◆◆◆ 閑話・3◆◆◆ 「学者おやじどもの青春時代」


 オドザヤとトリスタンの婚礼以降、宰相サヴォナローラの「最高諮問機関」の会合は短い間に何度も行われていた。

 だがその日、大公軍団の最高顧問で、元は国立士官学校の教授だったマテオ・ソーサが宰相府のサヴォナローラの執務室のそばの、いつもの細長い会議室に到着したのは、予定よりもまだ一時間以上も早い時刻だった。

 この日は、大公のカイエンは他に用事があったので同行しておらず、彼は皇宮に用があるというガラを護衛に、大公軍団の馬車で一足先に皇宮へ入っていたのだ。ガラの方の予定の方が早かったので、教授は「まあ、控え部屋で本でも読んで待てばいいか」とそう思ったのだ。

 どうやら、ガラの方は今日の用事は兄のサヴォナローラの執務に関係があることではないようだった。彼は教授を会議室の「控え室」に当てられている、そう広くはないが、十人前後の人間が座って待てるくらいの椅子やソファが置かれた部屋まで送ると、もう自分の仕事の方へ行ってしまった。

「やれやれ。今日はかねてからの懸案事項だった海軍の話を前に進めんといかんな。金の話と市民たちへの周知は、市長殿やギルド総長、他にも神殿の大神官さんたちに任せばいいが、各方面へ展開してもらう船団をまとめる海軍提督の方はもう具体的に選別の方策に入らないといかん。いずれは陸のアルマと同じく、海軍総督を決めなければいかんが、それは一つ下の提督を選んで、その中から選ぶことになるんだからなあ……」

 マテオ・ソーサは一人っ子である。それも、故郷の町では名士である、街の医師の家の子だ。

 だから、今のように部屋に一人残されたような状態になると、独り言が多くなる。自分の質問に自分で答えながら、考えをまとめていく癖があるくらいだ。

 国立大学院へ入るべく、街の神官や町長の推薦を受け、反対する親を振り払って故郷を出てきてから、もう二十年以上になる。その間、彼は一度も故郷へは帰省していなかった。

 それは、ちょうど十代の終わり頃に、両親との確執が我慢できないところまで肥大し、遂には縁切りとでも言うしかない状態になっていたからである。

 難産の果てに、息の止まった状態で生まれてきた子供。生来、体も小さく病がちでもあった彼を、両親は労わるという名目で、「お前は弱いんだから」と言っては、「あれもだめ」、「これもだめ」、と彼の望むことからは遠ざけ、彼らのさせたいことのみを押し付けていた。

 マテオが絵ばかり書いていたのは、両親が許してくれるような「遊び」が他にはなかったからだ。

 学校の友達が誘いに来ても、両親はマテオが外で遊ぶことを許さなかったので、すぐに誘いに来る子供もいなくなった。

 一人っ子でなければ、長男といえども一人の子に二親がそれほどまでに干渉することなど、出来ようもない。だから、彼に兄弟がいれば、そんな大事にはならなかったのかも知れないが、不幸なことに彼の後に兄弟が生まれることはなかった。

 一人っ子の彼は、「両親が心配して言っていることだからそれが正しいのだ」と思い込み、親の言うががままに成長していった。両親の言っていることとは、彼のためではなく、実は両親の思い込みと、利己主義のためだったことに気が付かないまま。

 両親たちの心持ちを言葉にすれば、それは、たった一人の彼らの「子」を自分たちのそばから離さないで目が届く手元に置いておき、彼ら自身の生活や体面を「満足させること」だけだったのだ。

 彼がやっとそれに気がついたのは、十七になった頃だった。

「お前は体が弱いから、いつまで生きられるかも分からない。だから早く結婚して孫の顔を見せてくれ」

 と、両親が勝手に話を進めていた「縁談」を知った時、マテオ・ソーサははっとした。

(俺は所詮、血をつなぐための道具だったのか?)

 という疑い。

 それに明確な回答が得られた瞬間だった。

 その時、マテオ・ソーサが考えていたのは、それだけは両親も誇らしげに許してくれていた、「学問」で身を立てることだった。

 彼の父は、国立医薬院を卒業した医者だったから、彼はまずは父親の説得を試みた。医師になるために帝都ハーマポスタールの国立医学院に入学したい、と言えば父は簡単に許してくれるだろうと思ったのだ。

 だが、信じられないことに、医師である父親は彼が医師となって家を継ぐことよりも、彼の血を継ぐ孫を得ることを願ったのだ。健康で元気な孫が生まれたら、それこそその子を医師にすればいい、それまでは私が頑張ればいいのだから、と。

