星は旅立ち、獅子は残される
星が瞬く夜に
あのひとと約束した
頭の上には天の大河
その輝きの下
星の大河を泳ぐ大魚の下で約束した
いつかまた生まれ変わって
あの星の大河をわたる時代に生まれたら
ともに行こう
あの星の大河の向こうへ
きっと行こうと
そう
あのひとと約束した
周
ハウヤ帝国第十八代皇帝サウルの治世二十年。八月九日、早朝。
その旅立ちを祝うような真っ青な空の下、大公カイエンは大公宮を後にしてその領地である、帝都ハーマポスタールを出立した。
皇宮の高いバルコニーからは、皇帝サウル、皇太女オドザヤ、それにフランコ公爵夫妻を始めとする大貴族たちが見送った。
帝都ハーマポスタールの読売りは挙って号外を刷り、大公の久しぶりの外国訪問という歴史的出来事を見るために、大公宮から帝都の外へ続く沿道には見物の市民が溢れた。
大公カイエンは行列の中央の大公の紋を打った馬車の中にあり、その前後を警護するのは帝国軍フィエロアルマの精鋭、およそ千五百。それ以外にも随行の者を入れれば、一行の人数は二千に届いた。
宰相サヴォナローラが寄こしてきた交渉役の内閣大学士、フランシスコ・ギジェンの乗る馬車はカイエンの馬車のすぐ後ろに続いている。
この人員や人数の調整も、シイナドラドとの間の交渉と先例に則って決められたもので、なかなかに壮観かつ費用のかかることとなった。
「まあ、皇太子の婚礼への招待として大公殿下を名指しで招待しておいて、空手で帰すということもないでしょうけれどもねえ」
サヴォナローラはカイエンの前でそうこぼしたが、なるほど二千人の行列となると、帝都の街中を通って抜けるのも大変なことだ。
治安維持部隊の隊員が随所で交通整理を行っているのが、カイエンの乗る馬車の窓からも見て取れた。
この人数が戦時下以外でパナメリゴ街道を通るとなると、かなりの大事である。
一行の進む前には、先立って幾つかの貴族の一行が出発していた。
まず、帝国の東の国境へ向かう大公一行のため、東の国境を守るクリストラ公爵の一行が七月中に先行した。夏の社交シーズンで帝都へ上がっていた公爵一家、公爵ヘクトルに夫人ミルドラと三人の令嬢の一行である。彼らはクリストラ公領の大城に戻り、カイエンたち一行を待つことになっていた。
その一行と同行したのが、この度のシイナドラドへの訪問中、カイエンの側に副使としてつくことになった、ザラ子爵ヴィクトルである。彼はあのザラ将軍の兄で、子爵という地位ながら外交畑の官吏として皇宮に仕え、ベアトリア大使の経験があったこと、それに皇帝サウルの第一妾妃、ネファール王国の王女ラーラの入輿の折にネファール側との交渉に当たったことを買われての抜擢であった。
ヴィクトルとはシイナドラドが遣わしてきた使者、サパタ伯爵が同行している。
サパタはシイナドラドの伯爵を自称しているが、それを確かめる術はない。ただ、螺旋文字で書かれ、シイナドラド皇王の国璽の押された書状を持ってやってきたというだけだ。
それでも、彼が同行しなければシイナドラド国内への入国は難しい。何しろ相手は長く鎖国を続けている国である。
滅多にない、大公の外国訪問とあって、沿道から溢れた見送りや見物の市民たちは、口々にカイエンの名を呼び、中には「大公殿下万歳」という場にそぐわない声を上げるものもいる。
去年のベアトリア王女マグダレーナの入輿の折の行列にも人々は群がったが、今日の人数はそれ以上だ。
カイエンの一行は帝都の大通りをまっすぐに東へ向けて進んでいるが、道の両側には総動員された治安維持部隊の隊員が並んで人々が道の中央へ出ないように抑えていた。今日はトリニやブランカたち訓練中の隊員候補生たちも動員されているはずだ。
「これはハーマポスタール市内を抜けるだけでも大変そうだな」
