星と太陽の指輪

 この街にたった一つの星が昇り

 この街をたった一つの太陽が照らす

 そんな夜が

 そんな朝が

 この街で始まるとき


 日食の後の太陽と月との別離のように

 この国は二つに割れるだろう


 星と太陽は再び手を握り合おうと蒼天を追うが

 月はもう振り返らない

 夢魔の囁きに連れられて

 月は遥か遠くへ

 もう星とも太陽とも出会えないほどの遠くへ

 出奔して戻らない


 嘆くな女神たちよ

 嘆くな人々よ

 この街にはまだ光がある

 だから嘆くな

 星と太陽をあわせ持つこの街に

 絶望という暗黒だけは

 決してやってくることはない




    アル・アアシャー 「星と太陽の指輪」



 


 


 


 エルネストの引っ越しから時はやや遡る。


「はてさて。ややこしいことこの上ないが、それでもあいつのやって来たことの一端が見えて来たぞ」

 港に近い、改築中の開港記念劇場の裏手の侍従殺人事件の現場から、カイエンはイリヤと別れて、たった一人で大公家の馬車に乗り込んだ。 

 誰も聞いていないのをいいことに、独り言のようにカイエンの乾いた唇から漏れる息は興奮していた。彼女は神官の話を聞いてからずっと、考え続けていたのだ。

「……うん。これなら私をわざわざシイナドラドまで引き寄せ、星教皇に祭り上げたことの理由が成り立つ!」

 そして、出てきた考えは多くの謎を連結させることが出来そうだった。わざわざ星教皇に即位させたのに、ハウヤ帝国へ帰国させたことの意味も、わかるのではないかという予感があった。


 殺された大公宮の侍従の持たされていた桔梗星紋の盾。

 それを通して、カイエンが初めて知った、「桔梗星団派」の存在。

 それは、あのアルウィンの桔梗館との関連性を強く疑わせるものだった。殺人現場となった港に近い建て替え中の開港記念劇場から、大公宮へと戻る馬車に揺られながら、カイエンはもう一つの事実に思い至っていた。

 さっき、中年のアストロナータ神官が言っていた、「桔梗星団派」の歴史話。

 理由などなかったが、カイエンにはそれこそが「真実」なのではないか、という確信のようなものがあった。

(これは後世、とある神学博士が唱えた説ですが、三百年前にここ、ハウヤ帝国を建国したシイナドラドの皇子、サルヴァドールその人こそが、その時内乱で敗れた桔梗星団派の担いだ星教皇候補だったのではないか、とも言われています)

 それが正しいと仮定するならば、ハウヤ帝国第一代皇帝サルヴァドールは桔梗星団派が担いだ「星教皇」だったということになる。

 その子孫である、歴代のハウヤ帝国皇帝家からはもちろん、星教皇は輩出されていない。

 だが。

 それは去年、カイエンがシイナドラドで無理矢理に星教皇に「即位」させられたことで大きく変化しているのだ。

 シイナドラドで星教皇になれずに国を追われたサルヴァドール。


(それから三百年。二十代近い世代を重ね、ハウヤ帝国建国の父である第一代皇帝サルヴァドールの子孫がとうとう、星教皇になった)


 そこまで考えて、カイエンはぶるりと身震いした。

 それは、自分自身のことだったからだ。

 桔梗星団派がアルウィンと関係があるとしたら、いや、もうこうなってはそうに間違いはないが、カイエンを星教皇にすることも彼らの目的の一つであったには違いない。

 アルウィンは娘のカイエンが星教皇になれる資格を持っていることに、かなり前から気づいていたのだろう。だから桔梗館を作り、ついにはシイナドラドへ働きかけてカイエンの即位を実現させたのだ。

 シイナドラド皇王家はもちろん難色を示しただろうが、結局、もう二十年以上も血族に候補となる人間が生まれてこない以上、皇王家も応じるしかなかったのではないか。

 だが、桔梗星団の目的はそれだけではなさそうだ。

 あの悲惨な結婚式で、カイエンにアルウィンの行方を詰問されたエルネストは、こう答えている。

(あの人はおそらく今、螺旋帝国へ向かっている。このパナメリゴ大陸の西側は、皇帝サウルの命運が決まるまでは動かない。だから、未だ不安定な螺旋帝国に向かったはずだ)

