コンドルアルマの新将軍


 新年早々、大公軍団軍団長のイリヤが偽隊員に刺され、瀕死の重傷を負ったらしい、という噂は、瞬く間に帝都ハーマポスタール中に広まった。

 裏口とはいえ帝都でも有数の劇場のそば。それも一月の一日、新年最初の日に、港に近い新開港記念劇場のこけら落しの日に起きたことである。目撃者は多く、その口すべてに蓋をすることなど出来はしなかった。

 その翌日には、近くの治安維持部隊の署から容疑者が逃亡し、その際に死者、怪我人が出たこともあって、この事件は一月の四日には、帝都中の読売りの紙面の、それも第一面を飾ることとなった。


「……それで、軍団長は命をとりとめた、と言うのですね」

 皇宮の皇帝オドザヤの執務室。

 一月六日。

 前日、五日にザラ大将軍がカイエンとイリヤの見舞いをしている。

 それは、大公宮でイリヤがカイエンの襲撃を受けていた、ちょうど同じ頃のことだった。

 皇宮では、皇帝のオドザヤを囲んで、宰相のサヴォナローラと、大将軍のエミリオ・ザラが、オドザヤの執務机の周りでかなえになって座っていた。

「はあ。……陛下はあまりご存知ないことかと思いますが、私や大公殿下の体の中には、蟲というものが生来、潜んでおります。それが軍団長にも潜んでおったので、それの作用で……まあ、難しいところは省きますが、軍団長は大公殿下の蟲に助けられて、命を拾った、ということになりますな」

 ザラ大将軍がそう、大雑把すぎる言いようで答えると、オドザヤは「それではあまりにも、説明が足りないのではないか」という表情を見せた。

 だが、サヴォナローラも黙ってうなずいているのを見ると、細かいことは後で彼に聞けばいいか、と思い直したらしい。

「それで、その『蟲の作用』で軍団長の命を救ったという、お姉様の方は?」

 実のところ、オドザヤにとってはイリヤはカイエンの部下で、このハーマポスタールの治安を預かる責任者、いう認識しかない。何度か見かけたことはあるが、直接、話したことさえもなかった。

 だから、彼女の関心はすぐに、カイエンの方へ移ってしまった。

「昨日、お見舞いいたしましたところでは、まだ大事をとって安静になさっておられましたが、それももう数日もすれば床をあげて構わない、という話でした」

 ザラ大将軍がそう言うと、オドザヤは目に見えて安心した顔つきになった。

 父である先帝サウルを喪い、母のアイーシャはもう回復の見込みのない寝たきりの病人。異腹の妹二人はもうこのハーマポスタールにはいない。そんなオドザヤの今の状況では、血の繋がった親しい存在といえばもう、カイエンと伯母のミルドラくらいしかいないのだ。一歳になったばかりのリリエンスールや、異母弟のフロレンティーノやらはそういう意味では未だ勘定に入らない。

「そう。それなら、よかったわ。宰相、お元気になられたら、お暇を見て皇宮へおいでください、とお姉様にお伝えして」

「承知しました」

 サヴォナローラはちらりと、部屋の隅に控えている、オドザヤの護衛を務める、ルビー・ピカッソの方へ目をやった。ルビーは大公軍団から派遣されている。彼女に使いを頼もうと言うのだろう。ルビーの方も、三白眼の白目を光らせて、「わかった」と合図したようだ。

「じゃあ、問題はこの読売りね」

 そう言うと同時に、オドザヤの珊瑚色の唇から、大きなため息が漏れた。

 オドザヤは、今日の朝、街で売られた読売りの束の中から、その紙面全体に銅版画からおこした絵が多く印刷されている、そのために他の読売りよりも白い紙を使っている一紙を選んで手に取った。

 文字だけならザラ紙でも構わないが、図版を挿入した紙面を作るとなると、それなりの紙を使わねば肝心の「画」が見られる印刷にはならないのだ。

 そして、その読売りは他の読売りとは違い、日刊ではない。それは、他の読売りとは違って、「画報」を名乗り、記事にふんだんに挿絵を挿入しているからだった。

 オドザヤのところには、あの、皇宮前広場プラサ・マジョールの、親衛隊による細工職人暴行事件を「自由新聞リベルタ」に載せられてから、毎日、帝都のすべての読売りが集められることになっている。

