大議会は躍る 2
「我々は、ただ、そこの摂政皇太女殿下のご意志に従えばよろしいのではないか? それが帝国の秩序というものではないのかね」
帝国の秩序。
今、元老院議事堂を埋めた二百人余りの、子爵家以上の当主たちが固唾を呑んで見守る中。
ハウヤ帝国南方の覇者ナポレオン・バンデラス公爵の声音は、低く、さして大きくもなく、そして軋むように不安定で、やや明瞭さを欠いているようにも聞こえた。なのに、彼の言った言葉はそこにいた皆の耳にしっかりと残った。
彼の言いたいことは、内容としてはカイエンの言ったことを支持する内容だった。
モリーナ侯爵がカイエンに向かって言ったことは、まあ、簡単に言ってしまえば「女は難しいことをしようとしたり、意見を言ったりせずに黙っていろ」、と言う男尊女卑の考え、そして、「皇女は自ら立とうなどとはせず、優しい姉として未だ幼子の皇子を盛り立てていくべきだ」という男系をあくまで尊重する考えを元にしたものだったのだろう。そう言って悪ければ「男女は体が違うことからして、社会での役割が違うのだから、お互いの領分には入り込んではいけない」という、保守的な考え方から派生したものだった。
現に、今までにも、一代限りの女大公は、世襲ではないために存在できたものの、女帝は認められてこなかったのだ。
だから、モリーナ侯爵のような保守的な考え方は、実際のところ、そう珍しいものではない。
一昨年から、大公軍団ではマテオ・ソーサの提言で女性隊員の募集を始めたが、これとて社会の中に抵抗がなかったわけではないのだ。
ただ、皇帝サウルの御世では、大公が女性のカイエンになったこと、皇子が生まれずに第一皇女のオドザヤが立太子されたこともあって、空気が変わろうとし始めていただけだ。
そして、女性隊員を迎えた女大公の率いる大公軍団の周りには、本心はどうあれ、モリーナ侯爵のような言い方でものを言う男たちはほとんどいなかった。
それでも、カイエンがこの大議会へ「夫」であるエルネストを伴って来たのは、モリーナたち「女帝反対派」の言い分の中に「女は一人前の口を聞くな」と言う保守的かつ伝統的な考え方の片鱗を見ていたからだった。
バンデラス公爵の言い方には、そういうモリーナ侯爵のような考え方による、事実の変形を避けようという意図が感じられた。
彼は、オドザヤについては、
「そこに御臨席の、オドザヤ皇女殿下はサウル皇帝の決めた皇太子で、摂政皇太女であられるのだな? 間違いないか。フロレンティーノ皇子とやらの誕生以降も、皇帝陛下はそれを公式に、お変えになることはなかったのだろう?」
と良い、カイエンについては、
「男だか女だか知らないが、そこの大公殿下は間違いなくハーマポスタールの大公殿下で、諸兄もそれは認めているのだろう。……そして、大公殿下はサウル皇帝陛下のご臨終の枕頭で、ご遺言をお聞きになっておられる……と」
と、言ったのである。
オドザヤの立太子と、摂政就任をサウルの命として認め、そしてカイエンの発言には、「男女に関係なく大公は皆が認める地位であり、発言内容は大公としての発言だろう」とモリーナ侯爵の発言の不適当さを戒めて見せたのだ。
本心はどこにあるのか知れないが、彼の発言の公平性は、皆も認めないわけにはいかなかっただろう。
大公のカイエンと、クリストラ、フランコの両公爵はサウルが、オドザヤを支える六人の中に選んだ中に入っているから、明確にオドザヤ派と見られている。だが、バンデラス公爵は本人が言った通り、二十年振りに帝都に上がって来たばかりであり、未だどちらの陣営にも組みしていないことは明確だからだ。
公爵家継承のおり以来、二十年振りに帝都ハーマポスタールへやってきたバンデラス公爵は言うべきことを言ってしまうと、静かに席に座ろうとした。
だが、それは顔を真っ赤にしたモリーナ侯爵の声で遮られた。
「これはこれは、バンデラス公には、久方ぶりになりますか。お元気そうで何よりでございます。……まずは、このフィデル・モリーナ、ご挨拶をさせていただきます」
