Act.8 予期せぬ災厄
思考が停止していたのは、どのくらいの時間だったのだろうか。知らない内に目を瞑っていたミリアは、ゆっくりと瞼を開ける。
すると周囲には、先程より鬱蒼とした緑が溢れていた。
野営地と違って平らに開けた場所はなく、天を覆い隠さんばかりの背丈を誇る巨木が、乱雑に
隣に佇む無愛想な相棒を除けば、だが。
「始まったね、いよいよ」
「……ああ」
ミリアの言葉に軽い相槌を打ってから、エルクは自身の装備を確かめるような仕草を見せた。
革製のグローブを嵌めている両手の具合いを確かめていたエルクは、ふと何かを思い出したようにミリアに視線を向けてきた。
「そういえば、さっき野営地で何か言い掛けてなかったか?」
「あっ、そうだった。実はね――」
オズワルドの演説が始まった事で中断してしまった話を、ミリアは今度こそ切り出した。
それは、昼休みにバネッサ達と交わした何気ない会話の一端。出掛け先で、彼女達が一度も竜に遭遇していないと発言した時の事。
外出する度に竜に襲われていた自分達と、あまりにも差があり過ぎるのではないか。
……という疑問をエルクにぶつけてみた所、彼は意外にも難しげな顔を浮かべた。
「確かに、少々気になる話ではあるな」
「……そう思うの? エルクも?」
「ああ。……? 何で嬉しそうなんだ、お前」
「えっ!? そ、そんな事ないよ、全然!」
慌てて首を振るミリアに、エルクは訝しそうに眉根を寄せて応じる。
正直な話、こんな疑問を感じるのは自分だけなのではないか、とミリアは思っていた。故に、頭ごなしに否定してこないエルクに感謝を覚え、同時に嬉しくも思ったのだ。
ちょっとはパートナーらしいやり取りができたのではないか、と。
「ごめんね、試験中なのに気を散らせるような事言って。もっと早く伝えておけば良かったよね……」
恥ずかしさを誤魔化す為に、少しでも話を逸らそうとするミリア。とはいえ反省しているのは本当なので、素直に謝罪を挟んでおく。
考え事の内容を見透かされていないか不安だったが、どうやらエルクはそれどころではないらしい。まるで急かすかのように会話を促す。
「構うな。それよりその竜の話、学園長やマーフェス先生には話したのか?」
「ううん。昼休みとはいえ試験中だし……。確かに気になる話ではあるけど、だからどうしたのかって聞かれたら、何て答えたらいいかわからなかったから……」
「……」
そう、確かに気になる話ではあるのだが、それが本当に異変なのかと問われると、ミリアには自信がなくなる。「偶然だ」の一言で片付けようと思えば片付けられるし、自分が何か致命的な被害を被った訳でもない。これでは相談された方も首を傾げるしかないだろう。
だが、どうやらエルクは違うようだ。何か気になる事でもあるのか、思案するかのように黙り込む。
「……クロードライト」
「ん、何?」
しばらく無言で考え込んだあと、突然呼び掛けてくるエルク。
若干戸惑うミリアを尻目に、どこか厳しげな表情で、彼はこう問い掛けてきた。
「お前、学園長の事をどう思う。信用できる人間だと思うか?」
何をどう思案した上での発言なのか知らないが、また随分と穏やかではない質問である。相手は仮にも自分達が在籍する学園の長だという認識が、果たしてエルクにはあるのだろうか?
「……んー、どうだろう。あなたと違って、私はそんなに接点ないからなぁ……。たまに廊下で擦れ違う事はあっても、まともに会話したのだって、例の学園長室での一件くらいだし……」
オズワルドの顔を思い浮かべ、やや首を傾げるミリア。ただ、口にした言葉とは裏腹に、改めて聞かれると全く気になる事がない訳ではない。
そうあれは、約一ヶ月前に学園講堂で行なわれた入学式での出来事。
『ねぇ、ミリアちゃん。あのオズワルドって人と、知り合いだったりする?』
『私の気のせいかも知れないんだけど、あの人今、ミリアちゃんの事見つめてなかった?』
自分の勘違いだと思っていた事をセシリーに指摘され、オズワルドの行動を不思議に思った事があった。
しかし彼は、そのあとミリアと接する機会が数度あったにも拘わらず、その事を言及する様子が一切なかったのだ。
だからこそミリアは、あの時の出来事はやはり自分の勘違いだったのだろう、と思うようになっていたのだが……。
(さっきも私の事見てた……のかな?)
