大公軍団恐怖の伊達男の懺悔

 皇帝サウルの時代には、多くの平民出身や下級貴族出身の官僚や軍人が採用された。

 その影響もあってか、女大公の時代、大公宮では身分の上下を問わず、奥の大公の食堂で、食卓を囲みながら話し合いをしたり、親睦をはかったり、部下たちの忌憚ない意見を聞こうとすることもあったという。

 もっとも、その場で大公をはじめとする、いわば身内によって弾劾され、罪を問われ、叱責を受け、懺悔のために美しい飴色の木材が幾何学模様を描く床に這いつくばって許しを請うた者もいたと言われている。


 

     アル・アアシャー  「海の街の娘の叙事詩エピカ」より






「海老とイカ、それに貝柱をレモンと香草でマリネした、セビチェのカクテル。ゆで卵と玉ねぎを加え、レモン汁と粗塩、それに『赤悪魔ディアブロ・ロホ唐辛子汁チレ』で味付けしたグァカモーレ。それに今が旬の貽貝コンチャでございます。こちらも、お好みでライムか、レモン汁をかけてお召し上がりください」

 アキノと大公宮奥の侍従頭であるモンタナが掲げ持ってきた、銀の盆の上。

 そこには、これから暑くなる季節を先取りした涼しげな前菜アペリティーボが、涼やかなガラスの器に盛られていた。

 それらが静々と、真っ白な布で覆われたテーブルの上へ置かれていく。今朝はカイエンの乳母のサグラチカや、女中頭のルーサ達の姿はない。彼女達はリリの部屋にいるはずだ。

 大ぶりの海老だの貝柱だのに比べれば、貽貝コンチャやアボカドのグァカモーレは庶民の味とも言っていいようなものだが、気取らない趣味を持った貴族層ではごくごく新鮮なそれを、朝のうちから食べるのが最近の流行だった。アキノはこういう部分にも細かい、老いたりと言えども第一級の執事である。

 大公宮奥の大公の食堂のテーブルの上には、すでに色とりどりの果実のジュースの入ったガラスの水差しが並び、入って正面の鏡と暖炉の前に座った、大公軍団の黒い制服姿のカイエンの前のグラスには、明るく澄み通ったオレンジ色の液体が注がれていた。

 そこに居並ぶ人々の前に並べられた、これまた真っ白な陶器に大公の紋が金色で描かれた皿の左右には、曇りひとつなく磨き上げられた銀食器カトラリーが並ぶ。

 この大公宮の主人である、女大公カイエンの朝食は、彼女の仕事が忙しいものとなって来たここ数年来は彼女の寝室の側の居間で摂られることがほとんどだ。そのためにカイエンの居間のソファの前には、とった小皿を並べて置ける様なやや足の長い小机が置かれたほどである。

 だが、この日は違っていた。


 昨夜、ハーマポスタール郊外の「アイリス館」での捕り物の後。カイエンがヴァイロンと、それにサヴォナローラを引き連れてこの大公宮に戻って来たのは、もう真夜中に近い時間だった。

 サヴォナローラはさすがにわずかな時間、仮眠をとると夜明けとともに、すぐに皇宮へ戻っている。

 カイエンが起床したのは、いつもよりやや遅くなった。だから、この日の朝食はいつもよりは遅い時間だった。

 だが遅いとは言っても、大公軍団団長が、大公軍団の朝の朝礼を終えてから、上がってくるのにはちょうどいい時間だ。

 この朝、カイエンがわざわざこの、いつもは朝食には使わない大公一家の食堂に朝食の用意を命じたのには理由わけがあった。その「理由わけ」は、カイエンのやや下座の席、中庭に面した窓を正面にした右側に座っている。

 カイエンはそいつの顔がよく見えるように、わざと窓と向き合う右側に座らせたのだ。

 この改まった朝餐に、わざわざ呼び出された「ワケあり」な当人。

 それは、真っ黒な大公軍団の制服を、今日も几帳面に着こなした、大公軍団長のイリヤボルト・ディアマンテスだった。

 昨夜、カイエンたちを大公宮へ帰した後も現場に残った彼は、ほとんど眠る時間もなかっただろう。それでも顔ぐらいは洗ったようで、このけしからぬ「大公軍団の恐怖の伊達男」の寝不足でも麗しい顔には、無精髭らしきものなど見ることもできなかった。

