第四章・王を宿す者《タチガミ・イチジ》~ICHIJI‘S view③~


 ブブブ……ブブブ……


 俺と獣。

 

 双方の体をザクザクと突き刺した黒い十字架。


 身震いでもしているかのように時折その像がブレるけれど、存在感という面においてはまったく揺らぐことなく俺たちの体を貫いている。

 

 コツ、コツ、コツ……


 ……動けない。

 

 体どころか指先一つ、皮一つ動かすことができない。

 

 辛うじて首から上の自由は利くようだし、視力をはじめ、各五感は正常通りに働いている。


 コツ、コツ、コツ……


 だからこそ、耳にはこちらに迫りくるヒールが鳴らす硬質な音が聞こえ。

 

 目にはそんな風に居丈高に床を踏み歩くのに相応しいしかめっ面が映り。

 

 肌には彼女が放つピリピリと静かにたぎる怒りの空気が感じられた。


 コツ、コツ、コツ……ピタッ……


 俺の目の前で止まる彼女。

 

 本当に真ん前。

 

 さきほど俺の傷を癒してくれようとした時のように、互いに触れようと思えばすぐに触れられるような至近距離。

 

 「えっと……」

 

 「…………」


 「やぁ、さっきぶり、アン……」

 

 「バカッ!!」


 パァァァァンンン!!


 確かに彼女がこちらに伸ばした手は、簡単に俺の頬に触れた。

 

 一連の戦いの中で槍や爪なんかが掠めた小さな切り傷。

 

 魔力の渦が巻きあげた瓦礫や小石、木片などで知らずについた小さな小さなかすり傷。

 

 そんな小さくとも無数についたなどお構いなしに、アンナベルは思い切り俺をはたいた。

 

 さすがは武の心得を持つ騎士。

 

 インパクトの角度にしても力の入れ具合にしても、実にキレイな振り抜き。

 

 俺の頬を強かに打った彼女の手の平は、あれほど彼女自身が固執していた呼び方である『アンナ』という名前でさえ最後まで言わせてはくれなかった。

 

 「……バカ……」

 

 ……痛かった。

  ……叩かれた頬よりも。

   ……切り刻まれた全身の傷よりも。


 「本当に……本当に……バカじゃないですか……」

 

 俺以上に痛みを抱いているかのような切なげなアンナの顔が。

 

 俺にはどんな身体的な痛みよりも痛かった。

 

 「……あなたは……本当に……あなたはどうして……」



 フワリ……


 アンナの手が、また俺の頬に触れる。


 治癒のためや、怒りに任せて振るわれたものではなく。

 優しさや温もりを帯びた慈しみのためでもなく。


 小刻みな震えと、信じられないくらいに冷え切った彼女の体温を俺へと伝えてくる、ただとても物悲しいだけの接触だった。


 「どうして……どうしてわかってくれないのですか?」


 そして、そんな手の平の調子と同じように震える、か細い声で彼女は言う。


 「…………」


 「なんで自分が傷つくのが前提のことばかり思いつくのですか?なんでそんなに自分を大切にできないんですか?……」


 「…………」


 「さきほど言ったばかりじゃないですか。あなたが傷つくと、それだけでより傷ついてしまう女がいるのだと……」


 「……ごめん」


 「生き方を変えられない。俺はこういう奴なんだ。……そう臆面もなく言ってのけるあなたが、誰かの助けを待つ?ただ時間を稼ぐ?そんなわけないじゃないですか。私をそんな陳腐な虚言でだませるほど単純な女だと思っていたんですか?ナメないでください」


 「……ごめん」


 「私やココさん、そしてあの青年を守るため、自分がどうなろうとも知ったことではない。……お優しいことです。なんて美しい自己犠牲なんでしょう。今までの人生でも、あなたはそうやって周りの色々な人やモノを大事に、大切に守ってきたのでしょう。……はい、あくまであなた以外の……あなた自身が含まれることのない、周りを……」


 「……いや、でも、それは……」


 「しかしです」

 

 俺の言い訳を、彼女はバッサリと切り捨てる。


 「おそらく誰も言ってこなかったのでしょう。姫様だって近いことは仰ったのかもしれませんが、ハッキリとは指摘しなかったのでしょう。……ですので、私が言ってあげます。……あなたのそれは、優しさではありません」


 俺の生き方を、彼女はキッパリと否定する。


 「…………」


 「はい、優しさではありません。決して優しさになどなりようもありません。そんなキレイなものじゃありません。そんな尊いものでは絶対にありません。……守ろうとした者、大切にしようとした者……それらをより深く傷つけ、誰よりも痛めつけ、壊してしまいかねないあなたのそれは……タチガミ・イチジのその生きざまは……」


 ポス……


 「……あなたの自己満足……単なる傲慢でしかないんです」

 

 「……っ……」

 

 ……痛い。

  ……とても痛い。

 

 「……なんですか……そのは。なに悪化させているんですか。……私と同じ……私とお揃いの黒目はどこにいったんですか……」

 

 静かに俺の胸へと力なく寄せた彼女の額。

 

 もちろん、俺の安い挑発にのった時のような勢いなどなかった。

 

 とても静かに、とても弱弱しく。

 

 触れているのかいないのかわからないくらいの優しい衝撃。

 

 ……しかし、その柔らかさが痛かった。

 

 心を締め上げたあの切ない表情は隠されたというのに、この痛烈な痛みはどうしてだ?