「ああ、もうそれをご覧でしたか」

 そう言ったのは、ザラ大将軍だった。目ざとい彼は、もうその読売りを見ていたのだろう。

「奇譚画報ですね」

 確認するように言って、ため息をついたのは、サヴォナローラだ。

 オドザヤが取り上げたのは、あのミルドラやカイエン、そしてカイエンの工作で、当時のコンドルアルマの将軍、マヌエル・カスティージョ伯爵の醜聞を載せた、あのキケ・ピンタード記者のいる、「奇譚画報」だったのだ。

「……お姉様のせいでは、もちろん、ないけれど。この記事は……そのままにしておくわけにはいかないと思うの」

 オドザヤはその記事に踊っている文字やら、添えられている図版は見たくないらしい。

 それはそうだろう。

 あのザイオンの踊り子王子、トリスタンに、普通の少女たちが劇場の役者に寄せる憧れのような、淡い恋心のような気持ちを持っているオドザヤのような乙女には、紙面に踊る言葉も挿絵も、あまりにも扇情的だった。

「そうですね。……『大公殿下を庇って瀕死の重傷! 大公軍団の伊達男はやっぱり大公殿下の愛人だったのか!? 女艶福家と名高い大公の後宮に、新たな名前が?』……なんとも直截的ですね。芸のない」

 サヴォナローラがそう言うと、ザラ大将軍はあっはっは、とわざとらしい声をあげて笑い出した。

 記事に添えられている挿絵は、新しいものが間に合わなかったのだろう。カイエンの方は、オドザヤの即位の時に帝都の読売りを飾ったもので、イリヤの方は、街中の「似顔絵屋」から持ってきたものであるらしかった。

 カイエンの方は、かなり本人に似ている精巧なものだが、イリヤの方は、似顔絵屋の商品だから、本物よりも若く見え、しかも本物の持っている「怪しげな感じ」や、「曲者な感じ」は見事にそぎ落とされている。そこに掲載されたイリヤの顔は、毒のない、ただ顔立ちの造形が際立っているだけの美青年に見えた。

「芸を凝らす必要もないのだろうて! 昨日、本人に聞いたところでも、そんなに事実と乖離した記事でもないですしの」

 ザラ将軍はこう言ったが、それを聞いた、オドザヤとサヴォナローラは二人揃って、苦い顔つきになった。その顔つきの意味する感情は違っていただろうが、表情の種類としては同じだった。

「お姉様は、こんな記事に書かれるような不潔な方ではありませんわ!」

 オドザヤは、ザラ大将軍の発言の後半の意味が分からなかったようだ。

 だが、さすがにサヴォナローラの方には、ザラ大将軍の発言の意味のずべてが伝わったらしい。

「……あの男、今になってそんなことを言い出しているのですか」

 オドザヤの方は、彼女の知っているカイエンと、記事の中身との違いに憤っていたのだろうが、サヴォナローラの方は、ザラ大将軍に今さら、カイエンへの感情を吐露したらしい、イリヤへの怒りらしかった。彼にはとっくにイリヤの心の在りどころなど、承知のことだったのだろう。

 彼ら二人と、ヴァイロン、エルネストの四人は同じく、アルウィンに少年の頃から、カイエンへの執着心を植えつけられた、言わば同じ魔法にかけられた「被害者」だったのだから。

「まあまあ、そう怒るものではないですぞ。市民どもは決して、大公殿下に悪い印象を持っておるわけではないのですからな。お堅い貞淑の女神テレサの神殿女神官や、敬虔な信者なんぞなら、いい顔はせんでしょうが、普通の市民は『女だてらに大公軍団を率いる女丈夫なら、かくもあらん』ぐらいに思っておりますよ」

(……あの様子では、じきに新聞記事に、事実が追いつくかもしれないですしなあ)

 ザラ将軍は頭の中だけで、そう言葉を繋いだが、もちろん、口には出さなかった。

 ザラ大将軍は、あっけらかんとした言い方でそう言ったが、サヴォナローラはともかく、オドザヤのしかめた眉は元に戻らなかったのを見ると、鷲のような顔つきを緩めて、言い聞かせるような口調になった。

「大公殿下は、下町の事件現場なんかにも出ておられますから、本物を見たことがある市民も多い。ご存知の通り、大公殿下ご本人は、あの通り、お体も弱々しいし、お顔は神殿のアストロナータ神そのものです。……こんな記事が出ても、市民は五割引くらいで見ていることでしょう。こう申しては何だが、大公殿下のあのお顔は、こういう醜聞避けには効力がありますな。なに、大丈夫です。大した問題にはなりませぬよ。ミルドラ様もカイエン様も、カスティージョなどとはご身分が違います。カスティージョの場合には、醜聞の中身もいけなかったし、その後のご本人の行状も悪かった。あれとは違いますよ」