 と。

 去年、帰国後すぐに皇帝サウルと宰相サヴォナローラにアルウィンを告発した時から、カイエンは確信していた。

(前ハーマポスタール大公は五年前に自らの死を偽って行方をくらましました。以前、明らかになりましたシイナドラドと螺旋帝国の関係を鑑みますと、この五年間に螺旋帝国の革命に関わっていた可能性さえ出てまいります)

 はったりもあったが、あの時彼女が言ったことはそう間違ってはいないのだろう。あのアルウィンが自分の死を偽ってまで得た五年間を無駄に使ったとは思えない。

 現に、カイエンが星教皇に即位させられて帰国したのちも、桔梗館の一党は怪しく蠢くのをやめようとしていない。

 そして、アルウィンなき後も、桔梗星団派がいまだ大公宮に残っていることをカイエンに知らしめるために行われた、今度の殺人。

「敵方も一枚岩ではないということか?」

 それとも、第三の勢力が存在するとでもいうのだろうか。

「厄介だな……あいつが面白がって引き起こしたことだから、碌でもない連中の、碌でもない目的があるんだろうが……」

 カイエンは長い間、欺瞞されていたとは言っても、十五になるまで一緒にいたアルウィンの娘だ。十五年間、アルウィンがカイエンに「見せかけていた」、「父であり時には母でもある、理解があって優しげな」父親像を見てきたわけだが、それでも今になってみれば、不自然だ、おかしいと思い当たることがいくつもあった。

「あいつは、人を理解しているフリをして信頼させ、自分だけがわかっているという安心感で包んで騙して、支配して、最後には自分のしたい方向へ引っ張っていくやつだ」

 カイエンは苦い思いで、呟いた。

「私は見事に騙され続けた。……だが、騙されたのは私だけではないだろう」

 その時、カイエンの脳裏に浮かんだ顔はいくつもあった。

 あの、宰相サヴォナローラの顔も、そこにあった。


「……どいつから責め立ててやるかなあ」


 そう、もう一度馬車の中で一人、呟いたカイエンだったが、彼女はすぐにはそれを実行することができなかった。

 侍従殺しを契機に、大公宮の使用人達すべての身元の洗い出しが行われることになったからだ。

 あの、殺されていた侍従は大公宮の表に務める侍従で、それも表の侍従の頭であるペニグノと、裏の侍従頭のモンタナとの連絡をしている侍従であったのだという。

「プエブロ・デ・ロス・フィエロスの里の関係者ではありません。……雇用契約書を見ると、どうもアルウィン様が引き入れたものだったようです」

 そう、苦々しい顔で報告したのは執事のアキノだった。

 プエブロ・デ・ロス・フィエロスとはアキノやサグラチカの里で、古の獣人国の遺跡の残る場所である。蟲を体内に持って生まれてくる者たちは、この里の関係者であることが多い。

 カイエンの場合には理由は未だに不明だが、現に、蟲を持つアキノはこの里の出身で、ザラ大将軍の母親も里の出身である。

「アルウィン様はお若い頃から下町で遊ばれて、世慣れておられましたから、ご自分で雇い人を連れてくるようなこともあったのです。もっとも、執事の私にもすぐには分からないように、間に人を介しておられましたが……。今となっては忌々しいことです」

 カイエンの頭の中では、アキノもまたアルウィンに騙され、幻惑された者たちの中に入っていたが、どうやらその通りだったようだ。

 マテオ・ソーサの元を訪れたウゴの後を不自然に見送っていたその侍従は、ガラに目をつけられてはいたが、それ以上不審な行動を取ることもなく、ガラがやや目を離した隙をついて殺されたのである。

 大公軍団支給の剣と、アストロナータ神殿から盗まれ、五芒星に細工されて桔梗星紋に帰られた「盾」を持って殺されていた死骸。

 もちろん、この時点でカイエン達大公宮のもの達は、まだ「盾」の存在を知らない。

 ただ、桔梗星紋が示唆する「桔梗星団派」とアルウィンとのつながりについては、皆がうなずくところだった。

「お前は前の大公と桔梗星団派のつながりについて、何か知っていたのか?」

 サヴォナローラに先立って、カイエンは大公宮の表の彼女の執務室で、大公宮に住む弟のガラの方を詰問したが、ガラの返答は明確そのものだった。

「知らん。俺も桔梗館とやらに連れて行かれたことがあるそうだが、あまりはっきりとは覚えていない。……もう、あんたには分かっているはずだ。騙され、踊らされていたのは、あんただけじゃないってことだ」

