海のアルフォンシーナ
あの水平線の下には
あの街が沈んでいる
古の都、カイエンヌが
哀歌は歌う
カイエンヌは
その街に匿ったために
大津波にのまれたと
その反逆者はたった一人の凶眼の詩人だったとも
たった一人の魔性の踊り手だったとも
伝説は言う
何度生まれ変わっても
彼らは
そして
カイエンヌと海神の契約に捧げられた
カイエンヌの街を永遠に彷徨う
海の街の娘と
彼が
出会ったその時
カイエンヌは蘇るのだ、と
アル・アアシャー 「海の街の娘」より「海のアルフォンシーナ」
そこは、ハウヤ帝国帝都ハーマポスタールのテルミナル・エステに近い、場末の下町。
後ろ暗い外国人が多い、危険な場所である。入り組んだ小道や路地は、これまた入り組んだ増築に増築を重ねて、わけがわからなくなった感のある建物群と相まって、テルミナル・エステの洞窟城とも呼ばれ、独特の空気を醸し出している。
その中にある、運河沿いの一軒の薄汚い家。
そこは、あの奇術団コンチャイテラの魔女スネーフリンガが、前に入っていった建物に他ならない。
桔梗星団派のアジトであるそこ。その地階にある、アストロナータの天地創造の場面を彫り込んだ、木の扉の向こう。
「紺色の部屋」。
そこには、魔女スネーフリンガこと、元スライゴ侯爵夫人ニエベスと魔術師アルットゥがいた。アルットゥは、彼女の息子ではあるが、父親のアルトゥール・スライゴの声で喋る、気味の悪い子供である。
ニエベスは、その子供を膝に乗せて、暖炉を背にした一番上座に座っている。
そのほかには、あの馬
そして、もう一人、貴公子然とした、若い男がいた。服装も地味だかいい生地の服を着ている。
それは、この一団の中でもニエベスとアルットゥと同じくらいの地位になるらしい。彼はアルットゥを膝に抱いたニエベスと並んで座っていた。
「……それで、バンデラス公爵の件はどうなったの?」
もう、かんばしくない報告でも得ているのか、ニエベスの声は少し尖っていた。
ニエベスは、今日も暗い色のフード付きの外套に身を包んでいる。フードは部屋に入る時にとったのだろう、ゆるく結った真っ白な髪が「
「はい。……申し訳もございません。バンデラス公爵はハーマポスタールからは、適当な南方行きの船がなかったために陸路で南下しましたが、モンテネグロの山脈へ差し掛かる前に、西の大海側の港からモンテネグロ行きの船に乗りました」
「それはもう、聞いたわ」
ニエベスはそう言うと、ちらりと横のやや下座よりに座っている、馬 子昂の方を見た。彼女に情報をもたらしたのは、馬 子昂なのだろう。
「はい。船に乗る前に、二回、小さな町に一行が泊まりました折に、夜襲をかけましたが、向こうも用意しておりましたので、双方に死傷者を出し、公爵には逃げられました。……我らの動きを読んだのではないでしょうが、襲撃されることは予想していたようです」
聞いているニエベスの柳眉が、ぐっとしかめられた。
「情けないことね。あんなに自信ありげに引き受けていったと言うのに!」
男は言い訳はせず、黙って頭を下げた。
「それから、海に出られてしまってから、もう一度、今度は『マトゥサレン・デ・マール』の一団とともに、船で襲撃をかけましたが……」
「バンデラス公爵は、ご自分の船に乗らなかったのか?」
男の言葉を遮り、不思議そうな顔をしたのは、馬 子昂だった。彼も、細かい部分は今日、この男から初めて聞くのだろう。
ラ・ウニオンの内海に面した、モンテネグロの領主であるバンデラス公爵家には、もちろん、自家の船団がある。馬 子昂はそれを迎えに来させたのだと思っていたのだろう。
「それでございます」
襲撃した男は、少しだけ身を乗り出した。
「バンデラス公爵は、急いでいたようで、船を選んで日にちを費やさず、その場に居合わせたモンテネグロ行きの貨物船に乗ったのです。……それが、あちらの『手』でした」