つい今し方、ここへ転移させられる瞬間、オズワルドがこちらへ視線を送っていたように感じられた。
前回と今回。その両方が、もしも勘違いではなかったとしたら。あの視線が意味するものは一体……。
「エルクの方こそどうなの? そんな事私に聞くって事は、信用できないような事でもあったの?」
あまり黙り込んだままでいると不審がられると思い、ミリアはエルクにそう問い返した。
すると案の定、エルクはあからさまに渋い顔を作る。
「……別に。ただ俺は、最初からあの人を信用していない。前にも言っただろ。あの人の言動が気に喰わないってな」
「それはそうだけど……」
エルクの場合、怪しいかどうかよりも、単に感情的な部分で学園長を嫌っているだけのような気もする。癪に障る出来事があった、と溢していた事もあったし、彼に対して好印象を抱いていないのは確かだ。
満足のいく答えが得られたのかわからないが、エルクは閑話休題とばかりに浅く息を吐き、木々の奥へと視線を向けた。
「……お喋りが過ぎたな。そろそろ祭壇探しを始めないと、他の生徒達に遅れを取る」
「あっ、そうだね。――じゃあ、ちょっと待ってて」
一言断りを入れて、ミリアはエルクから少しだけ距離を取った。
祭壇探しの鍵となる魔力感知は、当然ながらエルクにもできる事ではある。しかしミリアは、何も言われずとも彼に任せるつもりはなかった。あくまで魔術師を名乗るのは自分なのだから、これは自分がやるべき仕事である。
以前、『
目を開いていないのに、まるで星が全く見えない夜空のような闇が、周囲にどこまでも広がっているのがわかる。さらに意識を集中させると、白い光の球体が、発火するかのように次々と広い空間に現れ始めた。光の大きさはミリアとの距離に応じて変わっているらしく、遠いものだと砂粒くらいのものもある。
これらがまさしく、『
ゆっくりと目を開け、現実へと立ち戻るミリア。鬱蒼とした木々や植物達が、少女の帰還を歓迎するかのように、微かな風で揺らいでいる。
「それらしい魔力を感じ取ったよ。案内するから付いて来て!」
察知した通りなら、一番近い祭壇はここからさほど離れていない。ならば会話に要した時間を取り戻すのは、充分可能なはずだ。
移動を促しつつ、小走りで先へ進もうとしたミリアだったが、不意に疑問を感じて踏み止まった。
背後を振り返ってみると、なぜかエルクはその場から全く動こうとしていない。そればかりか、ミリアとは違う方向を眼光鋭く見つめ、腰の剣帯に手を掛けている。
「エルク……? どうし――」
相棒の異変に戸惑っていたのも束の間。突如エルクが睨んでいた方向から、何かが近付いてくる音が聴こえてきたのだ。
一瞬、音の主は他の生徒かと思ったが、違う。確かに音の響きは生物的ではあるが、人間の発する足音より明らかに重く鈍い。何よりエルクの表情が、全てを物語っているではないか。
敵が来た、と。
「早速お出座しか。予想より随分と早かったな」
大地を踏み締めながら、大木の陰から現れたのは、すでにミリア達にとっては顔馴染みとなった地竜、ディノドラゴンだった。
目視できる数は二頭。いつぞやのように群れを成していないだけ、まだ対処のしようはあるというものだ。
ミリア達を視界に捉え、鋭く咆哮するディノドラゴン。対してエルクは、即座に鞘からロングソードを引き抜いた。
こちらを逃がす気はないと容易に感じ取れる獰猛な瞳。それを見つめていると、ミリアは言い様のない奇妙な感覚に襲われた。
耳の奥で響き渡る、遠雷のような不穏な音。まるで全速力で駆け抜けてきた後のように、左胸の鼓動が早くなっている気さえする。
