寂しいという感情を知らない

 2020.06.19

 第二回【有限戦争】の組み合わせが発表されるその日、会議室に入った北斗は「げっ」と顔を歪ませた。

 既にほとんどのKINGが着席している。右から青沼、赤星、湊斗と座っていてその隣が空席になっている。その席をわざわざ移動させ、ずいっと割り込むように赤星の隣に座った北斗へ彼は「そっち空いてるだろ」と顔を顰めた。

「兄貴じゃなくて赤星くんの隣に座りたかっただけだし」

 棘のある北斗の言い方に、赤星が助け舟を求めるように湊斗へ目配せをした。こくりと頷いた湊斗は弟に声を掛けた。

「北斗、そうやっていつまでもへそを曲げたって赤星に迷惑が掛かるだけだ。一度腹を割って話そう、俺も言い過ぎたところがあっただろうから」

 その後紡がれる言葉は簡単に想像出来た。ごめんな俺も悪かった、北斗の気持ちを考えていなかった。そんな北斗を尊重してばかりの言葉。

 ざわざわと騒ぎ出した感情に身を任せ、北斗は勢いよく机を叩き、その場に立ち上がった。

「だから! 俺は兄貴のそういうところが!」

 湊斗の顔を見る。驚いたような、でも悲しそうな顔をしていた。その顔を見るのは二回目だ。凍り付いたように身動きが出来なくなってしまった北斗の頭を、後ろからポンと凪紗が叩いた。

「北斗、兄弟喧嘩もその辺にしとけ。会議始められないだろ」

 理事長からの刺さるような視線を受け、北斗は渋々すみませんと言いながら座り直した。

 咳払いの後、理事長はノートパソコンを操作し、いつものようにデバイスに送信された資料を確認するよう伝えた。

 振動のあったデバイスを各々取り出し、送られて来た画像ファイルを開く。次回の【有限戦争】は一週間後の6月26日。対戦カードを見てすぐ、動きを止めた面々に理事長は話を切り出した。

「今回は【フウキイイン】KING・銀塔リヒトから【オチコボレ】KING・黒瀧湊斗に指名があった。

 それを黒瀧湊斗が承諾したため、このように編成した」

「お手数おかけしました、理事長。

 どうしても片割れの躾の悪さが目に余りましてね。

 命令違反……つまりそいつは立派な校則違反者だ」


 第一戦 【オチコボレ】対【フウキイイン

 第ニ戦 【ウキコボレ】対【セイトカイ

 第三戦 【レットウセイ】対【ユウトウセイ


 有馬・北斗と事前の模擬練習や作戦会議を行えていない上、KING同士の仲違い。それによって悪化した色内の雰囲気から、前回よりも悲惨な結果が目に見えている中、挑むのは上級階級二位の【フウキイイン】。

 言葉を失った北斗を一瞥し、口を開いたのは赤星だった。

「動物愛護法違反じゃないんですか、銀塔先輩。あんまりポチをいじめないで下さいよ」

「愛護法違反? どこがだよ。

 身内でもそこの馬鹿犬に待てを覚えさせられなかったみたいだからな、俺が直々に躾けてやるってだけの話だ」

 完全に犬扱いされている事に、最早ツッコむ気力も湧いて来なかった。むしろこの一週間、赤星に“ポチ”と呼ばれ、その度に「犬じゃない」だの「北斗だから」と主張し続けた疲れがどっと体に押し寄せた気がする。単純にカーペットの上で寝起きを繰り返しているのが大きいだろうが。

「特に質疑応答がないようなら、今日は解散とする」

 理事長の言葉を皮切りに、全員が一斉にその場に立ち上がった。「赤星くん、部屋の掃除でもしておくよ」と北斗が切り出せば、赤星は「お掃除機能付いてんのか」と揶揄うように笑った。その2人のやり取りを眺めた後、足早に退室して行った湊斗の姿に凪紗は小さく息を吐いた。