 兄ほどではないが、時折、人の頭の中を読んでくるガラは、この時もカイエンの頭の中をかなり正確に読んで来た。

 それもあって、カイエンは、ガラのこの言いようにはかちんときた。

 ガラはカイエンよりも幾つか年上だ。五つ上のヴァイロンと同じような年頃だろう。それなのに、「覚えていない」とは思えなかったからだ。

 五つの時に桔梗館へ連れて行かれたカイエンも、夢の中で思い出しているというのに。

「そうかな。まあ、お前の方はそれでもいい。だが、お前の兄の方はそうはいくまい?」

 執事のアキノを後ろに立たせたまま、カイエンは真顔でガラに迫った。

「もう、分かっているようだから隠さずに言う。私は十分に苛立っている。どうしてこの侍従は殺されなければならなかったのだ? こいつが私に何かバラそうとしたってのか? 違うだろ? こいつは確かにお前の目に引っかかった。アキノの調べでは前の大公の口利きで採用されたそうだしな。

だから、間違いなくあっちの手のものなんだろう。だけど、こんなに簡単に殺されちまった。その理由は? 剣だの盗まれた盾だのを持たされて、滑稽な死体にされちまった理由は? そんな風に殺される必要がどこにあったってんだ?」

 カイエンの言いたいことを、聡明なガラはしっかりと汲み取ったらしい。

「……あんたの気持ちや、言いたいことは分かる。基本的には俺も同感だ。あの侍従が殺されたことは、あまりにも理不尽だ。……兄のこともあんたの言う通りだろう。兄は覚えている。そして、覚えているからこそ、あんたの父親じゃなく、皇帝のそばに身を置いた。あれはあれなりにあんたに筋を通そうとしているはずだ」

 カイエンは何か言いかけたが、ガラのいつもよりも底光りのした真っ青な目を見上げて、黙った。そして、先を促すようにガラに向かってやや尊大に顎をしゃくった。

 ガラは続ける。

「侍従が殺された理由は、あんたが心の中で仮定している通りだろう。……敵も一枚岩ではないのだ。誰か、あんたに桔梗星団とやらのことを知らせようとしたやつがいるんだろう。そいつはまだあんたの親父の手の中にいるが、本心じゃあんたの方へ鞍替えしたがっているのかもな」

 カイエンの後ろにそれまで黙って立っていた、アキノがここで口を挟んだ。

「あのシイナドラドの皇子のようにか?」

 アキノが言っているのは、結婚式で現在のアルウィンの行方を吐いた、エルネストのことだろう。

「そうだ。あんたもこの大公殿下の執事なら分かるだろう。この人の裏も表もない馬鹿正直、馬鹿真面目さ、魂の潔癖さを見ちまったら、もう表面だけ取り繕ったバケモノに幻惑されたいとは思うまい。それがどんなに甘美な幻でもな」

 カイエンはこのガラの、褒めているのだか貶しているのだか分からない言いように、目を白黒させた。

「……私が馬鹿なのは、とっくに自覚しているが……。そっちをあえて選ぶ馬鹿がいると言うことか?」

 ガラは、しっかりとうなずいた。

 そして、とんでもないことを言ってのけた。

「あんたは親父を恨んでいる。もしかしたらお袋さんもな。その、恨む気持ちは決して綺麗じゃない」

 カイエンは、今度こそ息がつまるような気持ちになった。ガラに言われたことは、もちろん自覚していたからだ。

「でもな。それはあんたの中では正直な思いなんだ。あんたはあんたを裏切った親を、真っ正直に恨んでいるんだ。……そして、それを隠そうともしていない。そして、これだけは確かなことだ。あんたに恨まれているあの人たちは、あんたにそれだけの苦しみを与えたんだ」

 今度こそ、カイエンは声も出なかった。

(あんたに恨まれているあの人たちは、あんたにそれだけの苦しみを与えたんだ)

「でも、でも……」

 カイエンは、自分の口が勝手に動くのを止められなかった。

「母は苦しみ抜いて私を産んだ。そして、父は私を十五年間、守り育ててくれたのだ!」

 一昼夜、苦しみ抜いた難産で自分を産んでくれたアイーシャ。

 十五年間、自分を慈しみ、十分な学びの機会を与えてくれたアルウィン。

 彼らのその「事実」は覆すことのできない神聖なものだ。

 なのに。

 なのに、今、自分は彼らを恨んでいる。

 アイーシャは自分を捨てたから。

 アルウィンは今までずっと自分を支配し、今でもまだ彼の目的のために利用しようとしているから。

 カイエンはそんな自分の黒い心を肯定できる性格ではなかった。それでも彼らこそが彼女を産み、育てた両親だったから!

