♯172 二つまでの我慢(紺色鼠の奔走3)
絶対的な恐怖に意思で抗う。
瀕死の勇者を背中に庇い、向き合う。
圧倒的な力を内包した人の形をした何か。
まるで悪夢そのものような存在。
相対するだけで感じる、自らの死。
人間の世界に何でこんな化け物がいるのか。
状況から察するに、あの勇者ユーシスでさえも歯が立たなかったのだろう。その事実に驚愕する。
実際、勇者は強い。
人族の中では飛び抜けている。
勇者は女神に誓いを捧げ、加護を得るのだという。その勇者をここまで追い込むような人族がいる事が、まず信じられない。
けど現実に、そんな化け物が存在している。
今こうして、目の前に。
早まる動悸と震える両膝には構わず、息を飲んで霞みかける意識を保つ。恐怖に怯えている事実を否定しても現実は変わらない。だったらそれを、認めるしかない。
最悪な状況の中でも心を折らずにいる事。
最後まで諦めなかったヤツが生き残る。
……いつだってそうだった。
今までそうでなかった事なんて、無い。
「アスタスっ……、何故戻ってきた」
ふらつきながらも背後で勇者が立ち上がる。
相当深いダメージを受けたようで、いつもの飄々とした表情もすっかり失われてしまっている。
目の前の化け物は後ろにいる勇者の様子を眺めた後、じっくりと値踏みするかのように僕へと視線を移した。
ニヤついているようにしか見えないけど、その傲慢な表情の奥でギラつく両目には、貪欲な狂暴さを感じる。
……。
この感じはどこか覚えがある。
冷徹にして残虐、非道にして容赦の無い。
記憶に深く刻まれた、暴虐の傷痕。
沸き立つ不安を懸命に否定する。
それはありえない事だ。
あの恐怖はもう終わったハズなのに。
言い知れぬ不安が胸中を蝕む。
滲むように広がる不穏な予感を振り払うようにして、背後にいる勇者へと意識を向ける。
「安心してよ。外にいた人達は郊外へと送ったから。後はそれぞれに逃げ延びてくれると思う」
「送ったって、おまっ、早すぎるだろ」
「僕を誰だと思ってる」
一緒にここまで来た付き添いの人達は、全てその道の工作員が変装した人達だ。本来の計画では聖女マリエルがリディア教皇との会見に臨んでいる間に、出来るだけの情報を集める事になっていた。
突然の計画の変更なんてよくある事。
今は状況の急変を伝えて、各自でアリステアまで戻れるように郊外までちゃんと送り届けてきた。
後この本神殿に残ってるのは勇者と聖女だけ。
「だったら何故お前まで戻って……」
後ろから掴まれた手を強引に振り解く。
勇者が言いかけた何かを途中で切ったのは、強引に振り解いた為か、それとも掴んだ肩がガッチガチに震えていた為か。
言い淀む勇者を横目に化け物を睨む。
何を考えてるのかその化け物は、一定の距離を保ったままこちらを観察しているように見える。観察したまま、手を出して来る様子がない。
その様子を訝しんでいると、落ち着いた雰囲気に不気味さが増した。何かに確信を得たかのように、瞳の奥の獰猛な光が深まる。
「……今のは『精霊転身』だな」
呟くように漏らされた言葉に、耳を疑う。
……コイツ。『精霊転身』を知ってる?
