憤激のオドザヤ


 皇宮を下がり、大公宮へ戻ったカイエンは憔悴していた。

 カイエンがオドザヤの元へ伺候したのは、もう午後も遅い時間になってからだったから、時刻はもう夕方にさしかかっており、あたりはすっかり薄暗くなっていた。

 すでにロマノグラスの中に灯りの灯った、大公宮奥の馬車止まりで、馬車から降り立ったカイエンの足元はなんだか怪しかった。出迎えた、執事のアキノはその様子にすぐに気が付き、眉をひそめた。

 もっとも、有能な執事である彼をもってしても、この頃のカイエンの身の回りには事件が頻発していたところだから、すぐに彼女の異変の理由に思いが至ることは出来なかった。

(お姉様は、お姉様だけは、いつでも自らを正し、卑怯な考えや行動などなさらない方だと信じておりましたのに!)

 カイエンの頭の中では、まだ、先ほどオドザヤに浴びせかけられた言葉が、神殿の鐘の音のように何度も、なんども繰り返されていた。

 彼女はアキノの手を借りて馬車から降り立ったが、灰色の目はなんだか焦点が合っておらず、それを認めたアキノの青い目がかすかに光った。

 カイエンにも、オドザヤのあの言葉が、彼女の未熟、彼女の無垢で一途な正義感から出てきたもの、そして、それを口にしてしまったのには、多分にカイエンへの彼女の甘えがあることは、重々に承知していた。

 だが、カイエンはオドザヤと姉妹として育ったわけではない。十五の歳に大公になるまで、いや、つい先年まで、彼女は兄弟のいない独り子として育ってきたのだ。

 その時、大公宮奥の玄関に、うっとおしい男が出てこなかったら、カイエンはそのままふらふらと自分の居間までアキノに手を取られて歩いて行くばかりだっただろう。

「おやあ。夜遊びに行くところに、ご主人様のお帰りに出くわしちまったぞ。こりゃあ、困ったなあ」

 頭の上から、カイエンとアキノの主従の上に投げつけられた言葉は、あくまで能天気で元気そうな声音だった。

 これには、うつむきがちに足を進めていたカイエンも、そしてアキノも顔をあげずにはいられなかった。

「エルネスト……」

 顔を確かめてみるまでもなく、その場の空気をまったく読まない、突拍子もない声は、エルネストのものだった。その後ろに今日も心配顔で立っているのはもちろん、彼の唯一の侍従であるヘルマンである。

 エルネストの腕の中には、どうしてだか知らないが、カイエンの飼い猫のミモがおり、カイエンに気が付くと、

「にゃぁーん」

 と、くりくりとした金色の目をむいて鳴いた。

「……何をしている?」

 カイエンはぶるっと身を震わせるようにして、頭の中からオドザヤの言葉を振り払った。

 エルネストの顔をこんな時に見るのも不愉快だったが、それよりも自分の飼い猫が彼に懐いている様子なのが気に障った。カイエンはもちろん、ミモがエルネストに懐いていることは、もうとっくに知ってはいた。それでも愉快な眺めでないことは、変わりがない。

 息苦しいのでも無いのに、無意識にのびた指先が、大公軍団の制服の襟元をくつろげるように動いた。もっとも、かっちりとした詰襟の、精緻な文様が金銀の糸で刺繍された制服の襟元は、指を差し込んだくらいでは大して緩みはしなかったが。

「あらあら。ご主人様は御機嫌斜めだ。皇宮前広場プラサ・マジョールの事件で大変なのかな」

 エルネストは、いつもの黒っぽい衣装だが、今夜のそれはいかにも地味だった。本当に、お忍びでどこかへ出かけようとでも言うのだろう。

「うるさい。……この時間からどこへ行く? 夜遊びか」

 カイエンはもう、頭を切り替えていた。オドザヤの言葉で悩んでいたところへ、この憎らしくも傲慢、その上に能天気な男が出て来てくれたのは、ミモのことを除いてみれば、むしろありがたいことだったのかも知れない。二人だけになったら別だが、ここにはアキノもヘルマンもいる。

「おや。ご主人様は哀れな、ほっぽり出されたきり、ご主人様の御渡りもない夫が、せめてもの気休めに出かけるのもお許しになりませんか」

 ご主人様。

 普通の夫婦なら、妻が夫をこう呼ぶのであろうが、カイエンとエルネストの場合には正反対だ。結婚してしばらくしてから、エルネストは人前でカイエンをこう呼ぶのだ。

 カイエンは、いらいらしたが、それをグッと抑えて、じろじろとエルネストのいでたちを眺めてやった。

「祭りの間は大人しくしていたな。……だから、今日、早速のお出かけか。……まあ、いいだろう。今の情勢もわかっているようだしな。私の足を引っ張らなければ、勝手にすればいい」

 カイエンはもちろん、後宮の彼の部屋への「御渡り」どころか、結婚したのちにエルネストと二人きりになったことなどない。そんなことになったら、さすがに平静ではいられなかっただろう。

 大議会の日に、皇宮のクリストラ公爵家の控屋敷で語り合って、わだかまりの幾らかは解けていたが、それはあくまでも大人同士の理性の部分でのことだった。感情の部分では、カイエンがエルネストを平静な気持ちで見られる日など、一生来ないのかも知れなかった。