 カイエンは、今までこのことについて追求するのを避けていた。アキノにもサグラチカにも、そしてヴァイロンにも、未だ伝えられてはいない心だった。

 だが、ここが正念場とでも言うように、ガラの言葉は容赦がなかった。

「……だから、あんたは馬鹿正直の大馬鹿なんだ。考えてみろ。あんたの親父やお袋はそれ以外の部分で綺麗だったか? そうじゃないだろう。俺が言うのもなんだが、人生ってのは差し引きなのだ。そして、生きている限り、誰しもいつまでも馬鹿正直の大馬鹿でいられはしないんだ」

 カイエンは、もう、声も出なかった。詰問していたのは、彼女だったはずなのに。

「あんたは差し引きの最後の最後であの人たちに裏切られたんだ。それは認めろ。それでも、その自分でも汚いと思う心を隠さずに俺たちに見せろ。……そういうあんただから、向こうからあんたの方へ逃げてくる奴が出て来るんだからな」

「ガラ!」

 アキノが必死な声をあげた。アルウィンの代から執事を努めてきたアキノにとっても、ガラの言いようはあまりに際どかったから。

 だが、ガラはやめなかった。

「これだけは言える。あんたはあの人たちみたいに、差し引きの最後に裏切ることはない。恩着せがましい態度をとることもな。それは、あんたの魂には悪意が無いからだ。あんたはいつも恐れている。あんたは決定的に、自分以外の人を苦しめたくはないんだ」

 ガラの返答はあまりにもはっきりとしていて、かえって不安を掻き立てた。

 あんたの魂には悪意がないからだ。

 それでは、あの人たちの魂には?

「そうだ」

 カイエンの灰色の目をまっすぐに射抜いた真っ青な目の持ち主は、言い切った。

「俺はあんたの母親のことはよく知らない。でも、あんたを裏切ったあの男の心には、あいつが自覚しようとしまいと、悪意があったんだ。あんたのためだと言いながら、あんたを自分の目的のために利用しようという悪意がな」

 あの男。

 ここからガラはあの人たちの中の一人だけを指して話し始めていた。

 悪意があったんだ。

 あんたのためだと言いながら。

 そうだ。きっとアルウィンは言うのだろう。カイエンを星教皇にしたことも、「お前のためなんだよ」と。

 カイエンは、喘ぐように息を何度も吸い込んだ。

「……どうして、そうまではっきり言えるのだ?」

 やっとの事で口から出た言葉への返答も、揺るぎはなかった。

「馬鹿だな。だからあんたは大馬鹿なんだ。そんなこと、あんたの周りの奴らはみんな、分かっている」

 えっ?

 呆然とした顔になったカイエンを無視して、ガラは留めだとでも言うようにアキノの方を凝視する。

「なあ、じいさん?」

 ガラがそう言って見たアキノの顔は、この頃、急に歳をとった顔だった。

「そうだろ? アキノさん」

 カイエンの視線の先で、アキノの痩せた固い顔がぐしゃっと崩れた。

「……ガラ」

 一拍置いて。

「本当に、お前はあの兄よりも、カイエン様のお側に侍るにふさわしい男だわ。私らが言いたくても言えずにいたことを、よくぞカイエン様に言ってくれた。……礼を言うぞ」

 ガラに礼まで言ったアキノを、カイエンは茫然とした顔で見たまま、それでも、やっとの事で理解していた。

 これからは自分がはっきりと自覚して、あいつに向き合い、揺るぎなく立たねばならないことを。

 臆病な自分が。親を恨み抜けないままの自分が。恨む心を捨てる勇気もない自分が。

 未だ理解できぬ敵の前に立ちふさがって、この街の大公として立ち上がるべき時が来てしまったのだということを。






 そうした日々が続いた後に、巻き起こったのが、エルネストの大公宮への引っ越しだった。

 エルネストが大公宮の後宮の一番奥の区画に収まった同じ日の夕刻。

 カイエンは自分から言い出したことではあったが、あの最悪の因縁に塗れた男が身近に寝起きを始めると思うと気が重かった。だから、正直なところ、侍従殺しから続いたゴタゴタはかえってありがたかったくらいだった。

