10/The bloody carnival《3》
竜藤統郎はこのノアツリー内部に自らの居住エリアを持っている。それは仕事人間だった父ならではと言えるだろう。幼い頃、よく父の仕事を見学すると言って泊まりに来たのはいい思い出だ。
静火たちがノアツリー七五階の居住エリアに到着すると、父の側近であるウォン・ファーガソンが深々と頭を下げて出迎える。元々表情に乏しい男だが、今だけは険しく歪み、眉間に深い皺を刻んでいる。
「ご苦労」
「いえ、とんでもございません。静火様」
ウォンが扉を開け、静火とルベラは入室。螺旋階段を下りた先には、すっきりした見栄えながらクラシックな
子供の頃はここへ来るたびに気持ちが躍ったものだが、成長した今、感じるものはこれといって何もない。感性が鈍化したのか、あるいはそれこそが歓迎すべき成長なのかは分からない。だがどちらにせよ、父の全てに憧れを抱いていた少年はもういないということだけは確かだった。
広いリビングを横切り、奥の寝室へと向かう。扉を三度ノックすると、入室を許可する太い声が部屋の中から聞こえてくる。前に出ようとしたルベラを制し、静火は扉を開けた。
古めかしく厳かなリビングから一転、視界に飛び込んでくるのは蝋燭の朧げな明かりで浮かび上がる病室じみた光景。天蓋付きのベッドこそ件のアンティークだが、その周囲には心拍数モニターや遠心機など無数の最新機器が備えられ、それらから伸びる管の全てはベッドに座る竜藤統郎へと繋がれていた。
竜藤統郎は老いと病に侵されている。一日のほとんどをこのベッドの上で過ごす他なく、一日に部屋の外で活動できるのは数時間もない。静火が実質的な業務のほとんどを担っているのも、これが理由だった。
もちろん公にされている事実ではない。知っているのは、数名で構成される医療チームを除けば、静火と
「何の用だ」
聞く者を強引に傅かせるような太く威圧的な声。たとえ老いと病に命を蝕まれようと、その声には僅かな衰えの陰りさえ感じさせない。身体中から管さえ伸びていなければ、そこらの健常者よりも遥かに壮健そうにさえ見えた。
「現状起きている件について、お話が」
室内の空気は既に刃のような緊張感に満ちていた。迂闊に口を開けば、たったそれだけで死に至る。そう錯覚させるには十分な圧が統郎を中心にして滲んでいる。
「話せ」
まるで統郎の周囲だけかかる重量が違うかのようだった。
圧し掛かるような圧力のなかでも、静火は平然としていた。それどころか過去を懐かしんですらいた。
竜藤統郎は立ちはだかる壁だった。普通なら子が当然に受けるような親の愛を得ることはなく、ただひたすらに支配者、成功者とは何であるかを叩き込まれた。勉強も、スポーツも、武術も、人脈も、全てで頂点を獲り続けた。
ただ父に褒めてもらいたい。そんな子供心からの努力――ではない。
いずれ父を越える。やがて訪れるその日に向けて、牙を研ぎ澄ますためだった。
静火にとって、父・竜藤統郎は呪いだった。
やがて静火は全てを手に入れた。障害となるものは自ら徹底的に取り除き、覇道と呼べる人生を着実に歩んできた。生れ落ちてから三四年。《東都》の設立から一〇年。ようやくあの竜藤統郎に手が届く地位にまで上り詰めた。
だがどうだ? 上り詰めたはずの景色はただの
いざその手に掴む瞬間が、今目の前にあるというのに静火の感情は全くと言っていいほどに揺らぐことはなかった。
興奮も落胆もない。ただ永遠に続く凪のような虚無のなかに、静火は立っているのだ。
「反抗勢力の狙いは、どうやら貴方です。予定は少し狂いましたが、もちろん大勢に影響はありません。事態は必ずこの私が収拾してみせます」
静火の言葉に、統郎は頷いただけだった。僅かに眇められた眼光は、全てを見透かしているかのようにさえ思えた。その自らの全てを都市の栄華のために捧げ尽くす姿勢に、静火はにわかに畏敬の念を覚えた。
竜藤統郎は呪いだった。だが偉大な男だった。
清濁併せ呑み、多くの悪徳と犠牲を積み上げてきたとしても、《東都》がたった一〇年足らずで築いたこの繁栄を、この男の尽力なしに語ることなど不可能なのだ。
「父さん。貴方が築き上げた《東都》は、今日ここで新たな夜明けを迎えるよ」
静火が微笑むや、蝋燭の灯が消える。
唐突な暗闇に包まれる室内に、空気が絞られるような間の抜けた音が微かに響いた。