そこまで話すと、男は悔しそうに顔を伏せてしまった。
その時だった。
それまで、ニエベスの横で、黙って話を聞いていた人物が口を挟んだのは。
「へえ。それじゃあ、公爵さんはラ・ウニオンの内海で、自分のうちの船団と待ち合わせでもしてたのかな」
この言葉を聞くと、襲撃に関わった男は、びくりとしてニエベスからその人物へと目線を動かした。
「……その通りでございます。おそらくはハーマポスタールにいる間に、すでに使いをモンテネグロヘ送っていたのでしょう。その待ち合わせの場所に、あらかじめ決めていた期日通りに到達するために、公爵は船を選ばずに乗り込んだのです。その待ち合わせの場所とは、モンテネグロ行きの船なら必ず通る場所でございましたから」
「じゃあ、お前たちはそこで待ち伏せにあったってわけ?」
そこまで、黙って聞いていたニエベスが、そっと横の人物を牽制するように言わなかったら、その人物は襲撃の決定的な失敗までの物語を、延々と聞き出しそうに見えた。
「……トリスタン様! この者の失態は、私からお詫びさせていただきますわ。ですから……」
ニエベスの声を聞くと、トリスタンと呼ばれた若い男は、すうっとその緑色の目を横へ流して、ニエベスの方へ向けた。
偶然にも、ニエベスの目も、暗がりでは緑にも見える色合いだったが、彼の目の色は人工的なワイン瓶の緑のガラスのような光沢と質感を持っており、鮮やかで、どこか冷酷だった。
「そうなんですか。それにしても、今度の
そう言うと、トリスタンは長い金色の髪を、左手でぐいっと後ろに撫で付けるようにした。彼の髪は、その貴公子然とした印象をもってしても不自然なほどに長く、それを彼は後ろでくくりもせずにただ肩から背中に垂らしていたのだ。
「それを言われると、申し開きもできませんね」
その時。
困り顔になったニエベスの代わりに、トリスタンの言葉に答えたのは、ニエベスの膝の上に、それまで人形のように身動き一つせずに座っていた、アルットゥだった。腹話術の人形が、一瞬で息吹を吹き込まれたとでも言うように、アルットゥは自分から姿勢を変えて、トリスタンに向き直っていた。
「トリスタン殿下」
アルットゥの声は、いつものように成人した男の声だ。それは父親であるアルトゥールの声なのだが、トリスタンは知っているのかいないのか。
だが、それにしても今のアルットゥの呼びかけは。
「トリスタン殿下。チェマリは決して間違えません。あの、
ここまで話すと、アルットゥは一回、言葉を切った。
「あの事件は、我々の仕向けたものではない。あの中途半端さからして、宰相や大公の仕掛けたものでもないでしょう。ましては螺旋帝国の奴らの仕業でもね。あれは、恐ろしい事ですが、時代がさせた偶然、としか言いようがないのです」
「偶然だと言うのかい?」
トリスタンはかえって驚いたようだった。
「ええ。あの方は、チェマリは決して間違えないのです。ですが、チェマリはいつも言っておられた。『……時代が動くときには、どうしたってそれまでの平和な時代にはなかったような事件が、自然に発生してしまうものだ、恐ろしいことにね』と。新世界を迎えようとして人が動き、時代が動くときには、今までの歴史の中でも、必ず起こって来たことだと!」
チェマリ、……それはアルウィンの桔梗星団派党首としての名前だったが、を連発されると、トリスタンもそれ以上言葉を重ねることは避けた。
「そう。なら、いいよ。僕がどうこう言ったって始まらんからね。まあ、僕はあの日、大公宮前広場の方にいてよかったよ」
トリスタンがそう言うと、アルットゥとニエベスは顔を見合わせた。
「そうでしたわ。殿下はコンチャイテラの楽団を連れて、大公宮前広場へ行くとおっしゃっておられましたわね」
トリスタンは皮肉そうに、鮮緑の目を光らせた。