(……? 何だろう……。上手く言葉にできないけど、何か変な感じがする……)
竜との遭遇なら飽きるほど繰り返してきたはずなのに、こんな感覚に囚われるなんて……。今になって……いや、大切な試験の最中という特殊な環境下だからこそ、身体が竜に対する恐怖心を思い出してしまったのかも知れない。
いずれにしろ、ミリアは即座に対応できなかった。
対峙する片方の竜が、自分に襲い掛かろうとしているにも拘わらず――
「はあっ!」
そんな、固まり掛けていたミリアの思考を奮い立たせたのは、ビュンッという鋭い風切り音だった。
気迫の籠った叫びと共に放たれた斬撃が、ミリアを引き裂こうとしていた竜を牽制し、後退させた。
両者の間に立ち、剣を構え直しながらエルクは言う。
「何のんびりしてる。まさか今更怖じ気付いたのか?」
どこか落胆しているような口調で窘められ、ミリアは自分の不甲斐なさに憤りを感じた。
全く以て彼の言う通りだ。何がちょっとはパートナーらしいやり取りができたのではないか、だ。この程度の事で動揺して、相棒に心配を掛けさせているようでは対等とは言えない。
両手でパシンと頬を叩き、気合いを入れ直す。
「……ごめん、もう大丈夫。さっさと倒して、先へ進もう!」
「……お前にしては上出来な反応だ」
ミリアの答えにいくらか満足したのか、エルクは告げると同時に竜へと突進していく。
先行する頼もしい背中を見据え、微かに笑みを浮かべながら、ミリアは呪文の詠唱を開始した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
実地訓練という名の試験が開始されて、もうすぐ二時間が経過しようとしている。
当初の予定通り竜との戦闘を重ねつつ、着実に祭壇があると思われる方角を目指して進んでいくミリアとエルク。相変わらず『灰化』によって竜の亡骸は悉く消え去ってしまうが、あくまで優先すべきは試験の方なので、残念に思うのは後回しにする。
凹凸の目立つ地面に足を取られないよう注意しながら、ミリアはふと周囲に目を配った。
「なんか、思ってた以上に他のみんなと出会したりしないね。やっぱりその辺りの事も考えて、私達を転移させてるのかなぁ?」
語尾が疑問系ではあるが、ミリアはほとんど独り言のつもりでそう口にした。
するとこれまた意外にも、隣を歩くエルクが反応を示した。
「まぁ、考えられなくはないだろう。生徒間の協力は禁止されている訳じゃないから、出会う確率を少しでも減らさないと、協力し合う生徒ばかりになる。それじゃあ俺達を別々の場所に飛ばした意味がなくなるからな」
この試験の目的は、あくまでパートナー間での連携を強める事にある。学園側もその点を考慮して、生徒達が合流する可能性が低くなるような配置をしているに違いない。
尤も、『呪い』や素材探しの件をできるだけ隠しておきたい二人にとっては、非常に好都合と言える状況な訳だが。
「――あっ! アレじゃない? 石が置かれてる祭壇って!」
緑多き風景の中に、明らかに自然のものではない人工物を見つけ、ミリアは声を上げつつ前方を指差した。
周囲のものより二回りほど幹の太い大樹の袂に、白亜の岩石を削って造られたと思しき祭壇が屹立している。
造られてから今に至るまでの年月の永さを物語るように、蔦や苔に覆われている部分もあれば、微かな罅が入ったり欠けたりしている部分もある。
祭壇の中央、白い台座の上に雄々しい姿で屹立しているのは、獅子と山羊の頭を持つ想像上の獣を模した石像。学園の校章にも刻まれている、『キマイラ』と呼ばれるものだ。
今にも動き出しそうな石像と左胸の校章を見比べつつ、エルクは口を開く。