 マテオ自身は、真実、医師になっても良かった。とにかくこの小さな町では出来ない高等教育を受けられる場所へ、両親の圧力の掛からぬ場所へ逃れ出られれば、それで良かったのだ。

 だから、母はともかく、父は国立医薬院へ入ることだったら認めてくれるに違いない、と信じていたのだ。

 それが、きれいに百八十度覆った。

 なんだ。

 その時、マテオが感じたのは、死にぞこなって生まれてきて、青年になっても体が貧弱なままの自分には結局は何も期待していない父親への落胆だった。

 彼は、それまでの両親の彼への「労わり」だと信じていたことすべての裏に隠されていたものに気が付いてしまったのだ。

 「彼ら二人の意のままになる、彼らの安寧のための子供」、それがいなくなる前に、「次の獲物」を得なければならない。彼らにとってはマテオは「そう長くは生きていられない子供」のままであり、意のままになる「新しい、きれいで健康な子供」が必要だっただけなのだと。

 もうその頃のマテオは、体格はともかくとして、寝込むような病に罹ることもなく、極めて「健やかな」青年になろうとしていたのにも関わらず、両親の彼に対する認識は「生まれぞこなった病弱な子供」のままだったのだ。

 それからのマテオは狡猾だった。

 彼は、通っていた街の学校の校長を通じて、街の有力者である町長と神官に、「学業を極めたい」と秘密裏に話を持ちかけた。街の有力者には、医師である父親も入っていたが、彼は父親以外の「有力者」を説得し、味方につけてのけたのだ。

 特に、街の学校の校長の取り込みは功を奏した。それは、校長自身が豪農とはいえ農家出身でありながら、帝都のハーマポスタールの大学院を卒業した苦労人だったことが大きかった。

 マテオはなんの前振りもなく、ある日の早朝、自宅をかばん一つ持って飛び出し、帝都への遠距離馬車に飛び乗った。懐には神官と校長の「紹介状」を持っていたが、国立大学院の入学試験に落ちれば、そのまま故郷へ戻るか、ハーマポスタールに留まるための手段を考えなければならなかっただろう。

 幸いにして、彼は国立大学院に合格し、その点も首席だったために、国の奨学金を得てハーマポスタールに残ることができた。住む場所は大学院の寮に無料で優先的に入ることが出来たし、ほとんどが国費とは言っても教材費などには学費はかかるのだが、その学費をも免除になった。国費奨学生となれば、月に幾らかの「小遣い」も出るのだ。

 もう、実家の財力に頼る必要はなく、彼はやっと「自分のやりたかったこと」に気が付き、それに邁進することが出来た。

 つまり、国立大学院に入ってからの彼は、順風満帆だったと言っていい。



「……あれは、一世一代の大博打だったなあ」 

 誰もいない中、広い部屋に一人でいたためか。

 マテオ・ソーサはふと気が付くと普段は思い出しもしない、故郷から出てきた時のことを思い出していた。

 数年前、あの「連続男娼殺害事件」の折に、同郷のクーロ・オルデガが彼宛に残した手紙を読んだ時まで、ほとんど思い出したこともなかった故郷パンチマルコ。

 そこは、こういう波乱の時代に、ハウヤ帝国という大国の中枢に関わる身となった今では、もはや振り返る必要も感じない場所だった。風の便りにも、父母の生死さえ聞いたこともない。

 国立大学院に入学してすぐの頃には、泣き落としのような手紙も両親から届いたが、それも一通の返信も書かないでおくうちに、いつの間にか絶えていた。あっちもあっちで、彼らの意に添わなくなった一人息子を切って捨てたのだろう。それとも、親類の子を養子にでもしたか。

「縁起でもないことを思い出したものだ……こんな歳になってまで、しょうもないことを!」

 思わず、独り言のままにそうやや大きな声を出した時だった。

「おや、今日はソーサ君も早く着きすぎたのかい?」

 はっとして部屋の入り口を振り返れば、そこに見えたのは国立大学院時代の三人の「学友」の姿だった。

 どこから連れだってきたのかは知らないが、ここへ来るまでのどこかで合流したのだろう。

 一番目立つのは、軍人のような筋肉質の大きな体をした、マルコス・イスキエルド、通称「鉄腕」だ。学生時代には巨体と、獅子のような真っ黒な髪に、蛮族のような真っ黒でぼうぼうの髭で目立っていた。今では頭頂部がきれいに禿げ上がっているが、髭に覆われた顔の中、ぶっとい眉毛と、その下の焼き栗のような目の輝きは学生時代と変わらない。専門は戦史学と政治哲学……今でも国立大学院にいて、教鞭を振るっている男である。