「そうだよ。僕は兄上たちと違って、庶民派だからね。せっかく、お祭りの日に合わせてハーマポスタール入りしたんだ。目一杯楽しみたかったんだよ」
聞くと、ニエベスはちょっと眉をひそめた。
「それにしても、ザイオンの王子殿下ともあろう方が。殿下は、広場で踊り子の真似をなさっていたとか聞きました。それも、女に化けて……」
トリスタン、それはまさにザイオン女王国の第三王子、トリスタンだった、は、ニエベスの言葉を聞くと、ははは、と乾いた笑い声をたてた。その顔立ちは、祭りの日の大公宮前広場の『極楽鳥の踊り子』の艶やかに濃く化粧された顔と、似ているといえば言えただろうが、彼を見て、それと気づくものがいるとは思われなかった。
「あはは。僕は兄上たちとは父親が違っているからね。まあ、対外的には父上の子供ということになっているけれど、実際には、母上がお忍びで城下の祭りに出て行ったときに見初めた、舞踏一団の
これを聞くと、ニエベスは呆れたのか、もう何も言わなかった。
代わりに口を開いたのは、アルットゥの方だ。
「お父様が違うとは知りませんでした。それにしては、兄上がたによく似ておられる」
聞くと、トリスタンは、面白そうな顔で微笑んだ。
「そうだね。まあ、母上はああいう顔がお好きなんだろうね。王配殿下と僕の父は、かなり感じが似ているんだ。父には王配殿下みたいな気品なんか、全然、ないけどね」
そこまで話すと、トリスタンは急に真面目な顔になって、アルットゥの方へ身を乗り出した。隣に座っているから、かなりの近距離である。
「それより。僕がハーマポスタールへもう来ていることは、皇宮の方へは言ってないんだろう。外交官官邸でも、僕が来たのを見て、驚いていたからね」
「兄上がたは、こちらへの婿入りには難色を示されたとか?」
アルットゥが聞くと、トリスタンはため息をついた。
「オドザヤ皇帝陛下の美貌の噂は、ザイオンへも届いているよ。すごい美人なんだってね。それも、まだ十八歳。まさにお年頃だ。でも、血統正しいザイオン女王家の兄上たちからすると、平民皇后の産んだ娘のところになんか、いくら美人でも婿入りしたくないっていうことになるんだよ」
この言いようには、アルットゥもニエベスも、そして馬 子昂も、驚いた顔をした。顔色も変えずに黙って座ってるのは、バンデラス公爵の襲撃に失敗したらしい、男だけだ。
「ハウヤ帝国は、大国だよ。君たち桔梗星団派だの、螺旋帝国だの、スキュラだの、それにまあ、うちのザイオン女王国だのがちょっかいを出して、潰そうとかかったって、そう簡単に潰せる国じゃない。そんなことは君達も承知で、だから中から揺さぶりをかけているんだろう? 母上もそうさ。北のザイオンは南の海に港が欲しい。だけど、ハウヤ帝国がネファールの後ろ盾について、シイナドラドがザイオンからラ・ウニオンの中海への道を塞いでいる。だから、君達の話に乗ったんだけどね。……なのに、あの人たちは、こんな大国の皇配になりたくないんだってさ。相手の女の母親が平民だってだけでだよ!」
この、長い台詞を聞いていた四人は、すぐに言葉が出てこなかったようだ。トリスタン王子の言ったことが、まさに「正し過ぎた」からである。
やがて、口を開いたのは、以外にも、馬 子昂だった。
「では、兄上がたはこの国へは、いらっしゃらないのですね」
「ああ、そうだよ。肖像画は三人とも送っちまったらしいけれど、ここまで来たのは僕一人だ」
そこまで聞くと、馬 子昂は、アルットゥの顔をうかがった。
「わかりました。では、トリスタン殿下、あなた様はしばらくの間、外出はお控えになられませ。その間に、ザイオンの外交官を通じて手配をいたしましょう」
これを聞くと、トリスタンは不満そうな顔をした。
「ええ? どうして街中に出られないの? 僕の肖像画は皇宮にあるんだろう? それなら……」
