忘却


 十年前の同じ日も、カガリでは≪煌天祭こうてんさい≫と呼ばれる祭りで大勢が賑わっていた。四歳になったばかりのコウは母に手を引かれて街路に並ぶ多数の出店や人混みの中を進んでいた。カガリの街は現在よりも遥かに大きく、住民だけでなく島の外からの来訪者が多数行き交うヒノエ島の首都だった。祭りの日は通常の比では無い程の来訪者が街を訪れ、背の低い幼いコウからすれば何処をあるけど巨人の壁が無数に続いて不安でしかたがなかった。コウは母の手をしっかりと握り返し、導かれるままに脚を進めた。


 母とともに行き着いた先は街の中央に位置する広場だった。そこには人だかりがあり、その人々が注目するのは、広場の中央で凛とした佇まいで立つミネレイ――フローラだ。


「今を生きる者たち、そしてこれから産まれる生命に、≪神石スペクトラ≫の祝福を」


 フローラは穏やかに語る様に言うと、両手のひらを空に向けた。すると、小さな手のひらから美しい緑の光の粒が空へと放たれる。優しい風が光の粒を空高く吹き上げ、光の雨が風に乗って街中に舞い落ちる。

 周囲の者たち全員が光の粒に感嘆の声をあげたが、コウはそれよりも自身の手を引く母の顔の方を見上げた。母は降り注ぐ光の雨の美しさに見惚れているようで、まだ背の低いコウからでは母の表情は見えない。


 どんな顔でその空を見上げているのだろう。笑顔なのか、泣いているのか、それとも実は興味が無くて無表情かもしれない。知りたい、母の顔が見たい。自分を見てくれなくて寂しい。こっちを見てほしい。

 あらゆる感情が幼いコウの好奇心と疎外感を増幅させた。コウにとっては光の粒よりも隣の母への渇望が勝っていた。


「おかあさ――」


 我慢が出来なかったコウが母を呼ぼうと声を上げた瞬間、悲鳴にも近い声と、目が眩む凄まじい閃光、爆発音、そしてコウの身体を軽く吹き飛ばす程の強い衝撃が一斉に襲いかかった。そこからの記憶は殆ど曖昧だった。


 それが後に≪天落てんらく≫と呼ばれる、世界中で起きた絶望の事件だった。その日を境に世界は光を無くし、不浄の力と魔物が蔓延った希望を失った陰鬱とした現在に続いている。——カガリは天落で大きな被害を受けた地域の一つだが、かろうじて残された場所と生き残った住民たち、そして住民を指導するフローラによってなんとか日々の生活できるまでの復興に成功したが、フォールンの脅威は常に付き纏っている。


 街の中央広場に集まった人間たちの中で、一命をとりとめたのはたった一人——コウだけだった。

 死の淵まで立たされていたコウは瓦礫と——自身の母親の死体の下から奇跡的に救出され、三十日以上生死を彷徨った末にようやく意識を取り戻し、長い日々を重ねて傷を癒し元の生活が出来るまでに回復した。そして身寄りを無くし天涯孤独となったコウを、カガリの復興で忙しない中にも関わらずフローラが真っ先に引き取ったのだ。


 その前後の記憶も曖昧でしか思い出せないが、今に至るまで親を失った事に悲しみや怒りで泣いたり叫んだり、人に当たったりすることは無かったと思い返す。淡々とその事実を受け入れ、そして十年の時を経た今現在も自分と種族の違うフローラと家族のように二人だけで生活をする事になんら違和感も不快感も覚えていない。フローラの事を親としては見ていないが、甘えられる身内の一人であると言う認識を簡単に受け入れ納得していた。

 唐突な出来事にただ感情が追いついていないだけなのかもしれない。しかし薄情とも言えるほどに、母の死に未だ涙一つ流せずにいる事に対する罪悪感もそれほど強くはなかった。

 自分の手を引く力の優しさと温もり、それだけがコウに残った家族の記憶だった。何度回想したところで、毎日共にいたはずの肉親の声も顔も思い出すことができない。思い出せるのは輝く空と母の後ろ姿、その後の景色は大地も空も真っ赤に染まる炎の世界だ。強い痛みと燃える様な熱さという感覚だけが身体に深く強く刻まれていた。それ以外は脳が思い出す事を強く拒否しているのかという程に、当時の事をコウは覚えていない。幼かった故に思い出せないのか、思い出したくないのか、それすらもコウにはわからなかった。


 過去の記憶に呆けていると、突然横から勢いよくコウの目の前に食べかけの料理が現れる。それを差し出したのは当然、隣に座るラズだ。現実へ戻されたコウは俯いていた顔を上げてラズへと向ける。


「えっと、元気が無いみたいだから、お腹空いてるのかなって……」


 ラズは尻すぼみに言葉を連ね、心配そうにコウを見た。自信なさげな態度とは裏腹に、差し出した料理を引く気は無いようだった。暫く目の前の料理とラズを交互に見てから、コウは黙って料理の方へと手を伸ばした。箸で盛られた肉と山菜を大量に掴み、大きく口を開け自身の口に詰め込み咀嚼そしゃくする。口に広がるのは苦手な山菜の味だが肉の塩コショウのよく効いた濃い肉汁が山菜の苦味を中和していた為、難なく飲み込むことができた。