 彼は憔悴した顔には見えたが、いつもの懲りないにやにや笑いの「名残」とも言うべき、この男としてはかなりヤケクソな笑みを、笑くぼの辺りに、まるで付け黒子ぼくろのように貼り付けては、いた。

「……気合が入っているな、アキノ」

 カイエンがイリヤを無視して、並べられ始められた料理を見ながらそう言うと、いつもながらに隙なく黒い執事の制服に身を包んだアキノは、低い声で答える。 

「恐れながら、私にとりましても今朝は、この人生の正念場でございます」

 今朝、朝餐の俎上に載せられる男は、カイエンの右横に座らされた「ワケあり」一人ではなかったから。「ワケあり」の同郷であり、「ワケあり」同様、長い間、カイエンに言うべきことを言わずに来たのは、彼とても同じだった。

「そうだろうな」

 カイエンは、意地悪そうに微笑むと、「ワケあり」イリヤの向かいに並んで座っている、小さくて枯れ細った中年男と、こっちは厳しい顔でイリヤの方を睨んでいる、彼女と同じく黒い制服姿の大きな男に声をかけた。マテオ・ソーサにもヴァイロンにも、今朝ここにイリヤを呼び出したわけは、もう話してあった。

「先生、アキノもこのように気合の入った朝餐を用意してくれました。私の言葉が足りなかったら、こいつらを嫌味で煮殺してやってくださいね。それにヴァイロン、同じように拳で叩き潰して、好きなように料理していいんだぞ」

 この残酷な嫌味の効いた言葉には、イリヤのヤケクソ気味な微笑みもやや強ばったようだ。マテオ・ソーサの煮えたぎる辛辣なソースのような嫌味はやり過ごせても、ヴァイロンの鋭く重い拳の方では細切れにされることは間違いない。さすがの大公軍団の恐怖の伊達男も、今朝ばかりはいつもの軽口のひとつも出なかった。

「宰相閣下は、夜明けとともに皇宮へ逃げ帰……いやいや、お帰りになったそうだよ。あの方も、さすがに今朝はいたたまれなかったのだろうねえ。君と一緒にこうして弾劾の場に並んで座るのは、あの方でも恐ろしかったんだろうねえ」

 カイエンの横で、マテオ・ソーサがイリヤに最初の一発をひっかけると、そこへ奥の侍従の一人が困った様子で、慌ただしく扉を開けて入って来た。

「大公殿下、お食事中にお騒がせして……申し訳ございません。エルネスト皇子殿下が……あっ、殿下、お待ちください!」

 侍従は慌ててはいたものの、そこは執事のアキノや侍従頭のモンタナの教育が行き渡っている。言っている言葉にも言葉遣いにも間違いはなかったが、何しろ相手が悪すぎた。


「なんだよ。俺だけ、仲間はずれかよ」

 乱暴な口調で、侍従を押しのけて食堂へ入って来たのは、カイエンの夫という肩書きを背負った、この大公宮最大の「厄介者」であった。

 エルネストは食堂の中に座る面々の顔を、一瞬で確認したらしい。

 なんとか押しとどめようとする侍従に向かって、侍従頭のモンタナに料理の配膳をそっと任せたアキノが、音も立てずにするすると動いて加勢する。

「皇子殿下、どうかお静かに」

 アキノはそう言うと、おろおろしている侍従を目で下がらせた。 

「呼んでないぞ」

 「不機嫌」と言う文字を言葉にしたような、必要最低限の、ぶっきらぼうなカイエンの言い様にもエルネストは動じない。言葉の応酬では負けない自信があるのだろう。

 と言うより、カイエンは知らないが、エルネストは先日、大公宮の早朝の裏庭でイリヤと出会った時、最後の最後にはやり込められた形になった。それをエルネストのような男が面白く思っていたはずがない。

 となれば、今日、彼はこの事態を高みの見物に来たに違いなかった。彼自身もアルウィンの意向で動いていたことは確かだが、エルネストはこの国へ来る前に片目を置いて来ることで自分の側のけじめをつけ、そして、あの悲惨な結婚式でカイエン自らに締め上げられ、結婚契約書でも服従を誓わされている。