 ここまで言われれば、もう、オドザヤも「仕方がない」と引き下がるしかなかった。

 ここで、話題を変えよう、と言うように、サヴォナローラが次の懸案を出してきたので、オドザヤもそれ以上、カイエンのことで粘ることも出来なかった。

「陛下、懸案でした、コンドルアルマの次の将軍に誰を任命すべきか、との問題ですが」

 サヴォナローラがそう言うと、オドザヤはすぐに頭を切り替えたようだった。

「あなた方二人は、カスティージョ前将軍の副官をしていた、アマディオ・ビダルを推していたわね」

 オドザヤは若いだけあって、膨大な量の皇帝としての仕事のすべてを、しっかりと記憶していた。これはカイエンも同じだが、根っから大真面目な性格なのだ。

「私は、あのカスティージョのやり方に唯々諾々と従っていた男を、次の将軍にするのには不安があったわ。でも、宰相も大将軍も、あのカスティージョの醜聞記事の後に出た、コンドルアルマの縁故採用の記事を新聞社にすっぱ抜いたのは、副官のビダルらしいって言ってたわね。カスティージョが自分の屋敷の郎党からコンドルアルマの兵士を選んでいたこと。そして、屋敷の郎党に入れるに際して、親元から裏金を貰っていたのは間違いないって」

「その通りでございます」

 サヴォナローラがそう言うと、オドザヤは先を続けた。

「それで、私はビダルの身辺を調査するように命じたのでしたね。その結果が出ましたか」

 聞くなり、サヴォナローラは書類挟みから、ひと束の書類を取り出した。

「はい。まず、ビダルはカスティージョがコンドルアルマの将軍になる前に、コンドルアルマに入っています。実家は元男爵家です。なんでも、アマディオ・ビダルの父親の不行跡で取り潰されたそうで。ですので、今、ビダルは爵位を持ってはおりません。領地も取り上げられ、皇帝直轄領になりましたので、今はコンドルアルマの副官としての俸給で生活しているはずです」

「ああ。そうですな。アマディオ・ビダルは三十代半ばというところでしょう。フィエロアルマのジェネロ・コロンボや、ドラゴアルマのブラス・トリセファロと同年代のはずです。あれが国立士官学校からコンドルアルマに入るかどうか、という頃でしたわ。親父が借金を溜めていた相手の商人を切り殺しましてなあ。アマディオは次男だったんだが、親父が爵位を取り上げられると、じきに長男も身を持ち崩して……」

 その頃には、もう先帝サウルの時代になっていた。そして、サウルは貴族の不行跡には厳しかった。それで取り潰された貴族の家はかなりの数に上っていた。

 そうしたサウルの政策に不満を持っていたのが、オドザヤの即位に反対した、モリーナ侯爵たちの一派だったのだ。

「……それでは、アマディオ・ビダルは、私にはいい感情を持っていないでしょうね」

 オドザヤは、やはり、モリーナ侯爵たちを念頭に置いているようだった。

「そこのところは、さすがに本人に聞かなければわかりません。ビダル元男爵家の長男は身を持ち崩して死んでおりますし、アマディオ・ビダルも未だに独り身を貫いています。ですが、ビダル個人は、カスティージョの縁故採用の方式を黙認してはいたものの、手を貸していた形跡はありません」

 サヴォナローラがそう言うと、オドザヤはビダルについての調査書類を見ながら言った。

「……そう。でも、私への感情を抜きにしても、今、他のアルマから新将軍を立てたら、コンドルアルマの将兵を掌握するのに時間がかかるでしょうね。でも、カスティージョを追い落とす、最後の石を投げたのが副官のビダルだと言うのなら、コンドルアルマに未だ残っている、カスティージョの縁故採用の兵士たちを、彼はどうするのかしら? カスティージョの引きで入隊出来た兵士達にとっては裏切り者でしょう? ビダルは」

 これには、ザラ大将軍が答えた。

「それも含めて、アマディオ・ビダルに任せてはどうか、と私は思うんですがね」

「それは、どういうこと? そもそも、ビダルというのは、どんな人なのですか」

 オドザヤがそう聞くと、サヴォナローラは黙っており、代わりにザラ大将軍が答えた。

「ビダルですか。……あれの二つ名なら、私も存じておりますな。軍の中では有名ですから」

 オドザヤは、その時、ザラ大将軍が見せた、なんとも言えない顔の意味を、その後にアマディオ・ビダルをコンドルアルマの将軍に任命するため、皇宮へ呼び出した時、知ることになる。

