09/The iron intestines《2》
公龍は間抜けにも両手を挙げながら、突如として生じた状況に困惑していた。
目の前で銃を構えているこの女は一体何者だ。ここにいるということはつけられていたということになるのだろうが、アルビスに限ってそんな凡ミスを犯すとは思えない。つまり公龍たちの落ち度ではなく、この女の手腕ということになる。
《リンドウ・アークス》の人間――ではないだろう。息のかかった解薬士であれば必ず二人組であるはずだし、
「手を頭に置いて、膝をついて」
女は鋭い声と表情で言う。流暢な日本語だった。パパスがそれに真っ先に従い、公龍とアルビスも後に続く。もちろん公龍たちは形勢逆転の機会を虎視眈々と伺っている。
「あんた
公龍が口を開く。女は砂色の目を眇めて公龍を睨む。冷たさや敵意こそ強くは感じられないが、まるで魔に魅入られたような気分になる不思議な力の籠った眼差しだった。
「どうしてここが分かった? つけてたのか?」
公龍は質問を続ける。女はこちらが妙な動きを見せた瞬間に引き金を引く気構えでいることが、その佇まいからなんとなく伺える。銃の扱いに長け、放った礫で命を奪うことになろうとも躊躇いはない。しかし無暗に事を荒立てる様子は感じられない。つまり敵ではない。だとすれば意味のある会話は有効なはずだった。
その証拠に、女はしばらく値踏みするようにこちらを眺めたあと、ジャケットの内ポケットから手帳を取り出した。女の名前はジーン・ハリス。だが名前よりも先に目に入るのは翼を広げた金色の鷲。そのすぐ下には
「……なぜCIAが出てくる」
剣呑な声音で呟いたのはアルビスだった。もちろんそれについては公龍も全く同じ疑問を抱いていた。そしてふと、キリノエがアメリカ出身の学者であることを思い出す。
「俺じゃねえぞ」
公龍はブロンド女――ジーンに向けて言う。その瞬間、これまで三人に対して平等に向けられていた注意がほんの僅かに公龍へと傾いた。
「それを確かめに来た」
その一瞬をアルビスは見逃さなかった。上半身を前に倒しながら重心移動でつんのめるように立ち上がり地面を蹴る。ジーンはバックステップで通路の奥へと後退しながら突っ込んでくるアルビスへと銃口を向け、迷うことなく引き金を引いた。
暗闇が銃火で照らされ、銃声が響く。低い姿勢で身を捻ったアルビスに銃弾は当たらず、壊れた自販機で跳弾――火花が散る。アルビスはたった二歩でジーンへと肉薄。跳ね上げた手刀で拳銃を持つ腕を払いのけ、突進の勢いそのまま下っ腹へと肘打ちを見舞う。
ジーンは転倒。背中から床に叩きつけられ、食いしばった歯の隙間からか細い呻き声を漏らす。アルビスは馬乗りになって抑え込もうと試みるが、ジーンは完全に圧し掛かられる前に身体を捩りアルビスを押しのけて立ち上がる。アルビスは床で一回転して立ち上がりながら拳銃を抜いた。互いの銃口が交錯。張り詰めた空気が凝固したように、二人の動きがぴたりと静止する。
「形勢逆転だな。エージェントさんよ」
アルビスと銃口を向け合うジーンの側頭には、公龍のグロック拳銃が突きつけられていた。ジーンは深く溜息を吐き、手のなかで拳銃を回して銃口をアルビスから外すとそれを腰にぶら下がるホルスターへと収めた。
「試すような真似をしたことを謝罪するわ。どうしても確認したいことがあったの」
両手を頭の後ろへとつけたジーンの態度にやはり敵意は感じられない。おそらく向け合うべきは銃口ではなく言葉なのだろう。公龍は拳銃を収め、最後にアルビスも手にしていた得物を引いた。
「
†
四人はモニタールームへと場所を移していた。
部屋の中心にはジーン。デスクチェアにはパパスが座り、灰皿などを押しのけて作ったデスク上のスペースに公龍が浅く腰掛ける。アルビスは入り口のすぐ近くの壁に寄り掛かりながら、ジーンの説明に耳を傾けていた。
「……てことは、あの
公龍は溜息を吐くように言って、傍らで縮こまっているパパスを睨む。パパスは肩を強張らせつつCIAが特注で作った
「なぜ一介の学者であるキリノエがそんな代物を持っている?」
アルビスの鋭い問いが飛んだ。ジーンは頷き、それに応じる。彼女の口から放たれたのは、既に頭のなかに描いていたいくつかの推論のうち、最悪の想定そのものだった。
「彼……プロフェッサー・キリノエは、ホワイトハウスの命を受けて日本へと渡ったの。あの
「ホワイトハウス? 目的とは何だ?」
アルビスが立て続けに質問を放ち、ジーンは沈黙した。理知を湛える砂色の瞳の奥で、これから喋ることと喋らないことを篩にかけ、あらゆる状況に対して考慮と吟味を繰り返しているようだった。
やがてジーンは意を決したように息を吸う。
くさい演技だ。ある程度の自己裁量は認められているのかもしれないが、一介の
「目的はRsウイルスのパンデミック発生の原因特定」
ジーンの言葉を受けて、公龍たちの頭のなかには揃って疑問符が浮かぶ。その疑問をいち早く言葉に変換したのはアルビス。
「どうしてホワイトハウスがそんなことをする? まさか太平洋の向こうで起きた感染症を警戒しての対策か?」
もちろんその可能性も大いにあるだろう。
