13/Nightmare like a joke《2》

 目の前で澪が死んだ。

 人が死ぬ現場なんて幾度となく見てきたはずだ。だが身近な人間である澪の死という事実は、公龍のあらゆる思考を停止させるのに十分だった。

 澪の虚ろな目が公龍を覗き込んでいる。髪の毛を掴まれているせいで視線を逸らすこともできない。腫れ上がった顔で、血塗れの身体で、澪が公龍を見ている。

 どうして助けてくれなかったのか――澪の死に顔は公龍に向かってそう言っているようだった。

 どうして助けられなかったのか――公龍にもそんなことは分からなかった。

 きっと助けられる気がしていた。いや、助けるだけの自信があった。これまでだって幾度となく絶体絶命と思えるような窮地を乗り切ってきた。だから今回だってきっと何とかなる――そんな淡い展望はフェンディの悪意の前に踏み躙られ、見るも無残に散ったのだ。

 全て自分のせいだった。公龍は間違えた。何をどこで間違えたのかも分からないほど決定的かつ致命的に。だからこそこの不条理は降りかかった。能力不足が招いた罰だった。


ァァッ!」


 雄叫びを上げた澪が公龍を掴む腕を振るい、公龍を背後の壁に叩きつける。後頭部に強い衝撃。壁が砕ける。脳が揺れ、血で赤くなっている視界が揺れた。


「澪ちゃん、やめてくれ……」


 公龍は震える声で情けない言葉を吐く。もちろんそんな言葉は彼女に届くことはなく、澪は掴んだ公龍を罅割れた壁に押し付ける。後頭部に感じたぬるりとした感触は、流れ出した血だろう。熱いような冷たいような、奇妙な感覚だった。


「随分、あっさりと、折れる、のね。ふふふ」


 フェンディが澪の隣りへと歩み寄る。呆然としたままの公龍の頬を撫で、耳を舐めた。フェンディの舌はそのまま公龍の額を這い、流れる血を舐っていく。公龍の四肢には血の蛇が絡みついていた。


「ほら、九重……、もっと、抗って、みせな、さい?」


 フェンディは嗤っている。それに釣られて、公龍の口元も自嘲的に綻んだ。


「公龍っ!」


 アルビスの声が響くと同時、銃声が劈いた。放たれた銃弾はフェンディと澪の背後を覆った血の盾が防御。アルビスは拳銃を握っていたのとは反対の手で回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターを握り、立て続けに引き金を引く。

 打ち込んだのは鈍色ガンメタル深緑色エバーグリーン、二つのアンプル。筋繊維の膨張とアドレナリンの過剰分泌によって腹の上に圧し掛かっていた血の槌を力任せに押し退ける。アルビスは背筋力で跳ね起きると、すぐさまフェンディへ向けて踏み込み、掌打を放った。

 金属同士で殴り合うような打撃音。血の盾はアルビスの攻撃に反応し、その表面に鋭利な突起を形成する。アルビスは身体を裂かれながら、数歩後退して叫んだ。


「公龍! 貴様はやはり腑抜けたな。目的は何だ? クロエが待っているんだろう!」


 フェンディは振り返り、手にしていた長剣でアルビスに斬りかかる。アルビスは身を切って左側に回避。フェンディの側面に上手く回り込んだのも束の間、蛇が転じた槌が回避先に襲い掛かる。

 アルビスは強引に重心を落としてバク転。殺到する槌を躱しながら、起き上がった瞬間に拳銃の引き金を引く。

 撃発音。銃弾は槌に当たって火花を散らす。しかしこれは陽動。アルビスは既に切り返し、フェンディに迫っている。フェンディが握る長剣が波打ち、ナックルガードに変貌して両拳を覆う。アルビスが繰り出した縦拳を獰猛な笑みとともに掻い潜り、カウンターのアッパーカットを放つ。

 フェンディの打撃はアルビスの顎を痛打。よろめいたアルビスはほんの一瞬白目を剥き、その場に膝をつく。追撃の前蹴りがアルビスの顔面を踏み抜き、吹き飛んだアルビスは解剖台に激突する。

 フェンディは舌なめずりしながら首を鳴らし、後ろの公龍を見やった。


「次は、大好き、な、相棒が殺され、るのを、楽しんで、ね」

「やめろ……」


 公龍の悲痛な声を味わうように聴き入るフェンディは、肩を回して拳を構える。そしてふらふらと立ち上がったアルビスに、容赦なく詰め寄っていく。

 剃刀を振るったような鋭利なフック。スウェイで回避を試みたアルビスの頬に掠り、抉られたように血が舞った。

 アルビスの反撃。縦拳で反撃を牽制しつつ、円を描くような歩法でフェンディの側面へと回り込む。しかし掌打や蹴りを放つころにはフェンディは正対していて、アルビスの打撃は全て躱すか払われるかして徒労に終わる。