薄いレースのカーテン越しに馬車の窓から見ているカイエンがそうつぶやくと、同じ馬車の向かい側に静かに座っている執事のアキノがうなずいた。アキノは大公宮の執事だが、大公宮の主人たるカイエンが外国へ行くとあって、それに随行したのである。それだけ、彼の中にも危惧があったということだろう。
アキノが同行するにあたって、大公宮の管理は侍従のモンタナに託された。彼はアキノの留守中は家令として大公宮の管理をすることとなっていた。
カイエンの馬車はかなり大きく、内部には数人が悠々と座れる広さがあった。
カイエンの隣には乳母のサグラチカにカイエンの身の回りの世話一切を託された、女中頭のルーサが座っている。彼女はいつもの女中頭のお仕着せではなく、女官や侍女の着るような地味なドレス姿だ。だが、元が冷たいほどに整った姿の持ち主なので、違和感なく見えた。
大公の近衛の護衛として付いたシーヴや女騎士のナランハとシェスタは、馬車のすぐ脇を騎乗で進んでいる。
カイエンの留守中、大公宮の後宮に残るのはヴァイロンとマテオ・ソーサの二人であるから、女騎士は二人ともに付いてきたのだ。
何かと目立つガラは、なんとカイエンの馬車の御者をしていた。頭から灰色のフードのある外套を暑苦しそうに着ている。
考えてみれば、この度のカイエンのシイナドラド行きへ同行する者たちは、皆、家族をハーマポスタールに残してきている。
カイエンはヴァイロンを。
アキノは妻のサグラチカを。
ルーサは姉のブランカを。
その他の随行員たちも皆、それぞれの家族や大切な人を後に残して旅だったのである。
カイエンの馬車の前後にはこれからの旅の間、カイエンが使う日常用具や衣装などの積まれた荷馬車が並び、その前後はフィエロアルマの精鋭が居並んで進む。一行にはカイエンだけでなく、随行員のための荷物もあるから、それは滅多に見られぬ壮観たる眺めであった。
「今日はどこまで進む予定だ?」
もう予定表は頭に入っているので知ってはいるのだが、なんとなく手持ち無沙汰なカイエンはアキノにそう聞いてみた。ハウヤ帝国の版図を出るまでだけでも一ヶ月近い日にちがかかる旅なのだ。クリストラ公爵領へ入るまでにも二週間ほどを要するだろう。クリストラ公爵の城で国外へ出る前の最終調整をする手はずになっている。
「本日はイロパンゴ湖のほとりの町までまいります。これだけの大所帯が泊まるとなりますと、大きな街を選んで進みませんと街道の物流を妨げてしまいます」
アキノもカイエンがわざわざ話しかけてきた気持ちがわかったのであろう。落ち着いた声で丁寧に答えてきた。
街道沿いの町にはもちろん、旅亭があるが、それだけでは二千人の一行は泊まりきれない。フィエロアルマの兵士たちは戦場でするように天幕を張っての宿泊となるだろう。
大きな町を選んで進んでいっても、大公のカイエンは町長の家や大貴族の別邸などへ泊まりながらの道中となる。その予定はすでに東の国境まで周知されている。宿泊先に決められた家では準備に大わらわのはずだ。
国境を越えてから先のことについては、先発したザラ子爵とシイナドラドの使者、サパタ伯爵が手はずを整えているはずだ。
カイエンはそれを頭の中で想像しただけで、気が滅入りそうになる。外国への旅は初めてだから、心が浮き立つ部分もあるが、それにかかる費用や労力を思えば平静ではいられなかった。
カイエンの思いをよそに、大公殿下の一行はその日のうちに帝都を抜け、街道を東下して広大な湖のほとりの街へと達した。
「あーあ。行っちゃったねえ」
カイエンの長い長い一行が、高台にある大公宮の東側三階の窓辺のバルコニーから見えなくなると、その場にいた留守番組の皆は、ほっと息をついた。出発までの忙しさは想像を絶するもので、彼らは今日という日を無事に迎えられた虚脱感の中にいた。
マリオとヘススの双子の治安維持部隊隊長は、今日の沿道の警備責任者として街中で指揮をとっているが、大公軍団長のイリヤは大公宮から一行を見送っていた。
「なんだか、ここも寂しくなったね」
