不思議な依頼

 片桐渉は、渋い顔をしながら椅子の背もたれに体を預けた。ギイギイと鳴るその音は不愉快だが、彼にはもっと不愉快なことがある。日は沈み、夜は深い。彼の座る警視庁刑事部捜査一課には、片桐以外誰もいない。いや、一人窓際の席に綾木警部補が座っているが、それ以外はみな事件を追って現場に向かっている。綾木はめったなことがないと動かないので、周りからは『昼行灯』と呼ばれているが、彼が凄い人間であることは片桐がよく知っていた。綾木が動かないということは、それだけこの地域が平和だということである。いいことではないか。


 そんなことはどうでもいい。


 片桐は眉間を揉み、咥えていたタバコを灰皿に押し付ける。あまりに積み上がりすぎた吸い殻が数個落ちるが、今はそのことすらどうでもいい。


「難しい案件ですか? 片桐刑事」


 誰に対しても敬語を崩さないおっとりとした綾木の声に、はっと顔を上げ、片桐は申し訳なさそうに笑った。


「騒がしくしてすみません」

「構いませんよ。それよりどうしたのです? 先ほどからそのように難しい顔をされて」

「いえ、それが」


 気乗りしない様子で頭を掻き、片桐は手にしていた調書を綾木に渡した。まだ書きかけのそれは、それ以上どう書いていいのか分からず放りっぱなしにしていたものだ。


 その紙面には一言、「失踪」


「失踪事件……ですか?」

「事件って言うのかどうか……微妙なんですよ」


 話の発端は、一週間前にさかのぼる。警視庁の受付で、半泣きになっていた少女を、片桐はたまたま見かけた。栗毛色の髪に短いスカート。ピンクのネイルに今はやりの化粧。正直、渋谷などで見かけるどこにでもいる少女だ。そんな少女が、要領を得ない言葉で受付嬢を困らせていたため、助け舟を出した。本当に気まぐれだ。特に手にしていた事件が無かったから、という、ただそれだけの気まぐれでしかなかった。けれど、彼女の言葉にそうも言っていられなくなった。


 曰く、彼女の彼が失踪したと言うのだ。


 彼の名前は本条奏汰と言い、素行が悪く家出を頻発していた。だから誰も気に留めない。けれど本当は優しい人で、少女にはよく弱音を吐いていたそうだ。家出をする時も、少女にだけは行き先を告げていったらしい。


 その彼が、何も言わず消えたと彼女は言う。


 失踪事件として取り扱って欲しいけれど、彼の両親はもう奏汰のことなどどうでもいいようで失踪届を出してくれない。周りもまともに取り合ってくれない。けれど自分には分かる。彼は何か事件に巻き込まれて失踪してしまったのだと。


 泣きながら、つっかえつっかえ語る少女を宥め、片桐は少し迷った。失踪となれば捜査一課の管轄だ。ここで受理すれば、解決するまで事件を追わなければならない。けれど、一課は忙しい。たかが一人消えたとしてもそこまで関わってはいられない。さて、どうしたものか。悩んでいる片桐の前で、少女は泣き崩れた。


「かなくん、死んじゃってたらどうしよう」


 か弱い一言が、片桐の心を揺さぶった。自分は何のために警官になったのだろう。この少女のように、か弱い人々を助けるためではなかったか。それなのに今はどうだ。日々の事件に忙殺され、相手を『被害者』『加害者』でしか見られなくなってしまっていた。


 そんな風になりたくて、この道を選んだわけではないのに。

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