 彼は別にここでマテオ・ソーサに声を掛ける必要も感じないのか、黙って入ってくると、さっさとマテオの反対側のソファに、巨体をどすんと沈めた。

 二番目に入ってきたのが、声をかけてきた奴だ。

 オスカル・ネメシオ。

 これは国立大学院や、マテオ・ソーサのいた国立士官学校などには奉職せず、街中で金持ちが道楽と税金対策で建てた私立学校で教鞭をとり、一方で法律・事業相談所の所長になっている。つまりは帝都の商人たちの裏も表も知り尽くしている男だ、と言うことだ。

 大学院時代の専門はこのハウヤ帝国だけでなく、各国の法律を扱う総合法律学と会計学だった。

「ソーサ君、こうして見ると、同じ独り者でも街中の私塾なんぞの教官と、大公宮の『後宮』にお住いの方は違うねえ。同じ黒い詰襟の学者服でも、布地といい、仕立てといい、我々なんぞには眩しい限りだ」

 オスカルの言葉に、マテオは苦い顔になった。この男を最高諮問機関に推したのは自分だが、こいつ自体は学生時代から、真実、苦手なのだ。

 確かに、絹と麻で出来た、夏向けの涼しげだが高級な布地で作られた、マテオの詰襟の学者服は最高級のものだ。大公カイエンの衣装を手がける、あのノルマ・コントが採寸からやって作ってくれている服だから、体型にもぴったり合っているし、中に着ている絹地の白いシャツも申し分のない出来で、それもなんとも粋な塩梅で白い襟が黒い学者服の襟元から見えているという代物だ。

「まあ、そうだがね。なに、君はこんな衣装を着なくっても男前なんだからいいだろう」

 マテオがそう言って見た顔は、年頃は四十半ばでマテオと同じだが、普通よりやや長身で、中年太りとは無縁のすらっとした姿。

 まだ禿げても白髪にもなっていない、七三に分けたくるくるした真っ赤な赤毛の下の顔は陽気で、顔立ち自体も若い頃から女にもてもてな顔だ。小癪なくらい気障な片眼鏡と、長いもみ上げ、それに続く鼻の下の髭までが、世に言う大人の男の魅力となっている。

 逆に言うと、学究の徒にこんなおしゃれで気障な中年男はほとんどいない。

 だから彼の場合、マテオのそれと比べれば質の面では落ちる学者服だけが、なんだかそぐわなくて浮いて見える。彼に似合うのは、やや派手なタイやスカーフ、小洒落た上着に細身のズボン、磨き上げられた柔らかい鹿革の靴かなんかだろう。

 彼の方は、マテオの座っているソファの隣にしれっとした顔で収まった。滅多にないが、学生時代からこういう集まりごとの場合、オスカル・ネメシオは必ずマテオのそばに座るのだ。

 向かい側でそれを見ている「鉄腕」マルコス・イスキエルドが、いやーな顔になるのもオスカルの方はてんで構いはしない。

「ネメシオ君。君、絡むのはやめたまえよ。……ソーサ君は本心から生真面目なんだから」

 見れば、最後に部屋に入ってきた三人目までが、マテオ・ソーサの国立大学院の同窓である。

 こちらは「鉄腕」マルコス同様に頭頂部の毛髪が怪しくなっている。元は金髪だったらしい髪は、薄くなったのを目立たせぬためか、全体に短く刈られていて、その下にある顔は小じわが多いもののの、まん丸でツヤツヤしている。

 少年のまま、中年になってしまった、とでも言うしかないその顔は、造作のすべてがまん丸く、体格の方もぽちゃぽちゃと丸い。

 こんな「丸ーい」としか言えない体の男が、このハウヤ帝国最高の「戦略学」研究家なのだから、面白いものだ。名前は、エセキエル・ボノ。

 元は国立士官学校の教授だったが、どういうわけか、今は街中に降りて、私塾を営んでいる。

 先帝サウルの治世の末期まで我慢していれば、彼はハウヤ帝国のため、国立士官学校に残ったはずだ。だが、仔細な行き違いで彼は民間に降りてしまった。それを、最高諮問期間の一人として誘ったのは、マテオとマルコスの二人である。

「まあまあ、偶然とは言え、国立大学院の同窓が四人、早く来すぎて暇を持て余しているんだ。……ここは皆さん、御平らかに行きましょうよ」

 丸ぽちゃのエセキエルが言うまでもなく、四人の「同窓生」は、テーブルを囲んで座った途端、彼らがともに毎日を過ごしていた、二十年以上も昔を思い出さずにはいられなかった。

