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 今週の水やり当番は東阪くんと部長の真彩ちゃん。

 わたしが登校すると、すでに校庭にまでユーフォニアムとトロンボーンのふたつの音が聞こえていた。あのふたりのことだから、水やりを早く終わらせて練習しているのだろう。

 わたしもランドセルだけ教室に置いて、急いで音楽室に向かった。


 音楽室の引き戸を開けようとして、わたしは思わず立ち止まった。

 聞こえてきたのは、ユーフォニアムの音。

 昨日配られたばかりの新しい曲『ゲールフォース』の後半のメロディ。

 勢いよくすべり出すメロディ。

 ひょうひょうと、軽快なステップを踏む、歯切れの良いリズム。

 いつもはみんなを支えるように、安定した音色を響かせるユーフォニアムが、自由に笑い、飛び跳ね、踊っていた。

 参考音源を聴いたとき、そのスピードと高度なテクニックに、みんなで顔面蒼白がんめんそうはくになっていた箇所だった。


 やがて演奏は止んで、一瞬の静寂せいじゃくが訪れたあと、校庭で遊ぶ生徒たちの声が、遠くに戻ってくる。


 わたしはそこではじめて、自分の心臓の鼓動こどうの速さに気づいた。


「あ、おはよう、ありさ!」

 音楽室に入ると、真彩ちゃんが声をかけてきた。

「おはよう」

 なぜかドキドキを隠すように、わたしは小さく短くあいさつをする。

「ねえねえ聞いてよ! 光、もう一通り吹けるんだよ」

 興奮冷めやらぬといったようすで、真彩ちゃん。東阪くんに向かって、

「もう一回やってよ〜」

 とお願いした。でも東阪くんは、

「ヤダ。あんまやると下手になる。ライドウに怒られるし」

 きっぱりと断った。

「下手になることはないでしょ」

 真彩ちゃんが唇をとがらせる。

「ちょっとできるようになったからって、いい加減に吹いてたら逆に下手になるんだよ。そういうの、下級生が真似したら嫌だろ?」

「そうかぁ〜じゃあ仕方ないね」

 真彩ちゃんは、素直に引いた。

 東阪くんの言葉には、上級生にすら、仕方ない、と思わせてしまう説得力がある。

 本音は、ちょっと残念だけど。

 胸の高鳴りがまだ止まらない。

 東阪くんが曲を吹くの、初めてちゃんと聞いた気がする。

 こんな難しい曲、しかも土曜日に配られたばかりなのに、さっきは本当にすらすらと、もうカンペキなんじゃないかっていうぐらいに吹けていた。

 ピアノでもそうだけれど、『才能のある人』ってたまにいる。

 東阪くんも、そうなんだ。

 それに。

 東阪くんの吹くユーフォニアム、「楽しい!」って気持ちがすっごく伝わってきたんだ。

 聴いているわたしまで、テンション上がっちゃったもん!


「何、他人事みたいな顔してるの?」

 わたしがあまりにぼーっとしていたからか、東阪くんが冷めた表情で話しかけてきた。

「あんたも同じぐらい吹けてもらわなきゃ困るから」

「が、がんばります……」


 ……やっぱり鬼コーチ。


 そういえば、誰か——ライドウ? に「怒られる」って言ってたけど、誰のことだろう?



 個人練習の時間と、パート練習の時間を使って、わたしたちは新しい曲の譜読みに取りかかった。

 一週間後の土曜日に、「ゲールフォース」の初めての合奏を行うことが決まっている。

 楽譜に書いてあることを理解することはできても、それを楽器で吹くのは、また別問題で。

 たとえば、これはドの音だって頭ではわかってはいても、その音をきちんと出せるかどうかっていうのは、楽器に吹き込む息のスピードや、口の開け方なんかで変わってしまう。安定した音を出すためには、それらもろもろの感覚をつかまなければいけない。

 そのために毎日基礎練をやって、そして毎日、腹筋をしているのです。

 でもなかなか思うように息が続かない。音もまだまだ小さいし。

 腹筋なんて、運動部のトレーニングみたいだけれど……。

「本当に意味があるのかなぁ」

 ぼそりと、思わず心の声をこぼしてしまった。

 すると、

「あるわよ! 筋トレをバカにしたらいけないのよ」

 って華蓮ちゃんに怒られた。

「じゃあ、華蓮ちゃんも毎日やってるの?」

「三年生の頃から毎日やってるわ。あとはランニングも。そのおかげで、大きな音が出るようになったと思うもの」

「ふぇえ、すごい」

 今はすらすらとソロコルネットのパートを吹いている華蓮ちゃんだけど、その裏には惜しみない努力が隠されているんだ。

 華蓮ちゃんからしてみれば、わたしの練習量なんてちっぽけなものすぎて、「そんなことぐらいで弱音を吐くな」って思うのも当然だね。



✳︎♪✳︎♪✳︎♪✳︎♪✳︎♪✳︎



 というわけで、華蓮ちゃんを見習って、わたしも今日から、少しだけランニングを始めようかと思います!

 一度お家に帰ってから着替えて準備して出発。


 五分ほどゆっくりめで走って見たけれど、すぐに息が上がってしまった。

 実はわたし、運動は苦手なのです……。

 それになんだか恥ずかしい。知っている人にわたしが走っているところが見られるキケン性があるし。


「あ、久川さん!」

 あああほら! 言ってるそばから!

 後ろから声をかけられて、わたしはあわてて急ブレーキをかけて立ち止まった。

 声の主は、車に乗った鈴鹿先生だった。

「こんにちは……!」

 別に悪いことをしているわけじゃないのに、なんとなく落ち着かないでそわそわする。

「ランニングなんてえらいね!」

 と先生はさわやかなスマイルを見せた。対するわたしは、すでに息が上がっていて、ちょっと恥ずかしい。

「い、いえいえ……。今日、始めたばかり、なので」

「でも暗くなる前に帰るんだよ〜。あまり遠くには行かないようにね」

「はいっ」


 先生はそれだけ言うと、車を走らせて道を曲がって行ってしまった。


 安全そうな川ぞいの歩道を走って、しばらく経ったとき。

 久しく聴いていなかった、フリューゲルホルンの音色が、夕焼け空に響き渡った。


 さすがにもう覚えた。

『「新世界」より第二楽章』、だよね。


 そうそう、思い出したんだけど、この曲。

 前の学校の下校の時間に流れていた曲だ。

 毎日習い事で急いで帰らなきゃいけなかったから、しっかりと聴いたことがなくて、今まで思い出せなかったんだけど。たしかそう。


 この曲を聴くと、家に帰らなきゃって思うのも、無意識のうちにそういう思い込みがあるからなんじゃないかな。


 フリューゲルに、優しく背中を押されているような気がして、わたしは川ぞいの歩道を、少しずつ走っていく。

 不思議なことに、その音色は前より明るく楽しそうに、わたしの耳には聴こえていた。


 こうして、初の吹奏楽フェスティバルにむけた練習がいよいよ始まった。

 花羽台小学校ブラスバンドにとって、それがどんな夢と試練になろうかということを、このときのわたしたちはまだ、知らなかった。

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