地動説 其の四

 ラストチャンス。残り二十五分。

 いやいや、焦らないで。まだ二十五分ある。

 理佐は苛立ちを制御しつつ、ため息。ちらりと月山の顔を見る。頭を悩ませているのは分かるけど、ここまで分からないとは、理佐も想定外だった。

 パーティーが終わった後、キーワードが「夏目漱石」だとすぐに分かったまでは良かった。しかし「月」と「夏目漱石」が並ぶと首をかしげる。

 本当は分かって首をかしげているのだろうか。そう思ってしまう。残り二十三分。

 こうなったらキリがないと思った理佐は口を開け、

「あーもう、仕方ないわね」

 最後のヒントよ、と吐いた。


「さっき、『こころ』の話をしたわよね」

 月山はコクリと頷く。

「あの時代、自分のこころを言葉にしない方が多かったらしいの」

「それは知ってる」

「せめて、日本人ならば遠回しに言いなさいって、夏目漱石が教師時代に生徒に教えたんだって」

 はやく気づけ。現代文の授業で先生言ってたでしょ。

「私、思うんだよね。先生が奥さんに、せめてこの言葉が言えたら、奥さん、どれだけ嬉しかっただろうって。そして、素直に言ったら、少しは変わっていたのかもしれない」

 月山はじっと理佐を見つめたまま。理佐は、目をそらして窓を見つめる。

「あーあ! 私もいつかこんな言葉言われてみたいなー!」

 わざと口にする。ロックを外して窓を勢いよく開ける。八つ当たりする。残り時間が二十分だから。

 卒業生達は正門を後にする。もう諦めて帰ろうかと思ったその時。

「ねぇ、キーワードの答えって台詞だったよな?」

 振り返りながら、

「そうよ。分か」

 言葉を遮られる。


「月が綺麗ですね」


 今、確かにそのを発した。


「で、合ってる?」


 こくり、とゆっくり頷く。

 月山は、冷静な顔から真っ赤に染まる。口を手で隠す。今になって言葉の意味を思い出したようだった。

「お前、これって」

 だーかーら、と強く言い放つ。

 呼吸を整える。

 やっと言える、

「死んでもかまわないわ」

 あの瞬間から、この気持ちは変わっていない。更に深くなっている。愚かさ、美点も含めて、理佐はこの言葉を口に出す。その瞬間、月山が、

「えっ? 何それ?」

 思わず、は? と吐く。

「何それ? どういう意味?」

「いや、待って、この意味覚えてないの!?」

「記憶にない。何かの決まり文句?」

 熱が上がり「嘘でしょ」と呟きながらその場に座り込んだ。

「どういう意味?」

「察しろ、馬鹿」

 おい馬鹿って、と理不尽そうに溜息を吐く。

「これは、明治時代に活躍した二葉亭四迷が、ツルゲーネフの『片恋』に出てくる台詞を訳したものよ。現文の授業で習ったでしょ?」

 理佐の眼が赤くなる。月山の顔を見ていられなくなった。

「あぁ、そうだったな」

 淡々と述べる月山に「覚えててよ」と消えそうな声で呟く。

「仕方ない。二年の秋の授業なんて覚えてないさ」

「頭賢いくせに」

 最悪だ。理佐は心の中で呟く。腕時計を覗くと、残り十三分。

 理科室に沈黙が生まれる。座り込んだまま下を向く理佐。頭をかく月山。

 腕に目を当てていると、少しずつ熱と湿り気が布に残る。腕に目をこすり付けて払拭し、また腕時計に目を向けた。

 沈黙を破って、

「もう、あと十分だって。そろそろ帰ろっか」

 と言って立ち上がる。まだ下を向く理佐に「待って」と言われる。


「理佐」


 新しい呼び方。その瞬間、腕を掴まれ、引っ張られる。

 月山の顔までの距離が約十五センチ。瞳を奪われて、言葉を失う。真顔のまま、瞳に赤面し戸惑う理佐が目に映る。

 段々近づき、約十センチ。顔を傾ける。

 約五センチ。目を瞑る。

 ゆっくりと時間をかけてゼロ距離。

 パステルカラーに染まるこころが、透明になっていく。何色にも表せない、あふれる感情が透明なガラスのこころを砕き、一粒の涙となる。唇が重なる、柔らかい感触を、ただひたすらに噛みしめた。


 顔を離すと、理佐は目を逸らす。月山は掴んだ腕を、手に移す。ぎゅっと、柔らかく握り、もう一度、

「理佐」

 と呼ぶ。理佐は、目線を戻し、眉を下におろす。

「月が綺麗ですね」

 死んでもいいわ、と今泣いた鳥がもう笑う。

「やっぱ、これじゃ駄目だ」と勢いよく理佐を月山の腕に閉じ込める。

 思わず「うわっ」と声に出す。耳元に、月山の顔。

「好きだ」

 ゆっくりと背中に手を回して、

「私もよ、諒」

 と耳打ちした。


 午後の空に浮かぶ白い月が、二人のそれからを見守り続ける。

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その瞬間があったから。 倫華 @Tomo_1025

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