「あの2人を仲直りさせる方法なんて、俺じゃ分かんねぇよ」

 助けを求めるように凪紗は窓の外へ視線を向けた。空を2等分するように、くっきりと飛行機雲が伸びていた。



「赤星くん、大浴場行こう」

「パス」

 いつぞやぶりの即答に北斗は負けじと「行こうよ」と食らい付いた。その目は北斗が持って来た漫画を読み耽っている。

 暇つぶしにと見せた、軽音部をテーマにした漫画『SINGING』をかなり気に入ったらしい。「続き貸して」と言われた時は思わず目が点になってしまった。

「俺シャワー派だし、人多いところは行きたくない」

「それは分かってるけどさぁ、シャワーじゃ疲れ取れないんだよ。雑魚寝の俺の身にもなって」

 1人で行けと追い払うように手の甲を向け、適当にあしらった赤星に「ねぇ一緒に行こうよ」「赤星くん」とその周辺をうろちょろと歩き回り、ちょっかいを掛け続けていれば、やがて折れたのは赤星の方だった。

「あーもう、うるっせぇな。分かったよ」

 漫画本を閉じ「散歩前の犬か、おめーは」と悪態を付きながら洗面所に向かった赤星を、北斗は「早く行こう」と言いながら急かした。



「おっ、赤星。珍しいな」

 洗い場で赤星と取り留めもない(といってもほとんど北斗が質問責めにしていただけだが)会話を交わしながら体を洗い終え、そのまま脱衣所に出て行こうとした赤星の手を引き、湯船に向かえば2人の先客がいた。

 青沼と花条だ。「珍しい組み合わせ」と笑いながら、北斗は赤星が逃げないよう腕をガッチリと掴んだまま湯船へ浸かった。

 すっぽりとお湯に体を覆われ、息を吐く。約一週間蓄積された疲労が抜けていく気がする。ふぅっと長く息を吐き出した北斗を真似るように、赤星も短く息を吐いた。

「赤星が共通の友達、みたいな感じだからな。何回か話す内にすぐ仲良くなったんだよ」

 流石コミュ力おばけの花条だなと感心しながら、北斗は「いいなぁ」と赤星・青沼に目を向けた。

「俺も青沼くんと赤星くんと友達になりたい」

「青沼はともかく、そこの筋肉ゴリラは友達でも何でもねぇよ」

 赤星の素っ気ない態度に、花条は「もう、赤星くんったら素直じゃないんだから」と口元に手を当て、ぶりっ子のポーズをしながら裏声で訴えた。

 隙あらばおどけて、いつも周囲を笑わせてくれる花条にケタケタと笑い声を上げていれば、同じくそれに控えめな笑みを零していた青沼がスッと手を差し出して来た。

「俺は友達になってもいいぞ、黒瀧」

「本当!? 嗚呼、俺の事は北斗でいいよ」

 ポチだろと横から口を挟んだ赤星に「違うから」と否定して、北斗は青沼と軽い握手を交わした。

 彼の右目に常日頃付けられている眼帯の姿はない。その代わり、右目を覆い隠すように前髪がぺったりと張り付いていた。

「北斗、でも赤星はお前と友達になりたそうにしてたぞ?」

「してねぇから言い掛かりやめろ。

 ポチは俺と友達になる前に、早く兄貴と仲直りしろよ」

 正論を叩き付けられ、うっと呻いた北斗に青沼は「まだ仲直り出来てないのか」と心配そうに眉を下げた。花条は「ほっちゃんの性格上、自分が悪くないと思ったら絶対折れないもんな」と頷いている。

「つか、今までどうしてたんだよ。兄貴と喧嘩した事なかったのか?」

「あるよ、中学の時だけど……。その時は従兄弟の兄ちゃんが仲裁してくれた」

 北斗と湊斗の話を交互に聞いて、こうした方がいいああした方がいいと客観的なアドバイスをする姿勢はまるで学校の先生のようだった。その後「一緒に謝りに行こうか」と仲直りの場まで同席してくれた。

 言い方は悪くなかったか、どうするべきだったか。親身になって話を聞いてくれた京羽の姿を思い出しながら、湊斗と言い合いになった時の事を振り返って見る。

 北斗の行動は銀塔が言っていた通り、立派な規則違反だ。軽はずみな行動で有馬を始めとした【オチコボレ】のメンバーや銀塔・凪紗に迷惑を掛けた事も重々承知している。

 だがあのまま命令に従って、何も出来ないまま畑山が息絶える映像を見せられる方が後悔は募った。

 でも、やっぱり。

「……俺が悪いのかな」

 湊斗は自分にも非があった事を認め、一緒に罰則を受けるとまで言った。そこで身を引き、場を収めようとした湊斗に激昂し、更に仲をこじれさせてしまったのは他でもない自分だ。