「悪いな。あの腑抜けに相棒が死ぬところは見せてやれそうにないぞ」

「どう、かしらね……っ!」


 フェンディがバックステップで距離を取る。間合いを詰めようとしたアルビスの元へ槌が殺到。アルビスは後退を余儀なくされ、解剖台などの遮蔽物を使って槌の襲撃をやり過ごす。

 飛来する槌は解剖室の壁を削りながらアルビスの背後へと回り込む。アルビスは低く駆け出し、照準を攪乱。紙一重で槌の応酬を凌ぎつつ、フェンディに詰め寄った。


「はぁっ!」


 繰り出した掌打は円形に浮かんだ盾で防がれる。次の瞬間には正円が三日月のように欠け、ナックルガードをまとったフェンディの拳が飛び出してくる。アルビスは折り畳んだ腕で防御。辛うじて繋がり始めたばかりの腕の骨は粉微塵に砕け、アルビスは靴底で床を擦って後退する。


   †


 アルビスは回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターを抜いて鉄灰色アイアングレーのアンプルを投与――急場しのぎの回復を図る。対するフェンディも回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターを取り出し、胸の谷間にある医薬機孔メディホールに差し込んで引き金を引く。その表情には相変わらず余裕を醸す微笑が浮かび、どんな苦痛を与えて復讐を遂げようかと思案していることが伺えた。

 一方のアルビスはとっくに満身創痍。廃病院での莇たちとの戦いからウォン・ファーガソンとの死闘と、休まるタイミングが一切ない。その上、汐による超常的な手術を受けることもできないとなれば心身の摩耗は既に看過できないレベルにまで達している。

 だが思考だけはクリアだった。この場を切り抜けるため――それはつまり、フェンディ・ステラビッチを倒すため、出来得る最大限の手段を講じていた。

 フェンディの圧倒的な強さの要素の一つとして、この無尽蔵な血液による攻撃がある。

 本来ならば約三分の一の失血で死に至るはずの血液を彼女がこうして無尽蔵に使い、攻撃を加えてくることを可能にしているカラクリはいたって単純だ。フェンディは予め赤色系統の特殊調合薬カクテルを投与した血液を採血しておき、その輸血パックを用いて攻撃を仕掛けてきている。これによって自らの血液量以上の血を使った圧倒的な攻撃を可能としているわけだが、付け入る隙がないわけではない。

 というのも、特殊調合薬の効果は時間の経過とともに弱まっていく。つまり持久戦に持ち込めば体外の血液は特殊調合薬カクテルの効果を補充することができなくなり、いずれはただの血へと戻っていく。その証拠に、最初フェンディの周囲でとぐろを巻いて躍っていた蛇の何匹かは既に血液へと還っている。

 あと少しでフェンディの体外血液は底を尽く。

 アルビスに、あるいはアルビスたちに、勝機があるとすればそこだった。

 問題は公龍だ。四肢を血の蛇に拘束され、ゾンビ化した澪に頭を抑えつけられた公龍は、抵抗する素振りさえ見せずにただ壁に押し付けられている。奴が正気を取り戻さない限り、アルビスは単独で戦わなければならないが、今の満身創痍の身体を引き摺ってフェンディを倒すのは冷静に見積もってもかなり分が悪い。


「さ、お楽、しみは、まだまだ、これ、から、よ」

「楽しんでいられるのも今のうちだ」


 フェンディが指揮者のように腕を振るう。八方から血の蛇が殺到。アルビスは後ろに跳んで襲撃を回避し、それでも迫った蛇を手刀で叩き伏せていく。


「ふふふっ、その、調子よ」


 蛇は無数の刃へと変化。フェンディの微笑に背中を押されるように飛来する。アルビスは横に跳んで地面を転がりながら回避。背にしていた壁に刃が突き立てられる。

 すぐに体勢を整え、低く疾駆。刃を置き去りにしながら回り込み、壁を蹴って方向転換――解剖台を足場にしてフェンディに向けて飛びかかる。繰り出した旋風脚はフェンディが飛び退いて躱される。アルビスは着地と同時に畳みかけた。

