黄金獣の来襲


「カイエン様に何をした?」

 イリヤの現在寝かされている部屋の灯りは、もう消されていた。

 窓には冬用の厚めのカーテンが引かれていたが、その下からはわずかな月明かりか星明かりが漏れている。

 だが、その時、今回、体内に蟲がいることは分かったものの、視力的には常人であるイリヤに見えたのは、ヴァイロンの金色に底光りした目の色だけであった。

「あら。大将のお見舞いは初めてですねえ。それも、こんな夜中に……それもそれも、表の廊下からじゃなくて、裏廊下からのお越しですかぁ」

 イリヤの返事は、ヴァイロンの質問にはまったく答えていない。それは、まことにイリヤらしい対応だったのだが、相手はイリヤの混ぜっ返すような言葉に乗ってはくれなかった。

「……今日の午後だ。カイエン様に、何をした」

 イリヤはその辺りで気がついたが、ヴァイロンは部屋着の上に毛織物のガウンを羽織った姿だった。と、言うことは、仕事から戻ったのちに着替えたということになる。イリヤは枕の下の懐中時計を出して、時間を確かめようとして、はっとしてやめた。

 今、枕の下には、自分のものと、カイエンが昼に落としていったものと、二つの懐中時計がある。

 夜目のきくヴァイロンなら、よく似た二つの時計を、この暗さの中で見分けることもできただろう。だが、イリヤには出来そうもない。ヴァイロンが、カイエンの時計がなくなっていることに気がついているのか、いないのか、今までのところでは、イリヤにはまだ推し量りかねた。

 イリヤの顔には、不敵なまでの微笑みが浮かんでいたが、それは心のうちを見透かされないために、こうした場面で使用するために、イリヤが長年の間に作り上げたものだった。

「さっき、あんた自身が『もう、気が付いたのか』と言っていたではないか。そうだ。気が付いたとも。だから、こうして確かめに来たのだ」

 あー、そーでしたねー。

 イリヤは心の中で、ここ数日の怪我人生活で、体も頭も緩んだ自分を、ぎりぎりとノコギリで切り刻みたくなった。ノコギリ引きは、彼のお得意の拷問法の中でも、なかなかに効果がある代物だった。

 彼は腹の傷に響かないようにゆっくりと、腹筋に力を入れないよう気を付けて、腕の力だけで寝台の枕の上へ半身を持ち上げた。寝そべっていたのでは、この憤った猛獣状態の男に対処できない。まあ、どう考えても、力ではかなうはずもないのだが。

「すみませんが、時間稼ぎですぅ。大将はぁ、何をどこからお気付きになったんでありましょー。ご説明願えますでしょうかー」

 イリヤはそれでも、自分のペースを崩す気はなかった。そもそも、ヴァイロンのような生真面目一方な男相手に、先手を取られるわけにはいかなかったのだ。

 ヴァイロンは喉の奥で、まさに怒れる獅子のような唸り声を押し殺した。

 相手は数日前に死の淵から戻って来たような、未だ寝たきりの怪我人である。だから、腕に自信のある男どもの間では、何よりも簡単簡潔にほとんどのトラブルを解決出来る、あの手っ取り早い手法を使うわけにはいかなかった。まあ、ヴァイロンの場合、その手法を使ったら、下手をしなくとも相手は死んでしまうかもしれないので、軍隊の中でもそんな方法をとったことはなかったが。

「……匂いだ。それと、殿下はお時計を失くされたようだった。他にもあるが、今ここで言う必要はあるまい」

「へっ? 匂いってなんなの」

 時計の件は、イリヤも長くは隠しておけないだろうから、早く取りに来て欲しい、と思っていたのだが、今、ヴァイロンが言った、「匂い」の方には、どきりとせざるを得なかった。

「俺も、ガラほどではないが鼻は効く。わずかだが、殿下のお身体から男の匂いがした。あれは、アキノ様でも、シーヴでもない。ましては、皇子殿下などでもなかった。お前の匂いだ」

「ああ。そうでしたか……」

 愛のケダモノすげぇ。殿下の周りの男の匂いまで、個々にチェック済みかよ。

 イリヤは、目の前の人型を保ってはいるが、中身は猛獣と同じらしい男の執着心の強さに、すでにして辟易するような思いだった。

 午後にカイエンが特攻して来て、最後に噛み付かれた時、なんとなく不憫に思って抱きしめてしまった時に匂いが移ったのだろう。たったあれだけのことで、この猛獣人間にはバレるのか。