「さくっと謝りさえすれば、床で寝起きする必要もなくなるぞ」

「それが出来てたら苦労しないよ」

 吐いた息は湯気と混じり合い、やがて跡形もなく打ち消されてしまった。



 2020.06.21

「お前、子守歌のスペシャリストか」

 黒宮と待ち合わせ、ほぼ毎日のように母の動物病院に赴いては保護した犬猫の顔を見に行っていた帰り道。北斗は目を瞬かせながらどういう事だろうと首を捻った。

「確かに歌とギターは得意だけど、子守歌はそこまで」

「でも、寝られた」

 数日前、黒宮が倒れかけた日の事を思い出す。きらきら星の他に色んな楽曲を奏で口ずさんでいたものの、黒宮は熟睡していて、北斗が赤星の部屋に戻るまで一度も目を覚まさなかった。その甲斐あってか、彼の目の下に年中無休刻まれている隈は薄くなっているように見えた。

「うーん、何でだろう……。

 あっ、もしかして俺が自覚してなかっただけで、そういう才能が!」

「あー……こうやって調子乗るなら言わなきゃよかった」

 発言を後悔している黒宮に「冗談だって」と笑いながら北斗はよっと掛け声を漏らし、新夏海岸前の岩壁に登った。

 そのまま灯台が立てられている防波堤まで走った北斗はギターケースを下ろし、腰を落とした後黒宮を手招きした。はぁっと溜め息を吐いてから、渋々といった様子で黒宮は彼の元に歩み寄り、その隣に座った。

「俺には音楽しかないんだ。

 特にギターは唯一兄貴や従兄弟達だってやってない、俺だけの武器だ」

 弦を押さえ、ジャーンと効果音を口にしながらそれを弾く。効果音通りの音色が出た事に黒宮は小さく笑っていた。

「前借りした小遣いとお年玉全部はたいてギター買って、それからずっと毎日のように弾いてた。

 コード押さえる指が全然曲がんなくて、上手く音が出なくて。それでも毎日毎日母さんに教えてもらいながら練習して、ようやく一曲弾けるようになった時、一番に兄貴に披露したんだ」

 そう言いながら北斗は弦を順番に弾いて行った。そのメロディーに黒宮はぱちくりと目を瞬かせた後「きらきら星」と呟いた。

「そう、最初はこれやるので精一杯でさ。それでも兄貴は真剣に聞いてくれた。

 弾き終わった後言ってくれたんだ」

 北斗は凄いな。頑張って練習してたもんな。もう一回聞かせてくれ。

 そう言って北斗を褒めちぎった後、アンコールに応えてもう一度演奏した時、湊斗が言った言葉は今でも鮮明に残っている。

「北斗のギターと歌が好きだって言ってくれた。

 ……思えば、それが始まりだったかな。軽音部に入ったのもその後だったし、兄貴に自分の得意なものを見せ付けて得意げになりたかったのもあるだろうけど……。

 兄貴が褒めてくれるのが、嬉しかったんだ」

 最初はたったそれだけだった。その輪が次第に広がって、畑山や比与森、飛影と色んな人が北斗のギターと歌を褒めてくれるようになった。

「きらきら光るお空の星よ、瞬きしては皆を見てる」

 歌詞を口ずさみながらギターを演奏し始めれば、黒宮は眠たげに目を擦った。「眠い? 暗くなって来たら起こすから、寝ていいよ」と促せば、欠伸を数回に分けて漏らした。

「俺、駄目なんだ。人が居ると寝れなくて……」

 そう言えば同じような事を言っていたなと考えながら、北斗は頷いた。歌とギターは止めぬまま、辺りは穏やかな波の音と潮風が鳴り響き、上空では太陽が北斗達の事を爛々と照らしていた。

「お袋が……クソみてぇな奴で。俺が3つの頃、深夜に男と出て行って、帰って来なくなった」

 それから親戚の家に引き取られた事、男と関係が途絶えれば思い出したように会いに来る事を黒宮は夢現の状態で語った。

「そっからあまり眠れなくなって。目付きが悪ぃって遠巻きにされたり、喧嘩売ってるだの変な因縁吹っ掛けられて、口論になったり……限界迎えて前みてぇに倒れるのも、しょっちゅうで」

