再び冬

 三年生の三学期にもなると、学校の授業はほとんどなくなり、ただでさえ少なかった登校日もさらに減った。


その日は久しぶりの登校日だった。私はホームルームを終えた後、すぐに国語科準備室へと足を運んだ。


 私は図書室で飴を貰ったあの日以来、先生に会わないままセンター試験、そして一般入学試験を迎えていた。それは、ただでさえ最悪の裏切りをしている私が、先生をこれ以上裏切らないため。次に会うのは、先生が応援してくれている受験を完遂してから。そう決めていた。


 扉を開けた先には、先生が一人、準備室の奥の本棚へ数冊の本を仕舞っているところだった。先生は私に気付くと、本を全て仕舞い終えた後、何も言わず近くにあった椅子を自分の椅子の隣に持ってきた。


 それはまるでいつかのデジャヴの様で、私はあの時の様に俯いたまま緊張した体を前に出し、そしてぎこちなく、先生の出した椅子に腰かけた。


 相変わらず乱雑な先生の机の上で、緑色の表紙を見つけた。雨の日の約束の本だ。先生は覚えていて、それで私を待っていてくれたのだろうか。それともその日偶然、そこにあっただけだろうか。


 先生を見上げると、久しぶりに見た先生の顔は相変わらずの無表情で、いつもならその顔に安心できたのに、その日は安心など全くできなかった。


「先生」


先生を呼ぶ。先生は私を真っ直ぐに見つめて「何だ?」と返事をした。


「本の続きが読みたいです」


 しがない画家の、誠一の物語を取り出せば、先生はそうだな、と頷いた。


***


 恋する人が街を出て行った。それを追いかける事をせず、もう二度と会わないと決めた日に、誠一は筆を取った。初恋の彼女を、あの美しい女性を描こうと。しかし彼女の顔が分からない。誠一は、彼女の横顔しか知らない。正面から彼女を見たのは、ハンカチを拾ってもらったあの時だけ。描きあがったのはわずかに微笑む彼女の横顔。絵の中ですら、彼女は誠一に笑顔を向けていない。しかしそれでも彼の心を満たした。


 物語の終わり、誠一は病に倒れる。しかし彼には医師にかかる金はない。助けを求める友も家族もいない。黄泉の淵を覗き、いつ黄泉の迎えが来るのかと悪夢に苛まれ、世を捨てていたはずの彼が初めて生きたいと願う。わずかな持ち物を売り、画材を売り、最後には彼の愛した彼女の絵すらも手放してしまう。


 彼の全てを差し出してさえ、医師にかかるにどうにか足るほどの金しか得られなかった。彼が紡いだ愛は、絵は、世界からは全く評価されなかった。


 命を繋いだ彼には、命以外の何も残らなかった。


 失意の中、誠一は病院を出る。家も失い、帰る宛もなく彷徨い歩く誠一は、やがて全く知らない町へと辿りつく。


 そこには小さな花屋があった。夫婦が仲睦まじく花を売っている。その花屋にふらふらと誠一は引き寄せられる。そんな誠一に気付いた奥方が、笑顔で「いらっしゃいませ」と声をかける。彼女だった。彼が愛した彼女が、花を売っていた。幸せそうに笑いながら花を売っていた。


 その笑顔を見て誠一は絶望した。


それまで描いたどの彼女よりも、それまでに垣間見たどの横顔よりも、その笑顔は美しく、輝いていた。


 その輝きに、恋い焦がれた。彼女のあの瞳がこちらを捕えてくれたなら、極上の笑みが自分に向けられたなら。飢えの様な、渇きの様な、ただただ彼女を求めるそんな想いが胸を締め付ける。

 しかし彼女の世界に誠一はいない。彼女の瞳に誠一は映っていない。望んだのは誠一だ。握りつぶしたのは誠一だ。その自らがもたらした現実に、彼は絶望する。


 誠一は、その時初めて本当の意味で彼女に恋をした。


***


「バッドエンドだったんですね」


読み終えてそう言えば、先生は少し間をおいてから首を振った。

「この物語にハッピーエンドもバッドエンドもないだろう」


それもそうだ。誠一は全てを失ったが、気付いたこともある。私もこの間、その事に気づいたんだよ、と心の中で誠一に呼びかけた。私の方が少しだけ早かったね、と。


「先生」


呼ぶと、先生は本から顔を上げた。近かった先生の顔が私から離れて、先生は私を真っ直ぐに見た。いつだってそうだった。先生は小さな私の声を、必ず正面から真っ直ぐに受け止めてくれた。それが嬉しいと思った。