「どうやらここで間違いない。この石像が、学園の所有物だという証だからな」
白亜の石像を見上げるエルクの横で、ミリアは台座の部分に目を向ける。すると、丁度『キマイラ』の足許となる部分に、紫黒色の丸い石が無造作にいくつも並べられている。
特に意識する事もなく、ミリアはその内の一つを右手で持ち上げた。そしてふと、残った無数の石に視線を落とす。
「私達、何番目にここへ着いたんだろ?」
「……さぁな。この祭壇だって五つある内の一つなんだ。全員が同じ祭壇を狙いでもしない限り、自分達の順位なんて知りようがないさ」
石がいくつ置かれていたのかわからない以上、数が減っているかどうかを知る術はない。ひょっとしたら、すでに何組かの生徒がこの祭壇を訪れているのかも知れないし、或いは自分達が一番乗りなのかも知れない。
いずれにしろエルクの言う通り、この場で現在の順位を把握するのは無理がありそうだ。
「あとは野営地に戻るだけだ。制限時間を気にしながら、可能な限り素材集めを――」
と喋りながら、エルクが取り出した懐中時計に視線を落とした時だった。
まるで彼の声を掻き消そうとするかのように、突如として鳴り響いた激しい音。あまりの大きさと前触れの無さに、ミリアは思わず身を竦ませる。
「びっくりしたぁ……。何、今の……?」
大切な試験用の石をポーチの中に仕舞った直後だったミリアは、怖々と顔を上げた。
聴こえたのは一度だけだった為、詳しい音源はわからない。だが相当な音量を誇っていたせいか、ミリアの耳には未だ残響が纏わり付いているように感じられる。
「衝撃の大きさから考えて、恐らく戦闘音だろう。ここからそう遠くないみたいだ。……随分と派手に暴れてるな……」
音が響いてきたと思われる方向を見つめ、不穏そうに呟くエルク。
彼と同じ方向を見つめていたミリアは、その言葉に触発されたのか、急に胸の辺りに妙な息苦しさを覚えた。
試験地に着いた瞬間から、こうして時折襲う歪な感覚。気のせいかも知れないが、先へ進む毎に回数が増えているように思う。
無意識に右手を胸の中央に添え、少し荒くなっている呼吸を整えながら隣を見る。
「……ねぇエルク。少しだけ様子を見に行ったらダメかな? ……何となく、嫌な予感がするの」
投げ掛けられた言葉に対し、訝しげな表情を返してきたエルクは、冷淡とも言える口調で話し始める。
「不吉な事を言う割に、随分と間の抜けた提案だな。嫌な予感がするなら近付かなければいい。なぜわざわざ危険があるかも知れない場所に行こうとする?」
「それは、そうなんだけど……。でも……」
取り付く島もない様子で視線を送ってくるエルク。無関係な事に首を突っ込む必要はないと、言外に告げているのがわかる。
彼の言い分はもちろん理解できる。もしも今の激しい音が戦闘によるものなのだとしたら、向かう先に何らかの苦難が待ち構えているのは明白だ。自分達も結果を残さなければならない立場である以上、余計な事に時間を割くのは得策とは言えない。
だがそれでもミリアは、自身の胸を締め付ける異様な感覚を無視する事ができなかった。どうしてもエルクが駄目だと言うなら、一人で向かおうとさえ思える程に。
そんな頑なな内心が、表情を通じて伝わったのだろうか。無言でこちらを見つめていたエルクが、呆れたような表情で浅く溜め息を吐いた。
「……様子を見に行くだけだ。仮に他の生徒が竜と戦っている最中だとしても、手助けは一切しない。それでいいな?」
「……! うん、ありがと!」
渋々ながらも了承してもらえた事が嬉しくて、ついつい顔を綻ばせてしまうミリア。