 それくらいに、彼ら二人の間にわだかまっている哀しい事情は、そろそろ一年になる今でも変わることなく、厄介で複雑なままだった。

 だが、カイエンももう二十歳をすぎ、それなりに大人になっていた。

 相手は彼女よりも幾つも年上のエルネストである。その彼が、こうして故郷を離れて他国へ婿入りして来て、名ばかりの妻となんの肉体的な関係も持たないままに、あたら男盛りの毎日を過ごしているとは思ってはいなかった。

「……だが、今、変な醜聞は勘弁してくれ。……そんなことは、わかっているだろうが」

 カイエンが疲れた様子で、エルネストとは目を合わさないままにそう言うと、エルネストは一つだけの真っ黒な目を見張った。

「あれ。……ご主人様にはお疲れの様子だね。……可哀想に。じゃあ、こいつはここに置いて行くとするか」

 そう言うと、エルネストは腕に抱いていた猫のミモを、ぐいっとカイエンの方へ突き出した。だが、彼がミモを連れて遊びに出るつもりだったとも思われなかった。出先でいなくなりでもしたら、それこそカイエンに合わせる顔がなくなる。

 そういうあたり、エルネストという男には、いかにも皇子様らしく、気まぐれなところがあった。

「にゃあああぁーん」

 白地に濃い茶色のぶち。その斑の中に、大きな縞の入ったミモが、笑っているような顔つきで、エルネストの手から、カイエンの手へと渡される。

「……じゃあね。お察しの通り、俺は夜遊びに参ります。ああ、大丈夫。顔は隠して行くし、秘密厳守の場所を選んでいるから。普通にお貴族さんのご当主なんかが、遊びに行く高級で会員制のところだよ。ああいうところは、口が固くないと商売にならない」

 そう言うと、もうエルネストは振り返りもせずにカイエンの横を通り過ぎて行く。侍従のヘルマンが、申し訳なさそうにカイエンへ頭を下げた。

 カイエンは馬車に乗り込むエルネストと、ヘルマンを呆然と見送っていた。

 気がついた時には、もうエルネストの乗った馬車は大公宮を出ており、彼女の腕の中にはただ、ミモのあったかい、柔らかい体だけがあった。

「なんなんだよ、あいつは」

 言いながら、カイエンはミモを片手で抱いて、奥の自分の居間への廊下を歩いて行くしかなかった。


 居間に足を踏み入れたカイエンは、そこで再び驚くことになった。

「おかえりなさいませ」

 まだ、時刻は夕暮れの時間帯だ。その時刻に、彼がここにいることはかなり珍しいことだった。

「……ヴァイロン」

 カイエンは、立って向かい合っているとかなり上の方にある、ヴァイロンの顔を見上げて、気の抜けたような声を出してしまった。

 背後で、アキノが静かに下がって行く気配。

 よく出来すぎた執事の動きは、こんな場合には嫌味を感じさせるまでに完璧だ。

「今日は、早めに仕事が終わりましたのです」

 そう言って、ヴァイロンはカイエンの手を自然に取ると、ミモを受け取り、静かに彼女を居間のソファへ誘って行く。

「そうなのか。……それは、よかった」

 カイエンが低い声でそう言うと、ヴァイロンはわずかに眉をひそめた。

「まさか……お加減が?」

 カイエンがシイナドラドから戻ってから、元から過保護だったヴァイロンはとんでもなく目ざとくなっていた。

「いや。なんでもない。……ちょっと疲れただけだ」

 カイエンは片手でヴァイロンを押しとどめた。さっき、あのエルネストにも気が付かれてしまったのだ。ヴァイロンが、カイエンの様子に気が付かないはずがなかった。

「……いやな。今日は陛下に、お前はもう、薄汚い大人だ、となじられてしまったのだ」

 ソファに座らされたカイエンがそう話すと、ミモをカイエンの膝に乗せ、自分は隣に密着して座ってきたヴァイロンは、きっぱりと伸びた太い眉をひそめた。それでも、次に出てきた言葉は的を得ていた。

「例の皇宮前広場プラザ・マジョールの事件ですか」

「そうだ。陛下に、『私も宰相も、大将軍も仕組んでいないのだとすれば、大怪我をさせられた被害者は気の毒ではあるが、こちらにとっては、カスティージョ将軍の力を幾らかでも削ぐことができそうでありがたい、いざとなったら陛下は、すべて我々のせいにすればいい、卑怯者には、我らがなると言っているのです』と申し上げたら、怒られた。卑怯な考えや行動をするなんて、私らしくないってな」

 そう言う、カイエンの声には、わずかにオドザヤへの恨み言が滲んでいたかもしれない。

「私は、陛下には、汚れた心や考え方には染まらないでいて欲しいだけなのに、なあ」 

 聞いていたヴァイロンは、ここまで聞くと、ちょっと眉をひそめた。

「殿下や宰相殿、それにザラ様はカスティージョ将軍を、いずれ将軍位から外すおつもりでしたのでしょう? それは、オドザヤ陛下には内密に進めるおつもりだったのですか」

 そして、さすがに元将軍だけあって、ヴァイロンの言ったことは、感情論を外れたところからの切り込みだった。

「そうだな。言われてみればそうだ。宰相やザラ大将軍も、私も、そのことについてはまだ話してもいなかった。事後報告になってもしょうがないと、思っていたのかもしれない……あ、まさか」