 エルネストは今日ここで、アルウィンの手下から離れたとはいえ、まだ格好をつけようとしている伊達男イリヤがどうするのか、楽しみに見物に来たに違いなかった。

「知ってるさ」

 そう言い放ち、図々しくも、ずかずかと入ってこようとするのを、後ろからも止める声が聞こえた。

「エルネスト様! いけませんっ! 大公殿下、申し訳ございません。火に油を注ぐだけですからおやめくださいと申し上げたのですが……」

 後ろから傍へ出てきて、直接、エルネストの腕を取って引き戻しながら取りなす、たった一人のエルネストの侍従のヘルマンも、今朝のこの場所の雰囲気には敏感だった。雰囲気を無視できているのはこの場に「厄介者」一人だけだ。

「ほら! 見ろよヘルマン。カイエン様お気に入りの赤鬼のお兄さんも、俺の隣人の小さい悪魔メフィストフェリコのおっさんも、もう一つ向こうの部屋のでっかい青鬼の兄さんも、ここの後宮の連中はみんな呼ばれてるってのに、正しく結婚契約書で認められた『夫』の俺様だけが仲間外れなんじゃねえか」

 大公殿下の赤鬼、青鬼。

 それは、一昨年の騒ぎの後に市井にばら撒かれた、大公宮の後宮を揶揄する噂である。そんな噂をすでに聞きつけているところがエルネストの油断のならないところである。教授のあだ名についてもしかり、だ。

 カイエンは彼女的には寝不足の頭が痛くなるような感じがした。いつも彼女をいらいらさせる、この派手でうるさい男達ばかりが問題を起こすのだ。

 白い額には青筋が浮かぶ。眉間を揉む指が、神経質に震えた。

「殿下」

 その様子を見て、小さな声で呼びながら、ヴァイロンがマテオ・ソーサの後ろを回ってカイエンの後ろに立ち、そっと肩に手を置いた。エルネストの姿が見えないように、扉側を自分のでかい体で隠すようにする。つまりは、エルネストとカイエンの間に巌のように立ちはだかったのだ。

 それを目ざとく見た、エルネストの黒い目とヴァイロンの翡翠色の目の間で火花が散った。その様子を見て、マテオ・ソーサ以下の「常識人」たちは内心で頭を抱えた。

 この二人を、なるべく同席させないよう、そもそもエルネストをカイエンの前になるだけ出て来させないよう、この大公宮奥のまともな人々は日々、途方も無い努力と、気を遣っているのだ。だと言うのに!

「あはっ」

 カイエンの右側に座らされていた「ワケあり」イリヤだけが、この事態を喜んでいた。思わず漏れてしまった嬉しそうな声を、カイエンも、立ちはだかったヴァイロンも聞き逃さなかった。

「黙ってろ」

「黙れ」

 カイエンとヴァイロンの、奇しくも同時に発せられた地響きのような声が聞こえると、イリヤの一瞬だけの喜びも粉砕された。


「わかった」

 カイエンはそれでもこの場の主人として、裁定を下さねばならなかった。

「エルネスト、お前はそこの唐変木の横に座れ。……言っておくが、この大公宮では要件の重さが身分を上回る。皇子殿下として扱って欲しいなら、部屋へ帰れ」

 聞くなり、エルネストは面白くてたまらない、と言う様子でにんまりと笑うと、途端に大人しくなって、ヘルマンを従え、イリヤの後ろを通って行く。

「はいはい。ヘルマン、ご主人様のお許しが出た。行くぞ」 

 それでもエルネストはイリヤのすぐ横の席は避け、ひとつ空けた下座に座った。彼は早くも、この大公宮の流儀に馴染んで来たようだ。ヘルマンはエルネスト個人の侍従だから、アキノを手伝ったりはせずにエルネストの後ろに控えた。

「はい、は一回にしろ」

 エルネストの前へ、アキノが食器を置き始めるのを見ながら、カイエンは小姑のように注意した。まだ、いらいらが収まらない。

 その頃には、涼しげな前菜アペリティーボからは美しい色彩と、レモンや香草の爽やかな香りが、焼きたてのパンからは香ばしいなんとも言えない香りが立ち上り、人々の目や鼻に食欲を訴え始めていた。 