おとなしい身なりをしていれば、街中で目立つこともあるまいに。トリスタンはそう言いたかったのだが、アルットゥは首を振った。
「いいえ。皇宮に肖像画が届いているということは、大公もそれを見ているということです。大公軍団には、似顔絵の名手がおります。すでに、肖像画は複製されて、街中の治安維持部隊の署に配られているかもしれません。危険です」
そこまで言うと、アルットゥは疲れたように、ニエベスの胸元へ寄りかかった。
「今日のところは、ここまでにいたしましょう。ニエベス、大丈夫だよ。トリスタン殿下にかかれば、あのお堅いオドザヤ陛下もぐずぐずに崩れていくさ」
最後に、恐ろしげなことを言い放つと、アルットゥはニエベスの胸に持たれて、すやすやと眠りに入ってしまった。
その様子は、普通の幼子の姿そのままで、それまで成人した男の声で話していた不気味さが、際立つようだ。
他の三人に気がつかれないように、トリスタン王子が軽く身震いしたのを、部屋の扉に彫刻された、アストロナータ神の目だけが、静かに見ていた。
祭りの翌日、十一月三日。
皇宮から戻ったカイエンと入れ違いに、大公宮を出たエルネストは、ヘルマンと二人、無紋の馬車に乗り、ハーマポスタールのある界隈へと向かっていた。
そこは、帝都の真ん中にある「金座」にも近い場所。金座とは、金の貸借をする金貸しの商人の店と、その副業である宝飾店の集まる場所である。
貴族たちの屋敷の多い、皇宮に近い地区でありながら、街の区分としては商業地区である、という微妙な場所で、表通りには賑やかな商店やレストランテが並ぶ。商店は高級品を扱う店ばかりで、レストランテも予約しないと入れないような、高級な店ばかりだ。
その、表通りは宵の口からの暗い時間も賑やかだが、真夜中ともなれば店は皆、閉店となる。
だが、一本通りを裏へまわると、その光景はやや趣を変える。
そこに並ぶのは、高級そうな店構えは同じだが、灯ったランプの照らす雰囲気が違った店だ。
表通りの店のランプは、柔らかい乳白色や琥珀色だが、この裏通りのそれは色は同じようでも、その灯り方が色めいている。店の名前も小さく書かれているか、もしくは名前などなく、ただランプが入口の扉だけを灯している、といった具合である。
馬車止まりを用意した店も多く、通りの中には、従者が馬車とともに、主人の帰りを待てるような場所も用意されていた。
ありていに言えば、そこに並ぶ店は高級倶楽部、貴族や金持ち専用の遊び場や、酒場、そして高級娼婦を置いた娼館などなのであった。
下町にも同じような通りはいくつもあるが、そことの一番の違いは、通り全体の静かな雰囲気と、何を置いても灯った灯りの色だっただろう。
下町の色街の灯りは、もうそれこそ色とりどり、という表現が似合う。だが、この通りの灯りは上品な、表通りのそれと同じ色合いのもので、呼び込みの姿も声もせず、静かに、静かに客の訪れを待っているという風情なのだった。
馬車止まりに馬車を待たせ、エルネストとヘルマンが入って行ったのは、中でもひと際美しく、大きな店構えの店で、入口のある一階には窓がなく、真っ白な大理石の外壁に、凝った作りの大きな観音開きの素晴らしく大きな木材の扉が付いていた。
振り仰げば、二階から上には大きな窓があり、乳白色と琥珀色、それにわずかに海のような青みがかった色のガラスのはまった窓がある。だが、その窓はみな、向こう側のものは影しか見えない半透明のもので、その上に内側にはレースのカーテンが引かれていたので、店の中をうかがい見ることはできなかった。
エルネストもヘルマンも、黒っぽい帽子を目深にかぶって、顔を隠している。だが、ここではそれは訪れる男たちみな同じようなものだったから、なんら目立つことはなかった。目立ったとしたら、二人ともにかなりの長身だったからだろう。
「いらっしゃいませ」