その様子を目の当たりにしたエルクが、煩わしそうに顔をしかめたのは言うまでもない。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
立ち並ぶ大樹をやり過ごし、凹凸の目立つ地面を踏破する事、およそ二十分。祭壇探しと違って何か目標になるものがある訳でない為、あちこち様子を窺いながら蛇行するミリアとエルク。
あの大きな音以降、異変を感じさせるような事象は起こっていない。それ故、何事かを確かめたいというミリアの意向は、目的地不明という形で難航しつつあった。
「……何も見つからないね」
「……そうだな」
「……怒ってる? それとも呆れてる?」
「……別に。音が聞こえてきたのは恐らくこの辺りだ。何か見つかるとしたらそろそろなんじゃないか」
何かがあろうとなかろうと、然して興味なさげなエルク。最初から乗り気ではなかったのだから仕方がないとはいえ、もう少し愛想の良い反応を返してほしいものである。
(……ま、エルクにそんなの期待してもダメだよね……)
失礼だとは思いつつも、間違いではないでしょ、と内心で無意味に開き直るミリア。
するとその瞬間、隣を歩いていたエルクが突然立ち止まった。
「ど、どうしたの……?」
まさか心の声を聞き取られてしまったのか、と冷や汗を掻くミリアだったが、幸か不幸かエルクの視線はこちらを捉えていない。どこか探るような目付きで見つめているのは、林のもっと奥のようだ。
「……何か聞こえる。こっちの方からだ」
「! ま、待ってよ!」
興味なさげだったはずのエルクが、我れ先にと早足になる様子に、ミリアは戸惑いながらも後を追った。
彼は何らかの音を耳にしたようだが、ミリアは何も聞いていない。だがその代わりとばかりに、またあの妙な感覚が胸の辺りを締め付け始めた。
しかもそれは明らかに、エルクが進む方向へ付いていくほど強くなっている。
(何なのこれ……。この先に、一体何が……)
さすがに看過できなくなってきた症状を、先行するエルクに伝えようとした、まさにその時だった。
前方に現れた、周囲の木々より二回りは太い幹を持つ大樹。その根元の方を見て、足早に進んでいたはずのエルクが歩みを止めたのだ。
「これは……」
「……? 何か見つけたの?」
彼の背に遮られていた視界を、横にずれる事で確保した瞬間、ミリアは息が干上がるかと思った。
鬱蒼としているはずの緑を覆い隠すかのように、大樹の根元を染める
そしてその中心点に横たわる、見覚えのある二つの人影。
ミリアと同じ学園の制服を纏った少女達の名前は、決して忘れようはずもない。
「バネッサ!! セシリー!!」
佇んだまま動かないエルクの横を駆け抜け、ミリアは自分の肌や制服が血塗れになる事も厭わず、二人の親友の傍らに屈み込んだ。
深傷ではないものの、全身に切り傷を負っているのだろう。制服のあちこちが引き裂かれたかのように破れ、紅く滲んでいるのがわかる。二人とも命に別状はないようだが、顔はやや青ざめ、怪我を負った影響からか意識がない。
一体何があればこんな惨状が作り出せるというのだろう。それともまさか、さっきの大きな音はこの二人が何らかの事象に巻き込まれた音だったのだろうか。
確かに、周囲の血に気を取られがちだが、目を凝らすと争ったような形跡がいくつも見受けられる。
地面には、何かで切り裂いたような大きな溝がいくつもできている上、立ち並ぶ木々の幹は砕けたり裂けたりしていて、あと僅かで倒壊しそうなものもある。
まさしく戦場と呼ぶべき周囲の荒れように、思考が一つの結論を導こうとするが、今はそちらに気を向けている場合ではない。
(早く治癒魔術を掛けないと!)