そう応じたのは、マテオ・ソーサ。彼は今、大公宮の元後宮に住んでいるが、隣人のガラは大公の馬車の御者となって旅立った。
「そんなこと、言わないで下さいまし」
泣き出してはいないものの、湿った声で答えたのはカイエンの乳母のサグラチカ。彼女はカイエンとともに、夫である執事のアキノを送り出しているのだ。
その肩を無言のままそっと撫でているのは、これまた置いてけぼりのヴァイロンである。
「じゃ、行ってくる」
そう、簡単に言って、カイエンはさっさと馬車に乗ってしまった。
彼とて思い切りのいい彼女の性格は、もうとっくに理解していたが。
「まあ、大丈夫だよ。あんたは留守をしっかり守ってなよ。そうそう、俺んちも一回くらいは様子見に行ってくれよ。カミさんはしっかり者だけど、寂しがり屋だからさあ」
警護責任者のジェネロもまた、お気楽な顔で馬に乗って行ってしまった。
そんな言葉とは裏腹に、彼がかなりこの仕事に油断のない準備をしていることは、彼の装備を見ればヴァイロンには察せられた。
フィエロアルマの面々は、戦争に行くわけではないので甲冑は着ておらず、深緑の軍服姿だが、武器の方は大仰でない程度にそれぞれの使い慣れた装備を己の愛馬に備えていた。そしてジェネロは将軍になったと言うのに、ヴァイロンの副官をしていた頃と同じ泥臭くて実践的な武器を仕込んでいた。
腰の大剣もなんの装飾もない、だが拵えを見ただけで彼が鍛冶屋に求めた注文が見えるような代物だった。戦場では剣が折れることも少なくないから、兵卒の剣は官給品だが、あれはそんなちゃちなものではなかった。
ヴァイロンの気持ちを読んだわけでもないだろうが、イリヤがヴァイロンの方をちらっと見てから慰め顔で言う。
「まあ、アキノさんも、宰相さんの部下の内閣大学士さんとかの、なんだっけ? なんとかギジェンさんもこまめに連絡をよこすって言ってたから、心配しないでいきましょうや。そのために街道沿いに連絡使い用に人数と軍馬も置いてるって言ってたからさ」
そう言うイリヤも、いつもの軽口や素っ頓狂な物言いが出てこない。
サヴォナローラはハウヤ帝国内だけでなく、先発させた部下にベアトリアとネファールの国内まで、連絡を途絶えさせないように部下を配置していたのだ。用心深い彼は馬を乗り潰さず、連動式に使者のもたらす連絡をハーマポスタールまで届けることを可能にする仕組みを作りあげていた。
それだけ、この度のシイナドラド行きには誰もが気を遣っていたのだ。
「フィエロアルマの残りと、ドラゴアルマも何かあったらすぐに出られるようにしているとも宰相は言っていたね」
教授が聞くと、イリヤはうなずいた。
「何せ、友邦とか言ってたって今は国交のない国へ行くんですからねえ。前の皇帝さんの奥さんのファナ皇后が生きていた時代なら、こっちにも人質があるってもんですけど、今は違いますからねえ」
「ザラ大将軍はお兄様のヴィクトル様に、ご自分の影使いをつけたそうですわ」
これはサグラチカ。
「え? それってあの東西南北くんたちですか?」
イリヤはあの春の嵐の騒動中、劇場でヴァイロンがフェロスの毒で獣化しそうになった時に、ザラ将軍が連れてきた中肉中背、なんの特徴もない平凡凡凡たる男たちの顔を思い出していた。
(ああ、じゃあこっちから紹介しよう。これはわしの言わば影使いの者どもでな。わしの軍の者ではないからこの秘密も漏れんよ。これが
ザラ大将軍は当時、そう言って平気な顔をしていたっけ。今度は
「なるほどねえ。あの人たちが先発してるってことですかあ」
イリヤはしきりにうなずいていた。彼自身も何がしかの不安を自分のなかに抱えてはいたのだろう。
「まあ、出来る手はすべて打ったということだね」
教授がまとめると、サグラチカが自分に言い聞かせるように小声で言った。
