目覚め
「――う、んあ?」
それは十秒か、五分か、それとも一時間か。一瞬だったかもしれないし、随分と長い時間が経った様にもコウは感じた。
気が付くと瞼が閉じられた暗闇の状態で、意識が少しずつ鮮明になっていく。
そして顔に感じる気配に気が付き瞼を開けると、目の前のぼやける世界に大きな丸が二つ、コウをじっと”見ていた”。
「うぉッ!?」
それが何かを理解する前に、目の前の異物に反射的にコウは仰け反った。驚きの余りに身体が反応しすぎて、コウは勢いよく背中から倒れた。
「あ……だいじょうぶ?」
「あ、あぁ大丈夫――って」
微かに掠れた声がコウを心配した。コウは起き上がりその問いに素直に答えようとしたが、ふと我に返って前を見ると、つい先刻まで眠っていた少年がコウの顔を覗き込んでいた。
コウの様子を伺っていた少年は、コウの驚いた表情を見て首を傾げた。顔色は眠っていた時と比べて随分と血色を取り戻しており、コウの目には随分と回復しているように見えた。
「体調は大丈夫なのか? 頭痛とか熱とか」
「だいじょうぶ、です?」
「何で疑問形……? さっきまで熱もあったし、まだ横になってた方がいいんじゃないか?」
「いえ、今はもう痛みも無いし、むしろスッキリしているくらい、です」
「……ふうん、じゃあとりあえずこれだけ飲んでおけよ」
コウはちゃぶ台の上に置かれている湯飲みと粉薬を少年に差し出した。少年はそれを受け取り素直に飲むと、くしゃっと顔を顰め舌を出した。
「に……にがい」
昔から飲んでるコウですら慣れないほどの苦さの薬をしっかりと飲んだ事にコウは内心で感嘆しながら、少年の手から空になった湯飲みを受け取りちゃぶ台に戻した。
コウは今が好機と座り直し、咳払いした。少年も不思議そうな表情をしながらも、コウにならって正座する。
「病み上がりのところ悪いが、色々聞かせてもらってもいいか? 俺はコウ、お前の名前は?」
「あ、ぼく、ぼくは……」
「ん?」
コウの問いに、少年は答えようとして、言葉がつっかえた様にその先の言葉が出てこなかった。暫く瞳を左右に泳がせながら何かを言おうと口を閉じたり開いたりしていたが、とうとう口を噤んでしまった。
コウは不思議そうに少年の様子を見ていたが、その不自然な挙動に、ふと適当に思いついた事を口にしていた。
「お前もしかして、自分の名前がわからないのか?」
「!」
「と言うか、記憶が無いとか?」
少年は図星を突かれたのか、驚きの表情で固まっている。
コウは冗談半分で放った言葉が核心をついていたことに驚く。記憶が無いとは、すなわちこの少年に関する情報が少年自身からは一切得られないということだった。落下の衝撃で頭を打って記憶を無くしてしまう、という展開はコウにも容易に想像できる話だったため、すぐさま納得した。
「……ごめんなさい」
「ん?」
眉を顰め真剣な表情で考え込んだコウに、機嫌を損ねてしまったと思ったのか、少年が申し訳なさそうに俯いて謝罪をしたのだ。
コウは突然の謝罪に一瞬目を丸くしたが、少年の表情から心意を理解し慌てて口を開いた。
「あー、いやお前が謝るような事じゃないよ。お前がここにきた事情は流石に見当もつかないけど、多分事故みたいなものだろ」
少年の下がった眉は戻らず、口を噤んでしまっている。自身が記憶を無くしている事よりも、コウたちに迷惑が及ぶことに罪悪感を感じている様だった。
お互い身体は向き合っているが視線が合わない。居心地の悪い空気が流れ、どうにかその空気を壊したいが方法がわからずただ困惑するコウを助けるように、タイミング良く客間の襖が空いた。
「戻ったよ。あれ、二人とももう仲良くなったんだね!」
出かけていたフローラが戻ってきたのだ。襖を開けて最初に視界に入った向かい合う二人を見て、フローラはのん気に言った。
「……フローラにはこれが仲良くしている様に見えるのか?」
聞き慣れた人物の声を聞いて脱力したコウは、呆れた様にフローラにじろりと視線を向けた。
「もう用は済んだのかよ?」
「うん、ごめんね急に出かけちゃって」
「別に、いつもの事だろ」
「それで、目が覚めたのはさっき? 熱は?」
「もう熱は下がったみたいだ。具合も悪くないってさ」
「そっか! それは良かった」
安堵の表情で客間に入ってきたフローラはコウの隣に座り、少年と二人が向かい合う形になった。
「私はフローラ。よろしくね」
「フローラが街の外でお前を見つけたんだ」
「あ! ありがとうございます」
少年は弾かれたようにフローラに向かって頭を下げた。
「あはは、良いの良いの。大きな怪我も無くてホントに良かったよ」
フローラはちゃぶ台に置かれた空の湯飲みに気付くと、驚いた表情で少年を見た。
「あ、スズさんの特製薬、全部飲めたの? コウなんて初めて飲んだ時、あまりにも苦くて吐き出してたのに」
「おい言うなよそういう事!」
「しかも、スズさんに男なんだから我慢しろって無理やり飲まされて泣いてたよね」
「泣いてない!」
「その後直ぐにお菓子で口直ししようとして食べたら、味が混ざって口の中がもっと変な味になってね」
「やめろって! それ以上言ったら――」