「もう、三十代の半ばにはなるはずなんですがなあ。姿形からはとてもそうには見えんのです。表情が、仮面を取り替えるみたいな変わり方をする男でしてな。あの、大公軍団の双子の治安維持部隊長も無表情で知られているが、あれとはまた趣が違うと言うか……。剣だの槍だのの使い方も、なんというか人間的な迷いがなく、的確で、無駄がないのです。その上に、人と話すときの受け答えの様子が、カクカクしているというか、正答を探してから答えているような間がありましてな。……付いたあだ名が、『からくり人形アウトマタ』と言うのです」

「……『からくり人形アウトマタ』?」

 オドザヤは、皇宮からろくに出たこともなく成人したから、奇術小屋のからくり人形など見たことはない。それでも、その言葉の意味するモノが、どういうものかは知っていた。

「ある意味、将軍だったカスティージョ伯爵よりも、厄介な人物かもしれません」

 そう言う、サヴォナローラの顔を、オドザヤは驚きの目で見た。

「そんな人物でも、あなた方は、次のコンドルアルマの将軍に、と私に勧めるのですね?」

 オドザヤが、しばしの沈黙の後、ようようそう言うと、サヴォナローラはザラ大将軍と一瞬だけ目を合わせたのちに、きっぱりとこう言ったのだった。

「はい。『からくり人形アウトマタ』は、本性は人形ですから、普通の欲深い人間よりはマシだと愚考致しました」

「ええっ?」

 サヴォナローラのはす向かいで、ザラ大将軍は、これもまた無責任な様子にしか見えぬ笑いを顔にのっけたまま黙っている。このことはもう、彼ら二人の間では決定したことなのだろう。

 オドザヤは、「この人の言を信じて、大丈夫なのかしら」という疑問を宿した顔を、しばらくの間、宰相サヴォナローラの真っ青な青い目から離すことが出来なかった。








 オドザヤ達が、コンドルアルマの新将軍の人事を決定していた頃。

 ハーマポスタール大公のカイエンは、頭を抱えていた。

 それも、政治とはなんの関係もない、極めて個人的な事情で。

 ゴトゴトと室内用の杖の音をさせながら、カイエンは裏廊下を通って、イリヤの寝ている部屋から自分の部屋まで戻ってきた。

 その間中、頭の中にあったのは、「どうしよう。どうしよう」という、意味のない慌てた気持ちだけだった。

 イリヤの言葉にカッとなったにしても、今となって思い返せば、頭突きをぶちかましたのも正気とは思えなかったし、それ以上に正気どころか狂気を疑うしかないのは、イリヤ首に噛み付いてしまったことだ。

 ありえない。狂気の沙汰、と言うのはまさしく、ああいう行為のことであろう。

 まさしく間違いなく、自分がしでかしたことだというのに、カイエンには頭突きの方はともかく、噛み付いた方については、そこに至るまでの思考の過程がすっかり抜け落ちていた。

 カイエンも、自分が本当は極めて感情の起伏の激しい性格であることは自覚できている。

 思えば、シイナドラドで、殺されかけたシーヴを見て、目の前の刃物が見えなくなり、頰に一生残る傷を作った時もそうだった。

 しかし、自分の頰の傷ならともかく、今回のは他人の首だ。いくらイリヤがお調子者で、図太い性格でも、あれにはドン引きしたに違いない。

 イリヤは噛まれても悲鳴ひとつ立てず、カイエンの方を慈母のような微笑みで見上げていたが、あれでカイエンのやった気違い沙汰が棒引きになるはずもない。

(どうして、あんなことをしでかしたんだろう?)

 そう、自問しても答える自分はいなかった。

 そもそも、カイエンはイリヤの夢から出てきて、覚醒してからずっと、イリヤに夢の中で問い質そうとして、出来なかった疑問をはっきりさせたくて、じりじりしていたのだ。

 だが、目覚めてみれば、彼女の周りにはアキノやサグラチカ、奥医師、それに誰よりも心配していたであろうヴァイロンが待ち構えていて、数日は身動きができなかった。

 数日、寝台で休み続けて、やっと彼らの目が離れた瞬間を狙って、奥廊下を伝ってイリヤの寝ている部屋へ向かったのだ。

 だがその結果は、カイエンをその歳、二十一になるまでの年月で、一番困惑、いや惑乱させるものだった。

 カイエンはイリヤが、

(俺が殿下を、好きでも嫌いでもいいじゃん。そんなの殿下に関係ないもん。それは俺の勝手でしょ。好きでも嫌いでも、殿下に今まで迷惑かけてないし。これからだって、あんなことがなけりゃそのまま、お墓まで持って行ったはずのことだもん。でね、どっちかってえと、殿下には、俺を好きにならないで欲しいんだよねぇ!)