 カイエンは、話しているうちに、気がついた。

「まさか、陛下は私たちが陛下に秘密に、ことを運ぶかもしれない、と思って、疑っておられたのか……」

 カイエンがそう言うと、ちょっとの間、ヴァイロンは黙っていた。そして、何か言いかけたが、なぜか黙ってしまった。

 カイエンはもちろん、ヴァイロンの様子に気がついたが、その時には、自分の言いかけた言葉の先の方へと考えが進んでしまっていた。

「うまくいかないものだ。どっちにしろ、近いうちには我々は手を汚さねばならない。それなのに、今、陛下との間に溝など作ってはいられないのに!」

 カイエンは言っているうちに、今度は自分が敵対者を罠にはめ、貶め、排除していく未来を思い、気が滅入ってきた。

 カイエン自身は、最近、露悪趣味に走り気味で、それが今日のオドザヤとのやり取りでも出てしまった。だが、根がくそ真面目、くそ正直なのは前と変わっていなかったので、そう言う「汚れていく自分」を想像するだけで、なんだか情けなく、物悲しくなってきてしまった。

 それを黙って見ていたヴァイロンが、たまらずにカイエンの思いを遮るような行動に出た。

 いきなり、ものも言わずにカイエンの背中に手を回すと、自分の分厚い胸元に、強引に引っ張り込んだのである。

 この辺りの塩梅が、この頃のヴァイロンの真骨頂だった。ある意味では肉体言語の一種であるとも言えるだろう。

「カイエン様、もう、おやめください。今、そんなことをお悩みになっても、どうにもなりません」

 その頃には、カイエンは頭の上から聞こえてくる、ヴァイロンの声を聞くまでもなく、もう考えるのがしんどくなっていた。

「……やっぱり、私は卑怯者だ。陛下には、こうして泣き言を言える相手さえいないと知っているのに……」

 カイエンはそう言うと、やけくそ気味に、ヴァイロンの胸元に泣き出しそうになっていた顔を埋めた。背中を撫でてくれるヴァイロンの手が気持ちいい。

 そして、そうして慰めてもらっている自分を恥じた。

 オドザヤには、何も言わずに彼女を許してくれる存在は、未だいないのに。

 そんなカイエンの思いを、どこまで理解していたのか。ヴァイロンは黙って、小さな背中を撫で続けていた。

「殿下は、あの日、オドザヤ陛下のご即位の日に、バルコニーへ出られた陛下と殿下へ向けて、市民たちから興った声を覚えておられますか?」

 しばらくして、ヴァイロンの口から、こんな言葉が漏れ聞こえたが、カイエンはなんだか眠いようなふわふわした心地になっていて、返事をしなかった。カイエンの中で、彼のその言葉の意味が、腑に落ちたのは翌日になってからだった。

 シイナドラドから戻ってから、ヴァイロンは彼らが結ばれた当初のような、カイエンに向かって、暑苦しくがっついて迫り寄るようなところがなくなった。

 それだけ、昨年のカイエンの傷ついた様子は、彼にも痛手だったのだろう。それに、もう三年目に入った関係ともなれば、夫婦でも新婚とは言えない長さである。

 ヴァイロンのカイエンへの「おのれの唯一」という気持ちは変わらなかったが、しっかりと両腕で捕まえておかなければ、取り上げられてしまう、逃げられてしまう、と恐れる気持ちはなくなったのだろう。


「にゃうーん」

 そして、しばらくして。抱き合っている二人の間に挟まっていた我慢強いミモが、抗議の声をあげたのだった。

 ミモの声で、カイエンははっと我に返った。そして、思い出したのは、なぜか先ほどまでの話とは全然違う事柄への心配だった。

「そうだ。あの、食堂に飾ってあった、祭壇だのハイメの装飾菓子ピエス・モンテはどうした? 昨日は、ぱーっとやる予定が、皇宮前広場の件でお流れになっただろう?」

 カイエンがそう聞くと、ヴァイロンは翡翠色の目を、食堂の方へちらりと向けた。

「あれなら、まだ食堂に飾ったままです。せっかく用意した料理は、残念ですが、もうだめになったそうですが、飲み物の方は残っているので、落ち着いたら改めて宴会でもしよう、と言っています」

 カイエンはそう聞いて、何だかほっとした。あのまま、片付けられるには、今年の祭りの飾りの出来は素晴らしすぎたからだ。

 ハイメの作った装飾菓子ピエス・モンテは、何と、透明な飴細工の骸骨の全身像で、いくら祭りの日で髑髏や骸骨が縁起物、とは言ってもかなり際どい感じのものだった。だが、その出来はまるでガラスで作られたもののようで、凄まじい技術、としか言いようがなかった。

