第42話 1万回のキスを

 学校からの帰り道、手を繋いで買い物しながら同じ「家」に帰る。それだけでくすぐったい気がするんだけど……。


 今日は後ろめたい。

 啓はなんでもないふりを装ってる。もちろん、友だちを殴っちゃったからなんだろうけど……。

 わたしはどうしたらいいんだろう?

 なんだか変な流れでこんなことに……。


「お昼、うどん、美味しかった。夜は何がいいと思う?」

 啓が無邪気に聞いてくる。

 正門を通って信号待ち。夕方なので車の数も多い。

「ねぇ」

「どうした?」

「……買い物しないで帰ってもいい?」

 並んでいるので自然と上目遣いになる。

「いいけど、あんまり大したもの、できないよ?」

「うん、たまには」

 啓が口をつぐんでわたしの目を見る。わたしの中の不安が飛び出してしまうかもしれない。

「お姫様の仰る通りに」

 いつも通り、手を繋いで歩いた。


「きょうの実験にはまいったね、風は上手くできた? 女の子の中には『できない』って泣いてる子もいたでしょ」

「え、ああ、うん」


 ふわり、毛布のように抱きしめられる。

「悪かった」

 やっぱり怒られるんじゃないかとハラハラする。何しろとなると、彼に勝てる人はいないくらいだし。

「怒ってないの?」

「怒ってるよ」

「わたしのこと、怒ってないの?」

「……」

 やっぱり怒るよね。わたしだって、わたしの友だちが啓とキスしたら……許せるはずがない。


「風。オレはすごくイヤだったよ。でも何故か飛び出せなくて……飛び出せたら、風をそんなふうに困らせなくてよかったのにさ」

 彼の首と肩のところに、ちょうどよく、頭をのせる。啓の心音、いつも聞く居心地のよいメトロノームのような、どこか甘い音が時を刻む。

「ごめんなさい、キスされちゃった……」

「わかってる」

「突き飛ばしたりすればよかったのに……」


 啓が口づけをする。たっぷり、時間をかけて。コーヒーにミルクが渦をまいて溶けていくように、わたしの中のわだかまりを消そうとしてくれる。忘れられるように、魔法をかけようとしてくれるんだけど……あったことはなかったことにならない。


 啓からそっと離れる。

「これじゃダメなの?」

 首を振る。そういう訳じゃない。ただ、わたしの中に残っている何かを、全部消してほしい。

「全部消してくれる?」

「……ご飯は何か宅配にしちゃおうか? 全部とは言わず、今まで以上にオレだけのものになってよ」

 彼の甘い囁きに、こくん、とひとつ頷いた。


 今までしなかったけど、明かりを消して、一緒にシャワーを浴びた。シルエットしか見えない。啓がシャンプーをしてくれる。

「オレね、女の子の髪が長いのが好きなんだ」

 あちこち泡がついてるのに、およそこの辺、という見当でキスされる。大きな手でシャンプーされるのは気持ちがいい。眠くなってしまいそう。


「お返ししないとね……」

 髪をお湯で洗ってる啓に、声をかける。

 啓は大きな声で、

「ダメだよ。今日はオレが役得の日なの。風は言われるままにして」

 シャンプーをすっかり流して、コンディショナーをつけてくれる。

「オレ、美容師になろうかな。需要高そう」

「向いてるかもね。話上手で、イケメンだし、にっこり鏡越しに微笑まれたらみんな、啓目当てで通ってくるよ」

「……風だけでいいよ」

 わたしも振り向く。顔を上げると、啓も同じタイミングでこちらを向いていた。水が流れっ放しのシャワーを置いて、啓の手が肩に置かれる。


「キスしてくれる?」

「させてくれるなら」

「なんでそんな意地悪なこと言うの?」

 わたしの体はもう、額や頬、目元、うなじ……彼の望むまま、口づけを受けていた。

「意地悪じゃないよ。親友でも誰でも、風は譲れない。でもさ、したものは戻れないから、あの1回のキスを消すために、1万回キスするよ。風があいつの感触を忘れてしまうために」

 暗闇での、彼の唇はとても柔らかくて、たかが口の中で行われていることなのに、体中が反応してしまう。

「続きはあとで……」

 天使の羽が見えてしまいそうなわたしを残して、啓はボディーソープを泡立て始めた。


 啓が体を洗っている間、浴槽に入るように言われて右手から左手、左手から右手へ、水を流して遊んでいた。

 イタズラな啓は、シャワーをかけてきたりする。

「もう! 出ちゃうよ」

 と脅すと、「ごめん、ごめん」と言って鼻歌を歌いながら髪を洗っている。


 ふたりとも洗い終えて、浴槽に浸かる。

「のぼせない?」

「たぶん」

 啓と向かい合わせに、狭い浴槽に入る。恥ずかしかった。誰かとお風呂に入ったのは何年ぶりかなぁ。

 何も言わず、両頬を手で挟まれて、お湯に浸かったまま、

「かわいいよ」

 と言われて半分開いた唇がわたしの開きかけの唇を塞いだ。のぼせそうになってようやく離してもらえる。

「忘れちゃダメだよ、全部オレのものだってこと」

 何も言わずに裸のまま、彼にもたれかかった。



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