 長いテーブルの下手には、陪食を許されたシーヴが、居心地悪そうに座っている。彼はカイエンの護衛だから、朝から大公の側に控えているのは普通だが、朝食の陪食をすることは稀だ。

 その横には、教授にくっついて来たガラも座っていた。彼は陪食の必要もなければ、本来、その権利もない無位無官の男だが、この大公宮では、神出鬼没な彼の動向を気にする者はとうにいなくなっていた。いつ、どこに出没しようが、大公宮奥の召使いたちに驚く者はいなくなって久しい。

 背後のヴァイロンをマテオ・ソーサの隣の席へ戻すと、カイエンは深呼吸した。

「……揃ったな」

 カイエンが言うと、アキノとモンタナがカイエン以外の男たちの好みを聞いて、果物のジュースをグラスに注ぎ始めた。

「とりあえず、腹が減った。皆、始めてくれ。……アキノ、貽貝コンチャを取り分けてくれ」

 カイエンのぶんはアキノが、エルネストのぶんはヘルマンが行ったが、他の面々は各々で貽貝コンチャや、アボカドのグァカモーレを自分の皿に取り分け始めた。この二つは銀の大皿でテーブル上に置かれていたからだ。

 しばらくの間、広い食堂には一応、上品な仕草ながら、もりもりと健康的に新鮮な海産物や野菜、それに果物を食する音だけが支配した。

 カイエンとても、朝餐の第一義が「一日の始めである、大切な滋養ある朝ご飯を、ともに美味しく食べる」ことであることを忘れてはいなかった。

「アキノ」

「は」

「この貽貝コンチャは、大量に手に入ったのか?」

 カイエンは青いライムを絞って、紫色の汁ごと手で貝殻を持って口元へ持っていき、つるりと貽貝コンチャを食べていく。こればかりは上品にフォークで刺して食べるものではない。小さな貝殻の中に紫色の汁に浸かっている山吹色の身は、やや磯臭いが、それがたまらない旨味となっている。

「はい。そろそろ旬ですので、仲買人に声をかけておりましたところ、今朝早く持ってまいりました。こればかりは新鮮でないといけませんので、今朝の皆の賄いにも出しております」

 アキノは皆の手元に指を洗う器を置きながら答える。

「そうか。評判はどうだった?」

 カイエンが聞くと、アキノはこの頃皺びた顔に、微笑みを浮かべた。

「皆、喜びましてございます。まさか、殿下よりも先に供されていたとは知りませんが、これほど新鮮な貝はそうそうは食べられませんから」

 使用人達の朝食はもう、とっくに終わっているだろう時間であった。

 海老やイカ、それに貝柱のセビチェや、グァカモーレのためには、揚げた香ばしいトウモロコシのパンも添えられた。皆がそれらに舌鼓を打っている間に、今度は通常の朝食らしい暖かい皿が配られ始め、同時に暖かい紅茶と珈琲のカップもテーブルに運ばれた。

「卵料理はお好みで調理させていただきます」

 カイエン達の気合が、厨房まで伝わっているらしく、モンタナとともに料理長のハイメが注文を聞きに来た。

 めいめいが注文した、単純なゆで卵から、ふわふわのチーズ入りのオムレツやら揚げ卵、手の込んだハムや野菜を巻き込んだ卵焼きまでが、ハーマポスタール下町風の黒豆の煮物フリフォールや新鮮な野菜とともに出される頃には、皆の表情が幸せそうに緩んでいた。


 そして。

 皆が濃い紅茶か、同じように濃く出された珈琲のカップをゆっくりと傾け始めた時。

 カイエンは、口を開いた。

「イリヤ。いや、大公軍団団長、イリヤボルト・ディアマンテス」

 その声は、満ち足りた朝食を終えて、しっとりと落ち着いていた。

 だが、それだけにそこに集った、彼女以外は男ばかりの面々が、はっとしておのれの手にしていたカップを、テーブルの上のカップ皿に戻す力を持っていた。それは、いささか世間のそれとは違ってはいたが、家長の威厳に似たような効果をもってその場の皆の耳を打ったのだ。