 そして、

「ハイメさん、あんた、この骸骨、なんか本でも見て作ったのかね? 肋骨の本数も合っているし、細かいところまで本物みたいだが……」

 と、飾られるところを見ていた教授が驚いたくらい、それは真に迫ったものだったのである。

「ああ、それなら、この大公宮の図書室で、何でしたっけ? ええと、『人体の構造』とかいう本を借りてきて、その通りに作ってみたんでさあ」

 ハイメは澄ましてそう答えたが、後で教授はしきりに感心していた。

「ハイメさんは本当に職人気質だねえ。……妥協しない、作るからには完璧なものを目指す、そこが素晴らしいねえ」

 と。

 カイエンはそんなことも思い出しながら、ふわっと出てきたあくびをもう、止められなかった。

「じゃあ、そういうことにしよう」

 そして、カイエンはちょっとだけ、上向いた心持ちで、その日は眠ることができた。






 一方。

 親衛隊長のウリセス・モンドラゴン子爵は、祭りの終わった翌々日の午後、皇帝のオドザヤによって謁見の間に呼び出された。

 皇帝の身辺を警護するのが役目の、親衛隊の隊長が、謁見の間、という仰々しい場所へ公式に呼び出される、というのは極めて異例のことである。

 臙脂色の制服姿で、謁見の間に入ってきたモンドラゴンは、オドザヤに言葉をかけられるまで、こういう場合に控えるべき、正しい距離を玉座からとって、直立不動で立っている。頭は腰から四十五度に曲げた姿勢で下げたままである。

「お顔を上げなさい、モンドラゴン子爵ウリセス」

 オドザヤに声をかけられ、モンドラゴンは青ざめた顔を上げたが、その顔にはすぐに驚きの色が浮かんだ。

 彼は、こうして呼び出された以上、オドザヤのそばには宰相のサヴォナローラ、そしておそらくは大公のカイエンが控えていると思っていたのである。

 だが、この日、オドザヤの座った玉座の周りに控えていたのは、たった一人。

 それも、侍従などではなかった。玉座のオドザヤの元へ、なにやら銀の盆に乗せたものを捧げ持って歩いて行くのは、糸杉のように高くまっすぐな、しかし、紛れもなく地味な女官のドレスを身につけた中年の女の姿だった。

 それは、後宮の女官長から、皇帝オドザヤ付きの女官長に変わった、コンスタンサ・アンへレスだった。

 その日のオドザヤは、頭に略式の黄金と銀作りの王冠を戴いていた。小さいが精緻な細工のそれには、真っ青な青玉サフィオと大粒の真珠が散りばめられていた。

 その下の、王冠よりも輝かしい黄金の髪は、複雑に編み込まれ、首の上の低い位置でまとめられていた。その髪型は、まだ十代のオドザヤには向かない、落ち着いた既婚夫人などが結う形だったから、その日のオドザヤには、やや青白い顔色と、厳しい表情もあって、若さの甘さは微塵も感じられなかった。

 着ているドレスの色も、黒っぽい紺色で、形も直線的なものだったから、それもまた髪と王冠の色を強調していた。有り体に言えば、その日のオドザヤは歳よりもかなり老けて見え、それがいつものオドザヤにはない厳しさとなって見えたのだ。

「今日、どうして私に、それもこの部屋に呼び出されることになったのかは、わかっていますか」

 そして、その日のオドザヤの声もまた、十八歳という年齢が信じられないほどに、静かに落ち着いていた。やや悲しみでも抑えているかのような、喉に絡んだ感じの声は、決して大きな声ではなかったが、広い広い謁見の間に響き渡った。

「はい」

 モンドラゴンは、オドザヤの言葉を聞くと、はっとして凝視していたオドザヤの顔から目線を外し、青緑色の目を床へ向けた。

「そうですか。……それは、手間が省けました」

 モンドラゴンは二度驚かされた。彼は、今日この時まで、オドザヤというのは、男のような言葉遣いの大公カイエンなどとは違って、素直で優しい、物静かで女らしい娘だと思い込んでいた。そのオドザヤが皮肉とも取れる言い方をしたからである。

 視線を下げているモンドラゴンの前で、オドザヤはコンスタンサの持ってきた銀盆の上から、なにやら、がさがさと音を立てて、何かを取り上げた。

「あなたも、これはもう見たのでしょうね?」

 オドザヤはそう言うと、モンドラゴンの前で、何かの折りたたまれた紙の束を静かに広げた。

「えっ」

 まさか、と思いながら、何段も高い位置の玉座に座るオドザヤの方へと、目を上げたモンドラゴンは、信じられないとでも言う顔つきで顔を強張らせた。

 オドザヤが、華奢な細い手で広げて見せたのは、何と、あの「自由新聞リベルタ」の昨日の号だった。

 読売りの紙質は、決していいものではない。灰色のザラ紙に印刷されたその風合いは、本来の姿なら、皇帝のオドザヤの手に触れるにはあまりにも場違いな、粗末で粗野なものだ。

 だが。

 オドザヤの元に持ち込まれる前に、きれいに火熨斗ひのしのかけられ、インクのにじみを止められたそれは、街中で売られていた時よりもきれいに、四隅の角まできっちりとシワが伸ばされていた。まるで、皇帝が出したおふれの書かれた羊皮紙ででもあるかのように。