モリーナ侯爵は余裕を見せようと思ったのだろう。バンデラス公爵の席へ向き直って立った彼は落ち着いた声で、まるでここが社交場ででもあるような挨拶をして見せた。
先ほど、カイエンの発言に答えた時には、挨拶などしなかったことを考えれば、現金なことである。カイエンが二十歳、バンデラス公爵は三十八、という年齢を考えても、モリーナ侯爵は相手を見て態度を変えたとしか思われない。
モリーナ侯爵の顔には、作り笑いさえ浮かんでいたが、バンデラス公爵はそれには小さくうなずいただけだった。彼はモリーナ侯爵の反応など無視してさっさと椅子に座ってしまった。
「……くっ」
モリーナ侯爵はどうしようか、とやや迷うそぶりを見せた。彼はバンデラス公爵が何か答えれば、それに乗じてまた持論を展開していく心つもりだったのだろう。
それまで、彼らのやりとりを杖をついて、立ったまま聞いていたカイエンはその隙に、一つの賭けに出る事にした。モリーナ侯爵とは違って、ちゃんと挨拶のできる、気配りのできる謙虚な女なんですよ、と議場を埋めた貴族たちに印象付ける事にしたのだ。
ただぼやっと突っ立って聞いているよりは、一人でも多くの貴族に好印象を植えつけたほうが利口だろう。
カイエンはこの頃、板について来た愛想笑いを、こういう部屋の中では白いというよりも、病的な土気色に見えてしまう顔に浮かべて見せた。
オドザヤのような美人ではないにせよ、若い女の笑みである。微笑まない仏頂面よりはマシだろうと思ったのだ。
「バンデラス公爵」
カイエンが席に着いたばかりの男の方へ向かって呼びかけると、その場の皆の視線がカイエンに集まった。今度は、何を言い出したのかと思ったのだろう。
「お会いするのは初めてですね。……ハーマポスタール大公、カイエンです」
カイエンがそう言うと、さすがは腐っても皇子様として心得たもので、隣のエルネストもゆっくりと立ち上がった。
「その夫のエルネストです。私からも初めまして。今日は妻の後見として同行しました」
いつもの二人のべらんめえな話し方を知っている者たちが聞いたら、唖然としたであろうほどに、二人の言葉遣いは丁寧だが卑屈にならない、微妙な塩梅である。
そうして、二人揃って身分柄適当な角度で顎を引く程度に礼をすれば。
彼ら二人よりも目下の公爵であるバンデラス公爵は、いやでも立ち上がらなくてはならない。
この点では、カイエンたちのしたことは、侯爵であるモリーナには真似をしたくとも出来ないことだった。
もちろん、ここは大議会であって、社交場ではない。だから議場の外ならともかく、中では、本来は挨拶などせずとも咎められることなどないのである。だから、先ほど発言した時も、バンデラス公爵はカイエンやオドザヤにも、挨拶などすることはなかった。
だが、ここで勇み足とでも言える真似を最初にしたのは、モリーナ侯爵だ。
彼が二十年振りにハーマポスタール入りしたバンデラス公爵に挨拶した。それは無視されたが、格上のカイエンの挨拶に
カイエンだけでなく、それはオドザヤも、そして宰相のサヴォナローラやらザラ大将軍も、知りたいことのはずだ。
席に着いたばかりのバンデラス公爵は、まず、ゆっくりと座ったまま体をひねり、カイエンたちの席の方を仰ぐように見た。
カイエンの灰色の目と、バンデラス公爵の鋼色の目が、一瞬だけ合っただろうか。
次の瞬間には、視線を外すことなく、バンデラス公爵はゆっくりと鋼のような体をひねって、席を立った。
「大議会は議論の場。社交場ではありませんので、ご挨拶も致しませず失礼いたしました。大公殿下とご夫君には初めましてお目にかかります。ナポレオン・バンデラスでございます。お見知り置きください」
モリーナ侯爵への対応とは違い、しっかりと礼を取っての挨拶だ。
なるほど。
カイエンは鷹揚に挨拶を受けると、おもむろに次の一手に出てみる事にした。
「バンデラス公爵、丁寧な挨拶、ありがとう。先ほどは、私の至らぬ発言を補足してくれてありがたく思います」
こればかりは本心なので、カイエンの笑みも本物の微笑みだ。カイエンは見たくもないので見なかったが、横でエルネストもよく似た顔に同じような、だがきっとやや皮肉の混じった微笑みを浮かべているのだろう。
