09/The iron intestines《3》

 震災の暗黒期の都市で猛威を振るったRsウイルス。その正体は日米が共同開発したウイルス兵器だったというのは、正直あまりに荒唐無稽な話だ。多少具体的とは言え、散々まことしやかに囁かれながら何一つとして根拠のなかった陰謀論に過ぎない。

 鼻で笑って否定してしまえばいい。だがあの日に見たキリノエの必死な表情が、あるいは額を撃ち抜かれた死に顔の無念が、またあるいは今目の前にいるCIAエージェントだという女の存在が、安易に否定することこそ愚かなのだと嗤っていた。


「一ついいか?」


 公龍はジーンに向けて言った。ジーンは目線を向けて小さく頷き、発話を促す。


「キリノエは、俺に接触してきたとき、Rsウイルスの陰謀論を匂わせた。俺にあんたが言う事実を伝えようとした。それってつまりよ、キリノエはあんたらホワイトハウスを裏切ったことになるんじゃねえのか?」


 部屋の空気はにわかに冷え込んでいった。PCの駆動音とゆっくりと回転するファンの風切り音が響いていた。

 あの日のキリノエの接触に一体どんな意図があったのかは分からない。自分が葬り去るよう言い含められた事実の重さに耐えかねたのか、あるいは倫理観や良心、正義の発露としての行動選択だったのか。もはや死人に語るための口はなく、事実を知る術は存在しない。

 だがもし公龍にRsウイルスを巡る陰謀を告げることでその告発を試みたというのならば、キリノエは日米の両政府にとって不都合な存在となるのは間違いない。


「残念だけど、プロフェッサー・キリノエを殺したのも、貴方に罪を被せたのも、私たちではないわよ。クリュウ・ココノエ」


 張り詰める空気の奥で生じた疑念に先んじて、ジーンが言った。もちろん公龍も、まだ出会ったばかりで得体の知れないジーンの発言を鵜呑みにできるほどお人好しではない。彼女の発言の、いや公龍たちの目の前に現れてからの一挙手一投足の全てを判断材料にして、その真意を探る。


「誰が黒幕か知っている口振りだな」


 牽制するように言ったのはアルビス。しかしジーンは首を横に振り、公龍へと歩み寄る。


「知らないわよ。それに興味もない。ただクリュウ・ココノエが犯人ではないということだけは知っている。もちろん貴方が濡れ衣によって裁かれようと、それすらも興味がないけどね」


 ジーンは人差し指で公龍の胸を撫でる。妙に色っぽくて扇情的な所作に公龍は鼻の下を伸ばしかける。きっと女性エージェントというやつはハニートラップ的なことを仕掛けたりもするのだろう。そう思い直して、公龍は表情を険しくした。


「私たちの目的はプロフェッサー・キリノエが持っていたはずのデータだけ。もちろんこの記録端末メモリもその一つ」


 いつの間にか、ジェーンの手のなかにはペンダント型の記録端末メモリが握られている。外付けのハードディスクから抜きとられたらしく、パパスが喉の奥で小さく声を上げる。

 ジーンは流れるような動作で拳銃を抜くと、引き金を引いた。放たれた弾丸は手の上で放られた記録端末メモリを撃ち抜く。公龍もアルビスも、まさに一瞬のうちに起きた出来事に反応できなかった。


「てめえっ!」


 公龍は胸座を掴み上げる。ジーンは落ち着き払った様子で公龍を見上げ、そして公龍の腹へと銃口を据える。


記録端末メモリを無事に確保してくれていた分のサービスはしてあげたじゃない。マカクザルの実験映像を見たでしょ。情報だって話した。これ以上はやりすぎトゥーマッチよ」

「クソが……」


 公龍は奥歯で噛み潰したような声を漏らし、ジーンから手を離す。拳銃を収めたジーンが乱れた襟を整えていると、彼女に向けてアルビスが言った。


「女、一つだけ聞かせろ。キリノエは一体どこから、あの映像を入手してきたんだ?」


 ジーンの表情が僅かに逡巡するのを、公龍は見逃さない。それはアルビスも感じ取ったものらしく、畳みかけるように言葉を重ねた。


「ソースも分からない情報を、わざわざリスクを冒してまで消しに来たのか? それに、どうして《東都》なんだ? この国の政府は現在、京都に移っている。Rsウイルスのパンデミックの起点は確かにここだが、それが日米政府の共同開発によるものだというならば、その証拠を握っているのは京都にいる政府の連中だろう」

