不確かなる明日

 不死の王マトゥサレンは冬の海を渡り

 世界中の海を自由に行き来し

 行き交う船という船の帆柱に取り付き

 乗組員の命を喰らいながら

 新世界シャングリラを目指す


 亡国の王ダビは日が昇る先の大地を征服し

 海を渡ってすべての大陸を踏破し

 街道沿いの隊商という隊商にまぎれ込み

 商人たちの荷駄を盗みながら

 新世界シャングリラを目指す


 失楽の王アベルは楽園を追放され

 厳しい砂漠を越え険しい山嶺を越え

 道なき道を絶望で覆い尽くして進み

 すべての国々を背後から襲いながら

 新世界シャングリラを目指す


 無知の王フルトゥーロは海の果てで待つ

 生まれてより何も知らず何も見ず何も聞かず

 生まれた場所から動くことなく

 いつか来るなにものかを夢の中で探しながら

 新世界シャングリラを守る




    邱 雅客 著 「失われた水平線」より。「不幸なる王たちへの讃歌」








(殿下! 初版では、あの狂人達の群の前に現れ、彼らすべてを正気に戻し、その魂の安寧を約束した王がいたのです!)

 マテオ・ソーサの言葉を借りれば、カイエンや彼が頼 國仁からもらって読んだ本は「改訂版」で、頼 國仁の自殺現場に残されていた初版本と改訂版とでは、物語の最後が違っているのだという。

 カイエンと教授の知っていた「不幸なる王」は三人。

 だが、初版本ではもう一人、海の果ての新世界シャングリラで待っていた王が登場するのだという。

(その四人目の『不幸なる王』の名前は、無知の王フルトゥーロ。『無知の王』の名前は、未来フルトゥーロだったのです)

 カイエンの頭の中で、教授の言った言葉が幾度も幾度もこだました。

 初版本に登場するのは、四人の「不幸なる王」。

 その二つ名は不死、亡国、失楽、そして無知。

 死がない。国がない。楽しみがない。知恵がない。無い無い尽くしの四人の王。

 そして彼ら四人には共通して「幸せがない」のだ。

 もとより、「失われた水平線」は、非常に厭世的ペシミスタで不健康な物語だ。

 この世からつまはじきにされた変わり者や愚者、道化者たちが、一人の「誇大妄想狂メガロマニア」に連れられ、世の人々に嘲笑われながらも、阿呆船に乗って、遥かなる水平線の向こうの新世界、シャングリラを目指す、という荒唐無稽な話。

 そして、新世界を目指すなら、健康で勇敢な冒険者たちこそがふさわしい。なのに、この物語はそれと正反対の人々を登場人物に選んでいる。

 カイエンは少しの間、考えていた。

 初版では新世界シャングリラで待っていた「王」によって、狂った乗組員たちは正気に戻された。物語がそこで終わっているとしても、読者の想像する未来は明るいものだろう。

 だが、改訂版では新世界シャングリラで待っている者はなく、誇大妄想狂メガロマニア達は狂った姿で新天地に上陸する。そのラストシーンはあまりにも絶望的で、そして残酷だ。

「……改訂によって、この物語は『救いのない物語』になった、ということですね」

 ややあってカイエンがそう言うと、教授は深くうなずいた。

「そうです。改訂版の最後は『不幸な結末バッドエンド』です。どうして最後に出て来る四人目の王が『無知の王』なのかはまだわかりません。新世界という、何もない、真っさらな大地で待っていた者だからかもしれませんな。ですが、彼の名前をフルトゥーロ、『未来』にしたからには、作者は最初の版では希望を残した、『幸福な結末ハッピーエンド』の終わり方を選んだのでしょう」

「そっちの方がまともじゃん。ふつーはそっちの終わり方がいいんじゃないの? 物狂いが新しい大陸に放り出されて終わり、なんて、ちょっと……なんて言ったらいいの。えげつない? いや、ちょっと違うなあ……」

 イリヤが口を挟むと、教授は真面目な顔つきで彼の方を見た。

「そうだね。殿下や私が読んだ物語は、最初の勢いはともかく、最後には主人公である誇大妄想狂メガロマニアの荒唐無稽さや蛮勇、滑稽さなど、物語のすべての魅力が失われてしまうのだよ。残るのは、どうしようもない、やるせない哀しさだ。つまはじき者は新世界へ行っても幸せになどなれない。改訂版では、そう言いたいのだとしか思えないね」

