日の落ちない内に、コウはエレミアの睡眠によって身動きが取れないラズをそのままにして夕食の支度を一人進めていた。昨日、煌天祭こうてんさいの前に大量に受け取っていた魚はフローラによって既にさばかれ、冷凍や一夜干しである程度日持ちするように加工保存されていた為、あとは煮るも焼くも自由に適当な味付けをするだけと料理に慣れていないコウでも炊事ができるようになっていた。


「まさか丸一日経ってたとはな……」

 

 醤油や調理酒などの調味料を作業台に並べながらコウはぽつりと一人こぼす。屋敷の中からでも微かに聞こえていた煌天祭の喧騒は今はもう聞こえず、浮かれた空気から一変していつもの静かで質素なものへと戻っていた。祭りでの出来事は全て夢だったのでは無いかと思うほどに、当たり前の日常に引き戻されたコウはただ一人戻らないフローラの事が頭に過ぎる。


 毎日フローラが立っていた台所には誰もいない。それを見てコウはやっとフローラの喪失を実感し始めた。輝晶閃きしょうせんを放つ寸前、街を代表するカンダではなく、他でも無い自分にカガリを託すとフローラが言った理由をコウは未だに解せなかった。天落の悲劇で天涯孤独の身となった境遇ではあるが、ただの人間、一住民でしかない自分に特別目をかけていたフローラの真意は、最期まで読み解く事が出来なかったままに別れとなってしまった為、いくら考えようともそれはコウの想像の域を出ることは無い。


 薄暗さがより一層室内を寂寞せきばくとさせている。ふとコウは台所の唯一の光源を取り入れるための天窓の蓋を外し忘れていたのを思い出し、顔を天井へと上げながら調理道具を並べる手を止めたが——丁度コウが手にしていた包丁の柄がつるりと指を滑り抜けた。包丁は作業台に落下すると僅かに跳ね上がり、その刀身は踊るように回転し、薄っぺらな金属音を響かせて台に倒れる。手を滑らせた時に反射的に持ち直そうと包丁の刃先に触れた右手の平に、ツンと冷たく染みるような感覚が広がった。よく研がれていた包丁の刃がコウの手のひらを切り付けていた。

 手のひらの感覚がすぐ後に熱を帯びて痛みへと変わる。コウはその痛みに眉を顰めながら手を広げて傷口を見た。一直線の3センチ程のぱっくりと開いた切り傷から薄らと赤が覗く。その赤い線は血では無く、皮の先にある肉に見えた。

 束の間、コウはぼうっとそれを眺めていたが、冷たい隙間風が傷口を刺激するとやっとコウは傷の手当てをしなくては、と思考を再開させた。清潔な布巾で傷口を抑えながら台所の扉の真隣にある収納棚から木造りの薬箱を取り出し箱の中を探り消毒用の薬瓶を見つける。傷口を強く抑えていた白い布巾を外すと、コウは手のひらの傷を目にし、何か違和感を覚えた。


「ねぇ、この匂いはなあに?」

「おぁッ!?」


 手のひらの傷に集中していたコウのすぐ真横、下の方からころりとした少女の声が聞こえ、不意をつかれたコウは裏返った悲鳴を上げる。汚れ一つない綺麗なままの白い布巾が床にひらりと落ちていく。短眠者も驚きの早さで起床したエレミアに驚くコウを余所に、青い少女は鼻をすんすんと鳴らしながら台所を見回す。


「何だよお前寝てたんじゃないのか!?」

輝力きりょくが足りなくてちょっとお昼寝しただけよ。それよりも、この匂いは何なの?」

「匂い?」


 どうやら夕食の支度をしようと保管庫から取り出した食材と調味料の匂いに釣られて台所に辿り着いた様だ、と気付いたコウは「あぁ……」とやっと早まる鼓動が落ち着きを取り戻し、平静になる。


「今夜の夕飯だよ――と言うかラズは?」

「眠っていたから置いて来たわ」

「あいつも寝たのか……」

「ヒトはこれを食べるのね?」


 エレミアは背伸びをしてやっと見える作業台の上に乗る冷凍された魚を指さし青い目を爛々と輝かせる。コウが頷くと「早く完成させてちょうだい!」とエレミアは指先をコウへと向けた。幼い見た目通りに子供らしくせがむエレミアに適当な返事をして受け流しながら再びコウは右の手のひらを傷を見る。焦っていたためかぱっくりと深く切れていたように見えた傷はどうやら皮一枚で出血を免れていたらしい。左手でもむ様に傷を触るが血が出る様子も無く、手を動かしても裂けてしまうような感覚も無い。手当ては必要ないと判断したコウは薬箱を棚に戻し床に落ちた白い布巾を拾いあげる。料理の支度へ戻ろうとコウは振り向くが、ふと天井を見上げ面倒ごとを思い出し肩を落とす。