「言ったでしょ。だって。派遣されたエージェントは私一人では――」

「エージェントの話ではない。キリノエの話だ」


 束の間の静寂。やがてジーンは深く溜息を吐く。いくら拳銃を駆使しようとこの場を力づくで切り抜けることはできないと判断したのだろう。


「ウイルス兵器の開発は同時並行でワクチン開発も進められるのが基本なの。当然よね。ばら撒くだけの兵器では外交手段でも何でもなく、ただの殺戮手段になってしまうもの。まあ、貴方たちのお隣の大国は、それを理解できていなかったからああなったわけなのだけど」

「余計な話はいい。質問に答えろ」

「せっかくルックスはいいのに、そんなんじゃモテないわよ?」

「聞こえなかったのか?」


 ジーンは呆れたように首を振り、公龍へと視線を移す。

 残念なことにアルビスは楽しいジョークに会話を弾ませるような人間ではない。公龍は諦めろという意味を込めて苦い笑いに口元を歪めた。


「……言った通り、ウイルス開発にはワクチン開発が付きものなの。ウイルス開発は日米の両政府が選抜した学者や研究者と、米国のある大手製薬会社が中心となって行ったわ。そしてワクチン開発の椅子は極秘裏に競売に掛けられた。そしてそれを獲得したのが、当時はまだ日本国内では無名だった中堅の製薬会社」

「《リンドウ・アークス》か」


 ジーンが濁した答えをアルビスが口にする。

 だが考えるまでもないことだ。《東都》は感染症への対策にいち早く動いた《リンドウ・アークス》がいたからこそ今の繁栄を手に入れた。もしジーンの言う通りRsウイルスが兵器として開発されたもので、同時にワクチンが作られていたとすれば早すぎる対応とRsウイルスの収束にも合理的な説明がついた。


「それが最初の質問への解答よ、アルビス・アーベント。プロフェッサー・キリノエは一月前の定時報告で、と言っていたわ。名前はその協力者の身の安全ために言えないともね」


 ジーンは言って、胸ポケットから取り出して咥えた煙草に火を点けた。吐き出した煙は公龍たちが直面し続ける現状の閉塞感を嘲笑うように、いつまでもその場に漂い続けて空気を淀ませる。


「そろそろもう本当にいいかしら? 知ってると思うけど、忙しいのよ私」


 ジーンは二口だけ吸った煙草を地面に捨て、靴底で踏んで火を揉み消す。しかし立ち去ろうとしたジーンを、意外にもパパスが呼び止めた。


「エージェントの姐さん。あんた、自分らは一人じゃないと言ってやしたが、もしかしてここにもお仲間と一緒に来てるんですかい?」

「いいえ。ここへは一人よ」


 パパスの問いに、ジーンは眉を顰める。公龍たちも質問の意図が分からず、首を傾げた。パパスはゆっくりと立ち上がり、モニターが映しているカメラの映像を指差した。


「でしたら今は出ないほうがいいですぜ。どうやら面倒そうなお客さんが来ていやす。くかかっ」


 パパスに指差された映像はこの娯楽施設のなかを映していた。ついさっき公龍たちが通ってきたクレーンゲームの並びを歩く影が二つ。一人は執事のような闇色の燕尾服に身を包んだ白髪の男。もう一方は露出した上半身に針を生やした異形。