 そこまで聞いて、カイエンはさっきから気になっていたもう一つのことを、教授とイリヤの前に放り出した。

「物語の最後がどうして変わったのかは、作者の心境だの、当時の螺旋帝国の世相だのが影響しているのかもしれない。それはもう少し調べないとわからないでしょう。頼 國仁先生がご自身の自決の後に、私や先生が現場にやって来ることを予測して、わざと初版本を遺書の代わりに残した理由も。だが、ここで一つ、最近起きたことと関連して気になることがあるんです」

 教授もイリヤも口を挟まずに、カイエンが先を話すのを待っていた。

「私も、この物語の登場人物と結びつけて考えてはいなかったのですが、……マトゥサレン、という名前です。アルタマキア皇女のことがありましたね。皇女を拉致して去った、スキュラ元首エサイアスの軍勢はなぜか、スキュラ自治領の旗ではなく、北海の向こうのマトゥランダ島のマトゥサレン一族の旗印を掲げていたそうです。マトゥサレン一族は、元首夫人のイローナの実家です」

「そうでしたな」

 教授はすっと真面目な顔になって、執務室の壁に貼られたハウヤ帝国の地図に目をやった。彼の白っぽい灰色の目がまっすぐに見たのは、帝国の北部だ。

「殿下はもちろんご存知でしょう。マトゥランダ島のマトゥサレン一族。彼らの名前の由来は彼の地の民話です。マトゥサレンと言うのは千年を生き、世界各地を周り、知識を深めたのちに北の故郷へと戻ったという賢者です。彼は見渡す限りの凍土であった大地を今の、貧しいながらも作物の育てられる大地に変えたと言われていますね。まあ、伝説ですが」

「あ。その話知ってる」

 イリヤがそう言ったので、カイエンと教授はちょっと驚いた。

「え? ああ、ハーマポスタール生まれの殿下や……せんせーは中西部のサン・ヴィセンテあたりの生まれだったよね……は、難しい本かなんかで読んだんでしょ。俺は違うの。俺やアキノのおっさんの故郷は北部だから、マトゥサレンの話は子供の遊び歌みたいなものなのよ」

 イリヤやアキノの故郷、といえばこの大公宮のサグラチカやルーサ、そして体内に「蟲」を持つカイエンやザラ大将軍にも縁がある場所。あの、「獣人国」があったという、「獣たちの村」プエブロ・デ・ロス・フィエロスである。

「へえ。北部といってもプエブロ・デ・ロス・フィエロスはスキュラ自治領や、北の国境に近いラ・フランカよりは南だ。そこでもまだ生きている賢人伝説なんだね」

 教授が感心したような顔をすると、イリヤはいやいやいや、と手を振って見せた。

「賢人? あれ、なんか違うな。あのね、うちの田舎のあたりではね、マトゥサレンさんは『怖い人』なのよ。子供の遊び歌のマトゥサレン爺さんも、よく考えると怖い人だし、大人は子供が夜になかなか寝ないと、『マトゥサレン爺さんが来るよ!』って脅すんだもの」

「ええ!」

 カイエンと教授は顔を見合わせた。彼らがマトゥサレンのことを読んだ本は大人向けの民俗学の本だったから、イリヤの言うようなことは知らなかったのだ。

「えーと。どんなんだったっけ」

 ちょっと思い出そうと眉根を寄せていたイリヤだったが、やがてやや調子っ外れではあるが、まあまあ聴ける喉で歌い始めた。


 ……動物みんな船に乗せ

 マトゥサレン爺さん海に出る

 長生き爺さん海に出る

 動物ひき連れ旅に出る


 黒い斑の雄牛がいないって

 へえ、焦げ茶色の馬もいないって

 あれ、黒い羊もいないって

 あらあら、白い山羊もいないって

 ええっ、灰色の兎もいないって

 ああ! みんなみんな船に乗り

 行ってしまった戻らない

 牧場は空っぽだ

 馬小屋空っぽ牛小屋空っぽ兎小屋空っぽ

 見事なもんだ


 マトゥサレン爺さん海へ出た

 動物たちを連れてった

 マトゥサレン爺さん連れてった

 あああ、爺さん帰ってきたよ

 真っ黒い道をまっすぐに

 真っ白い骨をひき連れて

 マトゥサレン爺さんのお帰りだ……


 それは明るい調子の歌で、歌詞の意味など知らない子供達が楽しく歌いそうな節回しだ。やや古いアンティグア語だから、大人になってもその薄気味悪さに気がつかない者もいるのだろう。

 黙ってしまったカイエンと教授の方を、歌の最初はともかく、最後の方はけっこう朗々と歌っていた男が不思議そうに見た。

「え? 知らないの」

 カイエンと教授は本当に知らなかったので、黙ってがくがくと顎を引いた。

「へえ、そうなの。それじゃあこれ、この国北部限定の民謡なのね。へへ、よかったねえせんせー、今日俺を呼んどいて」

「その通りだな。そんな伝承……というか、童謡があるなんて。調べて本にするような学者はいないだろうし、大人になって他の土地に行った人間はもう、そんな歌は歌わないだろうしな」