「そうだ、天窓を開けるんだった……」

「なぜ?」

「暗いから灯りが欲しいんだよ。……でももう日も暮れるし、面倒くさいから行燈あんどんでいいか」


 コウが外蓋に塞がれた天井の窓を指さしながら言うと、エレミアも天井を見上げてなるほどと頷く。


「そう言う事なら」


 エレミアは左手のひらを上向きにし前に出すと、その手の平から淡い光の球がふわりと生まれる。青白い光の球はエレミアの手を離れ宙に浮かぶと、台所の室内全体を照らした。容易く光源を作り出したエレミアを見てコウは冗談半分に感嘆する。


「生まれたばかりだって言ってたけど、流石はミネレイだな」

「そうね、この程度なら。ところで、コウはミネレイを神聖視しないのね」

「そりゃあ、毎日一緒に暮らしてたミネレイが居たし――ってなんで名前知ってるんだ?」

「眠るといっても輝力きりょくの消費を抑える為に動かなかっただけよ。アナタたちの話はちゃんと聞こえていたわ。それとキャスケットでの事……心配はいらない、とだけ言っておくわね」

「……ふうん。それ、明日町長に言ってやれよ」


 至極当然と言いたげなエレミアの説明に、ミネレイの"出来る"事は人間の常識の範囲を簡単に超えてしまう物だと理解したコウはそれ以上疑問を持つことも詮索をすることも無駄という考えに行き着く。ミネレイが可能だと言うならばそういうものかと受け入れたコウは食材と調理器具が並ぶ作業台の前に再び立ち、包丁を水で濯ぎ洗いをしたのちに作業を再開させる。真隣でエレミアがじっとコウの動きを眺め、コウはその視線に居心地が悪くなる。


「何だよ、見られてるとやりづらいって」

「この街を守っていたミネレイ——フローラだったかしら?とても慕われていたのね」


 突然の話題にコウの手が一瞬止まる。コウは横目でエレミアを見た。よくよく見ると、エレミアの視線はコウの手では無くその奥に置かれている魚の方に向かれている。魚が料理され行くのが待ち遠しいようだ。今のコウにとっては喪われたフローラの話題は最悪な題材だが、エレミアは気にする様子も無くただの世間話の一つでしか無いといった態度だった。コウはニンジンを手に取りイチョウ切りにしながら、平静を装う。


「……あぁ、今の老人が幼い頃からカガリに居たらしいし、ルベウスと違って意思疎通ができたからな。一番身近な存在だった」

「フローラを失ったこの街はたくさんの悲しみに溢れているわね」

「それは当たり前だろ――お前、何が言いたいんだよ?」


 コウはエレミアの要点がはっきりしない言葉に眉を顰めながらも、続けてダイコンも同じくイチョウ切りにし、ゴボウを千切りにしていく。エレミアは視線を巡らせ今度は忙しなく動かされるコウの手元をじっと見つめながら口を開く。


「アナタだけ悲しみよりも怒りが大きいから、気になったの。何故なの?」


 コウの包丁を持つ手が止まる。コウは深く息を吸ってから「……あんな、勝手なことをされて怒らないわけないだろ」と低く語気を強めて言い放つと、包丁をまな板の上に置いた。エレミアは適当な大きさに切られた野菜が水の入った鍋に放り込まれていく様子から片時も目を離すことなく首を傾げた。


「そうかしら?この世界を護ることが神石スペクトラの本懐で、ミネレイの使命よ」

「あいつも似たような事を言ってたよ。でもそう言われても簡単には納得いかないだろ」

「アナタは納得していないわけじゃないでしょう?ミネレイが何なのか、アナタはこの街の誰よりも"解っている"ように見えるけれど」

「……もうやめろ。今はそういう話をしたくないんだ」


 力無く、呟くようなコウの拒絶にエレミアはやっとコウへと視線を向けた。青く透く瞳がコウの目を見ると、作業台の上を見るためにしていたつま先立ちを止める。


「そう。ワタシ、部屋でラズと居るわね」


 エレミアはあっさりと引き下がると、そう言い残し台所を出て行く。エレミアの気配が消えたのを感じ、一人きりとなったコウは深くため息を吐いてから、炊事の手を再開させる。