「……先ほどは『男だか女だか知らないが』などと申しましたが、大公殿下がシイナドラドより婿君を迎えられたことは聞き及んでおります。まずは、大変遅くなりましたが、ご結婚おめでとうございます。……先ほどの言い方は、大公殿下が男性であれ、女性であれ、そのおっしゃる内容を疑うべきではない、と主張したまでのこと。高貴なお方にお礼をいただくほどのことではございません」
バンデラス公爵の返答は、まるでここが社交場であるかのように錯覚させる。
「そうですか。私の発言を信用してくれて、ありがとう。……元老院院長、申し訳なかった。議論を続けてください」
カイエンがそう言って、席に着く。エルネストの演技は完璧で、彼はカイエンの手を取って先に席に着かせてから自分も席に着いた。それを見届けてから、バンデラス公爵も席に着き、議事堂はしんとして静まり返った。
これで、オドザヤ摂政皇太女を次の皇帝に、という、皇帝サウルの遺言に異を唱えることはもう、出来なくなったのである。
発言したまま、座ることなく立ったままなのは、今やモリーナ侯爵一人だった。
彼は、まだ顔を真っ赤にしたまま頭から湯気を出しそうな顔つきで、立ち尽くしていた。横からモンドラゴン子爵がとりなすように中腰になる。
「……モリーナ侯爵、発言はもうよろしいか」
議場の真ん中から、フランコ公爵が苦虫をかみつぶしたような顔で聞くと、その声でモリーナ侯爵は我に返ったらしい。
「大公殿下、そしてバンデラス公爵のご発言は承った。だが、まだ私どもには確認しておきたいことがある」
それを聞くなり、フランコ公爵の眉がしかめられた。彼はまだこの庶兄が皇位継承に関して、亡き皇帝サウルの意向に逆らおうとするのを、嫌そうに見た。
「そうですか。では、引き続き、モリーナ侯爵の発言を許します」
そう言うと、フランコ公爵は議事堂の真ん中に置かれた、議長の机に寄りかかった。
「皇帝陛下のご遺言、ご遺志については納得いたした」
モリーナ侯爵がこう言うと、議場はちょっとざわめいた。それは、オドザヤの女帝即位にもう異議は挟まない、という意味の発言だったからだ。
「だが、我々にはまだ晴らさねばならぬ疑念がござる。……それは、オドザヤ皇太女殿下の御即位後のことである」
フランコ侯爵がこう言うと、議場はもううんざりした、という空気と、それだ、と彼を後押しする空気に二分された。
「承リましょう」
フランコ公爵が言うと、モリーナ侯爵は額の汗を拭ってから話し始めた。
「確かに、皇帝陛下は次代をオドザヤ摂政皇太女殿下に任された。だが、サウル皇帝陛下がれっきとした皇子、フロレンティーノ殿下を残されたことに変わりはない。で、あるからには、オドザヤ皇太女殿下の御即位後、殿下が皇配を迎えられた場合、そして皇子をあげられたとした場合。この場合に対してのことも、ここで決めておくべきことかと存じる」
モリーナ侯爵がそこまで言うと、議場はがやがやとざわめき始めた。
カイエンやサヴォナローラ、ザラ大将軍はもちろん、話がそこまで行くだろうことを予想していた。だが、どっちつかずの姿勢だった多くの貴族たちには「そこまで話は展開するのか」と言う意外性があったのだろう。
議事堂の中を埋める、二百あまりの上位貴族の当主たちのざわめきは、しばらく、終わりそうもなかった。
その様子を見ながら、フランコ公爵テオドロは、そっと目立たぬように、オドザヤと宰相のサヴォナローラ、それにザラ大将軍の方に目を向けてきた。
それへ、サヴォナローラはそっとうなずいてみせた。ここまでは、バンデラス公爵の発言以外は、予定通りの展開だった。
フランコ公爵は、議長の机の上の木槌を、真っ黒に古びた木の台に向けて、何度も振り下ろした。
ドーム型の議事堂に、大きな木槌の音が響き渡った。
「 議事を中断することとする! 時もそろそろ正午であります。皆様、ご自分のご意見をおまとめになり、午後からの再開に備えられませい!」
元老院議事堂は、皇宮のある高台の丘の上でも、皇帝一家の住む区画や、海神宮からは一段下がったところにある。