 最高諮問会議に出るたびに、顔は合わせているが、彼らは皆「本業」があるために無駄話だの、昔話だのをする機会は今までなかった。

「ああ、もう二十年以上か。みんな、姿形は変わったけど、意地汚く学者稼業やってるところは、変わらないねえ」

 そう言ったのは、この四人の中ではこの二十年で一番、変化の少ないオスカル・ネメシオの声だった。

「思い出すねえ。確か、イスキエルド君はなんかの事情で入学が遅れて、それでこのソーサ大先生の恐ろしさも知りもせず、正面切って向かっていって。大怪我したんだったよねえ」

 オスカルがそう言うと、眉を顰めたマテオとマルコスの前で、にこにこと丸い顔でうなずいたのは、エセキエルの小じわの目立つ顔だった。

「そうでしたね。でも、ソーサ君に手向かって痛い目見たのは、ネメシオ君、君も同じだったでしょう?」

 これには、赤毛のオスカル・ネメシオもうなずくしかなかった。

「そうそう。やもめのイスキエルドに、今も昔も愛妻家のボノ君なんかとは違って、僕とソーサ君はずうっと独り者なのにねえ。あんなに嫌わなくっても良かろうってもんだ」

 意味ありげな流し目を向けられた、マテオ・ソーサはこんな場所だと言うのに、ぞぞっと背中が寒くなったが、無言で返した。

「……まだそんなけしからん事を蒸し返すのかね? ネメシオ。ソーサは若い頃から迷惑している。もういい加減にしたまえ!」

 マルコスが忌々しげにそういってくれたが、オスカル・ネメシオは屁とも思っていない様子だ。

「あはは。ソーサ君は今や、大公宮の後宮の住人だものね。あの頃もたまのお遊びとなれば、君たちとご一緒に、先生のおごりで歓楽街へ制服でお出まし、だったもんね。そっちは普通の男だってことはとっくの昔からご存知だよ、僕は」

 マテオ・ソーサはそこまで聞いて、あっと思い出した。

 あの、同郷で男娼だったクーロ・オルデガにそんな場面を見られていたことを思い出したのだった。

(君には感謝している。あれはもう二十年以上前になるのか、あの時、たまたま国立大学院の制服を着た君と頼 國仁先生を目撃しなかったら、俺は今、螺旋文字で手紙なんて書けちゃいないから)

 あの、螺旋文字で書かれた、達者な手紙。

 あの手紙をカイエンたちの前で読み上げた時、彼の脳裏にも蘇った、二十年以上前の学生時代の日々。

 ちょうど同じ頃、カイエンの実父である、当時のアルウィン第二皇子は、もっと下級の歓楽街で「享楽」の日々を送っていたはずだ。

「あれは、まだ先先帝のレアンドロ皇帝の最晩年の頃だったねえ。貴族の上から市民の下まで、金があるやつは金にあかせて享楽三昧。一方で下町には飢えた人たちがひどい暮らしをしていたっけ。人間扱いされない人たちを、皇帝陛下の命令で、密かに微罪でとっ捕まえては……していたっけね。だから、一皮剥けばひどい時代でもあった」

 エセキエル・ボノがため息とともに、そんなことを言うと、マテオもこんなことを言わざるを得なかった。

「あの後、我々が国立大学院に研究助手として残った頃、先帝のサウル陛下が御即位され、それからは市民たちには住みやすい国になったんだけれどもね」

 今思えば、あれは時代が変わる、そのちょうど境目の少し前だった。

 マテオ・ソーサは自分の頭の中で、今はオスカル以外、完全におっさん化した面々の、若い頃の顔を、今でもありありと描くことが出来た。四十も半ばになってみれば、よく思い出すのはあの頃のことばかりなのだ。

 ここで四人、暇な時間が出来たのだ、オスカル・ネメシオの馬鹿話やマルコス・イスキエルドがとんだ醜態を晒すことになった、ふた昔も昔の昔話に耽るのも悪くない。

「まあ、昔話も無駄と決まったわけじゃない。何が、この、今のハウヤ帝国の行く末の役に立つか分からんからね」

 マテオがそう言うと、待ってました、とばかりにオスカルが思い出話で始めたのは、マテオ・ソーサと、マルコス・イスキエルドの最初の邂逅での出来事からだった。






 国立大学院の入学は夏の終わりか、秋口だ。

 今でもそれは同じで、大公軍団や各アルマなどは、春と秋に二回募集をかける場合もあるが、大学院では一年に一回だけだ。

 それはもう秋も終わり、冬の初めになった頃で、マテオたち新入生もすでに大学院の生活に馴染んだ頃のことだった。

 国立大学院の建物は黒っぽい灰色の石造りで、建築された年代の違いによって、階数や意匠の違いはあったが、石の色味だけは統一されている。

 そのモノトーンの建物群の間にある樹々の葉がほとんど落葉していた。その掃除を一年生が毎朝させられていたが、それももう一週間もすれば終わりそうな、もうかなり朝夕は気温も下がるようになった日のことだ。