 第一面に踊る太い文字は、「血に沈む皇宮前広場プラサ・マジョール死者の日ディア・デ・ムエルトスの悲劇」、「警備の親衛隊員、泥酔状態での暴行」、という、何とも扇情的なものだった。

「あなたには、もう、今日ここへ呼ばれたわけはわかっているようですから、この事件の説明をしてもらいます」

 オドザヤはそこまで言って、一度、言葉を区切った。

「ああ、事件の申し開きは結構よ。この事件が確かにあったことは、大公から報告がありました。この読売りの記事は、私も読みましたけれど、大公軍団の方からの報告と、そんなに乖離した記事ではありませんでした」

 モンドラゴンは、体の両脇に垂らした両腕の先の拳を、わなわなと震わせた。大公から、事件のあらましが伝わっていることはもう、覚悟していたが、オドザヤが市民たちの情報源である「自由新聞リベルタ」をも目にしていたとは思っていなかったのだ。

 「自由新聞リベルタ」を読んだということは、オドザヤは市民たちと同じ感情を持って、ここにモンドラゴンを呼び出したということだ。それに、決して愚かではないモンドラゴンはすぐに気がついた。

 今日ここに、宰相のサヴォナローラや大公のカイエンはいないが、今、こうしてモンドラゴンを追い込んでいるオドザヤの背後には、確かに彼らの存在があるのだ。そして、オドザヤも彼らも、自分に好意を持ってなどいない。そしてそれは、オドザヤの即位に異議を唱えた、あの大議会を招集すべく、モリーナ侯爵やモンドラゴンが動いたからなのだった。

 出来れば親衛隊の頭を挿げ替えたいと思っているだろうことも、モンドラゴンにはわかっていた。

 カスティージョ将軍の息子が事件を起こしたと聞いた時、これは、オドザヤの背後にいる、宰相や大公の張り巡らせた罠にはめられたのかとも、モンドラゴンは疑っていた。それが、にわかに彼の中で真実味を帯びてきていた。

「そ、それは、確かに、そういう事件はあったと、私も副隊長から報告を受けております」

 オドザヤは、琥珀色の目をそろりと動かし、モンドラゴンの顔を見下ろしてきた。

「そうでしたら、事件の当日に、すぐに私の元へ報告に来るべきではなかったのですか」

 モンドラゴンは、オドザヤの生真面目な言いように、弁解の糸口を見つけたように思った。

「はっ。ですが、これは親衛隊員を愚弄した市民を、警備の者が懲らしめましたもの。皇帝陛下をお煩わせするような事柄ではないと判断いたしました」

 本当は、副隊長はその日のうちにモンドラゴンに知らせず、昨日、「自由新聞リベルタ」に記事が載ってから、慌てて報告に来たのである。

 モンドラゴンの言葉を聞くと、オドザヤは、はっきりとため息をついた。 

「まだ、そんなことを言っているのですか。……モンドラゴン隊長、ことはもう、そんなに簡単なものではなくなっています。今朝方、ハーマポスタール市内の装飾品細工職人のギルドから、宰相府と大公宮へ直訴がありました。……それは、死者の日ディア・デ・ムエルトスに、皇宮前広場プラサ・マジョールであった事件をしっかりと取り調べ、無辜の市民に暴力を振るい、重傷を負わせた者を裁いて欲しい、という願いです。被害者は、細工職人だったのね」

 オドザヤがそう言うと、モンドラゴンの青ざめた顔に、ぶわっと血の色が昇ってきた。子爵家とはいえ、モンドラゴン家は名家である。その根っからの貴族である彼には、市民が皇帝に直訴し、それを皇帝が取り上げた、という事実が、ひどく屈辱的に思われたのだ。

「そ、それは、そのような身分もわきまえぬ直訴などを、陛下には、陛下におかれましては、お信じになられたのですか!?」

 声もいささか裏返った。それでも、モンドラゴンは勢いもあって言いつのった。

「あの者たちは、事もあろうに、親衛隊の制服を着た、ど、髑髏の砂絵を描いていたそうではありませんか! 皇宮前広場プラサ・マジョールの警備を親衛隊が担っていると知りながら、そのような侮辱をしたのです! 懲らしめるのは当たり前のことです」

 それを聞くと、オドザヤは、手にしていた「自由新聞リベルタ」を側に控えたコンスタンサに手渡し、玉座から立ち上がった。

「さっき言ったように、私は大公からも事件の詳細な報告を受けております。問題の親衛隊員たちはみんな、ひどく酔っていたそうですね。……親衛隊では、酔っ払って仕事をするのを咎めないのかしら? 酔っ払って、理由をよく聞きもしないで、一方的に市民を傷つけるなんて、許しがたい暴挙ではなくて?」

 酔っ払った親衛隊員を詰るオドザヤの声は、いかにも冷たく聞こえた。

 それは、オドザヤが長年、母のアイーシャの酒癖の悪さに悩まさせてきたことと、無関係ではなかっただろう。だが、モンドラゴンはそんなことは知らなかった。

 彼は、誰かが親衛隊員たちにうまいことを言って、酒を飲ませたのかもしれない、と思った。だが、証拠もないのに、そんなことを言ってここで反論すれば、余計に自分の立場が悪くなりかねない、という計算は出来た。