正午過ぎに中断した大議会の再開は、午後の半ばと定められた。
議事堂には簡単な控え室がいくつかあるが、二百人からの貴族の当主たちが休めるような、広くて立派な部屋はない。
もとより、子爵以上の貴族たちである。一人で馬車に乗って乗り込んできたものなどいるはずがない。皆、召使いを引き連れて来ているのである。
皇宮内に控え屋敷を持つものは、皆、そこに一旦下がって行く。
ハウヤ帝国の大貴族は、皆、自分の領地に城を持ち、帝都ハーマポスタールに自分の館を構えている。地方に領地のある貴族はみなそうだ。
その上に、皇帝や皇后、皇女たちの周りに侍る有力貴族となれば、皇宮の中にも控え屋敷を持っている。広大な皇宮での行事や仕事の時に控えるためのもので、住むためのものではないから、どこの家のものも広くはないが、専属の使用人を置いている貴族も多いのだ。
ところで、大公家にも控え屋敷はあるが、使うことがないので、使用人は置いていない。だから、一昨年、皇后の非公式晩餐会の折、カイエンはクリストラ公爵の控え屋敷を使わせてもらっている。
どっちつかずの貴族たちは、自分や親しい貴族の控え屋敷へ向かったし、財力のない家で控え屋敷を持たない者は、優先的に議事堂の中の控え室へ入ることが許された。
モリーナ侯爵の出した大議会開催請願書に署名した六十九の家の当主たちは、モリーナ侯爵家の控え屋敷へ向かったようだ。作戦会議でもするのだろう。
カイエンたち、オドザヤを中心としたグループは、クリストラ公爵家の控え屋敷へ入った。
控え屋敷は、あまり広くはないし、召使いも少ない。だが、オドザヤにも侍従や侍女が付いて来ていたし、護衛として大公宮からオドザヤにつけているブランカとトリニも控えていた。
カイエンには執事のアキノと護衛騎士のシーヴが、エルネストには侍従のヘルマンがいたし、フランコ公爵にも侍従が付いていた。ついでに言えば、ザラ子爵ヴィクトルには自分の控え屋敷があったが、あえて彼もまたクリストラ公爵の控え屋敷へ引き下がって来ていた。
宰相のサヴォナローラには、護衛の武装神官リカルドが、ザラ大将軍にも従卒が付いて来ていた。
他にも、クリストラ公爵とフランコ公爵の派閥に属している貴族たちはいたが、それらは隣のカレスティア侯爵家の控え屋敷に集まることになった。もともと、彼らの意見はまとまっており、議場での意見はクリストラ公爵がするのだから、後で変更がないか、確認すればいいのである。
それでも、クリストラ公爵のあまり広くない控え屋敷は、彼らすべてを休息させるために収容するには、やや、狭かった。
控え屋敷には、大議会には出られない、クリストラ公爵夫人のミルドラと、フランコ公爵夫人のデボラが昼餐の用意をして待っていた。大議会が昼までに終わるにせよ、終わらぬにせよ、一度はここへ下がってくる手はずだったからだ。
「さあさあ、こっちへ入ってらして! 食堂はご当主様たちでいっぱいだから、お付きの人たちはそっちの部屋か、庭で食べてちょうだい。……ああ、ご主人様のお世話があるなら、後でサンドイッチでも持たせてあげるから、大議会が始まってからにするといいわ」
「伯母さま、ありがとう」
カイエンはアキノを、エルネストはヘルマンを引き連れて、オドザヤに続いて食堂に入った。正面の一番上座にオドザヤが座り、順に座って行くと、従者たちの座る場所などなかった。一番下の席に着いたのが、宰相のサヴォナローラだ。
「いいのよ。一応、屋敷の料理人を連れては来たけれど、何せ食器が足りなくてね。簡単なものばかりでごめんなさいね」
ミルドラは謙遜したが、食事は汁物もメインもちゃんとある、かなり立派なもので、皆はまずは腹ごしらえにかかった。
ワインが開けられ、食事の合間に今後の打ち合わせも行われたが、それは第一義に、「どこを落とし所にするか」の一点に集約されていた。
「冷や汗をかきましたが、なんとかオドザヤ皇太女殿下の御即位には異議は出てこなくなったようですな」
ザラ大将軍が言えば、フランコ公爵も頰を紅潮させて言う。
「モリーナの