逸れ掛かった意識を乱暴に切り替え、ミリアは体内で魔力の精製を始める。そして二人の身体の上に両手を
突然横合いから、エルクが制止するかのように右手を掴んできたのだ。
「何するのエルク! 早く二人を治療しないと――」
「静かにしろ! 魔術も使うな! 奴に気付かれる!」
「えっ……?」
屈みながら語気を荒げるエルクに、疑問の声を返した、直後。
数十メートル先の僅かに空が開けていた場所に、上空から巨大な影が飛来し、轟音と共に着地した。
大質量の存在が地面を叩き付けた結果、粉塵が盛大に舞い上がる。
そして――
「グオオオオオオオオォォォォォォッ!!」
まるで狼の遠吠えのように、『それ』が首を
意識のないバネッサとセシリーを大樹の陰に隠し、ミリアは非情なる現実を直視した。
体長七メートルほどの全身を、黒と紅の
その体躯ゆえに動作はやや緩慢なようだが、巨木の如く太い前脚や後ろ脚、そして長大な尾は、一薙ぎするだけで凄まじい破壊力を発揮する光景が容易く想像できる。
何かを探しているのか、低い唸り声を上げながら、ゆっくりと周囲を見回している。
……いや違う。『何か』ではない。『誰か』だ。
状況から考えて、バネッサ達を戦闘不能に追いやったのは、間違いなくあの翼竜だ。詳しい経緯はわからないが、恐らく上空から何らかの攻撃を仕掛け、二人にこれだけの傷を負わせたのだ。そして狙った獲物がどうなったかを確かめる為、ああやって地面に降り立ったのだ。
だとしたら、先程エルクが聞いた音の正体は、あの翼竜が羽ばたく音だったのではないだろうか。
木陰から様子を窺いながら、ミリアは自分の胸を締め付けるものの原因が、あの翼竜だったのだと確信した。
「何なの、あの竜……。今まで見た奴らと、全然……」
纏う空気が違う。発する威圧感が違う。何から何まで別格だった。
全身を襲う寒気によって震えるミリアを、まるで追い詰めようとするかのように、エルクがやけに低い声音で告げる。
「当たり前だ。あんな上級竜、本来ならこんな所に現れるはずがないからな」
「! あの竜の事、知ってるの?」
「昔、師匠に教えてもらった事はあるが、実物を見るのは初めてだ。……個体名称、『グラヴェルグドラゴン』」
こちらを振り向きながら、エルクは重苦しげに告げる。
抗い難き死を撒き散らすであろう、竜の正体を。
「『暴食』と呼ばれる、コランダム級の怪物だ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「コ……、コランダム級って……」
最上級の一つ下。ペリドットやアメシストとは比べ物にならない危険度を持つ竜。『教団』の人間ならともかく、学園に入学したばかりのひよっ子が相手にできるような敵ではない。
言葉を失うミリアを一瞥し、エルクは再び竜を見据えた。
暴れ回っている訳でもないのに、その禍々しい姿から発せられるのは、強烈な畏怖と死の感覚。立ち向かおうという気概が折られるどころではない。生み出す前に、跡形もなく磨り潰されてしまう。
(確か奴の目撃例があったのは、大陸のもっと東側だったはずだ。本来の生息域を外れて活動する個体もいると聞いてはいたが、よりにもよってこんな時に………! 『教団』の連中、本当にここを調査したのか……!?)
試験内容が開示された際、『教団』からの定期報告によって、この森林地帯に出現するのは下級竜のみだと記されていた。
無論、彼らも神ではないのだから、全てを予測するのは不可能だろう。だが当事者からすれば、笑って済ませられる話ではない。
(……まさか、あんたが絡んでるんじゃないだろうな、学園長?)