 一年目はまだ専門に分かれての学業はしない。

 マテオたちは研究者としての「基本的な教養」を極めるため、文学から歴史や社会学、それに螺旋文字を読む素養、基礎的な科学や法律、研究の分析に欠かせない数学などの勉強に打ち込んでいた。

 マテオなどは、大学院では螺旋帝国の専門書を読むための、螺旋文字の「読み」の方を重視して教えていたため、自ら螺旋帝国人の教授だった、頼 國仁先生が街中でやっていた「私塾」へも通い、「書き」の方も身につけようと考えていたところだった。

「あれ、見ろよ! あんなでっかい軍人みたいなやつ、一年にいたっけか? それとも先輩かな。しかし、先輩が手伝ってくれるはずがないか。あんな体格ならいっぺんにいくつも運べて助かるんだけどなあ」

 青ざめて小さいマテオと、まん丸に太ったエセキエルの横でそう言ったのは、当時から真っ赤な赤毛と恵まれた容姿で目立ちに目立っていた、オスカルだった。

 彼らの周りにも一年の学生が集まっていた。

 それは、その日は大教室に椅子をかき集めて、一年生へ向けて学長の訓示が行われる、週一回の日に当たっていたからだ。一年はまだ、選ばれた栄光ある国立大学院生としての自覚が足りない、という名目でのお説教である。

 大学院には、もちろん大講堂があるが、そこだと広すぎるためと、実は一年生の「連帯感を持たせること」や「無駄のない作業を自ら探して行ける能力を養う」という教育的配慮でもって、わざと訓示は大教室から机を運び出し、椅子を詰め込んで行われていたのだ。

 二年からは頻度が格段に減るそうだ。それは、入学試験を通過したとは言っても、地方出身者で学費の続かぬ者、学業について行けずに脱落する者が、一年生の終わりころに一番多く出るからだった。

 一年生はその椅子運びに駆り出されており、皆でてんでに長い板のベンチ式の椅子から、重たげな肘掛け椅子まで、近い校舎から引きずり出してきて運んでいる途中だった。

「あれ? こっちに来るぞ。誰だ、あれ」

 その男は、みんなが椅子を運んでいる動線のど真ん中に立ち尽くしている。その様子からいえば、この場所へ行け、と言われたものの、何をしていいのかわからない、と言ったところだろう。

「何年生かな、一年以外はもう授業が始まってるのにね」

 エセキエルはまん丸でぶなので、力はあっても一度にいくつもの椅子を抱え込むことが出来ず、座面を上下にして噛み合わせた木の椅子を、太って短い腕でやっと二つ抱えていた。

 もう、一年生の誰もが、その巨体にもじゃもじゃの髪と髭の、だがまだ十代ではあるはずの男の方に注目していた。

 そんなのには全く頓着していない、約一名を除いて。

「おい、ソーサ君、おいおいおい! あー、あいつ、また頭んなかで全然別のこと考えちゃってるよ!」

 そう。

 この頃のマテオ・ソーサはすでにして首席入学の俊英として、教授にも、上級生にも知られていた。士官学校などとは違い、貧弱な体格の人間が多い大学院生の中でも、一際小柄で、制服がなければ思春期の少年のようにしか見えなかったことも大きい。

 だが、それと同時に、「勉学以外のことをやらされていても、頭の中では全く違う思考が進められている」ということでも知れ渡っていた。

 それは、何度も考えごとをしながら歩いていて、廊下で柱にぶつかったり、階段から落ちたりしたからだった。

 二年生になる頃には、さすがにマテオ・ソーサも「これでは頭が良くなるより先に怪我で死ぬ」と悟り、そんなことはなくなったのだが。

 だが、一年のこの頃はまだ、いちいちうるさい両親の実家を出て自由に学べる喜びから、頭と体の使い方がちぐはぐになっており、気が付いた時には自分か他人かが怪我をしている、などということが日常茶飯事だったのだ。