「まあまあ。古い考えの方々は、概ね、あんなものでしょう。まあ、あの方々の後ろには螺旋帝国とベアトリアが付いているんでしょうが、あの方にしても外国人の専横を許すつもりはないでしょうから」
クリストラ公爵が慰め顔に言うと、末座から宰相のサヴォナローラの声が聞こえた。
彼はもちろん、大議会では発言しなかったが、実際の政治を見て行くものとして、ここで抑えておかなければならないことは多すぎるほどにあったのだ。
「問題は、大議会の評決を行う議題の文言です。バンデラス公爵様のおかげで、サウル陛下のご遺言が守られることは確実となりましたが、フロレンティーノ皇子殿下のご処遇と、オドザヤ様のご結婚やお子様の扱いに付いては、議論はまとまりますまい。……となれば、最後は札入れによる評決になります」
「そうだな」
そこで、カイエンは食べていた手を止め、食器を置いた。
その様子を見て、皆の手も止まる。
「もう、何度となく皆とは意見をすり合わせたが、我々の目指す落とし所はもう、決まっている。そして、それはモリーナ侯爵たちの用意している落とし所と、そう食い違ってはいないはずだ」
カイエンがそう言うと、ザラ大将軍が身を乗り出した。
「そうですな。フロレンティーノ皇子が生きておられる以上、オドザヤ様の次の皇帝が誰になるかの落とし所は決定しています。ですが、フロレンティーノ皇子の背後に付きたいベアトリアと螺旋帝国の思惑は、挫かねばならん。……評決の時に寝返らないように、モリーナ侯爵は六十九の当主達の弱みを握るなり、脅すなりしているでしょうしな。ただ、請願書は皇帝陛下の葬儀の二日前になるまで出せなかった。となれば……」
サヴォナローラが後半を引き取った。
「……完全に取り込んでいるとは限りませんですが。しかし、署名までしているのだから、多数がこちら側に転ぶことは考えにくい。問題はどちらの陣営にも組みしていない、政治には関わりたがらない当主の皆様がどうするかです。まあ、普通なら皇帝陛下のご遺志に反する側に票を入れることは無いでしょうが」
「そうですな」
これはザラ子爵。
「午前中の様子では、バンデラス公爵がこちらの主張を後押ししてくださったが、あの方が今度、十数年振りにこの帝都へ上がって来た目的は、サウル陛下のご葬儀への参列だけではありますまい。……油断は禁物でしょうな」
座長のような形になった、クリストラ公爵ヘクトルは、そう言うと、もう、食事はそろそろ終わりでいいだろうと、妻のミルドラの方にそっと目をやった。ミルドラとデボラの二人の公爵夫人は大議会には出ないから、給仕する召使いの監督に徹していたのだ。
ミルドラがそっと目配せすると、クリストラ公爵家の召使いたちは静かにテーブルの上を片付け、食後の茶菓の用意を始める。
「……フロレンティーノ皇子のご養育をマグダレーナ様に任せておくことはできない。出来るものなら、ベアトリアの思惑の届かぬところで、このハウヤ帝国の人間が、ハウヤ帝国人として、次代の皇帝としての帝王教育を行い、お育てするべきだ」
クリストラ公爵が改めてそう言うと、これにはそこの皆がうなずいた。
「そうですね」
ここで初めてオドザヤが口を開いた。
「私はここにお集まりの皆様の、深い慮りにすがり、お父様のご遺志を守り、ハウヤ帝国の国体を堅持し、国民の皆の生活を私どもの損得で侵すことなく進んでいけたら、と思うばかりです」
カイエンは聞いていて、オドザヤの急激な成長を感じた。
カイエン自身も、一昨年、去年と相次ぐ事件の中で大公として独り立ちするべく努力してきた。そして、去年の終わりには心身を損なうような出来事をも乗り越えた。二歳年下のこの母を同じくする妹で従姉妹であるオドザヤは、カイエンよりも若くして自分の課せられた重責をしっかりと背負って生きて行こうとしていた。
ただ一つ、カイエンが心配していたことは、そのためにオドザヤは自分自身の生き方を失ってはいないか、という一点だった。今、ここで皆の前で言うことではないから、カイエンは黙っていたが、オドザヤの結婚については、それが政治的なものになるのは致し方ないとしても、なんとか彼女の幸せが守れる方向でまとめてやりたいと思っていたのだ。