「はいはい。頭の中にメモしました。……あれっくらいでバレるんじゃ、この先、どうにもならないねえ」

 たぶん、手も握れないし、抱き寄せるとか、抱き合ったところから発展するアレコレなんか、無理の中の無理だ。

 イリヤは大仰にため息をついて見せた。この様子ではカイエンと、今以上のご発展を望んでも、前途多難だ。

 今回、不本意ではあるが、自分のカイエンへの気持ちが、相手にバレた。

 ヴァイロンのこの様子では、そこから、カイエンの側の無意識の思いも自覚されたようだ。きっと、カイエンはヴァイロンの前で、わたわたと慌てふためいて、ボロを出したのだろう。まあ、カイエンの場合、あのバカ正直なところもかわいさのうちだ。 

 イリヤが、はー、とため息をついたところで、頭の上から、さっきから微動だにしないで口だけ動かしている、怒れる猛獣の声が降って来た。

「……あんたは、今までカイエン様への気持ちを抑えて来たはずだ。他の者にも気取られたくはない様子で隠し通して。なのに、どうしてここまで来て考えを変えたのだ?」

 なんと。

 そこまでバレてたか。猛獣恐るべし。

 イリヤは心の中で、今までの自分をタコ殴りにした。エルネストには、早朝に裏庭で待ち伏せして嫌味を言ってやったから、もうバレていると知っていたが、ヴァイロンの方はもう少し鈍いだろうとタカをくくっていたのだ。

「えーと。もう大将にも分かってるんじゃないですかねぇ。今度の『殿下かばっちゃって、俺ちゃん瀕死事件』で、ですね。蟲がこの腹の傷を治してくれたからくりは、大将も聞いたでしょ。その時、俺の夢の中、とかいう空間で、思いがけず殿下と二人きり、という時間が発生いたしまして。そこで余計なおしゃべりを始めたばっかりに、今のような事態へと発展を遂げてしまったわけです」

 くっそ。

 よどみなく口を動かしながらも、イリヤは心の中で、自分へ向かって悪態をついた。そもそも、カイエンに、ヴァイロンやエルネストの気持ちが分かってるのか、そんなんじゃ、オドザヤは守れないぞ、と最近の苛立ちをぶつけたところからして間違っていたのだ。ヴァイロンたちのことなんぞ、俺の知ったことじゃねえ、と、ほっぽっとけばよかったのだ。

「……なるほど」

 ヴァイロンの方は、そんなイリヤの気持ちが分かっているのかいないのか、イリヤの寝ている寝台の横に仁王立ちになったまま、微動だにせず、唇だけを動かしている。

 イリヤの方は、今の自分の発言でヴァイロンが納得するだなどとは思ってもいなかった。

 だが、ヴァイロンの中では、イリヤの答えで十分だったようだ。

「では、あんたもまた、カイエン様のものになった、ということだな?」

 次に、ヴァイロンが言った言葉は、自分が納得したことを確認する言葉だった。

「ええ? なにそれ。どう言う意味?」

 イリヤの方は、拍子抜けしたと言うか、少なからず驚いて、思わず聞き返してしまった。

皇子殿下エルネストの場合は、カイエン様はいまだにあの方を赦してはおられない。夫として扱ってはいらっしゃるが、あまり近くへ来られたり、ましてはお身体に触れたりされるのはお嫌なようだ。だが、あんたの場合には違うのだろう?」

 匂いが残るほどに近くまで寄っても、カイエンは拒まなかったのだから。

 ヴァイロンの心の中では、そういう「仮定」が「事実」として確認され、それを踏まえてどんどん思考は先へ進んでいるらしい。実際には、カイエンの方がイリヤに迫ったのだが。