†
公龍は振り下ろされる打撃を、
公龍は八つ裂きにされた死体が血と内臓をぶちまける一瞬を突いて放棄された車の陰へと退避。息を潜めつつ、両腕の血管に走る針を通すような痛みを噛み殺す。
「どうなってんだ……。キリがねえ」
もう何体の
状況は全くと言っていいほど進展していなかった。いや、むしろ悪化していると言っていい。公龍は次から次へと現れる
肉体が朽ちるまで暴れ続ける
「こりゃ、《東都》マジで終わんぞ」
公龍は虚空に向けて毒づき、迷った末に
『これは珍しい相手から連絡だ。というよりどこでこの番号を?』
通信相手――警視総監・
「随分余裕そうだな。やっぱ一区は無事、てめえは高みの見物中ってことか?」
公龍が言い放つと、屋船は乾いた笑い声を吐き出し、目尻にいやらしい皺を刻む。
『人聞きが悪いね。もちろん警察は市民の安全確保に尽力しているとも』
「その割には全く援護がねえんだが?」
『これはコードαだよ。警察官が前線に立つことはない。君たち解薬士の仕事だろう』
「この窮地にビビッて、いきなり役人仕事か」
『始まれば邪魔はしない、というのが契約でね。その代わり、おおよそのコードαの発生地点は事前に教えられていた。おかげで市民への被害は最小限に留まっているはずだよ』
「契約だと?」
聞き捨てならない屋船の言葉に、公龍は顔を歪める。屋船は相変わらず掴みどころのない笑みを浮かべて画面越しに公龍を眼差している。
『政岡白雪との契約だよ。まだ君が寝込んでいるときだったかな。一度、彼女は私のもとを訪ねてきてね。この《東都》から《リンドウ・アークス》を排除する。だから余計な手出しをするなと持ち掛けられた。宅間ファイルをこちらで握ることができればより優位だと踏んで君たちを動かしていたが、残念なことに力が少し及ばなかった。だから警察は《リンドウ・アークス》の失墜を傍観することに決めた。全く、末恐ろしく賢しい女だよ。政岡白雪という女は』
「……願ったり叶ったりってわけか」
屋船は政岡白雪を恐ろしいというが、この状況下にあっても主導権を手中にしているのは屋船のほうだ。つまるところ賢政会が引き起こした祝祭は、長らく目の上の瘤である《リンドウ・アークス》を、自らの手の一切を汚すことなく排除するための一手というところだろう。ただの
『大方、SATを動かせ、武力支援しろという話だろうが、警察は動かない。これがコードαである以上、あくまで君たち解薬士の領分というわけだ。我々は本来の責務を全うする』
「クソったれ。てめえは
『何とでも言うといい。生き残ったらまた恨み言くらいは聞いてやるとしよう。これでも忙しい。また会えるのを楽しみにしているよ』
屋船が一方的に通信を切る。公龍は恨み言を吐こうとするが、頭上に差した影がそれを遮る。
「あう、あうあっ!」
叩き下ろされる大樹のような
薙ぎ払われる硬化した手による殴打を血の刃で受け止める。しかし衝撃は刃を砕き、公龍を紙切れ同然に吹き飛ばす。公龍はビルの二階まで吹き飛び、蜘蛛の巣状の亀裂が走るコンクリートに埋まる。
「やべえ……」
公龍は血の刃を生み出そうとする。しかし腕に激痛が走り、迸った螺旋はかたちを結ぶことなく崩れ去っていく。
万事休す。迫りくる
死を覚悟しかけた瞬間、
「情けねえぞ、九重!」
振り下ろした特殊警棒が壮絶な震動を発し、卒倒した
「ったく勝手に置き去りにしてきやがって! 探すの苦労したぞ、馬鹿野郎!」
「
突如として現れた銀に
「お前を探して病院行ったときに天常博士からざっくり事情は聞いた! ここは俺と花ちゃんで引き受けてやる。さっさと行け! そして今後、アーベントの馬鹿とともに俺を敬いシルバーと呼べ!」
花の精密狙撃のなかを銀が駆け回る。銀の派手な動きに気を取られる
泥臭く格好悪いが返り血を浴びることが危険である以上、最も効果的な無力化の方法と言えた。
「けっ……悔しいけどちょっとカッコいいタイミングだな。考えといてやる」
「考えるな! 感じるままにシルバーと呼べ!」
「後味悪いから死ぬなよ。
「任せとけ。てめえらにシルバーと呼ばせるまでは死ねねえよ」
「馬鹿だろ、お前」
公龍は言って、地面に降りる。折れた肋骨と腕の骨を
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