「それにアキノ」

 アキノはイリヤと違って、朝餐の相伴にはあずかってはいない。

 アキノは給仕を終え、かしこまってカイエンの傍に控えた。

「お前達に、今日、この朝に聞いて確かめたいことがある」

 カイエン自身もわかっていたが、これは茶番だった。

 二人がもう、アルウィンの操る糸の下から、自ら糸を切って離れたことはカイエンも理解している。

 それに今、このハウヤ帝国大公のカイエンは、大公軍団を束ねる団長のイリヤも、大公宮を支配する執事のアキノも、その二人ともをこの場で裁き、放逐することは出来ない相談だ。彼らがいなくては、この大公宮は表も奥も回らなくなる。ハーマポスタール市内の治安を預かる大公軍団の組織が揺らぎかねない。

 そして、それは当事者達にも自明のことだった。

 繰り返すが、彼ら二人を放逐すれば、大公軍団は瓦解しかねず、大公宮は回らなくなるだろう。

 イリヤの下にはマリオとヘススの双子とヴァイロンが、アキノの下にはモンタナが控えてはいるが、ヴァイロン以外の彼らの忠誠はカイエンに帰するとは限らない。心情的には、直接の上司であるイリヤやアキノに帰するのかもしれないのだ。

 それほどに、イリヤもアキノもこの大公宮に、深く深く根を張るイキモノになってしまっていた。


「悔しいが、今までのことはもうしょうがない」

 カイエンの脳裏にその時、浮かんだ顔は、もちろんあの憎らしい父親、アルウィンの顔だった。

「イリヤ、お前は『盾』とかいう集団の頭だったのか?」

 カイエンはイリヤのいる右側を見ようとはせず、あえてまっすぐに誰も座っていない部屋の反対側の椅子を見ながら、ずばりと聞いた。

 それから、彼女はかいつまんで話し始めた。……昨日、サヴォナローラから聞いたことを。サウルの遺言書に書かれていたことを。五年前にアルウィンが死んだのは、佯死だったこと。その後の彼の動向。そして、この大公宮を去る時に残して行った、連絡係の元締めのことを。

 エルネストのことは話さなかったが、こっちはこの場にいる者達にはもう承知のことだろう。

 彼女の右側で、彼女の言葉の重さに逆らうように、カップ皿からカップを取り上げる音がした。

「そうですねえ」

 このことは、アキノも知っていたはずのことだ。だが、アキノは何も口を挟まない。アキノはゆっくりとイリヤの斜め後ろに移動した。裁かれている者が分かりやすい構図を自ら作ったのだ。

 イリヤは、飲んだか飲まなかったかもわからないが、一度は自分の持っている珈琲のカップに唇をつけた。

「その『盾』とか言う馬鹿どもの集団の親玉は、確かに俺でしたねえ」

 他人事のように、その言葉は二人の間に落ちた。

「そうか。それは許しがたいな」

 カイエンは静かに自分の感想を述べた。許しがたい。その声は、やや悲しげでため息とともに発せられた。イリヤがそう答えることは、もう五年以上の付き合いになるカイエンには予想できていたが、それでもイリヤ自身の口で言われると心にこたえた。

「そうでしょうね」

 そう答えたイリヤ自身が一番、確かに感じていた。自分の返答の熱のなさを。

 だが。 

 その時、同時にイリヤははっきりと見た。そして、感じたのだ。

 くるりと回る彼の鉄色の瞳に映った視界。それが一瞬で真っ青に塗りたくられた。

 直後には真っ黒に反転し、今度は体の感覚が落下を感じて戦慄わなないた。

 そして、首元を走るおぞましいほどの冷たさ。

(なんだろ、これ)

 そう思った時には、ぐっと手前に引き絞られた彼の視界の中で、おのれの首が高々と五月の朝の真っ青な空に飛んでいた。それを、命が終わるその瞬間の衝撃と共に見たのだ。

「あっ」

 あんまりにも、まざまざと自分の最期が見えてしまったので、イリヤはとっさに間抜けな声が自分の喉から出て来たのを止められなかった。ちょっとだけは、懺悔の言葉やら、謝罪の言葉だのも、用意周到な彼は考えて来ていたのだが、それらが見事に吹っ飛んで消えた。

