第111話 婚約はまだ

 啓の布団で寝てしまった朝、いつも通り、啓が先に起きて気がつくと布団をたたんでいた。わたしは啓の布団からゴロゴロと転がって、自分の布団に丸まった。

「おはよう、風、目が覚めたんでしょう?」

「ううんー、覚めてない……」

 ため息が聞こえた。啓はあきらめたようで布団の片づけを続行していた。


「おはよう。あら啓ちゃん、いいのよ、そのままで。……うちの娘は何やってるのかしらねぇ?

 啓ちゃんのとこでも、この子、迷惑かけてるでしょう。いつまでも子供で困ったものね 」

 ……全部、聞こえてるのに。恥ずかしくなって、布団から出にくくなる。


「お母さん、おはようございます。あのー、ボクは風さんが今のままでも、大変助かってます 」

「それはないでしょう? この子、家事も全然できないし、やらないし」

「そんなことはいいんですよ、ボクがやるから。それより、風さんがいてくれると、ボクは自分がここにいていいんだなって気になれるんです……あ、言い過ぎたかも」

 お母さんがくすくす笑った。そして笑いながら、

「うちの娘でも何かのお役に立ててうれしいわ。そんなふうに思ってくれるなんて、風はしあわせだわねぇ。……若いっていいわねぇ」

と言って、啓を困らせた。


 困った啓を助けるために、もぞもぞと布団から出た。

「お母さん、おはよ……。朝から元気だね」

「あんたが怠け者なのよ。風! いつまでも布団にいないで片づけて、たまには台所に立ちなさい!」

「えー?」

「あんた見てるとお母さん、情けないわ。なんでもかんでも啓ちゃんに甘えて」


 そこまで言われると立場がないので、仕方なくもたもたと布団をたたむ。さすがのわたしも、全然できないわけではないので、ゆっくり進める。

「手伝おうか?」

「大丈夫、お母さんの目が怖いし……」

 啓は所在なさげに客間の隅に座っていたけれど、母に呼ばれてダイニングでふたりでお茶を飲んでいた。

 わたしは……。こういう風景が当たり前に見られる日が本当に来るのかなって……ぼんやりそれを考えていた。


「啓は、うちのお婿さんになるの?」


 お母さんと啓が、同時に「けほっ」と飲んでいたお茶でむせた。

「そういうのは、啓ちゃんのご両親とも相談しないといけないでしょう? 大体、婚約したわけでもないのに」

「まぁ、そうだよね。婚約もしてないしね」


 世の中とは難しいものだな、と思った。あのお父さんは、啓を手放してくれるとはあまり思えなかった。啓がかわいいから、思い通りにして置いておきたいに違いない。


「あのー。婚約って、旧式じゃないといけませんか?」

「うちは格式ばったのは苦手だから略式でも、特に何もしなくてもいいけど。啓ちゃんのお家はどう? ……それから、まだ婚約には早いと思うわよ」

 お母さんから牽制された啓は、両手で湯呑みを持ったまま、下を向いた。

「はい、軽率でした」

「わたしが言いたいのはね、風には悪いけど、もっと啓ちゃんに相応しい女性が現れるかもしれないってこと。あまり早まらないほうがいいわよ。啓ちゃん、風にはもったいないわ」


 そんなことはわたしだってわかってる。

 お味噌汁に入れる小松菜を切りながら、涙が一粒だけ、我慢できなくてこぼれ落ちた。



 そんなやり取りがあったのに、わたしはまた啓の部屋にきた。

「あー、なんか開放感」

 啓は部屋に入ると、まず、ベッドにダイブした。笑える光景ではあったけど、わたしはそれより締切だった部屋の熱気にやられていた。

「あ! ごめん。窓開けて、エアコン入れよう。」

「啓ー、さっき買ったかき氷がもう溶けてるよ」

 啓はあわてて換気をしてエアコンをつけて、かき氷のためにスプーンを出してきた。


「溶けちゃったものは仕方ないから、今、食べちゃおう」

「お風呂上がりに食べようと思ったのに」

「仕方ないだろ……来年はかき氷削るやつ、買おうか?」

「来年の話をすると鬼が笑うよ」

 わたしはにやりと笑った。


「明日はK市に行ってくるからさ」

「海洋生物学の?」

「うん、連絡はしてあるけど一応、顔を見てお詫びしないと」

 彼は律儀な人だ。もちろん、そういうところは嫌いじゃない。

「気をつけてね、留守番してるから」


「うん、あとさ、秋インターンシップ行くつもりだから」

「あ、うん。そうだよね、早い人はもう始めてるしね……」

「受かったら1ヶ月半だって。めんどくさいよなぁ。でも短期のだけでもいくつか受けたいからなぁ」

「そうだね」


 わたしは教員志望なので、卒業までに必要単位を取って、3月に教員免許の試験、翌6月に採用試験と、啓に比べたらのんびりしたものだ。……不安になる。


「風? 毎日、ちゃんと帰ってくるしさみしくならないと思うよ?」

「……K市に通ってたときも帰りが遅くてさみしかったよ。啓も疲れてて、かまってくれなかったしー」

 啓は苦笑いした。

「そういう、普通の女の子なら我慢して言わないようなことを普通に言っちゃうのが風だよなー。そうだね、帰りが遅くなることも、行き先がちょっと遠いところもあるし、疲れて帰ってくる日が増えるよ」

「最初から今みたいに言ってくれれば、まだましなのに」

「確かに」

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