ヘルマンが扉を叩く前に、もう扉は内側から開かれた。外からは見えないが、中からは外を伺える仕組みがあるのだろう。
ヘルマンが何も言わないうちに、もう扉はエルネストとヘルマンを飲み込んで閉まっていた。
「ようこそいらっしゃいました。こちらへどうぞ」
彼らの前には、中年の、だが上品で金のかかった装いの女が立っていて、二人を広いホールからその先にある大階段へと案内していく。エルネストたちがここへ来るのは、もちろん初めてなどではなかったが、ここで他の客と鉢合わせするようなことは、一度もなかった。
そこは、一見の客は入れない、会員制の娼館だった。最初に来た時は、シイナドラドの外交官のガルダメス伯爵が、自分の「サロン」の客に紹介され、エルネストはガルダメスの紹介でやって来たのである。
最初の時は、すぐに部屋には通されない。
まずは女たちのいる部屋に通され、そこで
ヘルマンはエルネストを、中年の女……それはここの女主人であったが、に任すと、自分は音もなく出て来た貴族の家の召使いのようななりの男に案内されて、貴人を待つ従者の部屋へ入っていく。そこもまた、他の客の従者と会うことなどないよう、小部屋に分かれていた。
エルネストの方は、女主人に付いて、階段を登り、三階の奥の部屋へと案内された。
もう、エルネストも知っているが、この店では、二階、三階の奥の部屋が高い。と言うより、その部屋を使う女が高いのである。
格調高いとさえ言える、素晴らしい色合いの木の扉を開くと、部屋の中は明るい青と鈍い金色を基調として整えられており、控えの間を通って、もう一枚の扉の向こうは貴族の家の応接室のような作りとなっている。ここまで来ても、まだ寝台などが見えることがないのは、娼館としては最高級、贅沢の極みとも言えるものなのだろう。
エルネストが中に通され、女主人が出て行き、ソファにくつろいでいると、やがて廊下側ではなく、奥の壁面にある扉から、一人の若い女が入って来た。
その女のなりは、先ほどの女主人の貴族の令夫人のような、金のかかった、上品ななりとは似ても似つかなかった。
わずかに青みを感じるような、漆黒の髪は、細かい巻き毛で、それを一部これまた細かい三つ編みに編み込んで、後ろで薄い絹の青い布で包んでいる。細かい編み下げ髪の先には、色とりどりのガラス玉が下がっていた。
衣装の方も、瑠璃色で胸元が大きくあいた、南方風の衣装をまとっていた。つけている装飾品も皆、どことなく南方趣味なもので、じゃらじゃらとビーズだのなんだのが下がっているものだ。
女は、どちらかといえば小柄な方で、胸の開いた衣装の割には、体もお世辞にも豊満とはいえなかった。
化粧は、着込んだ衣装よりもはるかに奇抜で、つり上り気味の瑠璃色の目の周りは、空色とも南の海の色ともつかない、派手で明るい青で彩られていた。それ以外の部分は、ほとんど化粧をしていないのに、色味が派手なのでとんでもなく目立って見えた。
そして。
その、なんと青緑色に塗られた唇から飛び出して来た言葉もまた、ここが高級娼館かと疑いたくなるようなものだった。
「祭りが終わったと思ったら、もうお越しかよ。さては、怖い『ご主人様』に祭りの間は大人しくしてろって、言われてたんだな」
その口調といったら、それは下町も下町、場末も場末の娼家でも、こんな女はそうそうはいないだろう、と思えるような、男のような乱暴さだった。
だが、エルネストはその声を聞くと、うれしそうに口元に笑みを浮かべたのだ。
「ああ、その声だ。お前のその声が聞きたかったんだ。目をつぶって聞いていれば、そっくりだからなあ」
エルネストの言葉を聞くと、女は細く整えられたきれいな眉を、本当にいやそうにしかめた。
「気持ちわるいな。『ご主人様』に構ってもらえないからって、こんな店にやってきて、第一声がそれか」
言いながらも、女は自分の仕事は忘れていなかったらしい。