「……その、首の傷は、どうした?」

 うかつにも、ヴァイロンにそう言われて初めて、イリヤは昼間、カイエンに付けられた首の傷が、寝巻きの襟元から出ていることに気が付いた。

「ああ、これはねぇ」

 イリヤが言葉を繋げようとした時には、それまで立ったまま動かなかった、ヴァイロンの巨躯が動いていた。

 あっ、とイリヤが思った時には、ヴァイロンのぶっとい両手が、イリヤの両腕を抑えている。

 イリヤは反射的に、それを押し離そうとしたが、もちろん、力でヴァイロンにかなうはずもない。

 じたばたもがくイリヤの力などものともせず、ヴァイロンはイリヤの首元へ顔を寄せた。

「これは、カイエン様の歯型だな」

 ヒィ。

 イリヤの三十年の人生で、男に押し倒された格好で動けなくなったことも、首元に男の息がかかったのも、初めての体験だった。まだ少年の頃には、彼の顔の美しさを見て迫り来る男もいないわけではなかったが、イリヤはその頃からもうかなり背が高かったし、腕っ節の方にも恵まれていた。

 だから、この時初めて、イリヤは男に押さえつけられて怖い思いをする女性たちの気持ちが理解できた。

 質問に答えないイリヤなど構わず、ヴァイロンの息遣いが、カイエンが触れた場所をなぞっていく。

「初めてのことだから、俺にもよくわからんが、あんたはカイエン様のモノになったのだから、俺のものでもある。ちがうか」

 首元から聞こえてきた、太くて低い声に、イリヤは大慌てに慌てた。

 想定外! 

 こんなのはまったくの想定外だ。

 やっぱり、獣人の血を引くというのは、中身のどこかが人間とは違っているということだったのだ。

(違う違うちがう、俺はあんたのものじゃないよ! 殿下のものかどうかってのも、俺的には一言あるよ!)

 イリヤはそう思ったが、声が出ない。

 昼間のカイエンのキレた様子も怖かったが、この夜中のヴァイロンの行動も怖すぎた。

 そんなイリヤの心の中の葛藤が伝わったのか、伝わってなどいないのか。

「俺は、カイエン様が愛しいと思われたものを、傷つけるつもりはない」

 だが、次に聞こえて来た言葉は、イリヤが感じていたよりも落ち着いた声だった。


 ヴァイロン自身は、おのれの行動に髪の毛一筋ほどの疑問も持ってはいなかった。

 夕方、彼の伸ばした指先から逃れるようにしたカイエン。

 妙な言い訳をして、青くなったり赤くなったりしていたカイエン。

 額のあたりを、転んでコブでも作ったのか、やや腫れさせているようだったカイエン。

 そんなカイエンからは、イリヤの移り香がした。

 そして、一緒に夕食を共にした時、いつもなら必ず食事中か食後かに、一度は時計を取り出して時間を確かめるカイエンが、今夜は一度もそうしなかった。それどころか、なんとも手持ち無沙汰な様子で、手をもじもじさせていた。

「お時計を、どうかなさいましたか」

 とうとう、ヴァイロンがそうたずねると、カイエンは椅子の上から飛び上がりそうな様子を見せた。

 カイエンは何か、慌てた調子で言い訳していたが、もう、ヴァイロンはちゃんと聞いていなかった。

 頭の中で、カイエンの示した不審な様子を突き詰めれば、思考はカイエンをかばって死に損なったイリヤのことに流れていき、そうなれば答えは自ずと出て来た。

 カイエンは今日、イリヤの寝ている部屋に行ったのだ。

 何をしに?

 ヴァイロンには、そこまでははっきり分からなかった。だが、目の前で顔色を変えているカイエンを見れば、後ろめたそうなその様子を見れば、なんとなく分かるではないか。

 カイエンはイリヤの部屋へ行った。恐らくはそこで時計を落として来たのだ。

 普通に歩いて行って、普通にお話をして来たのなら、普通は懐中時計を落として、そのまま拾わずに戻ってくることなどないだろう。

(ああ、そうか)

 イリヤの気持ちなど、ヴァイロンはとっくのとうに気が付いていた。だが、イリヤがそれを知られまいとして、必死の努力をしていることも理解していた。もしかしたら、カイエンを混乱させないために、ずっと秘めたままでいてくれるのかもしれない。この頃では、そう思いそうになっていた。

 だが。

 やっぱり、あのへそ曲がりのイリヤをしても、カイエンへの思いを墓の中まで持っていくことは出来なかったのだろう。

 ヴァイロンは時計のことには納得したふりをして、カイエンを休ませようとした。確かめに行くにしても、それはカイエンが眠ってしまった後でなくてはいけない。

 だが、落ち着かなげな様子のカイエンは、なかなか寝付いてはくれなかった。

 奥医師は、疲れたりしないようなら、徐々に仕事に戻ってもいいと言っていた。ならば、久しぶりに抱き潰して、そのまま眠らせてしまおうか。ヴァイロンはそこまで考えたが、そこで、はたと不安になった。