 それは、一瞬の幻影というには、あまりにも鮮烈な情景だった。

 そんなイリヤに、マテオ・ソーサとヴァイロン、それにシーヴあたりは怪訝そうな目を向けたが、カイエンは頓着しなかった。

「そしてアキノ、お前はイリヤのことだけでなく、他のことも、私が気がつくまで話そうとはしなかったな」

 カイエンはアキノの方も見ない。

「はい。その通りでございます」

 そうか、と今度もカイエンは低い、半分ため息のような声でうなずいた。

 すでにサヴォナローラとの話でわかっていたことではあったが、本人達に肯定されると胸が苦しくなった。

 カイエンの座っている場所からは、左手が中庭に面した、壁一面の窓となっている。格子状に組んだ木組みに、やや色合いの違うガラスをはめ込んだものだが、庶民はもちろん、貴族階級でもこれほど大きな窓を部屋に組み込めるのものはそうそういない。だから、この部屋の様子というのも、他には皇宮くらいでしか見られない情景というものだった。

 その窓の外には、カイエンの位置からは五月の青い空が、木立の後ろに見えていた。これは小柄なカイエンが椅子に座っていたからで、他の男達の目線からは空は見えなかったかもしれない。

 カイエンは黙って、しばらくの間、窓に切り取られた空の色を、ぼんやりと見ているようだった。

 それから、しばらくして。

「わかった。では、この二人の処分を言い渡そう」

 カイエンはやっと、イリヤとアキノの姿を目でとらえた。その目はもう、朝食の栄養が回り始めたように元気そうに輝いていた。

「……お前たちには、文字通りこの私と、この街の『盾』になってもらおうか」

 カイエンがそう言うと、イリヤとアキノはちょっと虚を突かれたような顔をした。

「『盾』って、あんた、『盾』の意味わかってんのか?」

 口を挟んで来たのは、それまでは珍しく黙って朝食をしたためていたエルネストだ。

「知っている。アストロナータ神の盾、信仰を守る盾の紋章からだろう?」

 イリヤが『盾』の一人である、この大公宮の侍従を殺した後に死骸に持たせたのは、大公軍団支給の安物の剣と、アストロナータ神殿の神像から持って来た盾だった。あれは、このことを示していたのだ。

「そうだ。あの盾の件もあったな。あれは窃盗だろう」

 カイエンが思い出したように言うと、イリヤの方からがしゃんと、カップがカップ皿を打つ音が聞こえて来た。

「あの……」

 何か言いかけたイリヤだったが、後ろからアキノの細いが強い腕が彼の肩に伸びて、ぐっとそれを押さえ込んだ。

「今言ったのは、信仰の盾とは違う。触れる実体としての『盾』と言うことだ」 

 カイエンが噛み砕くように言うと、エルネストはふうん、と言う風に顎を引いた。

「アキノさんは殿下の代わりに、イリヤ君はこの街の代わりに死ねってことですね」

 これ以上なくはっきりと、末座に控えるシーヴにまでわかるように言ったのは、マテオ・ソーサの落ち着いた声だった。

「そうです」

 カイエンは言い切ると、もう口調が変わっていた。言いたいことは言い終えた。だから、これからは今後の役に立つ話をしなければ。 


「アキノ、イリヤ。あいつは、あのアルウィンってやつは、何がしたいんだろうか。あいつのどこが、いや、何が悪いんだろう?」

 改めて二人の方を見たカイエンの言葉は、変な言い方だった。

 昨夜、アルウィンはカイエンの問いに答えているはずだ。

(新世界と言ったら新世界なんだよ。この手の届く、いいや、この頭の中で想像できる限界の彼方まで続く、新しい世界だよ! そこへたどり着くために、僕はこの世界に影響し、作用し、変革して行きたいんだ!)

 それでも、カイエンはあえて長い間、あのアルウィンの手元の駒だった男達に聞きたかったのだろう。

「あの方は……」

 アキノが何か言いかけたが、イリヤが上から塗りつぶすようにその言葉を遮った。もう、今朝の「ワケあり」だった顔は、いつもの人をくったような薄ら笑いを浮かべている。立ち直りの早い男である。

「嫌ですねえ、殿下にもわかってるくせにぃ。あれはキワモノの変態ですよ。傍迷惑な怪物です。真面目に分析してやる必要も価値もありませんっ。グスマンっていう厄介な番犬がくっついていますが、あれを取り除けば、逮捕しようとか身柄を抑えようとかしないで、見つけ次第におし包んでぶった切っちゃえば終了! の害虫ですよ」