 先に我に帰ったのは、カイエンの方だった。この時代、さすがに田舎の童謡を収集して研究するような学者はいなかった。

「イリヤ君。その歌、アキノさんも知っているんだろうねえ?」

 教授が聞くと、イリヤは教授の話の先を読んで進めてきた。

「もちろんでしょ。もしかしたら、ザラ大将軍も知ってるかも。あの人はお母さんがプエブロ・デ・ロス・フィエロスの出身だからね。あとはあ……ああ! もしかしたらだけどフランコ公爵さんも知ってるかもね。お貴族さんは乳母がついてるでしょ」

「じゃあ、北部出身の大人はみんな知っているんだろうね」

 教授はそう話をまとめたが、そこで、またしてもカイエンや教授とは頭の構造の違う男が、別の切り口で疑問をぶつけてきたのだった。

 イリヤは、いつものとぼけた表情だったが、ちょっと首を傾げながら聞いてきたのだ。

「あのさあ。これ、殿下やせんせーにはあったりまえなのかもしれないんだけど。ねえ、なんで螺旋帝国で書かれた物語に、このパナメリゴ大陸の西側の、それもハウヤ帝国風の名前の王様たちが出て来るの? あれ。それともさっきから言っている王様たちの名前は、みんなせんせーたちが螺旋帝国の名前を、こっち風に翻訳でもしているの?」

 えっ。

 カイエンとマテオ・ソーサは、二人揃って椅子を蹴って立ち上がろうとし、そして、二人揃って果たせず、勢いよく椅子に尻を打ち付けることとなった。二人ともに片足が不自由なことを忘れてしまっていたのである。

「ああ、ああ。ああ!」

 カイエンと教授は争うようにして、そこに置かれていた三冊の本に手を伸ばした。そして、びっちりとイリヤには読めない複雑な螺旋文字の並ぶ本の中を確かめる。

 本当は確かめる必要さえなかったのに。

「イリヤのいう通りだ」

 カイエンの声はやっと喉から絞り出せました、というように掠れていた。

「主人公の誇大妄想狂メガロマニアには個人名はない。他の登場人物も、そうだ。道化師とか、偏執狂とか、痴者とか、みんなその役柄で呼ばれているんだ。だから、螺旋文字の持つ意味をアンティグア語に直して話していた。だが……」

「この四人の『不幸な王』の名前だけは違うんだよ! イリヤ君、お手柄だ! 下手に螺旋文字が読める私たちは名詞はみんなアンティグア語で意味をとって読んでしまっているから、気がつけなかった」

 教授は、失楽の王アベルの名前の部分をイリヤに示した。

「この二つの文字がアベルだ。この二つの螺旋文字は意味を取って読むことはできない。『亜伯』。文字の意味で取れば、『アの専門家』とか、『ア伯爵』とかの意味になるね。この最初の螺旋文字はあんまり意味がないんだ。だからアンティグア語を上手く螺旋文字で書けない時の、当て字によく使われる」

 カイエンはうなずいたが、イリヤは情けない顔をした。

「あのさあ、これもせんせー達には当たり前なのかもしれないけど、螺旋帝国の人も、話しているのは俺たちと同じアンティグア語だよね。それを、あっちの人は全部この螺旋文字の意味を使って読み書きしているの?」

「その通りだ。アンティグア語の語彙を、螺旋文字の意味に当てはめているんだね。……ああ、大切なことがあった! 実は、螺旋文字には一つ一つ、独自の音が決まっているんだよ。だが、それが意味と連動して使われるのは、人名や地名だけなんだ。だから、彼らの名前には音と意味が両方含まれているが、我々の名前は音だけをとって亜伯アベルのように、当て字で書くしかない。まあ、フロールなんて名前なら、意味をとって『花』、リンダなら『美麗』なんて意味でも選べるが、そうすると普通名詞と区別がつかなくなるね。それに、マテオだのカイエンだのイリヤボルトだのは意味で探すのは無理だ」

 イリヤはなんとも情けない顔になった。

「えぇー。じゃあ、螺旋帝国人の人名と地名は、実はアンティグア語じゃないってこと?」

 これを聞くと、教授は嬉しそうに揉み手をした。

「その通り! そこが奇妙なところだね。これは螺旋帝国人にもわからない『大いなる謎』なんだそうだよ。人名地名は例外で、その他の普通の名詞や形容詞、動詞。これらは語彙として螺旋文字ごと覚えてしまうんだ。そうしていくと、たくさんの螺旋文字が頭に蓄積されて、なんとなく文字一つ一つの意味がわかってくるんだよ。もちろん、螺旋文字の辞書もあるけれど、螺旋帝国の人たちは語彙の蓄積から自然に学ぶんだろうね」

