意を持ってる奴なんているのか? そいつには悪いが、とんでもなく悪趣味だぞ。普通にやべえ。近寄らないほうがいいぞ』
「そうかもねー」
どこの誰だか存じ上げないが、やめておけと言っておきたい。というか――ここ最近、姫乃以外に好意を持たれるようなことをした覚えがないが……。なにかしたっけ? 忘れているだけだろうか?
「ま、別にいっか。忘れてるのならたいしたことでもないし」
『お前って、面倒臭くなると、なんでもたいしたことじゃないで切り捨てるよな。いいんだか悪いんだか』
「悪い? だってたいしたことじゃないもの」
人らしさを失った夏穂にとって、この世にあるほぼすべてのものは『たいしたこと』ではなくなった。自分にあった、ありとあらゆるものをすべて否定されたのだから、そうならざるを得なかったのだ。
人として死んでいる夏穂の先は長くない。どういう形になるかはわからないが、遠くない日に破綻が訪れるのは明らかだ。いずれ訪れる自らの破綻すらどうでもいいと言えてしまう――それが、十年前『選別現象』に遭遇し、運悪く生き残ってしまった里見夏穂という人の形をしたなにかであった。
カウンセリングルームの扉をノックする。ノックするとすぐ、機嫌悪そうな女性の声が「入れ」と言ったのが扉越しに聞こえてくる。
「失礼します」と、一応言いながら扉を開けて中に入る。
すると、そこには――
いつものように、カウンセラーとは思えない態度で座っている三神京子がいて、その横には――
見知らぬ女子生徒が立っていた。
光を吸い込んで逃さない黒色の髪。前髪が長くて顔はよく見えないけれど、とても顔立ちが整っていることがわかる。夏穂と同じ制服を着ているので高校生だとわかったものの、私服にランドセルだったなら小学生と見間違えしまうほど小柄だ。可愛いという概念を具現化したような存在である。
その女子生徒は入ってきた夏穂と目が合うと、見知らぬ相手に怯えているのか、すぐに視線を逸らされてしまった。
「あの、京子さん。そちらにいるかわいこちゃんは誰ですか?」
「九月からの編入生だ。いまからそれについて説明する。いつまで客を立たせているつもりだ、さっさと茶を出せゴミ。その程度もできんのか。社会不適合者め」
「……わかりました」
理不尽極まりないが、これもいつものことなので大人しく従った。茶を出すくらいたいした手間じゃない。それに、適当な淹れ方をしても京子は文句言わないし。
一瞬だけ、女子生徒に視線を向けてみる。
京子がわざわざ呼び出すってことは、自分と同じくなにか訳アリなのだろう。
……ふむ。
どうやら、いつもの面倒ごととは違う匂いが感じられる。
興味が出てきた。
なにしろすごくかわいい。
奥にある給湯室へと足を向ける。
『お前、ああいうのが好みだったのか。ロリコンなの?』
「それはちょっと違うわ。幼ければいいわけではないもの。可愛けりゃロリもショタでもなんでも構わないわ。可愛いは宇宙を支配する圧倒的正義よ。知らないの?」
『ふーん。で、そう思うのは可愛いがお前にはないものだからか?』
「そうね。でも、自分にないものを誰かに求めるのは当たり前でしょう?」
『違いねえや』
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