「カイエン様はこの頃なんだか開き直られて、大人におなりのように見えましたけれど。ああ、これもまた大公としてのカイエン様の通らなければならない道の一つなのですわね。それは分かっていても、分かってはいても……気が揉めることですわ」
ヴァイロンはサグラチカの背中を抱いたまま、一人、考えにふけっていた。
(あの人はこの街に必要な人だ。よく分からねえが、きっとあの人こそが、この先何があろうとこの街を守ってくれる人だ。俺はなんでか知らねえが、それだけはもうわかった。……もしかしたらこの先、この街がこの国じゃなくなるような時代になってもな。この街を、俺の家族を守ってくれるのは大公殿下だ。そして、ここにいる奴らはそれを助けるに違いねえ。だから俺はあの人を守るよ)
彼の誕生日の宴で、あのジェネロが言った言葉が頭の中で何度も何度も回っていた。
もしも、カイエンがこの街へ帰ってこられなかったら。
それは、実はヴァイロンだけではなく意外に多くの人々にとっての未来を失うことなのかも知れなかった。
それから二週間と少し後。
カイエンたち一行は、やっとハウヤ帝国の東の端、クリストラ公爵領へ入った。
それまでの道中は、まあ、細かい騒動はあったもののそれなりに順調ではあった。
カイエンにとっては初めての長旅で、彼女は道中の宿でも疲れが取れず、日中も馬車の中でルーサの膝を枕に眠っていることも多かったが、とりあえずは体調を崩すこともなく、ここまでたどり着くができた。
道中でカイエンは土地の名士たちの館に泊まったのだが、そこでは様々な歓待と儀礼的なやりとりが待っていた。多くは執事のアキノたちが捌いたのだが、それでもカイエンは色々と気疲れした。最初のうちはなかなか眠れない日もあったものだ。
「殿下ぁ! クリストラ公爵の大城が見えてきましたぜえ!」
カイエンの馬車の外から、ジェネロの大声が聞こえてきたのは、街道の途中で昼餐の休みをとってからしばらくしてのことだった。
昼餐とは言っても朝、泊まっていた地方豪族の館で持たされたパンと果物、チーズに干し肉と言った、簡単な食事である。
この頃、疲れているカイエンを気遣って、ジェネロはシーヴと轡を並べてカイエンの馬車のそばについている。
気さくなジェネロはあっという間にカイエンはじめ大公家の人々と親しくなり、シーヴなどは年の離れた兄のように思い始めていた。
「おお! あれが!」
カイエンはこの日もルーサの膝を枕に馬車の中で伸びていたのだが、ジェネロの声にははっとして起き上がった。
カイエンの体調を慮って、穏やかに進む馬車の窓を開ければ。
広大な草原の向こうに、草原と森に囲まれた街クリスタレラの威容が見渡せた。
これは美しい!
晩夏の真っ青な空を背景に、遠く、緑の草原の向こうに見える青みがかった白い石造りのクリスタレラの大城がそびえ立っている。このハウヤ帝国東部では白大理石が採れるが、それは独特の薄青い色で有名だ。
クリスタレラは国境に近い街であるため、街の外側は何重もの城壁に囲まれている。城壁の周りは一面の草原と森だ。八月の終わりではあったが、草原を吹きならしていく風はもう、秋を感じさせてさわやかだった。
カイエンは馬車の窓から首を伸ばして見た。
クリストラ公爵の大城はハウヤ帝国東側で一番大きい街、クリスタレラの中心にそびえ立っている。先の国境紛争中にはベアトリア国境に流れる川沿いの要塞に駐屯していた公爵だが、今はパナメリゴ街道沿いのクリスタレラの大城に住んでいる。
ベアトリアとの国境を越える前に、一行はここで数日を過ごすことになっていた。旅の疲れを癒して隊列を整え、糧食などを補給し、荷馬車などの整備も行う手はずとなっている。
そうして彼らが見ているうちにも、城壁が目の前に迫ってきた。
カイエンは初めて見るが、それにしても高くて堅牢な石造りの城壁である。
この旅の間に通ってきたどの街の城壁とも比べ物にならない。
やがて、窓から首を出したカイエンの目に、巨大な城壁の扉が見えてきた。今は平時なので、それは開け放たれている。