 繰り出す掌打は掲げた腕で防がれる。手首を掴まれたアルビスは身体を引き倒されるが、バランスを逸しながらも宙で一回転。フェンディの手を振り解き、着地と同時にフェンディの足を蹴り払う。だがフェンディはこれも動物的な勘で跳躍して回避。ナックルガードが再び長剣へとかたちを変え、アルビスに向けて振り下ろされる。

 アルビスは咄嗟の反応で拳銃を頭上に掲げる。振り下ろされた長剣と打ち結び、銃身の中ほどにまで血の刃が食い込んだ。


「いい、反応、ね」


 フェンディは薄い唇を愉楽に歪める。相変わらずの余裕だが、この肉薄した間合いでのそれは単なる油断に等しいと言えた。

 アルビスは立ち上がると同時に銃を捨て、フェンディの懐へと踏み込んだ。体重の乗り切った完璧な掌底。回避不能な一撃が、フェンディの鳩尾を穿った。

 フェンディは長剣の柄から手を離して後ろに飛び退きながら衝撃を減衰。空中で不用意に身を翻す。

 アルビスがその意味を悟ったときにはもう遅かった。

 フェンディの身体の影から巨大な血の槍が飛び出してきて、アルビスへと襲い掛かる。ほとんど反応すらできなかったアルビスはその槍に腹を貫かれ、勢いのまま背後に吹き飛ぶ。槍もろとも背後の壁に縫い止められ、遅れてやってきた激痛に喘ぐ。アルビスは内臓から喉を通って込み上げた血を吐いた。


「惜し、かった、わね」


 フェンディの鳩尾には掌大の硬化した血が張り付いていて、間もなくそれがぼろぼろと床に崩れ落ちる。アルビスが放った渾身の一撃は大したダメージを与えることもできずに阻まれていた。

 槍が突き立ったアルビスの腹に赤い滲みが広がっていく。あっという間にシャツとスーツが血色に染め上げられていく様は、アルビスがフェンディの暴虐に呑み込まれていく様を象徴していた。


「もう、終わり……かしら、ね」


 フェンディが残念そうに息を吐く。なんとか腹の槍を引き抜こうとアルビスは藻掻くが、壁に深く突き立ったそれはびくともしなかった。

 数メートルほど右側には澪に抑え込まれたままの公龍がいる。その目は変わり果てた澪の姿だけをじっと映していて、アルビスが掛ける声に気づく様子もない。


「公龍……っ」


 掠れた声を絞り出す。フェンディの邪悪な笑い声がその声に重なった。


「そう、ね。ちゃんと、見せて、あげなくっちゃ、ね。相棒さんが、無様に死んで、いくところ」


 澪が公龍の顔の向きを強引に変えさせる。ようやくアルビスへと向いた公龍は、呆けた顔で呟いた。


「アルビス……?」

「貴様、いい身分だな……。絶望に、酔って、悲劇の主人公、気取りか」

「だって、俺の、……俺のせいで……」


 公龍が声を震わせる。油断してしまえば今にも砕け散ってしまいそうな表情だった。


「澪ちゃん、が、俺のせいで……」

「甘ったれるなっ!」


 アルビスは血とともに大声を吐く。定まっていなかった公龍の焦点が合い、目の前のアルビスを真っ直ぐに写した。


「公龍。ミス・アスカが死んだのは、確かにの力不足だ。だが立ち止まっている暇があるのか? ただ悲しむのは、全てが終わった後、生き残った者だけが得られる特権なんだ。そうでない者は皆、怒りや憎しみの入り混じる絶望さえ糧にして、前に進まなくてはならない」

「ふふ、何を言っても、無駄、よ。折れた、心は、そう簡単に、元には、戻らない、の」


 フェンディが槍の柄を握る。傷口を広げるように、槍を捻じりながら押し込む。傷口からは泡立った血が溢れた。

 アルビスは激痛を押し殺して吼える。それはたとえ道を違っても決して揺らぐことのない信頼の発露で、あるいは自分には持てなかった高潔で強靭な公龍の精神こころへの憧憬でもあった。


「公龍! まだ私たちは、終わってなどいないはずだ!」


 アルビスはその叫びに願いを込め、回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターを抜く。そしてその尖端を、

 流し込んだ鉄灰色アイアングレーのアンプルは、二度と使うまいと決めていた捨て身の一手。だが安心して背中を預けることのできる相棒がいるのならば、最大の切り札になりうる。

 ――腑抜けたのは一体どちらだ。私もつくづく甘いな。

 声には出さなかった呟きを最後に、アルビスの意識は千切って捨てたように吹き飛んだ。

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