「ま、祭りの日でございます。た、多少の祝い酒を嗜んでいることも、あるでしょう!」

 モンドラゴンがそう言うと、オドザヤははっきりと眉をしかめた。潔癖な彼女には、このモンドラゴンの言い様は信じられないほどに無責任で、杜撰に聞こえた。

「大公軍団では、前の日から総動員で、不眠不休で街中の警備についていたと聞いています。スキュラでのこともあるし、怖い殺人事件もありましたからね。今年は去年までとは警備の必要性の高さが違っていたのです。祭りの中で騒動が起きないよう、皆、全力で当たっていたのですよ。近衛やフィエロアルマを手伝いに出したのも、そのためです。そんなことは、あなた方にも、わかっていたはずでしょう?」

 オドザヤはこう言ったが、モンドラゴンには彼女の怒りはまっすぐに伝わらなかった。モンドラゴンは馬鹿ではなかったかもしれないが、政治のわかる男ではなかったのだ。

「しかし! あの砂絵を描いた者どもは! 我らに対して不敬を働いたのですッ」

 ここまで聞いて、オドザヤもまた、かっとなってしまった。

 それでも、彼女はあらかじめ考えていた台本を違えたりはしなかった。ただ、声はかなり高い金切り声に近いものになってしまってはいたが。

「お黙りなさい! 先ほど、被害者は装飾品細工職人のギルドの者たちだった、そしてギルドからは直訴があった、と言いましたね。今日、私の戴いているこの王冠、これは、あなたを叱責するための権威付けに付けているのではないのよ! この王冠を作ったのも、装飾品細工職人のギルドの職人なのです! それも、今のギルド長なのですよ! この意味が、あなたにはわからないの!?」

 オドザヤはこんな風に、年上の、それも男性に向かって大声でなじったことなどなかった。だから、彼女はすべてを言い終わるとともに、ぐらりと体が傾ぎそうになった。手が指先まで冷たくなり、視野が狭まって、首の後ろが熱かった。老人だったら、血圧が上がって倒れたかもしれない。

 ここまで言われて、モンドラゴンにも、なんとなくオドザヤの怒りの方向がわかって来た。だが、彼の頭ではその具体的な重要性までは計算できなかった。それが、この日の、モンドラゴンの不幸だった。

「……そ、それは、大変、素晴らしい技術のある者なのですね。しかし、それと、我らへの不敬と、なんの関係が……」

 モンドラゴンのこの方向のずれた返答を聞くと、オドザヤは今度は怒りよりも悲しみが襲って来たような心地がした。

「あなたにも奥様がいましたね。奥様は何も装飾品を身につけないのかしら。装飾品細工職人ギルドが一斉に装飾品を問屋や店から引き上げたら、どうなるのかしら? 品質が下がったら? 価格が引き上げられたら? 装飾品は外国へも売っているのよ。それに、この王冠のように、細工職人には貴族のご贔屓が多いの。あなたと同じ貴族でも、彼らはあなたたち親衛隊の味方をしてくれるかしらね」

 モンドラゴンは、何か言い返そうとしたが、もう、口が動かなかった。それでも、彼は言葉を繋いだ。

「そ、そのようなことがございましたら、彼らこそ罰せられてしかるべきではないでしょうか」

「あなたには、職業ギルドの設立の歴史的経緯とか、横のつながりとかの知識も無いようね。このハーマポスタールの市政はギルドの協力で成り立っているのに」

 そこまで言うと、オドザヤは急に頭から上っていた血が下がっていくような気がした。

「もういいわ。私からの沙汰を伝えます。当事者の親衛隊員、ホアキン・カスティージョをはじめとする、あの日の皇宮前広場プラサ・マジョール担当の親衛隊員はすべて、沙汰が決まるまで、自宅謹慎を命じます。その間に、大公軍団が事件をつまびらかに捜査します。負傷者への補償は私の名前で行います。事件は私のいる皇宮の、目の前で起きたのですからね」

 モンドラゴンは、こぼれ落ちそうなほどに目を見開いて聞いていた。そして、高熱でも発したように身を震わせていた。彼もまた、オドザヤのような若い娘にここまで言い負かされたことなどなかったのだ。

 今、モンドラゴンの頭の中で響く言葉は、一つだけだった。

(やられた! してやられた、やられたやられたやられたやられた……)

「親衛隊長ウリセス・モンドラゴン。あなたにも部下の監督不行届きとして、無期限の謹慎処分を命じます。あなたへの報告が遅れた副隊長とやらの処分は、隊長のあなたが行いなさい。あなたの謹慎中は、近衛から士官を、親衛隊の監督に向かわせます」