 などという、彼女にとっては驚天動地な言葉を吐くまでは、余裕さえ感じていたのだ。

 あの、咄嗟の場面で、イリヤが自分を庇った理由。

 カイエンは、その理由には心の底では思い当たるところもあった。彼女とて、そこまでは鈍くない。

 だが、カイエンはイリヤがそれをそのまま、認めるとは思っていなかったのだ。きっと、自分よりもはるかに大人のイリヤは、自分を困らせないような返答を用意しているはずだ、と思い込んでいたのだ。

 思えば、それはカイエンのイリヤへの甘えだった。

 なのに、カイエンは踏み込み過ぎたのだ。

 イリヤももう、自分を誤魔化してはくれなかった。

(好きでも嫌いでもいいじゃん)

 つまりは、イリヤは自分カイエンが好き。

 しかも、最後にあえて、憎まれ口を付け足していた。

 イリヤという男を、カイエンはすべてではないにせよ、仕事上で六年分は知っている。イリヤが憎まれ口を追加して来る時は、その前に言った言葉は大抵、イリヤにとって「忌々しいが認めざるを得ない真実」なのだ。

(殿下には、俺を好きにならないで欲しいんだよねぇ!)

 ああ言ったからには、「そう」なんだろう。「殿下には」と限定してきた言葉。それは自分の方は「そう」なんだ、ということなのだ。

 そこまで思い返した途端に、カイエンはぶわっと血が頭に上ってくるのを感じた。今までこんな経験はないが、きっと、自分の顔は真っ赤になっているはずだ。

 今、自分の顔つきは、カイエンとリリの誕生日に、踊り子王子トリスタンの踊りを見た後に、オドザヤがしていた顔つきと、そっくり同じなのだろう。カイエンは、あの日のオドザヤの様子を、心の中で反芻した。

 あの時、オドザヤの青ざめてさえいた頰に、一気に昇ってきたのは、鮮やかすぎる血の色だった。

 ああ、間違いない。

 その頃には、イリヤが今まで黙っていた理由も、すでにカイエンには分かっていた。

 もう、カイエンにはヴァイロンがいる。それに、名ばかりとは言え、夫であるエルネストもいるのだ。

 嗚呼。

 今さら、自分はイリヤにあんなことを詰問して、答えを得てから、どうするつもりだったのか。そもそも、どうして答えを知りたいと思ったのか。カイエンにはまだ、そっちの方向にまで頭が回らなかった。

 どうするつもりもなにも。

 カイエンは怒りに我を忘れ、イリヤに頭突きをぶっかました挙句に、首っ玉に噛み付いて来てしまったのだ。

 ……何から何まで、狂っていたとしか思えない。それに、二十一にもなった人間がすることとして、あまりにお馬鹿すぎる。あのイリヤも普通じゃないが、それでもさっきのことでは呆れ返ったに違いない。

 そこまで考えたら、奥廊下の真ん中で、今度は頭から血が下がり尽くして、その場に崩れ落ちそうになった。今度は顔が青ざめていることだろう。

 そんな風に、自分の現在の醜態を、はたから見たら滑稽なほどに客観的に観察しながら、カイエンは、もう取り返しがつかないことながら、頭の中で「どうしようどうしよう」と繰り返すしか出来なかった。

 イリヤの気持ちはもうわかっていたが、その時点では、カイエンはまだ自分の方の気持ちまでは推し量る余裕はなかった。それが出来るには、もう一段階上の、絶体絶命の場面に追い込まれることが必要だった。

「あ。ミモ! おいで!」 

 カイエンはその時、廊下の向こうから優雅に歩いてくる、飼い猫のミモと出くわした。カイエンは無意識に、藁をもすがる思いで、猫のミモを空いている右腕に抱き上げ、自分の寝室まで連れてきた。