 

 アルルよりも少しだけ背が高く、よりほっそりとした体つき。

 リリーやココと比べると、身体的にも精神的にもだいぶ大人びて見える佇まい。

 

 かつての親友であり盟友であった。

 

 姉とはまた違った角度から俺を安心させてくれた大切な女。

 

 ……改めて思う。

 

 アンナとパク。

 

 本当に彼女たちは似ている。

 

 まだらにくすんだ金髪と、濡れ羽色の黒髪。

 複雑に色が混じり合った黒い瞳と、混じりけのない黒い瞳。

 

 名前、立場、生い立ち、生きる世界。

 

 そんな細々とした差異などどうでもよくなるくらい。

 

 アンナベル=ベルベットと。

 

 パク・クライネル・アーバンハイト・キリザキは似ている。

 

 外見だけではなく、その整然とした魂そのものが似ている。

 

 「……それでもあなたはわかってくれないのでしょうね……」

 

 しかし、これは見たことがない。

 

 こんなものは知らない。

 

 こんな彼女の表情など……。

 

 「だったら……こちらにも考えがあります……」

 

 ゆっくりと上げた顔に張り付いているこんな沈痛な表情など、パクは俺に一度も見せたことはなかった。

 

 「なに……を……」

 

 ……いや。

 

 見せたことがないんじゃない。

 

 たぶん、きっと、おそらく。

 

 パクは何度もこんな顔をしていたのかもしれない。

 

 ただそれに。

 

 俺の方で気づけなかっただけなのかもしれない。

 

 『振り返るのは罪と罰……』

 

 俺の問いかけに答えず、アンナはおもむろに言葉を紡ぐ。

 

 『背負った業を下すにはあなたはあまりに罪深く、あなたはあまりに思慮深い……』

 

 違う。

 言葉じゃない。

 単なる言葉の羅列じゃない。


 『戒め、償い、許しを乞うには、どんな罰でも適わない、禊ぎの願いは叶わない……』

 

 これは、詠唱。

 ≪マホウの世界≫の真骨頂。

 

 内省的でも個人的でもない。

 外へ外へと吐き出され、具現化される物語。


 『ならばわたしも背負いましょう。戒め、償い、許しを乞うて頭を垂らし、わたしも共にいきましょう』

 

 自分の罪にも気づけずに。

 守るつもりが傷つけて。

 

 そんな愚かな咎人を。

 死ですら洗い流せない歪んだ性根を。

 

 優しく諭し、厳しく罰してくれる。

 

 そんな、対等な存在からの叱責や叱咤のような魔術詠唱。

 

 ……それが今……。


 ヒュイィィィンン……


『束縛の南十字・≪サザンクロス・シェイド≫!!!!』



 ズバァキィィィィィィンンンンンン!!!!



 さらに大きく、より神々しい。

 まさに南十字星を彷彿とさせる四つの点を繋いでできた十字架が。


 俺の全身を貫き、そのまま地面へと縫い付ける。


 「ぐっ!」


 「もはや顔すら動かせないでしょ?」


 「く……なんで……こんなこと……」


 今度の束縛は、言葉すらまともに出せないほどシビアな締め付けのようで、俺はそんな途切れ途切れにしか不平を訴えられない。


 「これが≪影縫い≫の極点です。この十字の束縛からは何人たりとも逃れられません。……それがどんなに自分が罪深い人間か理解していないような愚か者であればなおのこと」

 

 「やめ……」

 

 「私がやめてと言ったのにやめなかったくせに、どの口が言うんでしょう?……この……口ですかね?」



 チュ……



 「姫様には内緒ですからね♡」

 

 唐突に重ねられる唇。

 動かすことはできずとも、感覚だけは健在な唇。

 

 そこに柔らかな残滓を刻んだまま、アンナは俺から身を離す。


 その彼女の顔にはもう、悲しみは浮かんでいない。

 それはもう、俺の知らない顔じゃない。

 

 「あなたは黙って……」


 ―― あなたは黙って…… ――


 

           「「そこで見ていてください」」


 

 悪戯っぽいその笑み、その仕草、その覚悟。

 いつか聞いたことのある言葉を最後に俺に背を向けた時のその顔は……。


 パクが最後に残し、そしていつまでも脳裏にこびりついて離れないそれと。


 やっぱり瓜二つのものだった。

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