「おい! おい! ソーサっ! 前見ろ、前!」

 オスカルが自分が他の学生と一緒に運んでいた長椅子の片側を放り出して、マテオの方へ走った時にはもう遅かった。

 どす、と言う固いものに硬いものが当たった、鈍い音がした。

「何をする!?」

 他の一年生や先輩たちなら、椅子運びしながらも頭の中では全く別のことを考えている、マテオのことを知っていた。

 だが、不幸なことに、この時の「相手」は実家の不幸が続き、入学が一人遅れていたマルコス・イスキエルドだったのだ。

「ソーサ君! ねえ、お願いだからこっち見てよ!」

 まん丸なエセキエルも、太短い腕から椅子を放り出して駆けつけようとした。だが、悲しいかな、彼は太っており、走るのは極めて遅かった。

 恐ろしいことに、ぶつぶつと何か独り言を言いながら、マテオはマルコスに椅子がぶち当たっていることに、まだ気がついてもいない。

 だから、彼の運んでいた長い、背中のないベンチはマルコスの太腿あたりに食い込んだままだ。そのまま、マテオは前に進もうとしているので、ベンチはマルコスの筋肉をいたずらに痛めつけている。マルコスの方も、自分が下がれば良さそうなものだが、意地でも動かないつもりらしい。

 その光景は、周囲から見れば滑稽極まりなかったが、マルコスの巨体と、マテオの貧弱な小さい体を見れば、笑ってばかりもいられなかった。

 この事件の後はマルコスも色々と身に染みたのか、乱暴な言動はしなくなったが、この時は大学院へ入ったばかりの青年で、頭の方ももちろん発達していたが、その体格から喧嘩っ早いところがあった。

「ぬう! 痛いではないか! 謝罪が先であろう! なぜ、黙ってそのように押し抜けようとするのだ? 貴様、目が見えんのか!」

 マルコスの声は、その体に正比例した蛮声とでもいうしかないもので、気の弱い一年生は自分が当事者になったかのように椅子を放り出して逃げそうになった者もいた。

 マテオはこの時になって、やっと思索から抜け出てきたらしい。

 彼が気が付いて、前を見た時には、太腿に食い込んだベンチをすり抜けて前に出てきたマルコスが、もう目の前に立っていた。

「ああ……」

 マルコスも、この頃には相手が自分の半分くらいしか体重のなさそうな小兵であることには気が付いていた。だから彼は拳にものを言わせようなどとはせず、マテオの両肩を抑えるべく、その長い両腕を伸ばしてきたところだった。

 そこから先は、皆の目には一瞬の出来事だった。

「ああっ」

 あいつ、ぶっ飛ばされるぞ。

 そう思って、皆が目を塞ぐ中、マテオ・ソーサは左手に持っていた木のベンチを放り出すと、右手に残った頑丈な樫の長いベンチを、その細腕からは信じられない力と速度で、横から縦にくるりと方向を変えていた。

 そして、裏から片足でベンチの足を器用に立てて、腕を伸ばしてきたマルコスの顔面にぶち当てたのだ。

 ごつっ。 

「あ痛っ!」

 距離もなかったので、マテオの支え持っていたベンチの威力はマルコスの顔面をぶん殴るというよりは、勢いを止めるくらいのものだったが、それでもマルコスにしてみたら痛かった。

「あーあーあー。こいつ、そこにあるもん、なんでも武器にして、それも、先手を打って攻撃して行くんだよなー。おい、あんた、大丈夫か?」

 オスカルとエセキエルが駆けつけた時には、マルコスは鼻っ柱と額を押さえてしゃがみこんでおり、その前で細長い「盾」のようになっているベンチを挟んで、マテオの方はやっとオスカル達が目に入ってきたようだ。

 その頃には、もう他の一年生達は自分の椅子運びに戻ろうとしていた。

 赤毛のネメシオが、首席入学の小悪魔ソーサにくっついて回っていることは、もうその頃には皆の了解事項になっていたのだ。

「……これは申し訳ない。昨日の夜に読んでいた歴史戦術学の本のことを考えていたんでね。あまりに面白かったものだから。怪我は? 鼻の骨は大丈夫かな。折れたような音じゃなかったが」

 マテオが器用に突っ立っていたベンチを横に直し、軽々と脇に抱えて、放り出した方のベンチの上に置くのを、他の三人は呆れて見ていた。

「……ソーサ君て、体の割には力持ちだよね」

 エセキエルがそう言うまでもなく、軍隊ならともかく、大学院に同じようなベンチを左右に一つずつ抱えて運べる者はあまりいない。ベンチはマテオの身長と同じか、それよりも長いから、実際に彼がベンチを軽々と運んでいる姿はかなり異様だったのだ。