国内のことだから、カイエン一行は止まることもなく、城壁の扉を越えていく。
城壁を越えると、間近にクリストラの大城が見上げられた。その高台に築かれた城へ向かって、一行は足を速めた。誰もが疲れている。その気持ちが馬や馬車の足にも伝わっているのだろう。
見ていると、向こうから騎馬の一団が近づいてきた。
一行の先頭を行くジェネロの副官のチコ・サフラのそばで轡を並べ、何事か話したのちにカイエンの馬車の方へやってくる。
「あっ!」
カイエンは驚いた。
その先頭を来る顔には大いに見覚えがある。
「クリストラ公爵!」
なんと、カイエンには叔父にあたるクリストラ公爵自らの出迎えであった。
あっと言う間にカイエンの馬車の横へやってきたクリストラ公爵ヘクトルは破顔した。
「大公殿下、ようこそ我が領国へ! 城でミルドラと娘たちがお待ちしております」
その昔、叔母のミルドラが惚れ込んだ偉丈夫の姿に、カイエンは心底、安堵した。
「あらあらあら。お疲れねえ」
何重もの城壁を越えてカイエンたち一行がクリストラ公爵の大城の入り口をくぐり、馬車止まりで馬車から降りると、目の前に叔母と三人の娘たちが出迎えていた。
ヘクトルも馬から降りる。
クリスタレラ城。それはまさしく大城であった。
帝都ハーマポスタールの皇宮や、カイエンの大公宮は高台にはあるが、建物自体は城というよりは名前の通り、「宮殿」であり、広大な敷地に広々と建物が連なっている。
だが、この国境の城は幾重もの城壁の中にあり、幾層もの階数を誇る縦に長い城だ。いざ、敵の襲来というときには幾重もの城壁で防ぎ、最終的には大城に立てこもって籠城することを想定して造られている。
建物の中の部屋数では皇宮や大公宮には及ばないだろうが、敵襲の際に敵を上から迎撃できるように、渦を巻くように建物が連なっていた。
そういう城の入り口から見上げる大城の威容は、まるで天空へ向かって立ち上がった巨大な塔のように見えた。
そんな城の威容を見上げつつ。
杖を突いてはいても、まだ馬車に揺られているような心持ちのカイエンは、アキノとルーサに支えられてミルドラの前に立った。
カイエンは旅の間も着やすいことと、地方の名士たちに会う場合にも都合がいいので大公軍団の制服を着ていたが、制服の中身の疲労がそれを包む服にまで現れたようにくたびれて見えた。
「叔母様、ありがとうございます」
やっとそう言うと、どっと今までの旅の疲れがあふれ出て来るようだ。
「ようこそ、クリスタレラへ!」
明るい緑色のドレス姿で微笑むミルドラの左右に立っている、夏らしい華やかな装いの娘たちが声を揃える。
クリストラ公爵の家族は基本的に夏の社交シーズンしか帝都ハーマポスタールに上がってこない。先年までの国境紛争中、クリストラ公爵の令嬢たちは帝都にいたのだが、当時のカイエンと彼らの間にはそれほど緊密な付き合いはなかった。
それはミルドラとカイエンの父であるアルウィンの間の距離に正比例していたからだ。
ミルドラの婚姻後、彼ら姉弟の関係はあまり芳しいものではなかったのだ。
しかし、その時代はもう終わっていた。去年の騒動以降は、ミルドラはカイエンのところへ来る時に娘たちを伴うことも多くなり、やっと従姉妹たちは心を通わせはじめたところだった。
「アグスティナ、バルバラ! それにコンスエラ! 元気そうだな」
アキノとルーサに支えられた情けない姿ではあったが、カイエンは笑って従姉妹達に挨拶した。
クリストラ公爵とミルドラの間の子は女ばかり三人。
長女のアグスティナは二十一歳。
次女のバルバラはカイエンの一つ下で、十八。
三女のコンスエラはまだ十二だ。
三人はあまり似ていない。というか、その両親の特徴をきれいに分散しているように見えた。
長女のアグスティナはすらりと背が高く、薄い金色の髪も、青い目も父のヘクトルにそっくりだ。顔立ちも優しい。
