第86話 安心出来る場所

「とりあえず」

 お兄さんがベランダからダイニングに来て、わたしの対面に座る。

「答えを決めるのは、風ちゃんだからね」

 わたしはひとつ、頷いた。

「でもさ、後悔することになったら困るでしょう? よく考えた方がいいし、いろんな人に相談するといいよ」

「秀一郎さんでも?」

「いいよ、むかしみたいに話を聞いてあげるよ」

 お兄さんはテーブル越しに手を伸ばすと、涙をティッシュで拭いてくれた。なんだか、秀一郎さんがわたしの家庭教師だった頃に戻ったみたいだった。


「秀一郎、むかし……」

 お姉ちゃんが口を開く。

「あ、聞いてます。家庭教師の……」

「そうそう。あの二人、仲いいのよねー。妬けるでしょ? 啓ちゃん、 すごいヤキモチだって聞いてるわよ」


「お姉ちゃん、啓のこといじめないでよ」

「かわいい妹は得だなーと思っただけだよ」


 お姉ちゃんはわたしがお兄さんと仲がいいと気分が悪いみたい……当たり前か。お姉ちゃんもヤキモチ妬くときがあるよね。しかも、わたしとお兄さんは仲がいいからなぁ。

「星、風ちゃんのこといじめてないで相談に乗ってやれよ。元々、お前を頼ってきたんだろう?」

「おねえちゃーん」

「こんなにぐだぐだに酔ってて、何を相談するのよ」

「すみません……ちょっと寝せたら連れて帰りますから、休ませてください」


「啓ちゃんて、いい子だよねー。風にはもったいない」

「確かに、もったいないかどうかは置いておいて、風ちゃんを安心して任せられると思うよ。風ちゃんもぶっとんでるからね」

「ぶっとんでる……」

 啓のわざとらしい大きなため息が聞こえた。


「風、でも大学ではかわいいって人気で……自慢の彼女、なんだけど、やっぱりちょっと心配になったり……あ! そういうのが嫉妬深いわけか」

 お姉ちゃんとお兄さんが笑っている。

 わたしは当然のごとく、寝かされて、みんなの話を聞いていた。


「風ちゃん、そんなにモテるの?」

「うーん、クラスの男子にはウケがいい……サークルも一緒なんですが、やっぱり先輩たち、目をつけてたかなぁって感じですね」

「風ちゃん、守ってあげたいタイプだしねぇ」

 お兄さんの発言に、頭まで布団をかぶりたくなってしまう。

「そうなんですよね……放っておけない感じ。いや、実際、こうやって放っておけないんだけど 」


 穏やかに三人で笑ってる、聞こえてるのに……。

「で、啓ちゃんは結局、風のどこが好きなの? 聞いてるよ、風に告白したんでしょ? その細かい経緯を知りたいなぁ」


「あー」

 啓の顔が赤くなるのが見えた。啓は飲んでも顔に出ないタイプなので、あれは照れてるんだ。

「ボク、男子校育ちなので、女の子って全然わかんなくて。一言で言ってしまうと……ボクの中で『女の子』っていちばん思えたのが風だったというか……」

「啓ちゃん、それ以上はなんか、毒……」


「いや、あの! だから、守ってあげたいし、頼れる男でありたいし、……離れたらそれができなくなっちゃうから。風には迷惑かもしれないけど、いつでも近くにいてほしい。でも、彼女の夢なら叶えてあげたい、ってところ、です」

 リビングの空気がしばらく動かなくなった。啓の素直すぎる真っ直ぐな告白は、みんなを黙らせてしまった。


「星の前だけどさ、啓くんの気持ち、わからないでもないよ。風ちゃんには『ついててあげなくちゃいけない』空気、あるよねぇ」

 あはは、と啓は軽く笑った。

「そっかー、男の人ってそういうタイプがすきなのね」

「一概には言えないですよ。お姉さんは、風の憧れだし」

「わたし? わたし、ズボラな女だけどな」

「そういう、さっぱりしてるところが好きなんじゃないかな? 小さい頃から面倒見てもらってたって言ってましたよ」

 お姉ちゃんは何も言わなかった。


 みんな、ビールの続きをしながら、ピーナッツなんかをつまんでいた。

「で、そこで寝たフリしてる風は、こんだけ想われてて、啓ちゃんのどこがすきなの?」

「……寝たフリじゃないもん」

「風、お水もらう?」

 啓はいつでも優しい。いつだってわたし優先だ。わたしなんかとんでもないのに。わがままだし、頑固だし、突拍子もないことするし、泣き虫だし……。

「……そこにいてくれるだけで、好き」



 沈黙。



「あー、若い子がよく使う、あの

 爆散しろ、風! 」

「こらこら、言いすぎだろ」

「だってね、酔ってるからってそれはのろけすぎー!」


 啓は、キョトンとした顔で、もらったミネラルウォーターを片手に固まっていた。そして、その姿勢のまま何も言わない。

 コトン、と水を置いて、わたしの寝ている前に座る。わたしの顔を覗き込んでくるので、布団で顔を隠す。

「ほんとに?」

「……ほんとに。ダメだった?」

 啓は、みんなが周りにまだいることを意識しているのか、いないのか、わたしの前髪をかきあげて、小さく息を吸った。


「海外なんか行っちゃダメだよ。離れちゃダメだよ。行っちゃダメだ」


 部屋がしんとしている分、時間がものすごくゆっくり動いてる感じがして……、わたしは啓のセリフを心の中で反芻していた。

「行かない。啓のいないとこに行くのが怖かったの」

 啓はわたしをそっと抱き起こして、やさしく抱きしめた。それは、とてもとても安心できる場所で、わたしはどこにも行きたくない気持ちになった。


 お姉ちゃんが小さい声で「きゃー」と言ったけど、すぐにお兄さんに止められていた。

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