あの人を喰ったような笑みを思い浮かべ、エルクは僅かに奥歯を噛み締める。気を緩めるな、と警告してくれたリンディがこの状況を知ったら、一体どんな反応を見せるだろう。
学園長の仕業だと断定できる証拠は、もちろんない。第一、竜という規格外の存在を相手に、どのような手段を用いれば、こんな八百長のような真似ができるというのか。
だが、例え学園長が関わっていようといまいと、エルクには確信する事ができた。
これは偶然などではない、と。
何者かの意志が働いている以上、状況は最悪であると言わざるを得ない。なぜならあの竜はコランダム級であると同時に、厄介な『能力持ち』だ。今の自分と、入学したばかりの新米魔術師で相手をするには、荷が重過ぎる。死の宣告を受けたと言っても過言ではない。
苦々しい思いに駆られるエルクの傍らで、恐らくは状況の深刻さを理解し切れていない少女が言う。
「何にしても私達じゃ手に負えないよ! 早くここから離脱して、先生達に知らせないと!」
「……」
腰に巻いたベルトポーチの中を探って、青く透き通った『
その様子を、エルクは無言のまま横目で見つめていた。彼女を止めるべきかとも思ったが、敢えて口を挟まない方を選んだ。
一度その身で体感しなければ、わからない事もある。
「
転移の為の式句を唱え、右手の石を頭上へと
だがすぐに、彼女は違和感に気付いたようだ。驚愕と疑問が
「……なっ、何で!? 何で転移が働かないの……!?」
慌てふためくミリアとは対照的に、終始冷静さを保っているエルク。無論その理由は、発動しない原因がわかっているからだ。
「『
「えっ?」
短く呟いた言葉に、ミリアが不思議そうな顔をする。
かつて師匠から『暴食』の能力について教示を受けた時、自分も今の彼女と同じような顔をしていたのだろうか……。
「『竜識学』の授業で習っただろ。コランダム級の竜は、特殊能力を持つかどうかによって
見失った獲物を探して首を左右に振っている竜の姿を捉えつつ、エルクは続ける。
「さっき奴が雄叫びを上げていただろ? あれはあの竜が能力を使う時の癖みたいなものだ。あの瞬間、発動した『
「そんな……」
落胆し、畏怖に呑み込まれそうな表情を浮かべながら、ミリアは何かに気付いた様子で、視線を意識のない級友達に向ける。
「じゃあ、バネッサ達がすぐに離脱しなかったのって……」
「石が使い物にならなくなったんだ。したくてもできなかったんだろう。こんな傷だらけになるまであいつに立ち向かったのか、逃げ回ったのかまではわからないがな」
言い淀むミリアの台詞を引き継ぐように続け、エルクもバネッサ達に視線を向けた。
先程聞いた話だと、この二人は過去に竜との遭遇を経験していないらしい。そんな少女達が、コランダム級という教本の挿絵でしか知らないような存在と相対したのだ。たった二人きりで、一体どれ程の絶望と恐怖に苛まれた事だろう。
戦闘か逃走か、どちらを選んでいようと、こうしてどうにか生き残っている彼女らは間違いなく賞賛に値する。意識が戻ったその時には、恥じる事なく誇りに思うべき成果だ。
(……とはいえこの状況、どうやって切り抜けるべきか……)
再度『暴食』の動きに注意を払いつつ、エルクは冷静に思考を巡らせる。
コランダム級の竜を相手に、意識の無い人間二人を抱えて長時間逃げ回るのは至難の技だ。それに下手な逃げ方をすれば、まだこの異変に気付いていない無関係な生徒達まで巻き込んでしまう可能性がある。
有効と言える選択肢は、決して多くない。しかし、現状で最も被害を抑えられる手段があるとすれば、それは――
(……どうやらあなたの予想通りになりそうですよ、マーフェス先生)
昼休みの最後に交わしたリンディとの会話を思い出しつつ、エルクは皮肉を込めて薄く笑う。
獲物を取り逃さんと執念深く歩き回る『暴食』は、確実にこちらとの距離を詰めつつある。迷っている時間など、ない。
「! ちょっとエルク、何してるの?」
何の説明も断りも入れず、意識のない二人の腰の辺りに巻かれているベルトポーチの中を探り始めるエルク。抗議するミリアに構わず、ものの数秒で目的の物を見つけ、取り出す。試験前に配布された鉱石、『
『暴食』の『
残存している術式によって石の色は青いままだが、やはり『
(……クロードライトの分も含めれば、転移用の石は三つ。これなら何とかなるか……)
エルクの目的が石だった事をようやく悟ったのか、なぜか安堵している様子のミリア。
彼女に気付かれないよう、自分の左胸に右手に当てる。
制服の下に隠れている『呪い』の刻印。その禍々しい形を脳裏に思い浮かべ、エルクは無言のまま意を決した。
「
「……? エルク? どうして急に魔術を――」
「黙ってろ」
呪文の詠唱と同時に、エルクの身体から溢れ始めた眩い光が、訝しげなミリアの顔を明るく照らし出した。
まだ彼女は、こちらの狙いに気付いていない。
ならば今の内だ。妙な横槍を入れられる前に、終わらせる――!