「農家の倅で力持ち、ってわけでもねえんだよな。お前ん家、街の診療所だとか言ってたもんな」

 マルコスに手を貸しながら、オスカルがそう言うと、マテオはなんでもないことのように答えた。

「俺は体を鍛えたことなんかないよ。そんな馬鹿らしいことに時間をかける必要もなかったしね」

 もうこの頃から、体を鍛え始めていたマルコスは、くわっと焼き栗のような目を見開いた。

「お前、俺を馬鹿にしてるのか!」

 小柄なマテオの上からのしかかるようにして、だが、両手は脇に置いたまま、迫り寄ったマルコスだったが、マテオの方は白っぽい灰色の目でジロリと見上げると、そんな「暑苦しい」マルコスの様子には、あえて気が付かないふりをした。

「君は一年生か? 確か、遅れて来るのが一人いるって聞いていた。そうだったな? ネメシオ君」

 ここ、国立大学院では学生同士、名前ではなく姓で呼ぶのが習わしだった。それは、学者先生達の間での習慣で、学究の徒としてここでは一年生から徹底されていることだった。だから、マテオもオスカルも、エセキエルも、お互いの名前を呼びあったことはない。

「ああ、そうだった。確か……ええと、イスキエルド君、じゃなかったっけ?」

「そうですよ。イスキエルド君かあ、って思って覚えてましたから」

 エセキエルはぼちゃぼちゃした左手を掲げてみせる。

 もうこうなっては、マルコス・イスキエルドも、初めましての自己紹介をしないわけにはいかなかった。

「マルコス・イスキエルド、だ。君らも一年生か。学生課で、一年はここで椅子運び、と聞いて飛んできたのだ」

「じゃあ、君もさっさと椅子を運びたまえ。その体なら、二人分運べるだろう」

 そう言うと、もうマテオは背中を向けていた。

 それを見送りながら、マルコスはオスカルから、自分の顔面にベンチをぶつけてきた男の名前を聞いた。

「あれが、マテオ・ソーサ君だよ、首席入学の。……言っておくけど、故郷じゃ喧嘩で負けたことがないそうだぜ。僕も入って早々にからかってみたんだけど、口ではてんでかなわないし、腕でも一発でやられたよ。食堂で、まだ話の途中で飯のトレイでぶん殴られてね」

 実は、陰気な顔立ちなのにも関わらず、体が小さくて貧弱、まるで女性のような体格のマテオ・ソーサは、「そっち方面」の先輩やら、このオスカルやらからちょっかいを出されていたのだが、それを全て返り討ちにしていたのだ。

「なにせ、『喧嘩は、売られる前にこっちから買いこんじまうんだよ。先手必勝なんざ、遅すぎるね』って豪語してるからな。……さっきのも、実はそれかもな。あんた、でっかいし、意志が強そうだから、出会い頭にやっつけとこう……とか、考えてたとしても、僕は驚かないね」

 オスカルがそういえば、エセキエルも、遠慮がちにこう、付け加えたのだった。

「首席入学の頭脳だけじゃないですからね、ソーサ君は。ほんと、奥の深い人柄ですよ。校内の猫の顔を全部、覚えてて、名前をつけてかわいがってるし、食堂のおじさんにも、売店のおばさんにも受けがいいし。それでいて、彼よりガタイの大きい学生は先輩でも容赦なく叩きのめしますから。そうそう、彼より弁舌の効く学生もいないですよね。だから、あっと言う間に悪魔のソーサ、小さいから小悪魔ソーサがあだ名になっちゃって。……先生相手でもいずれは突っかかっていくのかなあ? とりあえず、同輩相手じゃ、相手が『すみません、もう許してください』って言うまでやりますもんね」

「でも、不思議に嫌われてはいないんだよなあ。……まあ、さっきの調子で、廊下で転んだり、教室で壁に激突したり、笑えるところが満載だからかな」

 彼ら三人が、こんな話を続けているうちに、マテオは大教室にさっきのベンチを運び入れて戻ってきてしまっていた。

 自分の話題で盛り上がっていたことは承知しているのだろう。三人にかけてきた言葉は実に鋭かった。

「君達、俺が肉体労働に励んでいる間、ずっと男のおしゃべりか? 余裕だな。こんな男だらけの場所だから、男どもでも細かいところまでうるさいんだな。無駄話はやるべきことをやってからにしたまえ!」

 





「あははははは。……『男どもでも細かいところまでうるさいんだな』だからね。あれは忘れないよ。あの後も、ソーサ君は男ばかりの学府の中でも、一等の『男前』だった」

 マテオ・ソーサはそんなことを言って笑う、オスカル・ネメシオを、真面目な顔で見た。

「そうそう、君、その男前、だがね」

 オスカルの方は、そんなところに相手が反応して来るとは思いもしなかったので、ちょっと目を白黒させた。

「皇帝陛下はそうでもないが、大公殿下や、うちの大公軍団から護衛に派遣している、ルビー・ピカッソなんて女性達。私は彼女らを『男前女子』と定義しているんだ」

 はあ?