 カイエンもそうだったから、黙ってうなずいた。

「もう、今までの説明だけで複雑さはよくわかったけど。こんな複雑な文字を、アンティグア語と関係ない独自の音と一緒に千も二千も覚えるんでしょ? ふつーの、庶民の人たちにはキツイんじゃないの」

 イリヤは教授から本を受け取って、眺めながらため息をつく。

「そうだな。こちらで使っているアンティグア文字は音だけを取るから数が少ない。百文字もないから覚えるのは簡単だ。だから識字率は高い。螺旋帝国の識字率は恐らく、こちらよりもかなり低いだろう。パナメリゴ大陸の西の端のハウヤ帝国からシイナドラド、そして螺旋帝国の手前の国々まで、公用されているのはアンティグア文字の方だ。支配階級のほんの一部や学者だけが螺旋文字を、学術的な目的と、秘密の漏洩を防ぐために使っているに過ぎない」

 カイエンが噛んで含めるように説明すると、イリヤは犬のようにぶるっと身を震わせた。

「ああそうですかぁ。それじゃあ、俺みたいなのはこっちの生まれでよかったのかもね。で、なんで、その四人の王様の名前だけこっちの名前なの。そもそもその話、誇大妄想狂メガロマニアックさんてえのは、螺旋帝国人なの。それともこっちの人なの?」

 イリヤの頭はなるほど、尋問拷問に長けた大公軍団長だけあって、話題が脱線しても元に引き戻せる作りのようだ。

「……それだがね」

 教授は、頭の中の言葉を検索している目つきになって、しばらく記憶の中の物語を探ってるらしかった。

「うん。そうだ。間違いない。この物語の人名は四人の王以外は固有名がない。それはさっき言ったね。で、この物語は彼らが阿呆船で出航してから先は、すべてが未開の地で名前もなんとも無国籍なものなんだよ。だから誇大妄想狂メガロマニアの国籍を知るには、彼らがどこの港を出航したか、そこから判断するしかないんだ。それで、出航した場所の名前なんだが。それは間違いなく螺旋帝国の地名だ。『東占』と書かれている。この街は螺旋帝国の地図に載っているから間違いない。螺旋帝国の最東端の街だ」

「つまり、誇大妄想狂メガロマニア達はパナメリゴ大陸東側の大海へ出航したと言うことですね」

 カイエンはふと、先だって元老院議事堂でバンデラス公爵に聞いた、ラ・パルマ号のことを思い出していた。

(ラ・パルマ号の船団は、ネグリア大陸に差し掛かる前に、幾人かの乗組員を下船させています。これは乗組員というよりも、客人のような者だったようです。そして、ネグリア大陸の南端まで到達し、そこで補給した上、西側の大海へ繰り出すことを決定したようです。そのために、いい風の吹く季節を待ち、出航したと書いてありました)

 アルウィンが乗り込んだ船。恐らく、南のネグリア大陸へ差し掛かる前に下船したという「客人」とはアルウィン達のことだろう。

 ラ・パルマ号が目指したのは、西の大海。そして、西の果てにあるという未知の陸地を目指したのだ。

 一方、東の果て、螺旋帝国の港を出航した誇大妄想狂メガロマニア達の阿呆船の向かった先は、東の大海。そして、彼らがたどり着いた新世界シャングリラ

 方向はまるで逆だ。

 だが、カイエンには何か引っかかった。

「ふぅん。じゃあ、物語の舞台は螺旋帝国から始まるんだけど、例外的に名前の出てくる四人の王様だけは、こっちの名前だったってわけね。未開の地の名前でもなくって」

 自分の考えの中に入って行ったカイエンの横で、教授がイリヤに答えている。

「そうだよ。だがこれで、頼 國仁先生がこの本の謎を残して逝かれた理由がなんとなく推測できるね。すでにマトゥサレンという名前が現実の脅威として、このハウヤ帝国に認識される事態が勃発している。こうなると、他の二人の王達の名前もこれから起こることに関係して来るのかも知れないよ。そして、改訂版では消された『無知の王フルトゥーロ』だ。これはちょっとまだ、とっかかりがなさすぎるがね」

 そこまで話すと、教授は急に脱力して、椅子にもたれかかってしまった。カイエンはもうその前から自分の思考の中に入っていたから、イリヤももう話しかける相手がいなくなり、黙るしかなかった。 