「繋ぐは点。結ぶは線。灯せ灯せ
一体何の魔術を発動させるつもりなのか、という疑問をわかりやすく顔に貼り付けていたミリア。しかし詠唱が進むに連れ、彼女の表情がほんの少しずつ、険しいものに変わっていく。
そして――
「……ッ! エル――!!」
「転移、『シュバルト大森林』野営地」
ミリアが何かを叫び掛けたのと同時に、エルクが決定打となる言葉を口にした。
瞬間、発生した強い光によって遮られるミリアの姿。光は地面に横たわっているバネッサ、セシリーをも包み込み、より強く輝きを増す。
数秒後、光が消えた先に少女達の姿はない。それは紛れもなく、転移が成功したという証だ。
元々エルクは、転移魔術に関する知識がない訳ではない。ただ専門家に比べれば門外漢であるのは事実な上、『呪い』とはまた別の意味で、術の発動にいくつか制限がある。
一つは、自分自身を転移対象に指定できない事。
そしてもう一つは、術式を発動する為には魔力の触媒となる物品、例えば『
これらの制限があったが故に、以前ディノドラゴンの群れに囲まれた時は、ミリアだけでも避難させるという手段が取れなかったのだ。
それに比べれば今回は、転移させる相手全員が石を持っているという幸運に恵まれた。しかもその石には元々、転移の為の術式と転移先の座標が組み込まれている。ならばあとは、奪われてしまった分の魔力を注ぎ込むだけでいい。
転移される刹那に垣間見た表情から察するに、恐らくミリアは抗議の言葉を挟もうとしていたに違いない。
またそうやって自分だけで背負い込もうとするのか、とか何とか。
だが術が発動してしまえば、彼女が何を不満に思おうとこちらの知った事ではない。精々彼女には、野営地への伝令役にでも徹してもらうとしよう。
成功を確認し、息をつこうとしたのも束の間。何やら身体の内側に、じわりと広がるような不快な違和感がある。
思わず数回咳き込むと、口の中に感じられた鉄臭い滑り。すでに幾度も経験した、『呪い』による負荷だ。魔力を精製した代償として内臓のどこかが傷付けられ、出血したのだろう。
今更驚く事でもないと、口内の血を唾と一緒に吐き捨て、エルクは立ち上がって木陰から歩み出た。
転移魔術の光でようやくこちらの居場所を察知したのか、『暴食』はエルクが姿を見せるなり、鋭い咆哮を浴びせてきた。
不可視の圧力が前方から襲い来るが、エルクは怯む事なくその場に踏み留まる。
「さぁ、これで邪魔者はいなくなった。
粗暴な口調で挑発しつつ、鞘から引き抜いたロングソードの切っ先を差し向ける。すると言葉が通じたかのように、『暴食』はどこか不満そうな唸り声を上げた。
魔術を使おうが使うまいが、どの道この竜を倒滅する事ができなければ、自分は確実に命を落とす。ならば躊躇う必要などない。出し惜しみせず、『最初から死ぬつもりで』魔術を振るえばいい。
自分と相手。倒れるのはどちらが先か。
(単純明快。これ以上ないわかり易さだ)
皮肉な笑みを浮かべ、エルクは地を蹴り付け進み出す。
絶望のみが待ち受ける、自らの死地へ。
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