「従者を待たせているんだろう? どうする、酒か? あっちか?」
そう言って、女が事もあろうに親指を曲げて指し示したのは、寝室の扉の方だ。
エルネストは、そんな女の乱暴な挙措にも、全然、不快を感じていないらしかった。
「今夜は、話があって来た。……まずは酒にしよう。金色の
そして、彼が指定した酒もまた。蒸留酒の中でも下の下である、砂糖黍から作られる酒の名前だった。
女が壁のキャビネットから酒瓶とグラスを出してくる間、その様子を、エルネストは飽きずに見守っていた。
「アルフォンシーナ、お前のその話し方、それ、他の客にもそれで通してんのか」
エルネストが、ソファに踏ん反り返って聞くと、女、アルフォンシーナは、きつい目で振り向いた。
「私が、客を選んで態度を変える女に見えるのか?」
銀の盆に、酒の瓶とグラスを載せると、アルフォンシーナは慣れている危なげのない足取りで、ソファの前の立派な象嵌細工のテーブルに、それらを並べた。しっかりと、グラスは二つだ。
「まあ、そうだろうなあ。それで、お茶を引いたりしないのかと心配になってさ」
エルネストの隣に座り、グラスに栓を開けた瓶から、黄金色の強い酒を注ぎながら、アルフォンシーナは不遜な態度で、にやりと笑う。
「ご心配はご無用。こういう不遜で無愛想な態度の女がお好みな旦那さんは、いくらでもいる。この話し方でいじめられたい、って旦那もな」
これを聞くと、エルネストは吹き出した。
「ああ! そういうご趣味のやつらか。確かに、そういうやつには、お前のその言葉遣いも、でかい態度もたまらないんだろうな」
エルネストがグラスを掴みあげると、アルフォンシーナもまたグラスをとった。
「それじゃあ、アルフォンシーナにいじめられたい旦那さんがたに、乾杯だ」
エルネストがそう言うと、アルフォンシーナもそこは客商売だから、大人しくグラスをかちんと合わせて、自分も飲んだ。
エルネストは、強い酒をつまみもなしで飲みながら、部屋の中を見渡した。
「いつも、この部屋だが、ここはお前の専用なのか?」
すると、アルフォンシーナは無言でうなずいた。
「そうだ。私は海が好きだ。根っからのこの街の女だからな」
アルフォンシーナの衣装も化粧も、彼女の目も青かった。そして、この豪奢な部屋の色調もまた、「青」だった。明るい暖かい海のような。
「へえ」
エルネストは、アルフォンシーナの答えが聞きたかったのではないらしく、しばらくの間、そのまま黙って酒を飲んでいた。アルフォンシーナの方は、先ほど、エルネストが、「今夜は、話があって来た」と言っていたので、怪訝そうな顔をしたが、彼女も何も言わずにゆっくりとグラスを口に運び続けた。
やがて、エルネストが再び口を開いた時、その喉から出て来たのは、わざわざこんなところへ来て、話すような話とも思えないようなものだった。
「なあ、お前、幾つだって言ってたっけ」
聞くと、アルフォンシーナは嫌な顔をした。
「あんた、さばけているのかと思ったが、野暮な男だな。こんなところで、女の歳なんか聞くもんじゃない」
エルネストはそう言われると、一つだけの真っ黒な目で、アルフォンシーナの顔をまじまじと見た。
「まあ、二十歳かもう少し上か、ってところだろ。もうそろそろ、そんな話し方が似合わなくなってくる年頃だ。まあ、うちの『ご主人様』も、もう二十歳だが、あれは、あのまま歳とっていくんだろうけどな」
アルフォンシーナはエルネストの隻眼の凝視にも、目線をそらすことなどなかった。
「あんたも、たいがい気持ち悪いな。……大公殿下に構ってもらえないとか言って、こんなところへ来て、その大公殿下に声がそっくりな女と遊んでるのか」
先ほどの『ご主人様』のくだりから言っても、アルフォンシーナはエルネストの正体を知っていた。普段は彼女の方から、エルネストのこの街では高名すぎる配偶者のことに触れることなどなかったが、今日ばかりは口からそれが出て来てしまった。