 そうして、三人が黙り込んでしまった時には、もうイリヤがこの執務室に入ってきてから、かなりの時間が経過していた。

「ああ。お茶一つ飲まずに話していたな」

 そうカイエンが言うまで、教授もイリヤも、侍従のベニグノが部屋の中の様子を慮って、入室を控えていたことにさえ気がつかなかった。

 カイエンは机の上の呼び鈴を鳴らしながら、混乱しそうな頭の中を整理していた。

 すぐに、マトゥサレンにまつわる、もう一つの謎が襲いかかってくるとも知らずに。  



 


    


 カイエンの元に、宰相府のサヴォナローラから、皇宮へ来て欲しいという使いがあったのは、カイエンと教授、それにイリヤが「失われた水平線」にまつわる長談義をした日から、ほんの数日後のことだった。バンデラス公爵の元へ、ラ・パルマ号事件の調査のために送った船からの報告が上がってきたらしい、と言うのである。

 ルビー・ピカッソは、あの日の早くも二日後から、オドザヤの側に上がった。

 カイエンはオドザヤやルビーのことも気になっていたので、すぐにその日の仕事を切り上げて、皇宮へ向かった。

 オドザヤの執務室へ、侍従に案内されていくと、大きな扉の前にアストロナータ神殿の武装神官と一緒に、見覚えのあるやや年配の女騎士が立っていた。

「あれ? あなたは確か……」

 カイエンは一瞬、記憶を探る顔になったが、すぐに思い出した。その女騎士は去年、それもちょうど一年前に当時、第四妾妃だった星辰がアイーシャの暗殺を企てた後、大公宮で星辰の身ごなしを検証するために行われた集まりへやって来た、三人の熟練の女騎士の中の一人だったのだ。

 カイエンが声をかけると、女騎士はびっくりした顔をした。カイエンのような身分のものが自分の顔を覚えていたことに驚いたのだろう。

「……リタ・カニャスと申します。この度、皇帝陛下の護衛に任じられました」

 カイエンはサヴォナローラが、後宮の女騎士の中に心当たりがある、と言っていたことを思い出した。

「そうか。どうかよろしく頼む」

 微笑んでそう言いながら、カイエンは護衛騎士のシーヴを引き連れてオドザヤの執務室へ入る。中には、オドザヤと宰相のサヴォナローラが座っており、その後ろでは彼ら二人の護衛が書類の整理を黙々と行っていた。元グロリア神殿の武装神官、今は大公軍団から派遣されているルビーと、サヴォナローラの弟弟子のリカルドだ。二人は慌ただしそうな中、一応カイエンに向かって深々と礼をするのは忘れなかった。

「頑張っているな、ルビー」

 カイエンが声をかけると、ルビー・ピカッソはきっとした表情で顔を上げた。今日も三白眼で怖い。

「もちろんでございます」

 言葉は丁寧だが、目は口ほどに物を言いというやつだろう。

 カイエンがオドザヤの執務机の前の椅子に座ると、リカルドが部屋の隅にあるキャビネットへ向かい、お茶の支度を始めた。なるほど、もうすでに新参のルビーとリカルドの力関係がうかがわれる。カイエンはそんな様子を目にしながら、ふと、横にもう一脚、椅子が用意されているのに気がつき、眉を寄せた。だが、すぐにオドザヤに話しかけられたので、彼女の疑問は確定する前に崩れていってしまった。

「お姉様、今日はバンデラス公爵からの報告が連絡があって……」

 カイエンがうなずくと、オドザヤはそっとサヴォナローラの方を見遣った。続きは彼に言わせるというのだろう。

「殿下、実はバンデラス公爵も、もうすぐこちらへいらっしゃるというお話なのです」

 カイエンはちょっと驚いた。バンデラス公爵が、ラ・パルマ号の事件の報告をこのハーマポスタールで受け取るつもりだとは聞いていたが、自ら報告の説明に来るとは思っていなかったからだ。

「そうですか。では、待つことにいたしましょう」

 カイエンの、もう一つの椅子の疑問は速やかに解決されてしまった。

 そうして、カイエンがオドザヤと共にしばらくお茶を飲みながら待っていると、間もなく侍従に案内されて、バンデラス公爵がやって来た。

 カイエンもオドザヤも、彼を見るのは即位式以来である。オドザヤの方は挨拶以外には話したこともあるまい。

「おお。皇帝陛下をはじめ、皆様をお待たせ致し、まことに申し訳ありません」

 バンデラス公爵の珈琲色の顔は、言葉とは違ってちっとも申し訳なさそうには見えない。険しい曲線で構成された容貌の中で、鋼鉄色の目だけが陰々と光っていた。

 それでも、オドザヤとカイエンへは恭しく礼をした公爵だったが、次の瞬間にはもう自分の持って来た話に入っていた。

 その場に、護衛の三人がいることへの躊躇もない。自分が入って来たのに出て行かされずにここにいる、というだけで状況を判断したのだろう。彼はカイエンの横にもう用意されていた椅子に静かに座った。