 食事を与えられて機嫌を直すなど、まるで子供じゃないかとコウは自身の幼い部分に恥ずかしく思ったが、実際にコウは子供の内に入る年齢であったし、過去を思い返す事を中断されて気も紛れていた。朝食も満腹な程摂っていたため決して空腹だったわけでは無かったが、何故か満たされた気分になったのを感じていた。険しい顔つきをしていたコウの表情がやわらぐと、ラズの眼差しは心配から安心と期待に変わった。


「美味しい?」

「……まあまあだな」


 コウの素直じゃない返事にもラズの表情は笑顔になり、満足げに返された料理を食べるのを再開する。コウが気付いたころにはフローラは舞台から降りて退散した様で、舞台を囲んでいた街の住民たちも解散しそれぞれ祭りを楽しんでいた。


「……お前は自分が何者なのかって不安にならないのか?」


 コウは料理を頬張るラズを横目に前を行き交う人々を眺めながら呟くように言った。隣のラズに聞こえるか聞こえないかの声量で、本気で問いかけるつもりの無いコウの言葉は喧噪に飲まれる。だがそれはラズの耳にしっかりと届いていた。箸を動かすその手がぴたりと止まり、ラズは顔を上げた。自身の言葉に反応したのを感じたコウはきょとんとした表情のラズに顔を向ける。


「今のお前は記憶も何もないのに、どうして人の心配なんてできるんだ?」


 記憶を失い故郷もわからない。そんな状況に陥っているにも関わらず、ラズが他人に気遣う心の余裕を見せている事に、コウは納得ができなかった。だがコウの言葉にラズはあっけらかんと答えるのだ。


「うん、確かに今は何もわからないけど、コウが名前をくれて色々な事を教えてくれるから、僕は大丈夫だよ」


 それで十分だといった風にラズは笑った。


「まだ一日しかいないけど、僕のことを助けてくれて、優しく受け入れてくれたここの街の人たちのこと好きだなって、笑っていてほしいなって思ってる。だからコウやフローラが辛そうだったら助けになりたいって思うんだ」


 そこまで言ったラズは、今更に自身のセリフに恥ずかしくなったのか、「なんて……えへへ」と照れ笑いしながら料理を掻きこんだ。料理が詰め込まれた頬は僅かに紅潮している。コウはラズの返答に呆気にとられていたが、次々とラズの口の中に放り込まれる食べ物にさらに目を丸くした。


「おまえ、喉詰まらせ――」

「う゛ッ」


 案の定喉を詰まらせたラズに、ほら見た事かとコウはその背中を叩く。喉につっかえる物を落すために叩き続けていると、突然ラズの前に湯のみが差し出される。コウは顔を上げ自分たちの前に現れた人物に目を丸くする。

 湯飲みの中には水が入っており、差し出した人物を確認するよりも前にそれを目にしたラズは慌てて湯飲みを受け取り口に含んだ。水で少しずつ流して何とか事なきを得ると、空になった湯飲みがラズの手から奪われる。


「よく噛んで食べなさい」


 頭上から降ってくる低い声にラズは肩をびくりと揺らす。恐る恐る顔を上げると、目の前に立つ人物はカガリの町長――カンダである事を知る。コウは口を噤んで居心地が悪そうに目を逸らしているが、カンダの見下ろす視線がラズからコウへと移った。


「コウ、フローラ様がお呼びだ。≪キャスケット≫に行きなさい」

「……は、なんで急に?」

「詳細はフローラ様からご説明がある。事を進めるにはコウ、お前が不可欠なのだ」


 神妙な顔つきのカンダに、コウは眉を顰めた。「フローラ様は先にキャスケットにいらっしゃる」と有無も言わさぬ威圧感のある声にコウは渋々立ち上がった。


「君は私と共に来てくれ」


 不安げにコウを見上げるラズにカンダは言うと、背を向け歩き始めた。コウは不服な表情を隠さず「強引なところが似てるよな、フローラと町長」とため息混じりに漏らす。ラズも立ち上がると、コウはラズに向かって片手を上げた。


「なんだか意味わかんないことになったけど、また後でな」

「う、うん」

「あー、町長顔は怖いけどいい人だよ。たぶん」

「ううん、そうじゃなくて……コウ、大丈夫?」


 ラズの言葉にコウの上げていた片手がピクリと反応した。一瞬気まずそうに目を逸らし、すぐに「なにがだよ?」ととぼける。


「ほら、置いてかれてるぞ。煌夜祭こうやさいまでには会えるだろ」


 コウは無理やりラズの背中を押し出して前を歩かせると、ラズは心配そうにコウの方を一度振り向いてから歩き出した。


 カンダの背を追うラズの姿が人混みに消えていくのを見届けると、コウはラズが向かっていた方とは反対側に位置する屋敷へと視線を向けた。


 その先にあるキャスケットでフローラが一人でコウを待つ。こんな祭りの日に。足元から這うように湧き上がる嫌な予感がコウの表情を緊張させる。


 しかしここで立ち止まって不安がっていたところで何かが変わるわけでもない、と数度深呼吸を繰り返してから、意を決したコウはキャスケットへと続く坂道を登り始めた。

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