 カイエンに拒絶されたら。

 イリヤの気持ち、そしてイリヤへの自分の気持ちにも、気が付いてしまったようなカイエン。カイエンはそんな自分の気持ちが整理できず、ヴァイロンに知られまいとして、混乱している。ここで、余計に混乱させるような行動に出るのはまずい。時間が解決してくれることを、待たずにぶち壊すことになりはしないか。

 だから、ヴァイロンは辛抱強く、カイエンを安心させるように、なだめすかして、やっと寝付かせることに成功したのだ。

 ヴァイロンは、目の前にある、小さな歯型のついたイリヤの首を見た。夜目のきく彼には、はっきりと見えていた。 

 そこに見えるのは、カイエンと同じ、透き通ったように薄い、冷たい肌だ。柄と態度は大きいが、イリヤの体を構成している部品はヴァイロンなどと比べれば、繊細極まるものだった。

「俺は、カイエン様が愛しいと思われたものを、傷つけるつもりはない」

 ヴァイロンが、同じ言葉を繰り返すと、押さえつけているイリヤの腕から、押し返す力が抜けた。 


(あぁー。もう、このヒトたち、訳が分からないぃ)

 イリヤには、激しく情緒的に混乱していたとはいえ、頭突きの上に噛み付いて来たカイエンも理解出来なかったが、自分の女の浮気相手……まだ何にもしていないが……に、こんな態度と台詞で迫ってくる男も理解不能だった。

 そう思ったイリヤだって、他のもっとまともな人から見れば、かなりおかしな男なのだから、やはりカイエンの周りには、一風変わった人間が集まる定めだったのだろう。

 だからもう、イリヤは脱力して身を任すしかなかった。

 だが、傷付けるつもりはないとは言っているが、ヴァイロンが、何かいい解決法を用意して来ているとは、イリヤには思えなかった。

 その時だった。

 裏廊下へつながる扉の外から、何やら物が落ちるような、ぶつかるような音が聞こえて来た。

 もう、その前、まだ二人が話していたあたりから、裏廊下をゴトゴト音を立てながら……それでも、隣のリリの部屋の近くでは静かに歩こうとはしていたようだが……誰かがやってくる足音は聞こえていたのだ。

「いいの? あれ、思い切り転んでるよ。ランプかなんか持って来てたら、危ないんじゃない?」

 瞬時に立ち直ったイリヤが冷静に、だが口元に薄笑いを浮かべた表情でヴァイロンを見ると、ヴァイロンは明らかに怯んだ。

「……カイエン様。お休みになっていたはずだ……」

 イリヤは、これでヴァイロンがカイエンと一緒に、彼らの寝室へ戻って行ってくれれば、問題はなんら解決してはいないが、今夜のところは話を先送りにできる、と思った。

 だが、裏廊下で転んだらしいカイエンは、雄々しくもすぐに自分で立ち上がったらしい。昼間のようにノックする時間も惜しんだのか、そんなマナーも忘れるほど慌てていたのか、彼女は乱暴に扉を開けると、そのまま部屋の中へ踏み込んで来たのだ。



 部屋へ踏み込んだカイエンは、その場の情景を見て、肝を潰した。

 カイエンは空いている右手で手提げランプを持って来ていた。転んだ時に、これはやばい、油が漏れて火がついたら、と青くなったが、幸運なことに、ランプはまっすぐに床に着地していてくれていた。

 だから、ランプの光の照らす中、カイエンは見てしまったのだ。

 ヴァイロンがイリヤの上にのしかかり、押さえつけているところを。

 これが修羅場というものか。

 カイエンは、通俗小説では、嫌という程読んできた男女の修羅場が、まさか自分の人生に出てくるとは思ってもいなかったので、驚くよりも感動に近い気分だった。

 だけど、さすがの通俗小説でも、こういう場面はなかったような気がする。普通なら、男と女があれこれしてるところへ、もう一人の男が踏み込んで来る、という場面になるはずだ。

 そう思いながら、ヴァイロンに殴られたら、イリヤでなくとも大抵の男の顔面は粉砕されるであろうから、ヴァイロンはイリヤを殴るつもりで押さえつけているのではないだろう。カイエンはそれだけは冷静に判断した。