一方、次女のバルバラは母のミルドラによく似ていて、小柄で髪は黒く、青い目の色が灰色がかっている。
三女のコンスエラは両親の特徴を折半した容貌で、子供ながらも背が高く、目の色は青いが、髪は黒っぽかった。
「さあさあ、入って。大丈夫よ。お付きの人たちの手当てはちゃんと係りのものがするから」
ミルドラはカイエンによく似ている灰色の目を細めて、カイエンを見た。
「疲れたでしょう。奥にどうぞ。将軍さんも。細かいことは副官の人たちにお任せになって」
カイエンの後ろで馬から降りた、ジェネロとシーヴは顔を見合わせてから、カイエン達の後について城の中へ入った。
カイエンたちはまず、数日の間滞在するはずの部屋へ通された。
そこは城の特に親しい来客用に使われる一棟のようで、クリストラ公爵の家族が使っている棟と中庭を挟んで向かい合った独立した棟だった。
そこで寝起きするはずなのは、カイエン以下アキノやシーヴ、それにルーサや女騎士たち、彼女のお付きと、将軍のジェネロ、宰相サヴォナローラがカイエンにつけた交渉役の内閣大学士、フランシスコ・ギジェンまでのようで、部屋もまとまって設けられていた。ジェネロの副官の二人は兵士たちの統率が乱れないよう、兵士たちの宿舎で寝泊まりすることになりそうだ。もっとも、これは今までの旅の過程でも同じことだったが。
カイエンはあてがわれた一連の居室に続いている大きな居間に入った。
広い居間にはすでに茶菓の用意がされており、そこまではこの客人たちの世話係らしい、落ち着いた物腰の侍女たちが静かに動いて一行を案内した。
カイエンは座り心地の良さそうな上質のソファに座りながら、自分の次に体力のなさそうな男に声をかけた。
「パコ、大丈夫か」
その男もまた、疲労のあまり口もきけない有様であったが、それでもカイエンの隣のソファに倒れるように座り込むと、ほっとしたように顔を上げた。
「は。情けないことで申し訳もございません」
内閣大学士フランシスコ・ギジェン。
宰相サヴォナローラが皇帝の内閣大学士から宰相に昇進するとともに、皇帝の私設秘書たる内閣大学士の地位を受け継いだ男である。
フランシスコ・ギジェンはカイエンに初めて目どおりした時、こう言って自己紹介したものだった。
「フランシスコ・ギジェンでございます。どうか、パコ、とお呼びください」
と。
パコ、とはフランシスコの愛称だ。
そう言ったギジェンはあのマテオ・ソーサほどではないが、男としては小柄で、しかも小太りだった。金色に近い薄茶色の髪と目で、頭にはアストロナータ神官の長い帽子をかぶり、髭のない丸い顎の下から先はアストロナータ神官の褐色の装いだった。年齢はサヴォナローラよりは少し若いだろう。
銀色の縁の丸い眼鏡をかけているのが、いかにも賢しい印象だ。
「正直申し上げまして、私もサヴォナローラ様のお言いつけでなかったらシイナドラドへなど参りたくはございません」
そう言い切った顔は不満げで、カイエンを笑わせたが、後に続けた言葉はそれを裏切る冷徹さに溢れていた。
「それでも私が行かねば、この度の事態に対応できませんでしょう。事は外交的に極めて重大です。繊細かつ時には大胆な対応が求められるでありましょう。……皇帝陛下、宰相様のご意向と照らし合わせて対応するには、失礼ながら未だ御若年の大公殿下には荷が重すぎます」
カイエンは怒らなかった。
己の未熟は知って知って知らしめられている。
皇帝やサヴォナローラからすれば、当たり前の対処であろうと思ったから。
「俺までこっちに泊まっていいのかな」
ジェネロはちょっと居心地悪そうだったが、シーヴに促されて並んだソファの、カイエンを挟んでパコの向かい側に座った。
「大丈夫でございます。副官の方々との連絡はしっかりこのアキノが取り次がせていただきます」
執事のアキノはもう、五十の坂を越えているが、その瘦せぎすな体躯は頑健そのもので、旅の疲れはその体のどこからも伺えなかった。