 黒宮が遅刻・無断欠席の常習犯かつ周囲に威嚇をしまくる問題児、だとか“狂犬”なんて言われ周囲から避けられていたのはそんな理由だったのかと驚きつつ、北斗は弾き語りを続けた。

「だから、初めてだった。誰かの前で寝られたのは……」

「やっぱ子守歌効果?」

 北斗の問い掛けに黒宮は薄っすらと笑みを零しながら「いや、多分違う」と否定した。

「安心出来るから。

 ……お前馬鹿だからな」

「ばっ……否定しないけど、馬鹿は余計だろ!」

 うっせぇ黙って聞けと欠伸を零し、黒宮はゆっくりと目を瞑った。

「あの日どれだけ寝ないで待ってみても、母親は帰って来なかった。

 翌朝になっても、3日経っても、一週間が経っても」

 まだ3歳の子供を残し、家を出て行くなんて酷い母親だと思った。それを言えなかったのは、続きの言葉を語ろうとする黒宮の表情が穏やかだったからだ。

「でもお前は、目が覚めても隣でギター鳴らして歌ってる気がする。翌朝も3日後も一週間後も、絶対に居なくならない。

 ……馬鹿だからな」

「折角いい事言ってくれてるのに、さっきから一言余計だと思う」

 別にいいだろと黒宮は答えた。

「それくらい表裏がねぇって事だろ」



 寝てしまった黒宮の体を横にし、頭の下にギターケースを敷き、体に着ていたパーカーを被せてやってから、北斗は揺れる海面を見下ろした。

 まだ少し冷たい潮風が半袖の北斗の肌を刺した。さみぃと小さく漏らしながら、何曲も続けて弾き語りを続けた。今流行りの邦楽から話題のアニメやドラマの主題歌を演奏し続けていれば、辺りはすっかり日が傾き始めていた。

 すっかり冷え切った喉と指を動かし続ける北斗の背後に、歩み寄る足音が聞こえた。

「こんな場所に薄着で居たら風邪引くぞ」

 そう言って北斗の肩に掛けられたパーカーは、改革前からずっと着続けているものだった。パッと顔を上げて見れば、少し息を切らした湊斗がそこには立っていた。

 また北斗と言い合いになる事を恐れたのか、気まずそうに視線を逸らした湊斗へ北斗はギターの弦を適当に指の腹で弾きながらポツリと呟いた。

「俺、何も分かってなかった」

 湊斗は「何がだ」と言いながら腰を下ろした。人1人分離れた距離を一瞥いちべつした後、北斗は規則的な呼吸を行ったまま、すっかり熟睡している黒宮を凝視した。

「黒宮くんの事、何にも分かってなかった。

 きっと他の【オチコボレ】メンバーも同じだ。戸塚くんも芥答院くんも貞原くんも、飛影さんも有馬さんも……俺は自分の事で精一杯で、何一つ分かろうとしなかった。

 ……比与森の事は」

 あんまり言いたくない。言及を避けた北斗に湊斗は表情を曇らせた。交流関係が手狭な湊斗であっても、去年の文化祭後に軽音部で起きた一件の噂くらいは耳にした事があっただろう。

「レインボーブリッジ襲撃の日、俺は冷静じゃなかった。

 有馬や【オチコボレ】のメンバーだけじゃなく、銀塔先輩や凪紗・防衛軍の人達に沢山迷惑を掛けた」

 ごめん。深々と頭を下げた後、北斗は「でも」と言葉を続けた。

「俺にとって慶は、一緒に夢を叶えようって約束した大切な友達だ。

“たかが友達1人”じゃない。それは兄貴にも、分かって欲しい」

 長い沈黙だった。もし反論が来たとしても、北斗には湊斗に匹敵する語彙力の引き出しを持ち合わせていない。言論で捩じ伏せられるのは目に見えていた。内心ビクビクと身構えていれば、湊斗は「俺もごめん」と言って頭を下げた。