「……大議会の再開は、午後三時でしたか?」
紅茶と、あえてそういうものを用意したらしい、素朴な田舎風の菓子……実はそれはフランコ公爵夫人のデボラが焼いたものだった……を喫しながら、皆は小一時間ほどこの控え屋敷内で休息することを決めた。
「カイエン、二人だけで、話がある」
エルネストが、そう言ってテーブルから立ち上がろうとしたカイエンを呼び止めたのは、茶菓が終わって皆がばらばらになろうとしていた時だった。
クリストラ公爵夫妻は奥の部屋に入り、フランコ公爵とデボラは隣の、デボラの実家であるカレスティア侯爵家の控え屋敷へ向かった。控え屋敷は大きなものではないから。隣とは木立を挟んで庭続きなのだ。
サヴォナローラとザラ大将軍は、食堂に残っていたが、オドザヤは警護の大公軍団隊員である、ブランカとトリニに守られて一室に下がっていた。休息したのちに、化粧を直したりするのだろう。
「なんだ? こんな時に」
カイエンが不機嫌そうに眉をひそめると、執事のアキノと、彼女の護衛騎士であるシーヴがすぐに気がついて背後に控えたのがわかった。
「エルネスト様……」
エルネストの脇では、侍従のヘルマンが小さな声で口を挟む。
「なんだよ?」
「何も、今日でなくともいいのではありませんか。……大公殿下におかれましては、ご休憩が必要です」
ヘルマンはシイナドラドで、虜囚となり、エルネストに苛まれて体の弱ったカイエンの世話をしていたから、彼女の体調が気になるのだろう。律儀な男だ。
カイエンは直線的な眉をひそめたまま、エルネストとヘルマンのやりとりを聞いている。
「こんな時でもねえと、大公宮じゃあ、周りの目が多すぎて、ゆっくり話もできねえだろ」
「だから、今なのですか? ここでもみなさん、ちゃんと見張っておられます。同じでしょう?」
だが、エルネストはしつこかった。まあ、いつもの通りでは、ある。
「カイエン、心配するな。今なら、宰相さんも大将軍さんも、そばにいる。ちょっと叫べば、うじゃうじゃとみんな駆けつけてくるだろ」
エルネストはヘルマンの言ったことなど無視して、カイエンに迫った。どうしても話を通してしまうつもりらしい。
「なんなら、この護衛騎士さんをちょっと遠くに見張りに置いといてもいいんだぜ」
そこまで言われれば、カイエンも嫌だとは言いにくくなった。
ヘルマンの方も、なおもやめさせようと口を開こうとはしたが、エルネストが引き下がらないであろうことは、付き合いの長い彼にはもう、わかっていた。
ヘルマンの困ったような顔を見て、カイエンはため息をついた。
カイエンにはわかってしまった。エルネストが大公宮では話せない、と言うのは、ヴァイロンとガラがいるからだろうと。
おのれの唯一であるカイエンを傷つけられ、内心ではエルネストに対して炎のような怒りを燻らせているはずのヴァイロンはもちろん、シイナドラドで獣化している時、エルネストに噛みつき、右肩を脱臼させたのは、ガラである。
エルネストが大公宮にきてから、カイエンの側にはいつも彼らの姿があった。だからなのだろう。
「議事堂の木の椅子は座面は布張りだったが、背中がまっすぐなので疲れた。……楽な椅子があるところでなら、少しだけ話を聞いてもいいぞ。だが、長い話はごめんだ。私は休みたい」
カイエンがしたくもない譲歩をすると、エルネストはともかく、ヘルマンの方は恐縮した。
「お庭に、あずまやがございました。ちょうど日陰になっておりますから、あそこに楽なお椅子を拝借してお運びしましょう」
そして。
アキノに指示されながら、ヘルマンとシーヴが食堂からも様子の見えるあずまやに楽な椅子を運び込んだ。彼らに取っては、余計な仕事が増えたものだ。
あずまやには小さなテーブルもあったので、アキノは、
「何かお飲物を持ってまいります」
と、言って一旦下がった。もっとも、シーヴに目配せしてあずまやの外、話の聞こえるか聞こえないかという距離にある木の下に立たせることは忘れない。
アキノとシーヴ、それに心配顔のヘルマンが下がったのち。