「みゃあぅう〜」

 脂汗をかきながら、ぎゅうぎゅうと自分を抱き締めるカイエンに向かって、ミモは当惑したような声をあげた。

「いや、ミモ。ちょっと待ってくれ」

 カイエンは、自分の寝室に入ると、寝台ではなく、部屋の窓辺にあるソファに腰を下ろした。もちろん、ミモをがっしりと抱えたままだ。

 誰か呼んで、お茶でも持って来させたいところだったが、それも出来ない。

 きっと、今、自分の顔は青くなったり赤くなったり、とんでもないことになっている。とてもではないが、乳母のサグラチカにも、女中頭のルーサにも、ましては執事のアキノになど、見せることの出来ない状態だろう。

 どうしたの、とでも言うように、カイエンの腕の中から顔を舐めてくるミモのありがたさよ。

 そこまで来て、カイエンはハッとした。

 今、何時だろう。イリヤの部屋に忍んで行ったのは、昼食が終わり、お茶の時刻も過ぎてからだったから、もう、窓の外は午後の終わりの色になろうとしている。

 寝室にも置き時計があるが、カイエンはやや近目だったので、自分の懐中時計を見ようと、ガウンのポケットを探った。彼女はいつでも、時計がそばにないと不安なたちだったので、寝ている間も懐中時計はいつも身近に持っていたのだ。

「え?」

 カイエンは焦った。確か、右のポケットに入れたはずの時計がない。慌てて左側を探っても、もちろん時計はなかった。念のために懐を探ったが、そんなところにあるはずもなかった。 

「うわ、やば」

 カイエンの顔から、さっき上って来た血が、ざざーっと引いていく。

 これは、さっきイリヤの寝ている部屋で落としたのに間違いない。それも、イリヤの寝台の上に乗り上げて……今思い出すと、恐ろしくも恥ずかしくて死にそうなことをやらかした時に、だ。だって、普通に歩いたり座ったりしていただけで、ポケットの中の時計が落ちるはずがない。

「どうしよう」

 今度のどうしよう、は切迫していた。

 さっき、「また、来る」とか言ってから逃げ帰って来たような気がするが、今すぐにまた、「もう、戻って来ました」と言って再び、イリヤの待つあの部屋に乗り込んでいく度胸はなかった。

 それに、お茶の時間のあとで、奥廊下を伝ってイリヤの部屋まで行ったことはバレずに済んだが、今から行ったらバレるかもしれない。何しろ、イリヤの寝ている部屋は、リリの部屋の隣なのだ。赤ん坊のリリの夕餉の時間は、カイエンよりもかなり早い。もう、リリの部屋には乳母やサグラチカ、女中たちが集まり始めているだろう。

「あああ」


 あの、ハウヤ帝国大公のカイエンが持つにしては、地味で質素な銀時計は、実は彼女自らが骨董品店で見初めて買い込んだものだった。

 元々は、アルウィンが買い与えてくれた、銀に金の象嵌と宝石の散りばめられた、それこそ彼女の身分にふさわしい時計があったのだ。だが、三年前にアルウィンの生存と、彼の所業を知った時、カイエンは子供っぽいと自分でも思ったが、アルウィンの買い与えてくれた物を避ける気持ちを持つようになった。

 そんな時、行きつけの通俗小説を専門に並べた書店のそばの骨董品店の、道に面した扉の横に設けられた、高価なガラス張りの陳列棚で目に入ったのが、あの銀時計だったのだ。

 店の店主が言うには、あの銀時計の蓋の彫刻は「紫苑」の花なのだそうで、蓋の裏側の文句はその「花言葉」なのだそうだった。

 その花言葉は、「お前を決して忘れない“Nunca te olvidare”」という文言だった。

(この時計は、二つで対になっていたそうなのですが、片割れはこれとは違って、売りに出されなかったようでしてね。これは私の想像ですが、もう一つの時計には、恐らく勿忘草わすれなぐさの彫刻があって、蓋の裏には「私を忘れないで“Nomeolvides”)という言葉があったのではないかと思うのです)

 あの時、店主は、首を振りながら、二つ揃っていないのが残念だと言っていた。

 カイエンがその時計を気に入ったのは、恐らくは前の持ち主に大切にされていたその時計の、傷一つない銀無垢の表側ではなかった。もちろん、時計の蓋の紫苑の彫刻は精緻で見事なもので、それにも価値は感じたのだが。

(この時計は変わっていましてね。普通の銀時計にしては高いとお思いでしょう? それはこの文字盤にあるんです)

 そう言って、店主が蓋を開けて見せてくれた、時計の文字盤の意匠だったのだ。

 その時計の文字盤は真珠母貝を使ったもので、カイエンのものは黒っぽい表面に七色の虹がかかっているような、美しいものだった。だが、店主の言っていた、「変わっている」ところはそこにあるのではなかった。

(あ、螺旋文字……)