 そういうわけで、この日も、カイエンが大公宮の自分の部屋に戻ってきたのは、もう夕飯時のことであった。

「おかえりなさいませ」

 そう言って、彼女を迎えたのはサグラチカと女中頭のルーサ。

 いつも定時で仕事を終えるマテオ・ソーサは後宮の自分の部屋に戻っていたが、ヴァイロンも、そしてガラも戻ってはいない時間だった。

「ああ」

 カイエンが自分の居間のソファに、大公軍団の制服のまま身を預けた、その時だった。

「大公殿下!」

 表から続く廊下から、侍従のモンタナの声が聞こえたのは。

 その声は緊張のあまりに上ずって聞こえ、カイエンたちはびくりと身を震わせた。

「どうしましたか」

 落ち着いて居間の入り口で応対したのはサグラチカ。

 だが、モンタナのひそやかな声を聴くうちに、彼女の顔も引き締まった。

「カイエン様!」

 サグラチカに促されてカイエンの前に出て来たモンタナは礼もそこそこに皇宮からの知らせを伝え始めた。

 その緊迫した声は、恐ろしい事実を知らせるものだった。

 その事実への予感は、カイエンたちにももう、何ヶ月も前からあったことだった。

 だが、実際に聞かされるというのはまた別物だった。

 モンタナは話の内容を鑑み、小さな低い声で、しかしはっきりと短い言葉で告げた。

「皇帝陛下には、本日の午後、にわかに昏睡状態に陥られ、それより危篤状態とのことでございます。大公殿下には今すぐに皇宮へ上がられるようにとの、宰相閣下よりのお言葉でございます」

 カイエンの灰色の目が大きく見開かれた。

「わかった」

 カイエンが立ち上がった時には、モンタナは大公宮奥の玄関へ向かって早足に下がっていくところだった。馬車の用意を命じに行ったのだろう。

「お供いたします」

 カイエンの夕食の準備をしていた執事のアキノが、静かにカイエンの脇に控えた。サグラチカがカイエン愛用の銀の握り手の黒檀の杖をカイエンの左手に滑り込ませる。

「行ってくる」

 カイエンは短くそう行って、アキノとともに馬車に乗り込んだ。


 そして。

 皇宮の皇帝の住む奥殿へ着くと、そこには青ざめたオドザヤが、女官長のコンスタンサ・アンヘレス一人だけを従えて待っていた。二人ともに、地味なドレスに身を包み、化粧気もない。

 皇帝サウルが倒れてからというもの、彼らには自分の服や化粧を構う暇もなかったのに違いない。カイエンの元には知らされなかったが、皇帝の容態はずっと良くなかったのであろう。

 だから、オドザヤのやつれた美しい顔には、「とうとうこの時が来てしまった」という恐怖の仮面がべったりとはりついていた。皇帝サウルがみまかれば、摂政皇太女の彼女の両肩に、このハウヤ帝国がのし掛かって来るのだから。

「お姉様、こちらです」

 青い顔のオドザヤに案内されて、カイエンは初めて入る皇帝の宮へと入っていく。執事のアキノは女官長とともに、背後を音もなく付いてくる。

 さすがは皇帝の住処だけのことはあって、宮の中は派手さはないが、大理石の床に敷かれた絨毯も、壁を彩る壁紙も、ランプのロマノグラスも、この国の匠の粋を極めた工芸品ばかりで埋め尽くされていた。

 やがて、カイエンは親衛隊の衛兵の守る、海神オセアニアと泡立つ大海の意匠の大扉の前へ出た。

 衛兵が無表情のままうなずいて開ける大扉の奥は、また廊下。その奥の一室の扉はコンスタンサが開けた。そこからはコンスタンサもアキノも付いてこなかった。

 中は広い皇帝の居間らしい空間だった。これまた地味だがこれ以上はないだろう品質と意匠の家具が仄暗い光の中に沈んでいた。

 驚いたことには、そこには第三皇女のアルタマキアただ一人が座っていた。

 未だ出産後の錯乱から回復しない皇后のアイーシャと軟禁中の第四妾妃、星辰の姿がないのは当然だが、三人の妾妃たちの姿もないのは不思議に思えた。

 だが、その疑問はアルタマキアの口からすぐに説明された。

「お父様はあらかじめお命じになっていたそうですの。このような事態になっても、お母様たちはお部屋で待たせるように、と」

 カイエンは不思議に思った。

 家族でもない姪の自分がここに呼ばれているのに、妾妃たちが除外されているのを不自然に思ったのだ。だが、それに答えるべき皇帝はこの居間の奥の寝室で死の際にある。

 そうして、三人がソファに納まった後。

「……カリスマお姉様はおかわいそうでしたわね」

 アルタマキアの細い、だが音楽的な声が聞こえた時、カイエンとオドザヤは思わず顔を見合わせた。アルタマキアが自分から人に話しかけてくることは今まで、あまりないことだったからだ。