 オドザヤはそう言いわたすと、もう、コンスタンサを引き連れて謁見の間の上段から、脇の扉へ向かう長細い絨毯の上を歩き始めていた。

 だから、彼女には、謁見の間に残されたモンドラゴンの、青黒く歪んだ、恐ろしい顔つきは見えなかった。






「陛下は本当に、若いの。……ちょっとやりすぎたようだ」

 オドザヤが謁見の間を出ようと歩き始めたところを、謁見の間の上段の背後の壁の裏に隠された、隠し部屋から覗きながら、そう言ったのは、ザラ大将軍だった。

 謁見の間の玉座の背後には、大きなタピストリが掛けられているが、そこに細工があり、謁見の間を覗けるようになっていた。この部屋のことは、兵を伏せておくこともあるから、親衛隊長のモンドラゴンはもちろん、知っているはずだ。だが、先ほどの頭に血が上ったままの様子では、それを思い出すことはないだろうと思われた。

「昨日、私が陛下の潔癖なお心に火をつけてしまいました。つい、姉妹と甘えていましたが、私たちは一緒に育ったのでもないのに。歳が近いからと言って、陛下のお気持ちがわかると自惚れていました。……それに、自分自身を陛下よりも年長の大人だと、無意識のうちに驕っていたのでしょう」

 カイエンは、忸怩たる思いで昨日、オドザヤに言われた言葉をまた思い出していた。

(お姉様は、お姉様だけは、いつでも自らを正し、卑怯な考えや行動などなさらない方だと信じておりましたのに!)

 昨日、オドザヤが、

(モンドラゴンへの尋問は、私が一人で致します。宰相も元帥も、同席は不要です。……そしてお姉様も、その場にはおいでにならないでくださいませ)

 と、言い出したのには、まずは、カイエンへの不信があったのだろう。

「殿下、それは違いますよ。私やザラ様も、殿下が私どもの思惑をよくわかってくださるので、つい、殿下を陛下のなだめ役のようにしてしまって……」

 そう、言葉を挟んだのはサヴォナローラだった。

 カイエンを挟んで、ザラ大将軍の反対側に座っているサヴォナローラは、昨日のカイエンの、

(いいえ。卑怯者には、我らがなると言っているのです。陛下は今のまま、汚れた心や考え方には染まらないでおられた方がいい)

 という言葉を覚えていたのだろう。

「大公殿下がおっしゃったことは、間違っておりません。我らはもう、モンドラゴン子爵やモリーナ侯爵からは、はっきり敵と認識されておりましょう。ここに、オドザヤ陛下だけは中立でいていただかねば、あまりにも危ういことになりますから」

 カイエンは目をつぶった。

 先ほどのモンドラゴンの顔つきを見れば、もう彼はオドザヤを、自分の築き上げてきた地位を、賢しげな顔で取り上げようとする高圧な女帝、厄介な権力を持った小娘としか思ってはいまい。

 確かに、今回、正しいのはオドザヤの意見の方だ。モンドラゴンを謹慎処分にすることも、事前に決まっていた。

 モンドラゴンの方も、おそらくは謹慎処分は覚悟して来ただろう。

 それでも、言い方というものがある。追い込みようというものがあった。

「ま、モンドラゴンも、いま少しは余裕のある男かと思っておったが、そうではなかった。……これはわしらの失敗でしょうな」

 ザラ大将軍は、そう言うと、もう立ち上がっていた。

「殿下、これはもう、あのモリーナとモンドラゴン、それにカスティージョの一党は、裏で懐柔するか、すっぱり片付けるか、考えどころになりましたなあ」

 そう言うと、エミリオ・ザラはまっすぐに伸びた背中を見せて、隠し部屋から出て行ってしまった。事態をすぐに飲み込み、次の手を模索する姿は、きっぱり、さっぱりとしたものである。そこには何の迷いも見ては取れなかった。

「はは。……ザラ大将軍は、もう私には薄汚いことも平気で言ってくれるんだなあ……」

 カイエンは、ちょっと寂しい気持ちもしたが、一方で、昨晩、ヴァイロンに言われたことも思い出していた。

(殿下は、あの日、オドザヤ陛下のご即位の日に、バルコニーへ出られた陛下と殿下へ向けて、市民たちから興った声を覚えておられますか)

 もちろん、カイエンは覚えていた。


「おお! 我らが守護パトロナ、カイエン! 我らが番人グアルダ、カイエン! 太陽の娘を守り給え! この街を我らを守り給え!」


 カイエンに市民たちが求めるのは、オドザヤへのそれとは明らかに違う。

 それは、あの日、あの瞬間にもう、わかっていたことではないか。

 それでも、カイエンはほろ苦い思いで、口の中だけで呟かずにはいられなかった。

(オドザヤ! 我らが娘! 我らが女神! 太陽の娘よ! 新時代の女神よ!)