「な……」


 驚愕したのはアルビスだった。かつて死力を尽くして相対し、共に散っていたはずの男たちが二人、肩を並べて歩いているのだから当然だった。

 竜藤統郎の護衛兼秘書にして赤系統の特殊調合薬カクテルの使い手であったウォン・ファーガソン。そして公龍たちを苦しめ、戦闘能力は随一だとターンに言わしめた全身針人間――スラスト=トラスト。

 公龍もスラストの死は知るところなので、事態を把握するまでに時間は掛からなかった。

 死者が唯一手に入れることのできる安らかな眠りさえ愚弄してみせる、その所業が意味することはたった一つ。

 フェンディ・ステラビッチの再襲来――。

 全身から噴き出す嫌な汗を感じつつ、公龍とアルビスはゆっくりと息を吐いた。


   †


 腕時計型端末コミュレットの振動が伝える着信を、竜藤連地りんどうれんじは受話する。

 通信相手は匿名アノニマス。だが誰からの通信かは分かっている。むしろちょうどそろそろ連絡が来るころだろうと思っていたところだ。


「こんばんは」


 無言の通信相手に声を掛け、シートの背もたれに身体を預ける。自動運転で動いている車の運転席には秘書の山寺が座っているが、そこは流石というべきか、聞き耳を立てる素振りはない。静火からあてがわれた人材なだけあって優秀なのだろう。勝手に左右へと動いているハンドルをじっと眺めている様子は、彼女が生き物であることすらうっかりと忘れさせる。

 連地は通信の相手に再び意識を戻した。


「プレゼントは受け取っていただけたかな?」

『ふふっ。貴方、も、悪趣味よ、ね』


 相手は表情や思考の読みづらい声で言うが、少なくとも気を悪くしているということはなさそうだった。

 魔女を扱いこなすことは決して容易ではない。油断すれば寝首をかかれるのはこちらになりかねない。だが静火はこの《東都》と竜藤の一族に訪れた重要な局面を、他の誰でもなく連地に任せた。その期待と信頼に、連地は応える必要がある。

 それに、九重公龍が指名手配犯であるアルビス・アーベントと合流したことも、まるで天が連地の味方をしているとしか思えない僥倖だった。

 同じ妾の子でありながらその才覚故に優遇されていたアルビスは、まだ幼い連地に強烈なコンプレックスを植え付けた。だからこそここで、この高みからあの男が地を這うのを眺め、復讐を果たす必要がある。

 とは言え連地は、そんな黒く淀んだ内心をおくびにも出さずに魔女との会話を続けていた。万が一にも、こちらの都合を悟られるわけにはいかない。かつて《東都》を震撼させた〝氷血の魔女〟は、今はただの手足でなければならない。


「そうかな? どちらも選りすぐりの品々だと自負しているんだが」

『悪くは、ないわよ。おたくで、安置されていただけ、あって、保存状態、は、完璧に近い、もの』

「それならいい。やはり女王には傅く家来が必要だろう」

『ふふふ……、そう、ね』


 楽しげに笑う魔女をよそに、連地は贈り物の顔を思い浮かべる。

 ウォン・ファーガソンにスラスト=トラスト。どちらも死後、第一部門ファーストラボにて検体として安置されていたものだ。神楽には大きな借りを作ることになってしまったが、連地のバックには静火がいる。九重公龍の一件が無事に片付いた暁には、そんな借りをいちいち気にすることもなくなるだろう。


「分かっているとは思うが、何もお近づきのしるしとか、友好を深めようとか、そういうことのために贈り物をしたわけではない」


 こうして戦力おもちゃを与えたのだ。この事態を一刻も早く収拾してもらわなければ困る。


「遊びは終わりにして、さっさと片付けてくれ」

『分かってる、わ。もう、少し、で、いい報告、できるわよ。楽しみ、に、してると、いい、わ』

「そうか。期待している」


 ――このイカれた売女ばいたが。

 連地は悪態を呑み込み、通信を切る。

 車はホログラムと電灯に彩られた都市のジャングルを縫うように、一定の速度で走っていく。

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