「遅くなりましたが、ラ・パルマ号の遭難の件で報告が入りました。宰相殿、内容が内容なので、余人に託すことも出来ず、時間をとって申し訳ない」

 サヴォナローラはバンデラス公爵よりも、かなり年下だろう。だが、答える彼の言葉はあまりに簡潔だったので、慇懃無礼にさえ聞こえた。

「いいえ、構いません。それよりもご報告の方を」

 オドザヤはちょっと不安な顔つきで、カイエンの方を見た。立太子され、摂政皇太女となり、今や皇帝となった彼女だが、まだあまり男たちのこういった場合のやりとりには慣れていないのだろう。カイエンは大丈夫だ、とそっと合図して見せた。

「わかりました。報告で分かったことは、大きく分ければたった二つです。一つは、航海日誌の信憑性ですが、こちらはほぼ裏が取れました。ですから、だいたい信じていいと思われます。日誌の通り、船団はネグリア大陸の南端から島伝いに西の大海へ乗り出したのです」

「そうですか。それでは、船団はその後に遭難し、旗艦であるラ・パルマ号は乗組員全員が暴力的な方法で船外に出され、そしてどういった方法かはわからないけれども、ネグリア大陸の近くを漂流して、最後にモンテネグロの港に至った、ということですね」

 サヴォナローラの真っ青な目が、皮肉げな輝きを秘めてバンデラス公爵の鋼鉄色の目を見る。だが、バンデラス公爵は動じなかった。

「事実の確認からは、そう考えるほかはありませんな」

 バンデラス公爵は素っ気なくそう言うと、もう次の話に入っていた。

「ではもう一つの方。これは航海日誌にもありましたが、乗員の出入りがあったのではないかという部分です。ネグリア大陸に差し掛かる前に、間違いなく二人の男……どうも船員ではなく客人だったようですが、が下船しています。そして、入れ替わるように一人の男が乗船しているのです。こちらは、航海日誌にはなかった事実です」

 カイエンとサヴォナローラは、そっと目を見合わせた。下船したのはアルウィンと、多分グスマンで間違いない。

 では、入れ替わりに乗船した男とは。

 カイエンは、この話を初めてバンデラス公爵に聞いた時に思い出したのと同じ光景が脳裏に描いた。それはもちろん、あの「青い天空の塔」修道院での虐殺事件の現場だった。

「下船した二人の名前は、航海日誌にも港の記録にもありますが、まあ、偽名でしょう。乗船した男の名前もわかりました。……ですが、これが、どうにも、変でしてね」

 バンデラス公爵は、言いにくそうな様子でそう言うと、すっと表情を消した。

「マトゥサレン・デ・マールと港の記録に書かれていたそうです。あのあたりの周辺の港では、年中、海賊の出没に悩んでいます。海賊の手下が密航して潜り込むことがあったそうで、港側で商船の人の出入りをやかましくしているんです。だから、さすがに名前を書かざるを得なかったのでしょう」

 マトゥサレン・デ・マール。海のマトゥサレン。

 これもまた、本名ではあるまい。だが、そんなに多くはないが、マトゥサレンという名前の男は存在する。デ・マールという姓もだ。だから、港湾係も追及しなかったのだろう。

「マトゥサレン? それって、あのアルタマキアを連れ去った北の一族の名前と、同じ?」 

 オドザヤが不思議そうな声で聞いている。それはそうだろう。ラ・パルマ号の事件は今起きたことではないが、同じ名前が北と南から同時にもたらされたのだから。 

 カイエンはあまり表情を変えなかったはずだが、内心では、飛び上がりそうなほどに驚いていた。彼女にとっては、三人目のマトゥサレンだったからだ。だが、彼女は今それをここで取り上げても仕方がないことにも気がついていた。

 マトゥサレン。

 「失われた水平線」の不死の王の名は、ハウヤ帝国の北だけではなく南でも刻まれたのだ。



 そこまで、バンデラス公爵が話した時、いきなり、執務室の扉が外から叩かれた。

 ここに皇帝と大公、それに宰相と公爵が集まっていると知りながら、扉を外から叩くとはただ事ではない。

「お入りなさい!」

 オドザヤも異常に気がついたのだろう。すぐに声をあげた。扉の近くにいたシーヴがすっと動いて扉を内側から開ける。

 外には侍従が立っていた。武装神官とリタが、緊張した顔で油断なく廊下の向こうを睨んでいる。

 見れば、まっすぐ回廊まで続く廊下の向こうに、かなり離れて、通信用の金属の筒を捧げ持った、鎖帷子に身を固めた騎士らしき男が片膝をついてかしこまっていた。身体検査は受けたらしく、剣帯から大剣は取り上げられていた。それでも顔と名前が一致していない陪臣の騎士が、皇宮のここまで通されるのは異例中の異例と言えるだろう。