 深く息を吸った。私の胸の中にある想いが、全て言葉になるよう祈って。


「好きです」


先生の真摯なところも、真面目なところも、愛想がなくて誤解されやすいところも、不器用な優しさも、人との距離の測り方がとても下手なところも全て。


「先生が好きです」


先生を慕う想いも理由も全て、言葉で表現することは私には出来ないから、言い表せない気持ちを乗せて、言葉を重ねた。

 それから一呼吸置いて先生の目がゆっくりと見開かれ、瞳がわずかに揺れた。


「先生、好きです。ごめんなさい」


最後まで残っていた罪悪感が謝罪となって口を吐いた。それと同時に先生の輪郭がわずかにぼやけた。


 それが口をついて最後、私はもう考えられなくて、決壊した口から溢れる言葉をただ零し続けることしかできなかった。


「好きです。好きなんです。ごめんなさい、ごめんなさい先生」


どんなに言い募っても次から次へと気持ちが溢れた。そこに私の言葉をかき消してくれる雨はない。告白も謝罪もすべてが先生にぶつかっていった。


「先生、私、せっかく先生が優等生って、でも、やっぱり優等生じゃありませんでした」


言葉が途切れ、口から嗚咽が漏れる。心がない交ぜとなってそれでも想いを伝えたくて唸る。本当は先生から目を反らしたかった。この告白が、先生を困らせるだけのものだと分かっていたから。でも反らさなかった。ぼやける先生を、真っ直ぐに見つめ続けた。


「前は、目を伏せながら話していたよな」


先生がぽつりとつぶやいた。私は溢れかける言葉を止めて、先生の言葉に耳を傾けた。


「話す時ももっとどもっていて、声も小さかった。そんなはっきり言葉を話してくれるようになるのに、半年くらいかかった」


先生は一度言葉を切ると、ゆっくりと息を吸った。


「……苦しかったな」


いつも低く、それでいて滑らかに言葉を紡ぐ先生の声が、わずかに震えているのを初めて聞いた。


「きっと真面目なお前を、沢山苦しめたな」


私はすぐに強く首を振った。その拍子に私の両目に溜まった涙がぽたぽたと頬を伝った。


苦しかったし沢山悩んだけれど、それは先生のせいではない。だから、そんな辛そうに私を慰める必要はないのだと。しかしそれをうまく言葉にできず、結局私の口からついて出るのは謝罪の言葉だけだった。


「ごめんなさい」


そう言えば、今度は先生がゆっくり首を振った。


「謝らなきゃいけない事なんて何もない。お前は、悪い事なんて何もしてない」


先生は、少し丸まってしまっていた背筋を伸ばして、改めて私を見た。だから私も、涙を手で擦り、先生の目を見つめ返した。


「ありがとう」


そう言って私に向き合う先生の顔は酷く穏やかで、思いもしなかった言葉に私は息を飲んだ。


「緊張しいで臆病なお前がだんだんと心を開いてくれるのが嬉しかった。難しい本にへこたれずに取り組むのを好ましく思っていた。夢がないと泣くお前に、泣いてほしくないと思った。目標を決めて頑張る姿に応援したいと思った」


先生の声はもう震えていなかった。いつも通りの、聞き心地の良い低音だった。


「お前の事は好いている。だが、それはお前が求めている気持ちではない」


酷い、そう思った。先生は酷い。


 生徒だからと突き放すのではなく、私を正面から受け止めて、その上で振る先生は酷くて優しい。


「苦しんで、それでも勇気を出してくれたこと、本当に嬉しいと思う。けれど、『俺』にはお前の想いに応えられない」


それは想定していたものより、ずっと残酷で、ずっと幸せなフラれ方だった。


 先生の言葉に私は声を上げることもできないまま、ただ涙した。泣くことしかできなかった。


 窓の外では寂しげな木枯らしが吹いていて、それに負けじと運動部が遠く声を張り上げていた。私達以外にとって何でもない日、私の初めての恋は終わった。


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