「そうね。……ネファールは、遠いわね。カリスマは病気のお父様を置いて旅立っていったから……」

 驚きながらも、オドザヤが慰め顔で言った時だった。

 アルタマキアの、北方スキュラの血を色濃く受け継いだ、白大理石のように真っ白な顔の中で薄い薄い水色の目が冷たく光り輝いたのは。

「あら、オドザヤお姉様ったら、違うわ。私が言いたかったのは反対よ」

「えっ?」

 オドザヤは日頃あまり表情を変えず、茫々たる淡い淡い色彩の中にすべてを塗り込めているこの末妹の顔が、冷たく研ぎ澄まされるのを初めて見た。その薄い薄い桃色の唇が三日月のような形に盛り上がり、嘲笑としか見えない笑いを浮かべるのも。

 カイエンは胸元にせり上がってくる、怪しい予感を覚えながらも、黙ってこの二人の姉妹を見守っているしかなかった。


「カリスマお姉様はおかわいそう。あいつの死に様を見届けられなくて、本当におかわいそうって、そう、申しましたのよ」


 アルタマキアはしん、とした無機質な部屋に、真っ赤な血の色をした言葉を宝石のようにばら撒いた。

 この、日頃は静かに降り積もった北方の柔らかい雪のように、大人しく自分を見せようとはしなかった少女。たった十四の皇女の変貌に、カイエンとオドザヤは凍りつくしかない。

 皇帝である自分の父親を「あいつ」と下賎な言いようで呼ぶ不自然さ。そしてその言葉を紡いだ声は、血が滴るように生暖かく生臭かった。

「オドザヤお姉様は、お姿だけではなくてお心も本当に聖女のようでいらっしゃるのね。まあ、それもそうかしら。皇后陛下は相思相愛でお父様と結ばれたって言いますものね。その愛し子のお姉様はお父様の秘蔵っ子ですもの」

「何を言っているの?」

 面食らったように聞くオドザヤへ、アルタマキアは静かに言い聞かせるように続けた。まるで十八のオドザヤの方が妹のようだ。

「あら。私の母やカリスマお姉様のお母上は違いますもの。所詮は属国からの人質ですわ。その娘である私たちも同じ。カリスマお姉様はネファールに帰れてよかったですわね。でも、お母様のラーラ様は人質のまま。いずれネファール女王になられても、このハウヤ帝国には歯向かえませんわね。私も同じです。母の故郷のスキュラへ帰れるのは、私一人。母は死ぬまでここで人質のままですもの」

 アルタマキアの方も、近く世継ぎとしてスキュラ公国へ向かうことに決まっている。

 カイエンはちょっと口を開きかけたが、賢明にも口を挟むことは避けた。

「そこの大公殿下には少しはわかるのではないかしら。一昨年はお父様のせいで散々でしたものね。それに、今度はシイナドラドの皇子とご結婚させられて。シイナドラドからお帰りになられてすぐに倒れられたことにも、何やら深刻な訳がおありだったようですから、さぞお嫌でしたでしょうにね」

 だが、アルタアキアは黙って聞いているカイエンをも話の俎上に乗せてきた。

「あいつは皇帝。だから私たちは何を命ぜられても仕方ない。それで済むのは表面だけですわ。もちろん、すべては国のため、ハウヤ帝国のため。そのために皇女である私達が身を捧げる。それは正しいことです。私もこれでも皇女ですもの。そんなことは分かっております。でも、心の底は詐れません」

「どうして……今になって……」

 やっとの事でそれだけ言えたオドザヤへ、アルタマキアは哀れむような目を向けた。

「本当は、カリスマお姉様も私も、お父様が生きておられるうちにはっきり言っておきたかったわ。……私たちも血の通った人間なんだって。お父様に従いはするけれども、それは上っ面だけなのよって! でも、あの厳しいお父様にはとうとう、言えなかったわ」

 最後の方は、今年十四の少女らしい声音で、本当に悔しそうにアルタマキアは激しく言い募った。溜まりに溜まった感情を絞り出すように。

「もうきっと言う機会はないわ。だって、お父様はきっと意識が戻られても、もう私にはお会いにならないわ。お母様たちをここに呼ばなかったのと同じよ。……皇女の私をここへ呼びもしないことは、さずがにお出来にならなかったのでしょうけど」