「強く言い過ぎてしまった。あんな事があった矢先だ、もっと北斗を労わってやるべきだったな。すまない」

 アスファルトと口付けを交わす勢いで頭を探る兄に、北斗は慌てて「兄貴、頭上げてよ。俺が悪いんだし」と告げたが湊斗は「いや、俺の方が悪かった」と一歩も引かなかった。それから3回くらい押し問答を繰り返したところで、湊斗はらちが明かないなと笑った。

「仲直りしよう、北斗」

「おう!」

 差し出された手を握り、大声で返答した北斗に、湊斗は人差し指を口元に添え、しーっと注意した。

 やべっと慌てて口を押さえた北斗は、呻き声を発しながら気だるそうに起き上がった黒宮に「うるさくしてごめん」と両手を合わせた。

「……別にいい。1人増えた辺りからもう目覚めてた」

 北斗にギターケースとパーカーを返しながら、黒宮は辺りを照らす夕日の眩しさに目を瞑り、気だるそうに欠伸を漏らしながら歩き始めた。

「北斗、湊斗帰るぞ」

 ギターをケースに収め、パーカーに袖を通していた北斗は湊斗と顔を見合わせた。

 ぶっきらぼうに言い放ち、そそくさと逃げるように歩き始めてしまった黒宮の背を眺め、北斗は彼を目掛け走り出した。

「黒宮くん! 初めて名前呼んでくれた!」

「うわっ! うっぜぇ、くっ付くな! 犬かお前は」

 もう一回呼んで、俺も黒宮って呼んでいいなんて言いながら目を輝かせる北斗に、一瞬耳と尻尾が見えた。その姿にグッと顔を顰めた後「勝手にしろ」と言い捨てて歩き出してしまった黒宮の半歩後ろを歩く北斗の隣に並びながら、湊斗は「北斗」と声を掛けた。

「今日からちゃんと部屋に戻って来い。赤星にお礼しておけよ」

 分かったと返事をして、北斗は「兄貴、俺さ黒宮と犬猫拾ったんだよ」と兄との冷戦中にあった出来事を詳細に語り始めた。



 ギターケースを一旦部屋に置き、着替えなどの日用品が入っている鞄を取りに行くため、北斗はお礼の品が入った袋を片手に3階の【レットウセイ】の寮室に向かった。

 階段の最後の一段を上り終えようとしたところで、北斗は咄嗟に立ち止まった。何やら言い争うような声が聞こえたからだ。その声の主が赤星である事に気が付いてすぐ、北斗は階段からゆっくりと身を乗り出し、様子を窺った。

「何回も同じ事言わせんな。

 俺はお前等と協力するつもりはない。だからこそ、【有限戦争】にも勝つ気はないし、そもそも異端者と戦う理由は俺にはない。

 ……以上、さっさと帰れ。お前の顔見ると気分悪くなる」

「赤星虞淵、今の雪麗シュエリー様への失言を撤回しなさい」

 赤星の手首を強く掴み上げる女に、彼は「気安く触んな」と睨みを利かせた。

 輪を描くように三つ編みを結い上げたピンク色の髪に伏し目がちな赤色の目。【レットウセイ】の制服のチャイナ服を模したような可愛らしいワンピースに身を包んでいる彼女の全身から、苛立ちの感情が溢れ出ていた。

レットウセイ】BISHOP・ヤオ美雨メイユイ。中国からの留学生で【レットウセイ】QUEEN・ワン雪麗と常日頃行動を共にしている。

 そんな赤星は雪麗と美雨、そしてもう1人を含めた中国の留学生3人組との連携を徹底的に避けている……と花条が愚痴っぽく語ってくれた。一体どんな関係なのだろうと、更に身を乗り出そうとした時。

「あっ、落ちこぼれの弟くんじゃん。なになに、忍者ごっこ?」

 背後から突然声を掛けられ、思わず大声を発しそうになった北斗の口に何かが押し込められた。むぐっと息苦しさを覚えながらも、口に突っ込まれたメロンパンを咀嚼していれば彼は「はい、いい子いい子。そのまま大人しくしてね」と笑った。