こんな魔の国から遠く離れた人間達の神殿の真っ只中で、何故それを知る者がいるのか。
微かな動揺に身を固くする様子をねぶるように見定めると、その端正な顔立ちが歪み、更に凶悪な笑みが浮かび上がった。
「天魔大公クスハの得意とする秘術だったと思ったが、何故お前がそれを扱える? ……お前『魔の国』の者か」
「あぁぁぁあああああーっ!」
凄惨な笑みに飲み込まれそうになり、敢えて大声を上げて、怯えて竦みそうな自分を保つ。
術を展開させ、身体を『風霊』に転身させる。
『風霊』となった僕の身体は細かなつむじ風となって八方へと向かい、目標を大きく包み込むようにして、その鋭利な真空の牙を突き立てた。
「アスタスっ!」
勇者が叫ぶ。
……心配しなくても、分かってるさ。
実体の無い『風霊』の身体であるにも関わらず、突き立てようとした真空の牙はソイツの、造作も無い腕の一振りによってあっけ無く掻き消されてしまう。
『精霊転身』で転身した身体は物理的な力には滅法強いけれど、高密度の魔力の前では相性が悪い。それは、聖女に一度負けた時に実戦で学んだ事だ。
振り払われる身体を集め、転身を解く。
『精霊転身』は無敵の術では無い。だからこそ、使い方こそが大事なのだと、……学んだんだ。
相手の背後で実体化して、すぐさま『地霊』へと転身する。
七つ身を持つクスハ様と違って、僕に出来る転身の種類は地水火風の四つだけ。けど、例え少ない手札であったとしても、目的を達成させる事は出来るハズ。
『地霊』となって大地を同調させ、硬度を練り上げた岩槍を地面から生み出す。
大人二人分を優に越える太さの岩槍で四方から貫こうとしたけど、これもあっけなく、全て砕かれてしまった。
地面の下に逃れた身体を集めて再び、勇者の目の前で実体へと戻す。
「……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
普段ならこの位、何て事もないのに。
かかる圧力と緊張感に体力を大きく削られる。
何気ない動作の一つ一つがとんでもなく、重い。
「アスタス。無茶だ。お前だけでも逃げろっ!」
「嫌だねっ!」
満身創痍の勇者を背に庇い、短く言い捨てる。
勇者の言う通り、こんな化け物に立ち向かうなんて自分でも無茶だと思ってる。こうして向かい合ってるだけで精神が削られていくし、案の定、僕の力ではコイツに傷一つつける事も叶わない。
それでも。
そんなんだからこそっ。
「聖都に来る前に陛下に言われたんだ。2つまでは我慢しておけって」
余裕を見せているのか妙にニヤついたまま、こちらの出方を待っている相手を睨みながら、後ろ背に勇者へと語りかける。
「人の世界は魔族のそれとは違う。色々と気に食わない事もあるだろうって。文化や慣習が違えば齟齬も生まれる。その全てを我慢しろとは言わないから、2つまでは、どれだけ気に食わない事があったとしても我慢しておけって」
「……アスタス?」
「そもそもが安い挑発に乗ってこんな所まで来る事自体反対だったっ! 聖女を一人で行かせた事もっ! 先に一人で逃げろと言われた事だってっ!」
知らず声を張り上げてしまうのは憤りからなのか、それとも身を蝕む恐怖を振り払う為なのか。
両膝の震えは止まらないし、奥歯も上手く噛み合わない。
なんで僕がこんな目にあわなきゃならないのか。
「言われた通り2つまでは我慢したさっ! だからここからは、僕の好きなようにやらして貰うからねっ! 文句は一切聞くつもりもないからっ!」
「……アスタス。一つだけいいか」
「何さっ!」
後ろで申し訳なさそうに勇者が指を折って示す。
「それだと3つないか?」
「今大事なのはそこじゃないだろーっ!」
何考えてんだあんたはっ!
本当っ、何考えてんだかさっぱりだよっ!
