第26話 五摂家
敵の正体が判明し、誰に気を配れば良いか理解した次郎三郎達は天海の動向を集中的に探る事にした。
それ故に秀忠の行動に注視する事を疎かにしてしまった。
次郎三郎により忠隣を半ば強引に失脚させられた上、駿府に柳生を入れるなと約定迄させられた秀忠の鬱憤は爆発寸前のところまで来ていた。
次郎三郎の言う事を聞くのは秀忠自身が征夷大将軍になるまでの間の我慢だと堪えていたのだが、そこに柳生宗矩の甘いささやきが秀忠の耳に入る。
「殿が征夷大将軍になりましたら誓紙など反故にして即座に柳生者に駿府を襲わせます故」
と期限付きの約束であると強調し秀忠をなだめた。
慶長5年(1601年)本多正信はまず、徳川家康の名を使い豊臣秀次死後空位であった関白職を九条兼孝に任官するよう奏上し豊臣家の関白世襲を止め、五摂家に関白職が戻った。
五摂家とは鎌倉時代に成立した藤原氏の嫡流であり、公家世界の頂点に立つ、即ち「一条家」「二条家」「九条家」「鷹司家」「近衛家」の五家の事を云った。
五摂家の家々は代々、大納言、右大臣、左大臣を経て、摂政、関白、太政大臣を勤めてきた。
この流れを断ち切ったのが豊臣秀吉という武将であった。
五摂家から関白職を取り上げ、豊臣家が関白を世襲するという決まりを作ったのだ。
天下万民は次の関白は豊臣秀頼であると誰もが思って疑わなかった。
当の本人である淀の方も関白職を五摂家に召し上げられるとは予想だにしていなかった。
この時の淀の方の怒りは凄まじかった。
次郎三郎を大坂城へ呼びつけ詰問に至る程である。
次郎三郎は心苦しくも知らぬ存ぜぬを通し抜く。
そもそも次郎三郎は淀の方を好きにはなれなかった。
淀の方には織田家の血が濃く表れているのか、激情家であり、尚且つ大坂城に籠っていた為、物事を自分中心に考える欠点があった。
傍に仕える大野治長などは次郎三郎から見れば奸臣・佞臣の類であり、唯一戦況を把握している片桐且元を淀の方は軽視していたのも次郎三郎が淀の方を嫌うもう一つの要因であった。
慶長8年(1603年)
後陽成天皇より参議・勧修寺光豊(かんしゅうじみつとよ)を勅使とし、伏見城へ派遣させ朝廷より征夷大将軍、右大臣、源氏長者、淳和奨学両院別当(じゅんなしょうがくりょういんべっとう)に任命するという勅命が下り次郎三郎はそれを受諾する。
その後次郎三郎は伏見城ではなく諸大名に修復させた京・二条城に移り衣冠束帯を纏い行列を整え、御所へ参内し将軍拝賀の礼を行い、以後伏見では無く二条城で政務を行う。
ほぼ新築された二条城には崇伝の指示で忍び返しが取り付けられ、堅牢な要塞となっていた。
淀の方はこの行為にも激怒する。
「家康殿は伏見では不満と云われるのですか?」
且元が答える。
「恐らくは伏見城は太閤殿下の御建てあそばされた城にて、徳川の威光を知らしめんと新築と増築させた二条城にて将軍拝賀の礼を行ったと思われます。」
淀殿は且元のその言い方が気に入らなかったのか且元に食ってかかる。
「そもそも家康殿は豊臣の朝臣(あそん)、平氏の家系では無いですか?何故、源氏長者(げんじのちょうじゃ)になれるのです?」
且元は冷静に答える。
「家康殿は今や源の朝臣を名乗っておられます。」
淀殿が絶望した顔をして
「家系図を変えたというのですか。」
淀殿の絶望は家康が明らかに豊臣家から離れつつあるという事を今更ながらに知った事であった。
且元は逆に不自然とも呼べるほどの忍び返しがついた二条城を不思議に思う。
豊臣家にはほとんど目立ったお抱え忍びが居ない。
それにしては厳重な用心であると感じたのである。
「家康殿の反旗の表れなのか?」
且元の心に一抹の不安がよぎる。
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