 今は戦時ではない。だが、その中を鎖帷子を着たままやって来て、謁見の間ではなく、皇宮の皇帝の執務室の前まで通されて来たのだ。これは普通のことではなかった。

 よく見れば、騎士の鎖帷子の外に着た外套は、かなり汚れていた。これは情勢急を告げる北から、馬で駆け続けに駆けて来たのだろう。

「お話し中、恐れ入ります。ラ・フランカのフランコ公爵から、急ぎの使いが参っております」

 侍従の声を聞くまでもなく、カイエンたちは瞬時に緊張していた。

 北の国境に近い、フランコ公爵の大城のある、ラ・フランカからとあれば、マトゥサレン一族に拉致されたとされるアルタマキア皇女の件に違いなかったからだ。

 サヴォナローラがすぐに前に出た。

 恐らく彼は北方からの使いは無条件でここまで通すよう、言ってあったのだろう。

「フランコ公爵家の者か」

 サヴォナローラが聞くと、騎士はかしこまったまま、答えた。その声はまだ息が整わないようで、ところどころかすれて聞こえた。

「はっ。フランコ公爵様より、至急の手紙を持たされて参りました。恐れながら、皇帝陛下、大公殿下、そして宰相様以外のお方の前では用件を言うことも控えよ、との仰せでしたので、こうして皇帝陛下のお側まで通って参りましてございます。……宰相様のご手配により、時間を取られることなく御目通りが叶いました。ありがとうございます」 

 サヴォナローラは時間を無駄にしなかった。

「ご苦労。この扉の奥には皇帝陛下がいらっしゃいます。フランコ公爵の手紙を渡しなさい」

 サヴォナローラがそう言うと、侍従がさっと動いて騎士のところへ行き、通信筒を受け取った。そのまま侍従はサヴォナローラの前まで来ると、通信筒から手紙を取り出し、危ないものが入っていないか隅まで探って確かめてから、サヴォナローラに渡す。

「下がってよい。その騎士を休ませよ。済んだら扉の外に控えるように」

 侍従にそう言うと、サヴォナローラは手紙を持って執務室の中に入り、さっと扉を閉めてしまった。

「宰相殿。今、あの使いは『皇帝陛下、大公殿下、そして宰相様以外のお方の前では用件を言うことも控えよ』と言われて来たと言っていましたな。私は下がった方がよいのではないですか? そこの、護衛の者たちも」

 閉められた扉を見ながら、バンデラス公爵が言ったが、サヴォナローラは首を振った。

「いいえ。ここにいていただきます。帝国の南方を支配されるバンデラス公爵様にも、この度の北方での事件はハウヤ帝国の三公爵であられる以上、関わりがあるはずです。もし、北の国境で戦端が開かれることとなれば、場合によりましては公爵様にはご領地へのお戻りを禁じさせていただきますので。……ああ、護衛の三人はここにいてけっこうですよ。あなたたちがしゃべらなくとも、恐らくこの手紙の内容はすぐに公にせねばならないでしょう」

 カイエンもオドザヤも、サヴォナローラのこの言葉には目を見開いた。

 だが、バンデラス公爵の方は、そんなことはもう考えていたことだったようだ。

「なるほど。そうでしょうな。まあ、私も北での事件が予測できていたら、冒険船団などの安否など放っておいて、領地へ帰っていたはずですからな」

 バンデラス公爵の言ったことには裏の意味があった。自分は北での事件と関係ないと言いたいのだ。

「確かにその通りでしょうね」

 サヴォナローラは落ち着いていた。サウルが亡くなり、親衛隊に護衛を頼めなくなった時期は、事態への対応がやや後手後手に回っていた彼だったが、武装神官を周りに置いてからは落ち着いて来ているようだ。