 口調までが話の途中から、いつもの気持ち悪い話し方に戻っていく。

「ですから。いいですか、皆さん。今度あいつに会ったら、もうお話の必要はありません。殿下ももう、昨日聞くことは全部聞いたんですよねぇ?」

「う、うん」

「それならもう、次に見かけたら即刻ヤっちゃいましょう! 夏に出てくる黒い大きな、あの嫌らしい虫と同じです。タイミングと思い切りが明暗を分けますよ。せんせーと殿下以外は腕っぷしには問題ないんですから、そういう心算こころづもりでいてくださいねぇ」

「私はどうしたら……」

 マテオ・ソーサがこの剣幕にやや押され気味に口を挟むと、イリヤはぎろりと教授のやや引き気味の顔を見た。

「あら、せんせー。例えばだけど、せんせーも殿下もまだ歯はお丈夫でしょ。あんまり素人さんは知らないんだけど、普通の人間でも本気で噛み付くと、噛まれた方はかなりすごいことになるんですよぅ。思い切って力一杯、噛みやすそーなところを噛んじゃってください。その間に誰か駆けつけますから。ヴァイロンの大将か、ガラちゃんだったら、一瞬で片がつきますよぅ」

「あ、ああ、そうか」

 カイエンの左右でこんなやりとりが始まった時。

「お話は終わりましたか」

 食堂の入り口から、サグラチカの声が聞こえ、皆が緊張から解放され、ほぉーっと一息ついた。

「失礼いたしますわね」

 入って来たのはリリを抱いたサグラチカと、それに女中頭のルーサの姿だった。二人とも、扉の外で気配を伺っていたらしい。  

「おお、リリ様」

「リリちゃぁん」

 カイエンの左右で、とっくに売れ残って中年になった男と、そろそろ、そうなりつつある男が嬉しそうに椅子から立ち上がろうと、中腰になる。

 だが、それよりも早く、音も気配もなく、動いた男がいた。

「あら、ヴァイロン。あなたは本当に子煩悩なのねえ」

 嬉しそうな、優しい、サグラチカの声が聞こえるまでもなく、リリを受け取って手慣れた様子であやし始める大きな男。

「ねえ、今、音もしなかったよね」

「気配もしなかったな」

 イリヤと教授が呆然としている間に、その場の雰囲気は赤ん坊のリリを囲んだ和やかなものに変化していた。

「エルネスト様! あなた様はいけません! ご自分のお立場をわきまえられませっ! あ、ほら、仲良しの猫ちゃんが来ましたよ」

 ヴァイロンのそばにエルネストを近づけまいと必死のヘルマンは、ちょうどそこへやって来た、カイエンの飼い猫のミモをさっと抱き上げると、エルネストに押し付けた。彼も短期間で、かなりこの大公宮の空気に馴染んでしまったようだ。

 エルネストは大人しくミモを受け取ったが、その様子を見て、カイエンは地団駄を踏みたい気持ちだった。

「こら! それは私の猫だ! ミモ、こっちへおいで」

 エルネストには近づきたくもないが、ミモが敵の腕の中でゴロゴロ言っているのは見過ごしにできない。


 そんな中。

 アキノはイリヤの肩に手を置いたままだったが、そのままでイリヤの後ろ頭にだけ聞こえる、小さい声で話しかけていた。

「大丈夫だ。首が飛んだのは、なにもそなた一人のことではない」

 聞くなり、イリヤは思わず、といった様子で後ろを振り返ってしまった。

「ええっ? あんたにも見えてたっての? あれ」

 さっき、イリヤがまざまざと見た、おのれの死に際の情景。青い空に飛んでいく命。

 アキノは曖昧にうなずいた。

「今日はとんでもなく青い五月晴れになるだろうからな。まあ、死ぬならこんな日の朝がいいとは、思うさ」


「それはそうと、そなたも私も、結局、懺悔も謝罪も出来ぬままだったな」

 カイエン様らしいわ。

 アキノのその言葉は、老いた唇の中で消えてしまった。 



 カイエン達のところへ、頼 國仁が自殺した、との報が届いたのは、この直後のことである。

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