 ここまで言うと、アルタマキアはきっと顔をあげて、カイエンとオドザヤの方を見た。

「私も分かっています。オドザヤお姉様と大公殿下はご姉妹でお従姉妹いとこ。そして、摂政皇太女とこの帝都の大公。お父様が後を託されるのはお二人だけだと言うことはね。だって、お二人は“ただの皇女”じゃありませんものね」

 カイエンはアルタマキアがカイエンの出生について知っていたことには驚かなかった。それは大貴族なら知っている「公然の秘密」だったから。

 そして、アルタマキアの言い分は、カイエンにもオドザヤにも、まったく理解できないことではなかった。特にアルウィンの事があるカイエンとしては、立ち位置がやや違っていただけで、こうして赤裸々に父親との確執を言われてしまえば、素直に理解してやるしかなかったとも言えただろう。

 だから、もはや答える言葉も出ては来ず、カイエンとオドザヤは黙っているしかなかった。


 

 沈黙の中、しばらくすると、皇帝の寝室の中が急に騒がしくなった。

 黙ってしまったアルタマキアはなんの反応もしなかったが、カイエンとオドザヤは嫌な予感と、もしやという思いとで、中腰になった。

「失礼致します」

 やがて、皇帝の寝室の扉が開くと、皇帝の奥医師が厳しい顔つきで現れた。

「皇帝陛下は意識を取り戻されました。……摂政皇太女殿下と、大公殿下をお呼びでございます」

 そう言うと、年配の奥医師は他の侍医や侍女たちをさしまねく。

「我らには退席を命じられましてございます。さあ、お入りください」

 奥医師は他の侍医たちを下がらせてしまうと、最後にオドザヤとカイエンの横でそっと首を振った。

「手は尽くしました。……さあ、お早く!」

 それを聞くなり、オドザヤの顔から血の気がすべて引いてしまった。ぐらりとよろめくのを、カイエンは右腕で必死に受け止めた。二人は支えあうようにして皇帝の寝室へ入っていった。

 皇帝の寝室は、静かだった。

 あの、派手好きなアイーシャの夫のものとはとても思えない、地味なしつらえ。

 寝室の外の、このハウヤ帝国の工芸の粋を集めたような様子とも噛み合わない。

 くすんだベージュの壁紙やカーテン、それを支える鈍い玉虫色の明け方の海面のような絨毯。それをぐっと引き締めるのは、要所を抑えた褐色の木組みだった。

 その中央に、天蓋付きの大きな寝台。だが、それを覆う帳はなかった。

 そして、むき出しの寝台の中央に、皇帝サウルの病み衰えた姿が埋まっていた。

 カイエンが最後に皇帝サウルを見たのは、新年すぐの彼の誕生の宴。

 それから四ヶ月。

 たった、四ヶ月。

 なのにもう、そこには四ヶ月前の皇帝の姿はなかった。今日まで小康状態にあったと言うが、それは命を削りながらなんとか持ちこたえていたと言うだけだったのだ。

 体に掛けられた毛布はほとんど盛り上がって見えず、毛布から出ている顔と両腕も小さく、老人のように固まっていた。それは、とてもではないが今年、四十六の男の顔でも体でもなかった。

 何よりも驚いたのは、その枯れ木のようにやせ衰えた顔や腕の皮膚の色だった。

 それは、黄疸によって不気味な黄色に染まっていた。

 漆黒だった髪も、半分が白髪に変わり、変わりないのは深く落ち窪んだその灰色の両眼の瞳だけと言ってもよかった。白目の部分は、もう黄色く変色してしまっていたから。

「……カイエン、そなたには酷いことをしたな」

 皇帝は時間を惜しむように、カイエンとオドザヤが近づくのを待たずに話し始めた。息が苦しそうで、声はかすれてはいたが、それでも言葉は聞き取れた。

 ずっと父親である彼の看病をしてきたのであろうオドザヤは、彼の変貌に驚くこともなく、その黄色く枯れ衰えた手を取ったが、カイエンは驚きに声も出なかった。自分にいきなり謝罪めいたことを言い始めたことにもすぐには気がつかなかったほどだ。