テーブルを挟んで座った、カイエンとエルネストは、しばらくの間、目を合わせることもなく、口を開くこともなく黙り込んでいた。
カイエンの側からすれば、話があるのはエルネストの方なのだから、自分から口火を切る気持ちなどなかった。
やがて。
庭の向こう、隣のカレスティア侯爵家の控え屋敷の屋根が見える方を眺めながら、エルネストはやっとのことで口を開いた。
「……俺、あの伊達男に言われたんだよ。偶然、裏庭で会った時なんだけどな」
カイエンはちょっとびっくりした。伊達男とはあのイリヤのことに違いないだろうが、彼らが二人で話したことがあるなどとは考えたこともなかったからだ。
そして、次にエルネストが言った言葉を聞いて、カイエンはなんとも言えない、いやーな気分になった。
「……俺の顔を見るなりだぜ。『この強姦魔が。不用意に俺の前をうろちょろしてると、逮捕、拘禁、拷問するぞ』って凄みやがった」
エルネストはカイエンの方を見ない。まあ、見ながらでは、色々と人格に問題のあるエルネストとても、こんなことは言えやしないだろう。
カイエンは、渋くてまずいワインでも飲まされたような顔つきで、しばらく言葉も出なかった。エルネストもひどいが、イリヤもすごい。仮にも皇子にすごい啖呵を切ったものである。
黙っているうちに、向こうからアキノが飲み物を持ってきたので、アキノがそれをテーブルに置くまで、カイエンは黙っていた。
「……それは、まごうことなき事実じゃないか。イリヤも、たまにはまともなことを言うんだな」
いきなり人払いをしてまで、こんな話を始めたエルネストの真意がつかめず、冷たい果実水で喉を潤してから、カイエンはやっと言葉が出てきた。それでも、話しにくい話題であることには変わりがない。
それに、シイナドラドでエルネストがカイエンにしたことは、まさしく「合意のない無理矢理な関係の強要」であった。
「そうだよな。それは事実だ。でも、俺たちの関係は、今やそれだけじゃないんだぜ。……今、あんたと俺が夫婦になっちまってるのも、また事実なんだよ、カイエン」
カイエンは当惑していた。
エルネストのしたい話の方向が、なかなか見えてこないからだ。
そもそも、あの図々しく、面の皮の厚いエルネストが、座ってから、一度もカイエンの方を見ようとしない。
「俺もあんまり気は進まねえんだが、この国も、そろそろ荒れてきそうだからな。一度、ちゃんと話をして置くべきだと思うんだよ」
カイエンもまた、エルネストの顔を見なかった。彼女の方は、彼がこのハウヤ帝国に現れてから基本的にそうしてきたのだったが、今は、本当にそちらの方向に顔を向けることさえ恐ろしかった。
そして、カイエンにはわかってしまった。
エルネストもまた、何かを恐れているのだと。
シーヴは、声の聞こえない距離でカイエンとエルネストが話している姿を見張りながら、ふと、視線を感じて振り向いた。
「よう」
そこには、サヴォナローラの護衛についていた、武装神官が立っていた。
「はい。なんでしょう」
武装神官のいでたちは、普通の神官よりも丈の短い膝までの褐色の僧衣の上に、アストロナータ神殿の五芒星の紋章を胸に縫い取った白いアルバと呼ばれるガウンを着た姿だ。その上に神官の帽子の代わりにガウンから繋がった頭巾フードをかぶっているから、シーヴには彼の顔が、声をかけられたその時まで見えていなかった。
「あのさ。俺はサヴォナローラ様についているもんで、リカルドって言うんだけど」
だから、武装神官がそう言って、
「えっ?」
似ている。
いや、顔立ちはそう似てもいなかった。だが、浅黒い顔色に胡桃色の目、それに顔色とそぐわない亜麻色の髪の色はそっくり同じだった。
「あんた、大公殿下の護衛やっているシーヴさんだろ? ああ、本当に同じだわ」
シーヴは、自分の唇が勝手に動いて、その言葉をささやくような声で言うのを聞いていた。
「ラ・カイザ……なのか?」
そして、リカルドの答えの方は飄々としていた。
「ああ。俺も仲間に会うのは初めてだ。……よろしく、兄弟」
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