第77話 (番外3,000PV記念)秀一郎さんの話
「
わたしが高校受験を迎えた時だった。
ある日、学校から帰るとその人はリビングにいた。とても背の高いひとで、そっと優しそうに笑った。メガネがとてもよく似合っていて、頭の小さい人だなぁとか、今思うと失礼なことかもしれないことをいろいろ考えていた。
小野寺さんがお茶を飲んで、お母さんのお喋りが一段落すると、わたしたちはわたしの部屋に移った。
「風ちゃん、て呼んで大丈夫かな?」
「はい、小野寺さん」
ふたりで顔を見合わせて、ふふっと笑った。
小野寺さんと一緒にいる時間はとても心地よくて、受験までは日がなかったけど、楽しく勉強した。そう、小野寺さんとの勉強はとても楽しかった。わかりやすく噛み砕いて教えてくれるし、それでもわからないと、問題を見る角度を変えて教えてくれた。
……正直なところ、わたしの成績は志望校に対して悪くなかったのだけど、お母さんのお友だちの紹介で、うちに来ることになったらしい。
小野寺さんは気さくで、ひとの話を聞くのも上手だったので、だんだんうちの家族の一員のようになっていった。
家庭教師の日ではなくても夕飯をともにしたり。
同時にやはり時間も進んで、みんなの気持ちが小野寺さんにそれぞれ向かって、小野寺さんの気持ちも時計の針の動きのように確かに進んでいった。
「風ちゃん」
「はい」
「志望校、合格おめでとう。どうかな、記念に一日出かけてみない? ずっと、遊ぶの我慢してたでしょう?」
ある日、小野寺さんはそう言った。
わたしはたぶん、頬を赤くしてうなずいた。男の人に誘われたことなんてなかったし、どう対応するのが適切なのかわからなかったから……。
そして、なぜかこのことはお互い、誰にも話さなかった。わたしも秘密にしたし、小野寺さんも特にうちの家族に話さなかった。当時、わたしはまだ15で、小野寺さんは大学生だったのだから、わたしから見たらずいぶん年上だったということになる。
そう、ふたりで駅で待ち合わせをして改札を通ると、自然と手を繋いで歩いた。何かに急かされるように、あるいは背を押されるように、急いで電車に乗った。
列車が発車する時にはなぜかふたりとも息が上がっていて、「運動不足」と指をさしあって笑った。
そしてその間も、ずっと手は離れなかった。
「風ちゃんさ」
「はい?」
「あ、もう敬語はいいよ。先生じゃなくなったんだから」
「小野寺さん、もう来ないの?」
わたしは真っ直ぐ彼を見た。電車の中はガラガラで、海の見える車窓はきらきらまぶしかった。
「そういうことになるね。風ちゃんに、毎週会ったりできなくなるんだよ」
「……」
わたしは小野寺さんを見て、少し泣いた。涙が、止まらなくなった。それは、どんなものなのかはわからなかったけれど、わたしは小野寺さんがすきだった。
「泣かないで……」
電車の中で小野寺さんはわたしの肩に、少し戸惑いながら手を回して、わたしの頭を抱き寄せた。小野寺さんは「もう知っている人」だったので、彼の胸の中でわたしは安心することができた。
「もう会えないなんて、やだ……」
「また今日みたいに会えるよ、きっと」
結局その約束が守られることはなかったけれど……そのときは、そういうものなのかな、と思った。
わたしたちは水族館に出かけた。太陽が燦々と輝くおかげで、館内に着く前にわたしは軽く日焼けをして、へたってしまった。
「風ちゃん、歩ける?」
「うん、大丈夫と思うよ」
「もう少し先のベンチで座ろうね」
大丈夫と言ったけど、まだくらくらしていたわたしは、ほとんど小野寺さんに寄りかかる形で移動していた。今までになかった距離感を、わたしたちは自然と持つようになった。限りなくゼロに……。
「風ちゃんの家庭教師になれて、よかったと思ったんだ」
「え? なんで?」
小野寺さんは、ベンチに座ってからも繋がれてるふたりの手を見ていた。
「風ちゃん、学校でモテないの?」
「ええ? あのー、モテるとかモテないとかって、わたしなんかが入る次元の問題じゃないし……」
小野寺さんは吹き出して笑って、「ごめんね」と小さく言った。
「たぶんね、そういうところがモテるんだよ。そもそも外見だけですごくかわいいもん。今日は周りの人がみんな風ちゃんを見ていくから、僕はうれしくもあるし、恥ずかしくもある」
「絶対ないけどなぁ」
「これから嫌ってほどモテるよ」
見守るような目をして、そう言った。
「今日は、どうして誘ってくれた……の?」
帰りのショップでたくさんのぬいぐるみを抱っこしながら、思い切って聞いてみた。
「風ちゃんはどうしていいよって言ってくれたの?」
「え、だって、小野寺さんのこと、すきだし……一緒に出かけたら楽しいかなって」
小野寺さんは少しさみしそうに笑った。
「そっか。……僕は、風ちゃんが好きだから誘ったんだけど、やっぱりまだ早かったかな?」
「早い?」
「風ちゃんが僕の気持ちを理解する頃には、風ちゃんにはきっと、もっと素敵な彼氏が見つかってると思うよ」
この日のお土産はアデリーペンギンだった。
ペンギンを持って、夕焼け色に空が迫り始めた頃。小野寺さんは言った。
「今日の思い出に、いいかな?」
返事をするより早く、抱きしめられた。それは電車の中で肩を寄せたのなんかとは全然違っていた。小野寺さんの背の高い影に、わたしの小さな影はすっぽり飲み込まれてしまっていた。わたしは、「大人の男の人」に抱きしめられたことだけでいっぱいいっぱいだった。
「今日は一日つき合ってくれてありがとう。すごくいい思い出になったよ」
「もう会えないなんてないでしょう?」
「……風ちゃんが『会いたい』って、強く思う時が来たら、会いにおいで」
何も言えなかった。そもそも自分から男の人に会いに行きたいと思って出かける、ということが想像の範疇になかったから。
手を繋いで駅までゆっくり歩く。
「小野寺さん、いま、好きなだけじゃダメなの?」
「……『好き』にも種類があるんだよ。そのうち風ちゃんにもわかるよ。特別な『好き』が」
それが、私と秀一郎さんの、誰にも言ってない思い出。言ったら嫌な思いをする人がいるし、言うほどの何かがあったわけではない。
ただ、そこにいたのは「15のわたし」だったということだ。
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