 その文字盤には、もちろん時刻を示す十二の数があったのだが、その時計のそれはすべて、極めて細かい意匠に置き換えられた、螺旋文字のそれだったのだ。

(こうした精密な仕事は、このハウヤ帝国も有名ですが、元々の技術はシイナドラドから来たとも、螺旋帝国から来たとも、言われております。この時計はおそらく、遠い螺旋帝国からでも流れて来たものなのでしょう)

 カイエンはそんな時計が、どうして元は二つで対になっていたのかを、店主が知っているのだろう、と思ったが、その時にはもう、時計が欲しくてたまらなくなっていた。


「あ」

 時計をすぐには取りに行けないことから、どうしたものかと思いながら、時計を買った時のことを、カイエンは思い出していた。その連想が、突然、頭の中で別の映像と重なった。

 あの、イリヤの夢の中で。

 光に包まれて、この世に戻ってくる瞬間に、二人は見たのだ。お互いが取り出した懐中時計を。そして、気が付いたのだ。その二つがよく似ていることに。

「……まさか、な」

 イリヤの方は、同じ頃に二つの懐中時計をひき比べ、とっくにそのことに気がついていたが、カイエンには無理だった。ただ、気になったのは、あの時計を買った時に骨董屋の主人が言った言葉だ。

(この時計は、二つで対になっていたそうなのですが、片割れはこれとは違って、売りに出されなかったようでしてね……)

「むぎゃぅうう」

 膝にのっけられていたミモが、不満そうな声を出した。廊下で取っ捕まって、連れてこられたというのに、カイエンがちっとも構ってくれないからだろう。

「ああ、ごめんねミモ」

 カイエンは心ここにあらず、と言った様子でミモの喉を撫で始めたが、頭の中を占めていたのは別のことだった。まさかとは思うが、イリヤのあの時計が、店主の言っていた勿忘草わすれなぐさの時計だったとしたら、彼はあれをいつ、どこで手に入れたのだろうかと考えていたのだ。

 その時、寝室の扉がノ遠慮がちにックされなかったら、カイエンはミモをひっ捕まえたまま、何時間でも自問自答を繰り返していたかもしれない。

 カイエンは扉を叩く音に、びくり、と体を震わせた。同時に、悪寒が体を走る。

 いつの間にか、一月の早い夕暮れは終わり、窓の外は薄暗くなって来ていた。カイエンの夕餉の時間にはまだ余裕がある。だから、サグラチカやルーサではないだろう。

 と、なれば。

 カイエンの返事がないので、扉は遠慮がちに開かれた。

「カイエン様。起きておられますか」

 ヒィ。

 カイエンは文字どおり、ソファから飛び上がった。

 その声は、いつもならこんな時間にはまだ帰ってくることのない、ヴァイロンのものだったからだ。

「え? う、うん」

 カイエンの緩んだ腕の下から、ミモが抜け出して、ヴァイロンの方へとことこ歩いていく。

 そのミモをたくましい腕に抱き上げたヴァイロンは、普段と同じ様子でカイエンの方へ歩いてくる。

「起きていらしたのですか。よかった、ご気分がよろしいのですね。今日は仕事が早めに終わりましたので……」  

 何も知らないヴァイロンの、わずかに微笑みを浮かべた顔を、カイエンはまっすぐに見ることが出来なかった。

 その時、カイエンは間違いなく本当に理解できた、と思った。

 浮気した世の亭主たちが、女房にバレた時に感じる気持ちを。そして、昼下がりの情事にうつつを抜かしていた人妻が、夫に責め立てられる時の気持ちを。

 いや、自分はまだ、やましいことは何もしていない。

 カイエンは忙しく回転する頭の中で、そう言い訳したが、その一瞬後には、自分がイリヤの部屋まで裏廊下を忍んで行き、あまつさえ寝ている怪我人のイリヤの上にのしかかり、息のかかるような距離で見つめあい、その上に首に噛みついたことを思い出していた。

 あれを、ヴァイロンに知られたらいけない。

 カイエンにも、それくらいの分別はついた。

 そして、それと同時に、もうひとつ、別のことにも気が付いてしまった。

 さっき、裏廊下を歩いていた時に、踊り子王子のトリスタンの踊りを見た後に、オドザヤがしていた顔つきと、そっくり同じように頬に血を昇らせていた自分。

 そして、イリヤが自分をかばって刺された時の気持ち。そして、イリヤが「さよならアディオス」と言い残して、目をつぶってしまった時の気持ち。強烈な喪失感に耐えきれず、大声をあげて叫んでいた自分を。