それくらいには、アルフォンシーナも、偉ぶらない、彼の方こそ話し方が乱暴なエルネストに、親しみのようなものを感じていたのだろう。
「そうだよ。まあ、顔はあまり似てないけど、本当に声はそっくりだし、……これは言わない方がいいかも知れないが、その男みたいな話し方も、おんなじなんだ。後は、小さいのと、体つきもちょっと似ているかな」
アルフォンシーナは、ここまで言われると、気味悪そうな顔つきになった。それを微笑んで見つめながら、エルネストは話し続ける。
「身請け話が出てるって、前に言ってたな?」
そして、出て来た言葉は、意外な方向へ向いていた。
「……それが、どうかしたか。あんたには関係ないだろう」
アルフォンシーナは、瑠璃色の目をぱちくりさせた。
「相手は誰だ」
「あんた馬鹿か。こういう店では、他の客の話はご法度だ。私たちが漏らせば、きついお仕置きがある。悪ければ、もっと格下の店に売っぱらわれる。さっきのいじめられ好きの旦那さんの話もそうだが、この店にも、この通りの他の店にも、口の軽い女は長居できない。逆に、そういう注意が行き届く頭があるから、この通りの店に居られるんだ」
アルフォンシーナは、こんな場合に言うべき、当たり前の言葉を言った。それしか、彼女の立場からは言いようもなかったからでもあった。
それを聞くと、エルネストは
「……調べさせた」
そう言うと、エルネストはアルフォンシーナを膝の上へ抱き上げてしまった。むき出しの後ろ首から、息が当たる近さで話し続ける。
「前に、ここへ来た時、ちゃんと予約の連絡を入れていたのに、お前がすぐに出てこなかった時があったな。ああいうことは、俺の故郷のシイナドラドでも、こんな高級娼館じゃ、まずありえないんだ。ここの女主人も平謝りに謝っていたからな。あの日、変な気がしたんで、俺の従者に、俺と入れ替わりに出て行った客をつけさせたんだよ」
「ええ!?」
アルフォンシーナは、心からびっくりして、背後にあるエルエストの顔を見るべく身をよじった。その目は丸く見開かれていた。
「びっくりしたぜ。お前にいじめられて喜んでいる旦那さんが、あいつだったとはな! 傑作だぜ。あいつは、お前の声がカイエンにそっくりだって気がついてねえのか?」
急に、いつもよりももっと伝法な調子になった、エルネストの口調と、彼が自分の妻の名前をはっきり口にしたことに、アルフォンシーナが驚く間も無く、エルネストは彼女の顎を持って自分の顔に引きつけていた。
「マヌエル・カスティージョ。伯爵様だったな。ってより、将軍様と言った方がわかりやすいか。このことはまだ、カイエンには言ってねえが、こうして俺が知っちまった以上、お前を黙って、カスティージョに身請けさせちまうわけには、いかないんだよ」
今度こそ、さすがのアルフォンシーナもすぐには返事もできなかった。それくらい、エルネストの声音は低く、そして恐ろしげだったのだ。
「申し訳ないが、お前の『使い方』は、俺の『
アルフォンシーナは、どっと冷や汗が出てくるような心地だった。だが、彼女はただ話し方が乱暴で、態度が不遜なのが売りの女では、なかった。こういう店で、こんな上等の部屋を持たされているだけの、分別もあったし、場数もそれなりには、踏んでいた。
「わかった」
アルフォンシーナが低い声でそういうと、エルネストはさっきまでの様子が嘘のように、陽気な彼に戻った。
「そうか。物分りが良くて助かったぜ。じゃあ、今夜、ここでするべきことを始めるとするか」
そう言うと、エルネストはもう、酒のグラスになどは見向きもせず、軽々とアルフォンシーナを抱き上げて、奥の寝室へと続く扉の奥へと入って行ったのだった。
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