 急に教授が言い始めた、突拍子もない話題に、残りの三人は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

「そもそも、『男前』なんて言葉がもう、差別的なんだが、もうある言葉だからしょうがない。だが、この言葉が当てはまる女性が、このところ増加傾向にある。私は、これはこの国のこれからの社会状況にとって、極めて好ましい事例だと思うのだよ」

 彼らはルビーのことはあまり知らなかったが、大公カイエンのことはもう見知っていたから、頭の中で教授の言葉を反芻せずにはいられなかった。

「……確かに、大公殿下はあの制服姿がなくとも、普通に他の貴婦人方に対するような遠慮や配慮をせずに話すことが出来る方ですね」

 エセキエル・ボノがそう言えば、マルコス・イスキエルドもこう繋げた。

「思い切りのいい方だな。どうしようかしら、などと言う逡巡とは無縁のお方だ」

 そのまで話が進んだ時、控え室の扉が、遠慮がちに叩かれた。

 静かに入ってきたのは、宰相サヴォナローラの護衛の武装神官のリカルドだった。

「先生方、そろそろ会議室へお入りください。侍従の連絡では、大公殿下、大将軍閣下、すでに皇宮へお入りとのことです。市長やギルド総長もすでに会議室にご到着です」

「そうか。それでは、私どもも参りましょうか」

 マテオ・ソーサがそう言うと、黒い学者服の四人は、一斉にソファから立ち上がった。

 今日は、海軍の編成を決定するという大事をまとめなければならない。

 この諮問機関の会議で方向性を決めたら、皇帝のオドザヤへ奏上。それから、もうすでに招集に応じてハーマポスタールの軍港や港に停泊中の「海軍」の船長達を集め、まずは海軍提督を何人か選定し、その下に船長達を配置、船団を作らせなければならなかった。

 すでに一匹狼ではなく、ある程度の船団を率いている船長の中から、提督を選んでいくことになるだろう。

 

 彼ら、有識者代表の四人が会議室に入ると、もうそこには、宰相サヴォナローラ、内閣大学士のパコ・ギジェン、そして市長とギルド総長、医薬院のニコラス・ベラスコの姿があった。

「大公殿下、大将軍閣下、ザラ子爵、それに神官のお二人もじきにいらっしゃいます。お席にお付きください」

 筒型の長い褐色のアストロナータ神官の帽子が目立つ、サヴォナローラがそう言うまでもなく、彼ら四人は自分の席に着いた。

「まさか、この四人がこんな場に集まることになるとは、あの頃は思わなかったよ」

 サヴォナローラの方へ、にこやかに挨拶しながらそう言って座る、オスカル・ネメシオの言を聞くまでもなく、マテオ・ソーサはこのことへの懸念を意識しないではなかった。

 ここに集まった学者四人が、国立大学院の同窓であること。

 彼らの先輩からも、後輩からも、この場に呼ばれた者はない。

 それは、偶然と言うより、やはりマテオ・ソーサが大公軍団の最高顧問として招聘された時から始まった人事であることは間違いない。

 それが裏目にでることがないよう、これから配慮していく必要がある。

 戦略学、戦術学、戦史学に政治哲学、そして法律学。それぞれの学会でこの四人が精鋭として認められていることは間違いないが、人間関係というものは複雑だ。

 妬みを持つ学者も出てくるだろう。いや、もうそれに対しては各学会に根回しをするのは忘れていない。

 これは、彼ら学者だけでなく、医薬院のベラスコも苦労しているだろうし、神官の二人も他の神殿からの突き上げをいなしているはずだ。

 難しいが、ここは前へ前へと進みながら、策を講じていく他に出来ることはない。いたずらにこの最高諮問会議の人数を増やせば、議題がまとまりにくくなるだけでなく、会議の秘密が漏れやすくなるだけだ。

 大公のカイエン達が入場し、開会が宣言されるのを聞きながら、マテオ・ソーサが考えていたことは、昔のように「その時々に興味を持っていたことに、周りの状況など関係なく熱中できる」ことは、もうないだろう、ということだった。



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 今回は、名前の呼び方がちょっと煩わしいです。

 登場人物同士は苗字で呼びあっているのですが、地の文ではそれではわかりにくいので、名前呼びになっています。

 なるべく、わかりやすいよう、フルネームを適宜、混ぜる様には致しました。

 何とかかんとかの再開。今後もよろしくお願い致します

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