「そうですよ。俺もいますから、大丈夫です」
そう言いながら、シーヴはルーサや女騎士たちとともに、カイエンの荷物を解くために下がっていった。ジェネロやパコの荷物は彼らの従卒たちが頑張っているはずだ。
カイエンとジェネロ、それにパコがソファに落ち着くと、侍女たちが茶を運んできた。
それを待つようにして年かさの侍女が現れて、カイエンに告げた。
「ミルドラ様には大公殿下には今夜はこちらでゆっくりお休みになっていただき、明日の晩餐をともにしたいとの仰せです。今宵の晩餐はこちらのお居間の隣のお部屋へお持ちいたします」
「そうか。それはお気遣いありがたい」
カイエンが鷹揚にうなずくと、侍女はうやうやしく頭を下げて下がっていった。
時刻は午後の半ば。
荷物を解いて、少し休んでから晩餐をとって今日は休むだけというわけだ。疲れたカイエンやパコにはありがたい心遣いだった。
「ザラ子爵たちはもう、ここを通過してベアトリア領内へ入ったのだろうか」
カイエンが出された茶を一口飲んでそう口にすると、すぐにアキノが傍から答えた。
「先ほど、こちらの者から聞いております。ザラ子爵とシイナドラドのサパタ伯爵はもう、先週、ベアトリアへ向かったそうでございます」
「順調ですね」
そう言ったのはジェネロ。
だが、国境を越えてベアトリアへ入ればそこは敵地も同然、と言っては大げさだが、ベアトリアとの国境紛争が終着したのはつい先年だ。現在はベアトリアの第一王女マグダレーナを第三妾妃に迎え、人質をとった形とは言っても向こうの感情は複雑だろう。
「国境を越えてからはザラ子爵の手のものが先導する手はずです」
そう言ったのは、内閣大学士のパコ。彼もまた、美味しそうに茶をすすっている。茶からは一行の疲労を考えたのだろう、生姜と蜂蜜、それにレモンの風味が漂った。
「ザラ子爵の手のものというと、アレか?」
カイエンがあの全く印象に残らない外見の、ザラ将軍の影たちを思い出しながら聞くと、アキノはうなずいた。
「はい」
「まあ、ザラ様のお兄さんと、ザラ様の手のものなら、仕事は確実でしょうな」
ジェネロの顔には疲れのかけらも見えないが、それでも彼はありがたそうに滋養のある茶を飲んでいる。
「国境の向こうではベアトリアの国境警備隊が待ち構えているのだろうな」
カイエンが聞くと、ジェネロとパコが答えた。
「先の国境紛争があったのは国境の川沿いですから、パナメリゴ街道沿いに紛争の傷跡は残っていないでしょうが、国境には検問所がありますからね」
「もちろん、大公殿下の一行であることの証明は皇帝陛下のくださった委任状もございますし、ザラ子爵が万事、先んじて騒動の起こらないようにしてくださっているはずです」
「そうだな」
カイエンは一応はうなずいたが、心の底に、何か不安なものが淀んでいるのを感じていた。
初めて外国へ入るからというのはもちろんある。
それが、先年まで国境紛争を繰り返していた、あのマグダレーナの故郷とあれば、こちらには千人以上のフィエロアルマが警備についていると言っても不安はあった。ベアトリアの国民は先の国境紛争の末に、領土の一部を失ったことを忘れてはいないだろう。
去年、あの皇后の晩餐会で見た、マグダレーナの弟、王太子のフェリクスは気の小さそうな男に見えたが、彼とて自国の中では態度も変わってこよう。
パナメリゴ街道はベアトリアの首都も、次のネファールの首都も通過している。
そこでは、大国ハウヤ帝国の大公であるカイエンを迎える、様々な面倒臭い儀礼事が待ち構えているのに違いない。
首都での滞在は最低限の日数に切り詰めてはいるが、向こうへ行けば少々の変更も積み重なっていくのではないか。
「これからが、厄介だな」
そうつぶやくカイエンの灰色の目はやや不安そうに沈んで見えた
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