 サヴォナローラはオドザヤの机の上から、封を切るためのナイフを取ると、丁寧に手紙の封を切った。カイエンが傍から見るまでもなく、封蝋の印章はフランコ公爵家のものだ。

 中には折りたたんだ上品なクリーム色の紙の束が入っている。それを彼は静かにオドザヤの方へ差し出した。

「お姉様、どうか……いっしょに」

 オドザヤは一瞬だけ、バンデラス公爵の方を気にしたが、美しい琥珀色の瞳をわずかに滲ませると、カイエンの方へ手紙を持った手と反対の手を伸ばして来た。

「わかりました」

 カイエンは杖を持った手に力を入れて、そっと立ち上がると、オドザヤの横に立った。そこからなら、十分に手紙の文字を追うことができる。

 手紙は螺旋文字で書かれていた。さすがは公爵で、フランコ公爵テオドロも螺旋文字の教養はあったらしい。だが、あまり書き慣れてはいないようで、カイエンの目で見ればやや形の怪しい文字もあった。だが、読むのには困らない。

「ああっ。なんてこと!」

 そして、まだ一枚めだというのに、もうオドザヤの喉からは悲痛な叫びが上がる。

 カイエンはオドザヤよりも読むのが早かったので、顔を強張らせたオドザヤの震える手から手紙をそっと取り上げると、どんどん先を読んでいった。

「殿下……?」

 オドザヤの様子を見て、サヴォナローラは事態の良くない方向への進展を悟ったのだろう。先ほど、バンデラス公爵や、シーヴたち護衛の三人に言っていた言葉を思い出せば、この事態も想定していたと思われた。

 カイエンは手紙の大切なところを指で指しながら、それを机の上に一枚ずつ置いていった。最後の一枚だけは螺旋文字ではなくアンティグア文字で、それも細い、女文字のものだった。


「自治領スキュラが独立を宣言したそうだ。そして、我々がそれを認めなければ、アルタマキア皇女を処刑すると通達してきた。ハウヤ帝国がスキュラの後継を決めるなど、言語道断だと主張しているそうだ。……このハウヤ帝国とスキュラとでは戦力には大きな差がある。それでも強気なのは、こちらが軍を動かせばアルタマキア皇女を殺し、即位早々のオドザヤ陛下の治世を揺るがせるつもりなのだろう、とある。事態が動かないまま冬になれば、戦争はできなくなる。それにこれは私の意見だが、どうやらスキュラ一国での企みでもなさそうだな」

 カイエンは驚きすぎて、かえって淡々とした口調になってしまっただけだったのだが、オドザヤだけでなく、サヴォナローラもバンデラス公爵も彼女の顔を黙って注視している。

「だってそうだろう? 軍隊の人数だけで言えば、ハウヤ帝国の四つのアルマのうち、一つを動かしただけでもスキュラは地上から消える。マトゥサレン一族込みで。だが、あちらには地の利があるから、アルタマキア皇女の身柄を巡って上手く立ち回れば、戦は長引くかもしれない。ベアトリアとの国境紛争みたいに、お互い決定打を出したくなくて、押したり引いたりで時間がかかるかもな。それでも、皇女一人を拉致してなんとかなると思っているとしたら、お粗末すぎる。ベアトリアほどの軍事力などないはずだもの」

「お姉様……アルタマキアは?」

 カイエンはオドザヤの肩に手を置いて、落ち着かせるように言った。

「この最後の一枚をご覧ください。これはアルタマキア皇女の筆跡では?」

 オドザヤは早くも涙を浮かべていた目を、さっと手紙の最後の一枚に向けた。確かに、その一枚だけは他とは違い、品質の落ちる、薄めの紙だったのだ。

「おお。間違いありませんわ! これはあの子の字です!」

 そこに書いてあったのは、自分の無事を知らせるだけの短い文だった。文面も脅されたかして、言われたままを書かされたものらしく、その字は弱々しく、震えていた。それでも文字にはその人の人となりが出るものだ。

 その文字は皇女らしく流麗な、洗練されたペン運びで、文字のくずし方などに年齢や身分に相応した様子が見て取れた。とりあえず、アルタマキアは生きているようだ。それはもっともなことだった。あちら側はこうしてアルタマキアの生存をちらつかせ、姉であるオドザヤの心をぐらつかせて、事を進めていくつもりなのだから。

 カイエンはオドザヤの肩に手を置いたまま、バンデラス公爵の方に、冷えた灰色の目をまっすぐに向けた。バンデラス公爵の表情は読めない。だが、カイエンもオドザヤも、ここで間違えるわけにはいかなかった。

「困りましたね、公爵。さっき、サヴォナローラが憎まれ口をきいていましたが、冗談ではなくなってしまったようです」

 ああそうだ。

 その時、カイエンは思っていた。

 頼 國仁の最期の謎かけを解いている暇など、なくなってしまいそうだ、と。 




 ハウヤ帝国第十九代皇帝オドザヤ一年。

 自治領スキュラが独立を宣言。

 女帝オドザヤの治世は、その始まりと同時に混乱に飲み込まれていくこととなった。




            第四話「枯葉 了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る