 酒や醤油などの調味料を適量鍋に入れると、コウは鍋を持ち上げ作業台の隣にあるレンガ造りの二連の釜戸かまどの左側に置いた。食材が適当に入れられた鍋を火にかけるために焚口に炭を放る。棚にしまわれていた火打ち石と打ち金を取り出してから、枯れた赤茶色の杉の葉、そしてさらにその上に薪を乗せるように焚き口に入れる。杉の葉の上で石と打ち金を擦るようにカチンと何度も打ち鳴らすと、摩擦で小さな火花が杉の葉に落ちた。赤茶色の葉に降りかかった火の粉が吸い込まれていき、次第に白い煙が葉から漂ってくる。火吹き棒で火種となった杉の葉に空気を混ぜるように吹きかけていくと、葉からパチンと弾ける音と共に火花が散る。その後すぐに杉の葉から火が起こり、薪に燃え移っていく。しっかりと燃え始めているのを確認すると。右側の釜戸にも薪や炭を入れ、左側から燃えるスギを少し移して火を起こす。空気を入れて火が大きくなった頃合いに右側には焼き網をかけた。


 両方の焚き口の戸を半開きの状態にしてコウは額に滲んだ汗を手の甲で拭った。火起こしは昔ながらのやり方で、かつて輝力きりょくが存在しなかった頃から使われていた方法だった。現在は火打ち石に含まれた輝力きりょくによって簡単に火の粉を作れるため、フローラの家事を積極的に手伝ってこなかったコウでも時間をかけず生活の要となる火を起こせるのだ。


「ちょっと冷たくしすぎたか……」 


 釜戸の中で弾ける炎を眺めながら、ため息混じりに呟く。


 ミネレイは輝力きりょくを通じて周囲の感情を"見る"事ができる。フローラはそれをうまく利用して住民たちのケアを行なっているのはコウも知っていた。そしてエレミアは会ってもいない住民たちの感情を街の空気から難なく感知し、コウの心情の細かな部分まで手に取るように理解していた。

 人間よりもずっと永い寿命を持つミネレイの死生観は人間と比べるまでも無く達観の域を出ている事実を、ミネレイの傍らで成長してきたコウは十二分に理解はしていた——つもりではあったが、こうも初対面のエレミアに容易く自身の心の内を暴かれれば、余裕を保つ事はコウにはできなかった。だが暫くして冷静になれば、誕生したばかりの知的好奇心旺盛のエレミアに配慮を求めるのは都合を押し付けすぎていたかもしれないと自身の言動にも非があったなとコウは反省していた。


 ぱちん、と炎がコウの思考を呼び戻す。充分に熱を帯びた焼き網に切り餅とはぜを乗せる。


 あとは熱が通るのを待つだけとなり、コウは両腕を上へあげ柔軟運動をしながら天井を見上げると、エレミアが生み出した青白い光が視界に映った。

 光を暫く見上げていたコウは何となく、天に向かって伸ばされたままの腕をさらに伸ばした。そして右手の指先がその光の球に触れ、人肌よりも少し暖かい熱が光から伝わった――その瞬間、熱は急上昇して焼き焦がす様な痛みが走り、目の前が塗りつぶされたように真っ赤に染まり硝子が割れたような大きな破裂音が室内で響いた。突然の衝撃にコウは目を瞑ったが、周囲が暗くなったのを瞼越しに感じると、恐る恐る薄目で確認する。台所室内は光を失って薄暗くなっており、コウは光の球を壊してしまった事に気付く。右手に集中する熱が痛みを主張し、手のひらを広げて確認したコウは驚きで目を見開いた。

 つい先程、包丁で切った右手の傷口が薄らと赤く"光って"いるのだ。


「な、なん——」


 しかし、それは瞬きをした次の時には消えていた。コウは確かめるように傷口を触るが、ちくりとした小さな痛みがあるだけで何も無い。血でも肉でも無いその赤はただの目の錯覚とは思えないほどに鮮明にコウの目に焼き付いていた。一人思考を巡らせていくほどに激しくなる動悸に、コウは手を震わす。


「赤い輝力きりょく……」


 コウの震える声をかき消すように鍋の沸騰した湯が吹きこぼれていく。釜戸内の炎がちらちらとコウの心を映すように不安定に揺らめき足元を赤く照らしていた。

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