 だが、それならなぜ、彼らはあんな態勢で睨み合っているのか。

 すべてが彼女のせいではなかったにせよ、眼前のこれは、自分が引き起こした事態でもあったので、カイエンの頭の中には、焦る気持ちだけがあった。

「お、お前ら、そこで何をしている!」

 だから、カイエンとしては、それは当然の言葉だった。

 イリヤとヴァイロンは一瞬、至近距離で顔を見合わせていたが、やがて両方からばっと、弾かれるように左右に離れた。

「仲良くぅ、親睦を深めてましたぁ〜」

 イリヤの方は、早くも、もういつもの調子を取り戻したらしい。いや、この場をなんとかごまかそうという、彼なりの気遣いなのかもしれなかった。何しろ、イリヤは怪我人で、自分ではこの部屋から逃げ出すことはできないのだ。他の二人を追い出すしか、安寧への道はなかった。

「こんな夜中にか」

 カイエンもそれにのることにした。結果はどう転ぶか分からないが、場面としては修羅場だ。今後のことを考えれば、これを乗り越えねば、大公宮も大公軍団も、まとまらなくなってしまう。

「俺悪くないもん。この大将が夜這いかけて来たんだもん。さっきの見たでしょ? 俺の貞操の危機だったのよ」

 嘘つけ。さっきは「親睦を深めていた」と言っていた舌の根も乾かないうちにこれである。この場をなんとかする気はあるのかと思ったが、混ぜっ返していただけだった。やっぱり、イリヤはイリヤだ。

 カイエンは鼻息も荒く、ずかずかとイリヤの寝台の方へ歩いて行った。

 突っ立っているヴァイロンの顔を見上げると、いつも、カイエンに追求の眼差しを向けられると逃げていく翡翠色の目が、今度もすう、と逃げた。

 カイエンはもうしょうがない、ここは直球で行こう、と覚悟を決めた。強気で押しまくり、とりあえずは場を収めるしかない。なんの解決にもならないかもしれないが、今の彼女には打開策などあるはずもなかった。

「……もうしょうがない。ヴァイロン、お前の気持ちは分かる。だが、私もこういうのは初めてのことで、正直、どうして良いのやら分からない。それで……そのう、イリヤにも変なことをしてしまった。私の行動については、申し訳ない。自分でも自分のやったことの意味がわからんのだ」

 カイエンがそう言うと、イリヤもヴァイロンも、変な顔をした。

「なによ、殿下。そうやって自分で引っ被って、まとめにかかろうってわけ? 夢の中で言ったでしょ。男の好きと女の好きは、別物なのよ!」

 イリヤがそう言えば、ヴァイロンも目は合わさないまま、言うことだけは言った。

「今、男同士で話し合いを持っていたところなのです!」

 カイエンは自分でも、いやらしい顔つきをしているんだろうな、と思いながら反論した。不明点は本人たちに聞くべきだろう。

「男同士の話し合い? さっきの、あれが? お前はイリヤを殴って解決するつもりじゃないだろう。なら、なんであんな体勢で迫り寄っていたんだ?」

 これには、ヴァイロンではなく、イリヤが食いついて来た。

「それですよぉ! この大将、『あんたはカイエン様のモノになったのだから、俺のものでもある』とか言ってぇ、俺に迫って来たんだよぉ。怖かったよー」

「ええっ」

 カイエンは心底びっくりして、ヴァイロンの顔を見上げた。だが、敵はまだ目を合わそうとはしない。

「ね? 殿下、男の子の好きの裏側、よく分からないでしょ? まー、この大将のはふつーの男の俺も理解できないけどさ。でもまー、もう夜も更けまくってるしぃ、ここで俺が話を簡潔にしてあげましょうかねぇ」

 どき。

 カイエンも、そしてヴァイロンも、イリヤのふざけた言葉の中に、ちょっと真面目な雰囲気を感じて、耳を澄ませた。

 カイエンにとっては、イリヤのことは多分、「自発的な恋」とか「男に好かれてときめく気持ち」とか言うものが初めてわかった、ということだったのだろうし、ヴァイロンとのことは肉体関係から始まったとは言え、今では「愛情」のある関係だ。今、どちらかを選べと言われても困惑するばかりであろう。