フローラがコウを揶揄う様に過去の話を掘り返すのを、コウが恥ずかしさから顔を赤くして掻き消す様に騒ぐ。そんな二人のやり取りを、ぐうう、と大きな音が遮った。フローラとコウが同時に音の鳴った方へ顔を向ける。部屋に響いたその音の正体は少年の腹から鳴ったものだった。
「……」
今度は少年が顔を真っ赤に染め上げ、俯いた。そんな少年を見た二人は、またも同時に互いの顔を一瞬だけ見合わせた。そしてコウが先に視線を逃がす様に天井へと逸らしながら呟く。
「……あー、そう言えば腹減ったかも」
そしてその言葉を聞いたフローラは思い出したように「あっ」と声を上げた。
「もうとっくにお昼過ぎてたね……。ご飯にしよっか! お昼の準備は済ませてるから、ちょっとだけ待っててね!」
フローラは慌てて客間を出ていき、早足で
それを見送ったコウは疲れた表情でため息を吐いた。それからちらりと少年の方に視線をやると、少年は居心地の悪そうに俯いており、未だに紅潮している頬が紺色の長い前髪の隙間から見える。そして視線を少年の右肩にずらす。袖の無いインナーの下から見える肩に巻かれた包帯には多少の血が滲んでおり、少年が身じろぎをしたためか包帯は少しだけ緩んでよれている。
「その肩の包帯新しいのに変えるか」
「え? あ……」
コウがそういうと、少年は顔を上げて一瞬だけ呆けた顔をしたが、コウの言葉を理解すると素直に黒のインナーを脱ぎ、包帯が巻かれている肩をコウに向けた。コウは少年の右肩に巻かれた包帯を剥ぎ取ったが、包帯の下にあった白い肌には傷一つ見当たらなかった。
「……オマエ、どこを怪我したんだ?」
「えっ?」
眉を下げて少年は不安そうにコウを見上げた。そして自身の肩に視線を落とし、左手で右肩を確かめるように擦り、傷が無い事に気付いた少年も驚きで目を丸くした。包帯に滲んだ血は、たしかに少年の傷口から染み込んだものだったが、子供の肩の傷は跡を一つも残さず無くなっているのだ。
「あ……治ってる。ぼく、あの時引っ掻かれて……」
「フローラが≪
「き、しょうじゅつ?」
コウから発せられた単語に、少年は首を傾げた。
「あー、
コウの視線は上下とも肌着も同然の少年の衣服に向いていた。余りにも寒々しいその状態では、ひ弱そうな身体を冷やしてさらに体調を悪化させてしまう可能性がある。
コウは客間の
「えっと、これは?」
少年がやっと口を開き、コウへ疑問をぶつけた。
「カガリの、と言うかこの島の民族服の一つだよ。最初の内は動きにくいかもしれないけど、慣れれば結構ラクだし。って言うわけで立って、腕上げて」
コウは指示通りに立ち上がって腕を横に伸ばし岩のように固まる少年に手際よく着付ける。
「まぁ、とりあえずは
長着の色は少年の紺色の髪に馴染んでおり、丈も調整の必要もなく丁度良い。これならばカガリの街を歩いても下手に目立つことは無いだろうとコウは満足気に頷いた。
丁度良く食欲をそそる香りが客間に漂う。不思議そうに自身が纏う衣服を見ていた少年だったが、仄かな香りが嗅覚を刺激し、少年が顔を上げてごくりと喉を鳴らした。コウは箪笥の引き出しを閉め立ち上がった。
「食堂はこっち」
「は、はい」
着心地が気になる少年は身じろぎをしながらも、客間を出ていくコウの背を追う。
広々とした廊下を進んでいくと、廊下の曲がり角からフローラが顔を出す。
「あ、ちょうどぴったり! おいしいお昼ご飯が待ってるよ!」
フローラが機嫌良く食堂の襖を開けて二人に入るように手招きをした。一人で賑やかなフローラを気にも止めずに食堂に入るコウに、少年も遠慮がちに後に続いた。
食堂内は広い座敷で横長の食卓が規律正しく並んでいる。
一つの六人用の横長の食卓に、カガリの特産である魚や山菜が使われた山盛りの料理が所狭しに並べられており、明らかに三人で食べるには多すぎる程の量を目にしたコウは呆れたように口を開いた。
「……店でも開くつもりか?」
「実は今朝、明日のお祭りの出し物でみんなからぜひ試食をって、沢山もらっちゃって」
「せめてもらうなら食べ切れる量にしろよ!」
「残ったらお夕飯に回せばいいし、そんなに怒ること? あ、嫌いな山菜が山盛りだもんね?……と、君はここに座ってね」
図星を突かれて言葉を詰まらせたコウにフローラは「好き嫌いはダメだよ」と言いながら座布団に指をさして少年に座るよう促す。
食卓の前に座った少年は目の前に並ぶ料理から視線を逸らさず、口内に溜まる涎を飲み込んだ。更には腹の音が我慢の限界の主張をしている。フローラとコウもそれぞれ座ると、自身の両てのひらを合わせた。
「いただきます!」
フローラが言うと、コウも小さく「いただきます」と続いた。その声に気が付いた少年はハッと顔を上げ、二人を交互に不思議そうに見た。
「食事の前は自然の恵みに感謝をする習慣があるの」
「ホントに感謝してる奴なんか大していないと思うけどな」
「こら!」
フローラの説明に納得した少年は、二人の動作をまねて手のひらをあわせて「いただきます」と言った。小さく呟かれたその言葉は二人の会話でかき消されてしまった。
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