二〇一九年の暮れに中国・武漢で発生したウイルス、COVID-19はグローバル化された国際社会のヒトとモノの動きに合わせて瞬く間に世界中に拡散された。各国が空港などに検問を敷いたときには既に遅く、世界中に広がったウイルスは二年以上もの間、猛威を振るい続けたのだ。
だがキリノエが受けた命令が単に感染拡大を警戒してのものであれば、極秘に進められる理由はない。それに既にRsウイルスはワクチンも治療薬も確立されている。つまりウイルスに対する予防策以外に、キリノエに命令が下された理由がある。
束の間の沈黙を破ったのは、モニターに流れ出した映像。タイミングを見計らっていたかのようにパパスが再生させたものだった。
公龍たちは視線をモニターに向けた。ノイズ混じりの粗い映像は暗闇を映している。モニターのなかでは何も起きてこそいないが、妙に張り詰めた嫌な空気が流れていることだけははっきりと感じられた。
やがて映像の中心部分で何かが動く。カメラがズームアップされ、暗闇のなかにその朧げな輪郭が浮かび上がる。
現れたのはサルだった。いわゆるマカクと呼ばれる属のサルで、ニホンザルなどがここに分類される。脳科学などの分野では実験動物といてしばしば用いられてきた霊長類だ。
「様子がおかしいな」
アルビスが指摘した通り、画面のなかのマカクザルは肩で激しい息をしていた。ほとんど無意味な浅い呼吸が繰り返され、表情は虚ろだ。全身を覆う体毛は一目で分かるほどびっしょりと濡れている。映像が白黒なせいで見づらいが、目は血走っていて、だらしなく開いた口からは涎か、あるいはそれに近い液体がだらだらと垂れ流されている。
咳き込んだマカクザルが血を吐いてよろめく。地面に倒れたマカクザルは陸に打ち上げられた魚のように大きく痙攣を繰り返し、やがて動かなくなる。
映像はそこで終わった。
おそらくあのサルは死んだのだろう。見ていて気分のいいものではなかった。だがそれ以上に、映像に映し出されていたサルの症状に、公龍は覚えがあった。
「Rsウイルス感染の症状か」
公龍の言葉を、ジーンは否定しなかった。
従来のウイルスと異なり、Rsウイルスによって引き起こされる症状や身体の異常は個人差などという言葉で片付けられないほど非常に多岐に渡っていた。しかしそのなかでも最も多かったのが四〇度を優に超える異常な発熱だ。上がり過ぎた体温によって呼吸困難や脱水症状などを引き起こし、やがては損傷した内臓から出血するか肺炎になって死に至る。
そうした感染者の三分の一近くが直面したRsウイルスの症状と、映像のマカクザルの状態はよく似ている。
だが気になるのは映像の左下に記された日付だ。
二〇五一年一〇月二二日――震災の約二年前。
Rsウイルスのパンデミックが首都直下地震の影響で壊滅した首都圏の、不衛生な環境下によって加速度的に助長され、脅威的なウイルスの存在が世の中に認知されていったことを鑑みるに、映像の日付は明らかにおかしい。
なぜならこのときはまだ、Rsウイルスは存在しないはずなのだから。
「かつてのCOVID-19を皮切りに起きた無数のパンデミックを受けて、ホワイトハウスは水面下で対抗措置を開発することに計画したわ。しかしそれはジュネーブ議定書を始めとする条約によって開発・保有・使用が包括的に禁止されている。だけど、もはや大っぴらな抑止力として核兵器が機能しなくなった以上、それを保有することは外交上の強いカードになるのも事実。度重なるパンデミックによってかつての覇権国家としての力を失いつつあった合衆国は、同盟国である日本の協力を得て、その開発に着手したのよ」
「待てよ。それじゃあ――」
公龍はジーンの言葉を遮った。
「二一世紀の無数のウイルスは全部どっかの国の陰謀だって言いてえのかっ?」
「全てとは言い切れない。あくまでその可能性があるだけ。テロ組織に流出したものもあるでしょうから国家の仕業とも限らない。いつどこで誰がどうやって使ったかが分からないことが、問題なのよ」
予想の遥か上をいく衝撃に眩暈がした。感染者の五割という脅威の死亡率を誇り、震災に傷つけられた人々を蹂躙したウイルスが明確な意図とともに生み出されたという事実に、吐き気さえ催した。
驚愕。憤怒。猜疑。困惑。混乱――。荒れ狂う波のように押し寄せた感情は公龍の口からそれ以上の言葉を奪い、押し流していった。
ジーンは絶句する公龍を砂色の目で見やり、追い討ちをかけるように話を続けた。
「Rsウイルスに関しては意図的にばら撒かれたものではないというのがホワイトハウスの見方よ。震災という事故によってばら撒かれてしまったウイルス。だけどあの映像を見ての通り、開発していたウイルスとRsウイルスの症状が酷似していることは問題だった」
「だから合衆国が関与した証拠を消し、日本の単なる自滅として事を収めようという腹積もりか」
アルビスの鋭い声がジーンの横顔に突き刺さる。空気は張り詰め、肌の上を焼いていくような感触さえあった。
「悪く言えばそういうことになるわね」
しかしジーンは悪びれる様子も、しおらしくする様子もなく、まるで面白くてたまらない冗談を口にするように肩を竦める。
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