 そうだ。

 あの叫びの通りに、オドザヤはおのれを律さねばならない。

 そして、カイエンの仕事は、オドザヤを、この街を守ること。

 妹オドザヤと、自分は、課された運命が違う。せねばならない仕事も違うのだ。

 ザラ大将軍や、宰相のサヴォナローラが、彼らの仕事の片棒を担がせてくれるのを、カイエンは喜んで受け入れるべきなのだ。

「殿下、汚れ仕事というのは、皆、人にありがたがられる職業なのですよ」

 唇を噛みしめていたカイエンの横顔へ、唐突な感じで、サヴォナローラのつぶやくような声が聞こえて来たのは、その時だった。彼はまだ立ち上がりもせず、彼女の横の椅子に座っていたのだ。

「えっ?」

 サヴォナローラは、こちらを見ようとしなかったので、カイエンに見えたのも、彼の横顔だった。その顔は、いつものように冷たく整っていたが、その声の調子はいつもとは違っていた。

「医者に、軍人、それに治安維持のお仕事をしている大公軍団員も。ああ、産婆さんなんかもそうですね。彼らは皆、血の流れる場所のそばにいて、人間の生死を見届けることもある。それは、命を守るために穢れを引き受ける仕事です。そういう仕事をする人間がいなければ人間の世界は回りません。他の人に必要とされる大切な仕事ですね。でも、仕事の中身は過酷です。汚れ仕事と蔑まれた時代もありました」

 カイエンは、ちょっと驚いて、サヴォナローラの説明するような言葉を聞いていた。その声は、彼の弟のガラの声ととてもよく似ていたからだ。ガラの喋り方はもっとぶっきらぼうだし、だからカイエンはこの時まで気がつかなかったのかもしれない。

「でも私利私欲のためにやったら、同じ汚れ仕事でも、人に感謝されたりはしませんね。でも、これって、どこかで線が引けるものではないのですよ。医師や軍人にお金をもらわずに奉仕しろ、なんて言えません。でも、いくらからが私利私欲になるのかなんて、わからないでしょう」

「それは、そうだろうな。……だが」

 カイエンには何か引っかかるものがあったので、それを言おうとしたが、すぐには言葉にならなかった。

「我々は、あのモリーナ侯爵や、モンドラゴン子爵、カスティージョ将軍が憎いわけではありません。彼らもまた、彼らなりに、国のことを考えているのでしょうし。でも、彼らにオドザヤ陛下をお助けして、この国を襲い来る脅威から守れる力があるとは思えない。サウル様が二十年かけて変えて来た、この国のありようを、彼らはあっという間に昔に戻してしまうでしょう。それに、彼らはアルウィン様の桔梗星団派のことも知らないし、螺旋帝国の思惑にも気がついてはいないでしょう。あの人たちでは、出来ないんです」

 そうだろうか。

 それは、自分やサヴォナローラの言い訳ではないのだろうか。

 その時、カイエンはそう心の中で疑いを唱える声を聞いた。それは、サヴォナローラにも聞こえていたらしい。

「ええ、これは私たちの言い訳です。この国を守るために、彼らをどうこうするという汚れ仕事を引き受けていくのだ、より多くの命を守るために、穢れを引き受けるのだ、という……」

 ここまで言って、サヴォナローラは初めてカイエンの顔を見た。

「言い訳でいいのです。いつか、我々も死ぬ。我々のしたことの評価は、後世の人たちがしてくれます。だから、今、我々は、弱い自分に言い訳をしながら、でも、迷わずに共に歩いていかねばなりません。我々の中から、一人ずつ崩れて逃げていくわけにはいきません。私が逃げたら、殿下は私を許さないでしょう?」

 カイエンはここまで聞いて、サヴォナローラもまた、迷いがあるのだということがわかった。

 そうだ。サウルが死んだ後、排除されることを恐れ、身の回りをアストロナータ神殿の武装神官で囲ませていた彼は、明らかに精彩を欠いていた。

 神官である彼とても、死を恐れ、判断を狂わせるのだ。

「わかった」

 カイエンは、彼女の頭の中に、身体の中に降り積もり、沈殿し、淀んだ池か沼のようになりかかっていた、「薄黒い不安」、「汚れていく自分への不安」を、取り除こうとするのをやめた。

 あれは、生きていれば誰の中にも、年々、降り積もっていくものなのだ。だから、取り除いて、まだきれいな頃に戻ろうとしてはいけないのだ。汚れたら、汚れたままに生きていく。人間は、そうするしかないのだろう。

 この時、やっとカイエンは昨晩、ヴァイロンと話していた時に考えていたことへの答えを得たような気がした。

 ヴァイロンが何か言いかけて、言わなかったことはこのことだったのだろう。

(カイエン様は、オドザヤ様は大人にならないとでも、思っていらっしゃるのですか)

 ヴァイロンは、こんなふうなことを言いたかったのだろう。だが、カイエン自身で気がついた方がいい、と、きっとあえて黙っていたのだ。

「私は、オドザヤ陛下を汚したくないと、それだけ思ってしまっていた。それでは、陛下が前に進めないのだな」

 カイエンが言うと、サヴォナローラはそれにはもう答えずに、椅子から立ち上がっていた。自分の言葉が、確実に伝わったと思ったのだろう。

「では、私も自分の仕事に戻ります。殿下はどうなさいますか」

 カイエンはさっきまで、オドザヤには会わずに帰ろうと思っていた。だが、気持ちが変わっていた。

「私は陛下のご様子を見てから帰る。……世話をかけたな」

 カイエンもまた、左手の杖を握った手に力を入れ、よっこらしょ、と立ち上がっていた。

 そして。

 大公カイエンと、宰相サヴォナローラは、そのまま、左右に別れて秘密の部屋を出て行った。

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