 一方、ヴァイロンの方は、愛も恋も自分のすべても、みんな一緒くたにしてカイエンだけが彼の「唯一」なのだ。その「唯一」が「他の男も好きだったと気が付きました」と言い出したので、困惑していたわけだった。

 この場で、ただ一人、全然困惑してなどいないのが、イリヤその人であった。

「恥ずかしげもなく、三十男の俺ちゃんがまとめますよ。あのね、俺は殿下が好きです。はい、もう、この際だからはっきり言いますよぉ。まあ、好かれなくても良かったんだけど、好かれちゃったみたいでうれしーです」

 ここまでイリヤが言うと、ヴァイロンが凄まじい目つきでイリヤを見た。やはり、目の前で他の男にそんなことを言われるのは許し難いのだ。目線だけで人が殺せるなら、イリヤはこの瞬間に、せっかく拾った命をもぎ取られ、あの世へ旅立っていたことだろう。

「うわー大将、怖いよー。それでぇ、殿下は俺もヴァイロンさんも好き。今のところ、どっちがいいか、どうしたらいいかで混乱中、でしょ。あら、殿下も言葉にすれば意外に簡単ね。で、ヴァイロンさんは殿下一人に一生付いて行く、浮気されても憎い浮気相手ごと飲み込んじゃおう、ってことよね?」

 カイエンとヴァイロンは、一瞬、考えたが、イリヤの分析はそう間違ってはなかったので、とりあえずうなずいた。

「じゃあね。問題は、俺とヴァイロンさんが、殿下の取り合いになるってことです。それと、殿下が俺とヴァイロンさんの両方と仲良くしたいってことです」

 イリヤは、心の下の真っ黒なところで、かわいそうなエルネストを切って捨てた。

「え、ちょっと待って」

 カイエンがそう言うと、イリヤはもっともらしい顔でうなずいた。

「はいはい。分かってます。女の子の論理ですね。両方と仲良くしたい、なんてダメですよね。よかったです殿下。女の子としてまともでしたよ。殿下の気持ちだけなら、今のままでも問題ないんです。二人とも好き、でも、今は一人を選べない。まあ、ここまでなら、世の中によくあることですよ」

 カイエンは「よくあることなのだろうか」と、疑問に思った顔つきだったが、口を挟むことはしなかった。

 イリヤはここで、ちょっと言葉を切った。そして、かなり真面目な顔つきを作ってみせた。

「普通の女の子なら、結婚という人生の一大事の際に、決断を迫られます。でも、殿下はもう既婚者ですからねぇ。それも、正式な夫さんエルネストのことは、男性として意識していませんもんね。というか、皇子様のこと男として意識しろなんて言われたら、気持ち悪くなっちゃうでしょ? だから、普通の女性とは違うんです! でね、そうなりますと、当面の問題は、今後の肉体的関係の方です。……そうでしょ? ヴァイロンさん」

 なんと。

 カイエンは、イリヤのあまりに直截な言い方に赤面した。ここで初めて、カイエンは男の側のあれこれを理解した、というところだろう。

「え、そ、それは……」

 カイエンはもう、ヴァイロンの方を見ることも、イリヤの方を見ることも出来なくなった。彼女にとっては、その辺りはまだ何にも分かっていない部分だったからだ。実のところ、今まで意識的に考えの外に置いていたことだった。

「ヴァイロンさん、あんたは基本的に、今までのまんまでいいんじゃない? でも、殿下がちょっとでも嫌がったり、躊躇したりしたらやめてあげてくれる? まー、俺も男だから分かるけどさ。そこはぐっと我慢してよ。じゃないと殿下が壊れちゃうよ」

 カイエンは、あっと何か言おうとしたが、ヴァイロンはそれよりもはるかに早く、イリヤに答えていた。

「……分かった。今は、それしかないだろうな」

 カイエンはぱっとヴァイロンの顔を見上げたが、その顔にもう悩んだところはなかった。

(信じられない)

 カイエンは、ヴァイロンの気持ちが急に分からなくなった。でも、ここでそれを追求すると、まとまるものもまとまらなくなる、ということは分かっていたから、ぐっと気持ちを抑えた。

「で、俺の方なんだけどさあ」

 イリヤはヴァイロンと自分との間に、杖を突いて立ちすくんでいる、カイエンの顔を覗き込んだ。だが、カイエンはイリヤと目を合わせられなかった。

「これはまだちょっと、俺的にある方面の人たちに、確認入れたいとこがあるんだけどね。俺が殿下と関係すると、もしかすると、あの皇子様エルネストみたいに殿下を傷付けるかもしれないわけ。……分かるでしょ?」