 あれは。

 あの気持ちは。

 こうしたことにはまるで免疫がなく、鈍いことこの上なかったカイエンにも、もう、さすがに理解されないわけがなかった。

「カイエン様?」

 ヴァイロンは、自分ではなく、もっと後ろの壁のあたりを見つめたまま、青ざめて固まってしまったカイエンの方へ、心配そうに手を伸ばして来た。その時にはもう、彼はカイエンの座るソファの間近にまで来ていたのだ。

「やっぱり、まだお加減が……?」

 そう言うと、ヴァイロンは自然な動きでミモを床に下ろし、ソファに座ったカイエンの真向かいにひざまづいた。

 次の瞬間に、ヴァイロンは熱を測るようにカイエンの額に手を伸ばして来た。いつものカイエンなら、「心配性だな。大丈夫だ」とか言って微笑みを返していただろう。

 だが、この時のカイエンには出来なかった。

 出来たのは、こわばった顔つきで、そっとソファの背に身を引くことだった。

「……な、なんでもない」

 混乱した頭の中では、そう言うのがやっとだったのだが、そうしたカイエンの常にない様子は、もちろん、カイエンのことには特に目ざといヴァイロンには、不審に映った。

「何か、あったのですか」

 カイエンを見つめる、翡翠色の目の底が金色に光った。こういう時のヴァイロンは誤魔化せない。

 それでも、カイエンは必死に平常心をかき集めるしかなかった。今日、あったことは決して、ヴァイロンに悟られてはいけないことだったから。

「ちょ、ちょっと、その、昼寝をしていたら、昔の……子供の頃の嫌な出来事の夢を見たんだ。それで、起きてもなんだか、気持ちが悪くて」

 必死の思考力ででっち上げた台詞の陳腐さには、カイエン自身がダメ出しをしたくなった。

 でももう、言ってしまった。もはや、この線で行くしかない。

「今日は、早く帰ってこられたのだな。それでは、今宵は夕食を共に出来るな」

 自分でも熱がない、と思う言葉を並べながら、カイエンはもうひとつ、ヴァイロンに知られてはならないことに気が付いていた。

 懐中時計。

 あれが今、イリヤの元にあることを知られるわけにはいかない。

 それに。

 イリヤと共に意識が戻ってから、カイエンは今まで奥医師から安静を言い渡されていた。だから、ヴァイロンと同じ寝台に眠っていても、男女のことは何もなかった。

 だが、それもそろそろ限度だった。

 カイエンは、自分のイリヤへの気持ちに、とうとう気が付いてしまった。

 その上で、ヴァイロンと今までと同じ関係を保てるのか。

 それは、カイエン自身にも今はまだ全然、分からないことだった。


 


   



 同じ時刻。

 イリヤの方は、もう侍従の持って来た夕餉を食しているところだった。

 運ばれてきた膳の上には、昨日までの食事とは違って、柔らかく煮崩した固形物の皿がある。それは、夏になるとこの大公宮の賄い食堂によく出てくる、トマトと夏野菜の冷製スープガスパチョに似ていたが、暖かいもので、使われている野菜も、冬の根菜類だった。小さな角切りにされた根菜と燻し肉が、パン粉を野菜と一緒に混ぜて挽いたスープの中に浮かんでいる。

 もう一品は、ほろほろに煮込まれた牛肉の茶色の肉汁で、そのいい匂いったらなかった。

「おやあ。いいねえ、いいねえ。ハイメのおっさんが俺のためだけに料理を作ってくれるなんて、もうこの先ないかもしれないからなあ」

 言いながら、イリヤはスープを一口、スプーンで口に運ぶ。途端に、彼の表情は幸せいっぱいに変わった。

「はぁ〜。五臓六腑に染み渡るぅ〜」

 スープと煮物を完食したイリヤは、これ以上ないという幸福顔だったが、彼の幸福が続いたのは、その日の夜半までのことだった。


 真夜中。

 もう、時計の上では日付が変わろうという頃。

 イリヤの部屋へ、裏廊下を通ってやって来た大きな影。

 その影が、音もなく扉を開け、彼の枕元に立った時、イリヤはもう、目を覚ましていた。

「あらあら大将、もう、気が付いちゃったの?」

 窓の外の月明かりを背に、巨大な体躯の落とした影は、微動だにしなかった。

 ただただ、イリヤを見下ろす影の中で、金色に輝く獣の瞳だけが、ぎらぎらと凶暴だった。

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