 毛先に掛けて紫色のグラデーションが掛かっている黒髪に、長い睫毛に隠された緑色の瞳。

 美雨・雪麗と同じ中国留学生の【レットウセイ】ROOK・リン赦鶯シャオウだ。彼の目や話は何処か胡散臭く、信用してはいけないと脳が警鐘を鳴らした。

「君、虞淵によく懐いてるわんちゃんだよね」

「いや、懐いてるって言うか仲良くしたいだけで。あと犬じゃ……」

「あいつが人殺しだったとしても、同じ事言える?」

 言葉が出て来なかった。喉に何かが詰まったみたいに、上手く喋る事が出来ない。

 頭を鈍器で殴られたような衝撃を受け、身動きが取れなくなってしまった北斗を見て、赦鶯は意地悪く笑った。

「虞淵は人との関わりを断ちたがる。大切なものをあいつは持たない。

 ……だからこそ、簡単に人を殺せる。

 ……君の事だって簡単にね」

 大切なものを持たない。その発言に北斗は引っ掛かりを覚えた。

 赤星の殺風景な部屋を思い出す。ただ寝て起きるだけの部屋、物が少なく小綺麗に見えた部屋には写真立てが飾られていた。

 血が繋がっていないという家族との写真。そしてそれをきっかけに軽く身の上を話してくれた後、赤星は「青沼にも話している事だし」と答えた。

 ……それらを思い出した北斗は、口に押し込められたメロンパンを一気に飲み込んだ後、その場に立ち上がった。

「それでも俺は同じ事を言える! そんな事ないって、否定し続けるよ」

 北斗の言葉に赦鶯は「あーあ」と面倒臭そうな顔をして、何故か赤星達の方を見ていた。つられるように視線を向けてみれば、北斗の声に驚いたのか赤星達が視線を集中させていた。

「お前……」

 北斗・赦鶯の組み合わせを見て物言いたげな顔をした赤星に、赦鶯は「興ざめしちゃったし、この位にしとこうよ」と美雨・雪麗に促した。

「でも、赦鶯。私は」

「大丈夫、雪麗の主張は分かってるよ。

 俺も美雨も気持ちは一緒だ」

 片言な返答をした雪麗はそれ以上上手く言葉が出て来ないのか、口をモゴモゴと動かしていた。

 美雨に促され、自室へ戻り始めた雪麗の後に続き、赦鶯はふと思い出したように赤星の方を振り返った。

「虞淵、君がどう思おうとどんな行動をしようと、俺達の目的は変わらない。

 逃げ出した商品2つを持ち帰る……ただそれだけだ」

 赦鶯達が立ち去って行く中、赤星は苛立ちをぶつけるように舌打ちを零し、北斗を睨み付けた。かなり機嫌が悪い。嫌なタイミングで来ちゃったなと考えながら北斗は「あ、えっと」と言葉を絞り出した。

「さっき兄貴と仲直りしたんだ。だから、荷物取りに」

「あっそ」

 鍵を取り出し、部屋を開けた赤星に続き、北斗は「お邪魔します」と一言断ってから隅に置いていた自分の荷物を手に取った。

「泊めてくれてありがとう。

 これ、ちょっとしたものだけどお礼……」

「……あいつに何言われた」

 赤星の座るベッドにお礼の品が入ったビニール袋を置き、足早に立ち去ろうとした北斗を赤星のそんな一言が制止した。

 何でもないよと首を振るも「誤魔化すの下手くそか」と更に彼の機嫌を損ねてしまった。

「その……赤星くんが人殺し、とか。

 あっ、俺が言ったんじゃなくて藺くんが……」

 その瞬間、肩と背中に強い衝撃があった。

 顔を顰めた後、北斗は「赤星くん」と名前を呼んだ。

 北斗を壁に押し付けたまま、赤星は何も言わない。俯いたその顔から表情は窺えなかった。

「赤星くん、どうし……」

 カチカチッと耳のすぐ近くで音がした。何だろうと目を向けて、北斗の喉からヒュッと音が鳴った。

 全開に刃が出されたカッターナイフが、北斗の首スレスレに突き付けられている。

 北斗が見た限り、部屋に入ってから彼がそれを手に取った様子はない。もしかして、雪麗達と言い合いになった頃にはもう隠し持っていたんだろうか。そう考えればとても冷静では居られなくなった。