 それは遠回しに、シイナドラドでカイエンが、あの、決して産んではやれない子供を身籠もることになった事件のことを言っているのだろう。

 ここまで言われては、カイエンはもはや、真っ赤になって俯いているだけだった。なんて恥知らずな男なんだ、と思ってさえも、信じられないことだが、もはやイリヤを嫌いになれない自分が、確実にそこにいた。

「だから、俺は殿下といきなり仲良くなろうとは思ってません。まー、この腹の傷が治ったら、俺は殿下の後宮に住んでるわけじゃないから出て行くし。……まー、しばらくは少年少女の初恋みたいな感じで行くしかないでしょーねぇ。お互いにここまで来て、なーんにも知らないふりで我慢していくのもおかしいしさ」

 カイエンは、その場に塩をかけられたなめくじのように、小さく乾いて消えてしまいたい、という気持ちだった。そんな恥ずかしいことが、これから自分に出来るのか、全然、分からない。

 今、「奇譚画報」のあの記事のことを知ったら、カイエンは本当に溶けて消えかねなかった。

「まー、先のことはわかんないけど、それくらいしか、今、妥協案もないでしょ? 俺は平気よ。だってこれ、お墓まで持って行くはずのことだったしね。俺ももう、そんなに若くないってことだろうねぇ」

 イリヤはこう言い切って、最後にヴァイロンの方を見た。

「で。大将、もう、俺に迫るのはやめてね。なんか、この件で話したいことがあるなら、いつでも話は聞くから。俺と大将は、大公軍団の重要人物なのよ。他に代われる人材も居ないしね。こんな時代に、仲違いしてるわけにはいかないの。……俺も、もう覚悟は決めたからさあ」

 カイエンは、なんでだかは分からないが、泣きたい気持ちだった。

 カイエンは自分の気持ちに振り回されていただけだが、イリヤはちゃんと他の、もっと大事なことも考えているのだ。やっぱり一番年かさなだけのことはあった。 

 その夜、自分の寝室にヴァイロンと一緒に戻ってきたカイエンが気が付いたのは、時計を取り戻してくるのを忘れた、ということだった。

 あの時計については、ちゃんとイリヤに聞いておかなければならないこともあったのに。








 その、数日後。

 そろそろ、一月も中旬に入ろうという日のことである。

 大公軍団帝都防衛部隊のロシーオとアレクサンドロは、ハーマポスタールへ向かう隊商を追跡していた。そして彼らが市内に入ったところの広い広場で解散するところまでを、街道を歩く人々に紛れて追いかけて確認していた。

 二人は、宝石商だという、ザイオンのトリスタン王子によく似た風貌の中年男を、その後も追っていった。

 アレクサンドロの方は、途中から、大公宮の影使いである、ナシオとシモンの二人に役目を交替していた。

「オリュンポス劇場は?」

「監視中だ。だが、それは向こうも分かっているだろう。あそこへまっすぐに入ることはないはずだ」

「こっちが追跡していることは?」

「俺の経験では、気付かれていない。だが、予想はしているはずだ。だから、何度もこちらをまこうとしてるだろ? あのおっさん」

 ロシーオたちが追跡して、もう数日になるが、中年のザイオンから来た宝石商、実はトリスタン王子の実父である、シリル・ダヴィッド子爵……は、ハーマポスタール市内に入ると、すぐに郊外の宿に入り、しばらくそこを動かなかった。

「本当に、金座の宝石商のところに宝石を持ち込むつもりなら、ここで何日も止まっているのは、変だよねえ」

 ロシーオがそう言ったのは、シリルの逗留している宿のそばにある、夏は冷たく冷やした果物を売り、冬は甘栗屋をしているうちの店先だった。簡単な飲み物なども出すので、店先にはベンチと粗末なテーブルが並んでいる。