思わず振り向いてはたき倒したくなる所をぐっと堪え、脱力しそうだった両膝で踏み留まる。
「……すまんな。助けられた」
小さな声でこっそり付け加えられた一言を、背中で受ける。珍しく本気で言ってそうなその声色に、いつのまにか震えの止まっている自分を自覚する。
「……魔の国の者が勇者を庇う。何とも奇妙な光景でもある」
小石を踏みしめて、目の前の脅威が動いた。
迫る圧力に対して危機感が募る。
人間でありながら、ここまで圧倒的な存在など本来いるハズがない。だったら何の為に勇者がいて、聖女がいるのか。
「少し離れていただけでこうも歪むとは、人は魔族を憎み、魔族は人を害してこその本性。それを忘れるとは、実に嘆かわしいな」
愉悦に歪む表情に、狂気が宿る。
「勝手な事ほざいてんじゃねぇよ、
前へ出てこようとする勇者を身体で抑える。
僕程度に抑えられてしまうのに、それでも無意識に前へ出てこようとする所には正直、感心もさせられる。
狂気の塊が殺気を含んで膨れ上がった。
「なればこそ、お前達に再び我が名を告げよう」
咄嗟に『風霊』に転身して勇者を包み込んでその場から逃れる。刹那の時を置かず、膨大な魔力を乗せた剣撃が振り抜かれた。暴虐の脅威が赤黒い軌跡となって、さっきまでいた場所を破壊し尽くしていく。
草地が抉れ、力の余波で周りの神殿が崩れ去る。
地鳴りの音を背後に聞きながらソイツは、辛うじて破壊の領域から逃れた僕達に、ゆらりと振り返った。
戦慄が全身を駆け抜ける。
コイツは多分、……間違いない。
こんな所にいるハズの無い存在。
圧倒的な暴虐の塊。
化け物は両腕を高く広げ、その名を叫んだ。
「我が名はスンラ! 刻め! 恐怖と共にっ!」
すかさず『水霊』へと転身し、地面の下の地下水との同調を探る。
まさかという思いはあった。
暴虐の魔王スンラ。
そんなハズは無いと、こんな所にいるハズが無いと否定しつつも、その圧倒的な強さの理由が、他に説明出来ない。
感じる恐怖は刻まれた暴虐の記憶。
深く刻まれた、殺戮と破壊の傷痕。
だからこそ、飲み込まれる訳にはいかない。
僕達はすでに、新しい
「どぅりゃあぁぁあああああーっ!」
地下水を同調させ、一気に圧力をかける。
目指す目標はスンラではなく、その足元。
さっき『地霊』になった時、土を岩槍にして掘り起こして
同調を果たした大量の地下水が、空洞と空洞を隔てていた薄い壁を突き破り、圧を持った濁流となって地表から水柱を立てて吹き上がった。
大きな地鳴りを響かせて地面が揺れ動く。
「逃げるよっ! 勇者っ!」
スンラの足元が大きく陥没し始めたのを確認して、『水霊』から『風霊』へと転身し、勇者を抱き抱える。
「駄目だっ! まだマリエルがっ!」
「がぁぁああああっ!?」
「アスタスっ!?」
抵抗する勇者を無理やり包み込んだ時、赤黒い衝撃が『風霊』となっているハズの身体を深く抉り取った。
「小賢しい真似をするっ、逃がしはせんっ!」
ズドォォオオオンと一際大きな音とともに、放たれた衝撃に耐えきれなかった地面がまとめて崩れ落ちた。
深く穿たれた大穴の中へ、沸き上がった濁流が土砂ごとスンラを巻き込んでいく。
水圧と土砂が阻んでくれれば、少しの間だけでも逃げる時間が稼げるかもしれない。
「……もうあんたの言う事は聞かないと言った」
風の力で勇者を拘束して、一気に上空へと持ち上げる。
「だったら俺よりも、聖女を先にっ……」
「聖女はあんたが守るんだろっ!」
勇者をその身に抱えながらも、受けたダメージの所為で思うように高度が出せない。神殿群の屋根よりもやや高いだけの高さで、スレスレの所を縫うようにしてすり抜けていく。
「勇者の誓いは勇者が守ればいいっ! だけどその為には、聖女を助ける為にはあんたがいなくちゃ駄目だろっ!」
「アスタスっ!?」
「だったら僕はっ、全力であんたを助けてみせる。必ずあの化け物からっ、あんたを逃がしてみせるっ! 絶対に、必ずだっ!」
あんな足止めがいつまで通じるか分からない。
風の力で逃げているといっても、もしアレが本当にスンラなのだとしたら、逃げ切れる保証なんて無い。……多分、どこかで追い付かれてしまうだろう。
けど、それでもっ。
必ず逃がしてみせる。
絶対に勇者を、殺させはしないっ。
遠く背後で、赤黒い魔力を孕んだ土柱が立つ。
それはまるで、僕の悲壮な覚悟を弱者の足掻きと嘲笑うかのように、遥かなる高みから見下ろしているようだった。
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