 生きた心地がしない。頭がどれだけ冷静になれと警告を送っても、呼吸は長距離走でも走ったのか、と思ってしまうくらい乱れていて。

 ……怖かった。今すぐにでも泣き叫んで、助けてくれと命乞いをしたかった。

「部屋は防音。つまり何が起きたって他の奴等には分からない。

 ……完全犯罪にはもってこいのロケーションだろ」

 赤星くんと呼び掛けたが、彼から返答はない。

「人を殺す時は脳天撃ち抜くのが一番手っ取り早い。力のない子供でも標準さえ合わせれば、一発でクリア出来る」

 赤星くんともう一度声を掛けた。ゲームや漫画の話をしているのではと一瞬考えたが、それにしても彼の話はどこか現実味を帯びていた。

「対象が死んですぐ、一番に切り落とすのは首。

 切断した後は身元がバレないよう、顔を重い石で潰す。

 何回も何回も、許しが出るまで」

 カッターを握る赤星の手がガタガタと震えていた。赤星くんと名前を呼べば、ピクリとその肩が反応した。

「それから、体をかっ捌いて……内臓を……」

「赤星くん!」

 赤星の両肩を掴み、大きく揺さぶればようやく正気に戻ったのか、彼の手からカッターナイフが零れ落ちた。

 即座に拾い上げ刃を閉まった後、北斗はそれをタンスの上に置いた。

「……泣かないで」

 泣いてねぇよとすぐに返事が返って来た。やつれた表情でベッドに腰掛けた赤星は確かに泣いてはいなかったが、堪えるように険しい顔を浮かべ続けていた。

「悪かった。

 ……今のは忘れろ」

 でも、と躊躇ためらう様子を見せた北斗に赤星は「一人にしてくれ」と呟いた。

 顔を両手で覆い、俯いてしまった赤星に「それ、早めに食べてね」と告げながら北斗は部屋を出る直前「泊めてくれてありがとう」と不格好な笑顔を見せた後、部屋を飛び出した。



 北斗が退室した直後、勢いよくベッドに倒れ込んだ赤星は右手を天井に掲げた。未だガタガタと震え続けているその手に「情けねぇ」と呟き、赤星は左腕で目元を覆った。

 今でも右手には感覚が残っていた。カッターを握った感覚も、北斗の首の温度も。一瞬でもそれを相手に向けた殺意も、まだ手の中に残っている。

「逃げてもずっと……変わらない」

 情けない。もう一度同じ言葉を繰り返した。

 思い出すのはあの暗い部屋。光も希望も差さない地下奥深く。

 暗い場所は嫌いだ、妙に落ち着いてしまうから。

 明るい場所は嫌いだ、自分には場違いだと思い知らされるから。

 だから、あいつの事が嫌いだ。

 太陽のような眩しい笑顔で、誰にでも人懐っこく犬のように距離を詰めて来るあいつの事が死ぬ程嫌いだ。

 自分が自分じゃなくなってしまいそうだから。

 左腕を目元から離し、ポンと布団の上に投げ出してみればコツンと何かが当たった。

 北斗が置いて行ったものだ。早めに食べてねの言葉を思い出し、ビニール袋からそれを取り出してみる。

 中には、犬と猫の顔を象ったチョコレートが入った6個入りの箱菓子が入っていた。1人で食べるには丁度いいサイズだろう。

 肉球や骨型、嬉しそうな表情や不機嫌そうな顔をしたものがあったりと、バリエーション豊かだった。

 ゆっくりと起き上がり、満面の笑みを浮かべる犬のチョコレートを手に取る。小さく鼻で笑った後、赤星はそれを口内に放り込んで顔を顰めた。

「甘っ」

 冷蔵庫に飲み物を取りに行こうと立ち上がった彼の視界に、タンスに置かれた写真立てとカッターナイフが映り込んだ。

 やがて気まずそうに視線を背けた赤星はやりきれなさを表すように、小さく息を吐いた。

 元に戻っただけだ。何もおかしくはない。

 ただ1人分減った部屋。カーペットの上でゴロゴロと漫画を読んだり、ひたすら話しかけてちょっかいを掛けて来たり、ギターの演奏を披露して来る人間の生活音がなくなっただけだ。

 たったそれだけの簡単な問題だというのに、こんなにも気持ちが落ち着かないのは何故なのだろう。

 もう一粒チョコレートを摘まんで、先程の倍になって返って来た甘ったるさに顔を顰めた。


 赤星虞淵は寂しいという感情を知らない。

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