 ロシーオは、焼いた栗の殻を剥きながら、熱い珈琲をすすっていた。栗は甘いし、珈琲にも砂糖が入っていたから、口の中が甘ったるくなっていた。

 話の相手は、影使いのシモンだった。二人とも私服で、その辺の市民たちにきれいに馴染んでしまっている。  

「新年早々、あのザイオンの王子様、ザイオン大使の外交官官邸で、派手な顔見せの宴を計画しているらしい。恐らくはそこにぶつけてくるつもりだろう」

 シモンがそう言うと、ロシーオはぷん、と頰を膨らませた。

「ええー、じゃあ、それまであのおっさんはここでおとなしく潜んでいる、ってことかい?」

 シモンは、広くもない店先から、外へと視線を伸ばした。

「どうかな。……奇術団コンチャイテラの焼け跡に残ってた、『仮面の部屋』のスケッチ、あんたも見ただろう?」

 ロシーオはあの気味の悪い仮面を思い出したのか、ちょっと身震いした。

「見たよ。気持ち悪い。じゃあ、あんたはあの逃げた百面相シエン・マスカラスが、あの金髪のおっさんに接触して、誰かに化けさせて、あたしたちの目をくらます、って言うの?」

 シモンは複雑な様子で首を振った。

「その可能性も、十分あるだろう。そうなったらちょっと厄介だな。とにかく、ザイオンの外交官官邸と、ここの見張りはしっかりしないと。出入りする者の中に百面相シエン・マスカラスがらみの奴がいたら、本来なら出入りしないはずの人間も、大手を振って出入りできるんだ」

 ロシーオは、黙って通りの向こうを眺めているようなふりをしていた。猫のような目は、ずいぶんと遠くまで鮮明に見えるのだ。

「ねえ。軍団長さんは、どうなの? 大公宮に出入りしてるあんたなら、知ってるだろ? いつ頃、仕事に復帰できそうなの。治安維持部隊の隊長さん二人と、ヴァイロン隊長で、なんとか切り回してるけど、あの人がいないとなんだかみーんなやりにくそうなんだよね」

 シモンも思いはロシーオと同じだった。これは、目端の利く隊員たちは皆同じだっただろう。

 イリヤがいないと、軍団全体が締まらない。彼の作り上げた、軍団の組織図がきちんと機能しないのだ。だから、上下の伝達が遅くなる。誰も、手を抜いているわけではないのだが、常に見張られているというか、しっかりと手綱を握ってくれている重たくて、強固な意志がないと、不安で上手に動けない、とでも言ったらいいだろうか。

「軍団長がいるといないで、これだけ違うとなると、今度の軍団長の事件、やっぱり狙われていたのは、大公殿下ではなくて、軍団長の方だった可能性が高いな」

 シモンの声は小さく、影使いか、獣人の血を引いているロシーオでなくては、聞き取れないほどだった。

「そうだね」

 ロシーオは相槌を打ちながら、冬のハーマポスタールの空を見上げた。

 一月のハーマポスタールはほとんど、雨が降らない。白っぽい青空の下の空気は乾いていて、今の大公軍団のように元気がなかった。

「空位だったコンドルアルマの将軍も決まるっていうし、これからが正念場かね」

 北のスキュラでの騒動は、今、雪に降り込められて、動きが取れなくなっている。それも、春になれば動き出すだろう。コンドルアルマが動かせるようになれば、東西南の脅威は考えずに、北での作戦が行えるのだ。

「……それは間違いないな」

 シモンはそう言うと、珈琲のカップを置いて、立ち上がった。

「そろそろ、ナシオが来る。あんたは戻れ。交代はあんたじゃなくてもいい。他のやつをよこせ」

 ロシーオは不思議そうな顔をした。

「もうすぐ、息子さんの誕生日だとか言っていただろう? 帰って準備することだ」

 ロシーオの表情が、ぱあっと明るくなった。

「ありがとう! よく、覚えていてくれたねえ。じゃ、そうするよ」

 家へと戻っていく、ロシーオの背中を見送りながら、シモンが考えていたのは、ナシオが来たら、そろそろまた、どちらかがあの宿屋に潜んで直に様子を探った方がいいだろう、ということだった。 




 そして、一月の中旬。

 コンドルアルマの新将軍が正式に任じられ、国内外に向けて発表された。

 その、任命式には、大公のカイエンも同席した。

 アマディオ・ビダル。

 彼の就任で、ハウヤ帝国の四つのアルマの将軍は、全員が三十代ということになった。

 だが、新将軍ビダルが、カスティージョなき後のコンドルアルマを、どのように掌握していくのか、それが出来るのか、世の中の見えるものたちは、皆、密かにその去就を注目していたのだった。

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