 次第に落ち着いてきて気がついたのは、もう五年前になるアルウィンの「偽りの死に様」がまさに「偽り」だったということだった。

 死を偽ることを「佯死ようし」と言うが、こうして本当に死にかけている皇帝サウルと比べれば、五年前のアルウィンのそれは決定的な部分で何かが違っていた。

「アルウィンの死んだふり……に、騙されたのがわかったか?」

 カイエンの顔には心の中がいつものようにそのまま出ていたようで、皇帝サウルは喉の奥で密やかに笑ったようだった。

 その声は意外にしっかりして聞こえたので、カイエンは一瞬だけ、体は衰えきってはいるが、今日のところはこのまま持ち直すのではないかと思ったほどだ。

 だが、そんな甘い考えを打ち消す厳しいものが、皇帝の顔にははっきりと死相としか言いようのないものが、もう仮面のようにはりついてしまっていた。

「お前はアルウィンではないのに。そう思いながら、結局はあいつの狙っている通りのことばかりしてしまった。……悪魔のように賢かったあいつには、最後の最後まで操られて終わるのかも、知れぬな」

 まさかサウルに謝られるとは思ってもいなかったので、カイエンは答えるべき答えが見つからない。

 アルウィンに操られているという自覚が、サウルにあったことも意外だった。 

「サヴォナローラを呼ばなくてもよろしいのですか」

 だから、彼女の口から出た言葉は瀕死の男を苛立たせただけだった。

「あれにはもう、随分前から言うべきことは言い渡してある。……来るべき時が来ればやってこようて」

 力なく首を振りながら、サウルは母を同じくする娘と姪を目だけで呼び寄せた。

「もう……あまり時間がない。二人とも、手を出せ」

 そう言うと、皇帝サウルは自らの左手を二人の前へ差し出した。

 枯れ木よりも色の悪い、茶色に変色した骨と皮のような手には、彼が皇帝になってから一日としてその手から離したことがないであろう、白金でつくられた皇帝の指輪が嵌まっていた。だが、やせ衰えた指にそれはもはや引っかかっていると言うだけに見えた。

「お父様?」

 怪訝な顔をするオドザヤの前で、サウルの左手がわずかに持ち上げられ、すぐに投げられたように寝台に沈んだ。

「この指輪を取るがいい」

 カイエンとオドザヤは一瞬、固まったが、やがて同時に動き出して皇帝の左手薬指から指輪を外しにかかった。

 サウルは何も言わなかったが、急かされているような気がしたのだ。

 二人が同時に動き出したのを、サウルは有るか無しかの微笑みを浮かべて見ていた。

 もう、やせ細った指から抜け落ちかかっていた指輪は、簡単にカイエンとオドザヤの手に落ちた。

 そう。

 指輪はカイエンとオドザヤ、それぞれの掌に落ちたのだ。

「えっ」

 息を詰める二人の掌に二つの輝き。

 オドザヤの方は、サウルのその指輪を近くで見たことがあったが、カイエンの方は近々と見たことなどなかった。そもそも、サウルの顔をこんなに近くから見たことさえ初めてだったのかも知れなかったのだから。

 白金の指輪は、太いリングに分厚く丸い円盤型の指輪印章が載った形をしている。

 今、その太いリング部分と、印章の部分は複雑な形状を描いて、二つに別れていた。

「驚くことはない」

 掌に載ったものを黙ったまま、目を見開いて見ている二人へ、サウルはなんだかうれしそうに、その老人のように萎びた顔にやや微笑みさえ浮かべて言った。

「おお。星と太陽が、間違いなくその持ち主の掌に収まっておるわ。……それはな」

 そこまで言うと、サウルは咳ごんだ。もう喉にかがんだ痰を切る力もないようで、彼はいがらっぽい声のまま、話し続ける。

「星と太陽の指輪、と言われてきたのだ。そして、そのように最初から二つに分かれるように作られている。……我ら兄弟にもなんとなく分かっていたのかも知れんな。それがそうして別れてお前達二人の手に落ちることが。……お前たちに名前をつけた時から」

「ええっ」

 カイエンもオドザヤも、もはやサウルの死相の浮いた顔から目を離せなかった。目を離したら、その瞬間に彼は旅立ってしまうだろうと恐れたのだ。

 だが、それでも自分たちの名前の中に、星と太陽という言葉が入っていることはすぐに思い出した。


 カイエン・グロリア・エストレヤ・デ・ハーマポスタール。


 オドザヤ・ソラーナ・グラシア・デ・ハウヤテラ。 


 エストレヤは「星」、そしてソラーナは「太陽」の女性形なのだ。

「……それはもう、お前たちの、ものだ。また一つに、戻すべき時が、来る、まで、大切に、持って、い、よ。お前達、二人は、なか、よ、く、な」


 そう言い切ると。

 そのまま、サウルは再び意識を失ってしまった。

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