06/Underground labyrinth《3》

 粘るような重く湿った空気が空間を満たしていた。滴る汗が顎を伝って落ち、血塗れのシャツに滲み込んでいく。アルビスはアンリの言葉を頭のなかで反芻しながら一つ息を呑む。やがて沈黙を押しのけるように口を開く。


「生体兵器」

「そうだ。もう薄々勘づいてはいるんだろう? 今観た映像が一体、何を目的とした実験だったのか」

「……〝鼓動し嘲笑する臓器モック・ノック・オーガン〟か」


 喉に引っ掛かるようなアルビスの言葉はろくに響くことなく地面に落ちる。アンリは座っていた半壊の柱から飛び降りて音もなく着地する。僅かに歪められたアンリの口元が、どんな言葉よりも雄弁に答えを語っていた。

 アンリは腕時計型端末コミュレットを操作し、モニターの端に浮いていた一枚の書面の画像をアルビスの眼前に拡大する。


「これが実験のレポートだ。どうやら試作した万能臓器による神経ガスの発生実験だったらしい。結果は見ての通り、被検体は自ら発生させた神経ガスの抗体を作ることができずに死んだ」


 実験は失敗した。つまりまだこの時点ではMKOは完成していなかったということになる。


「F計画は本来、《東都》を利用した政府主導の極秘計画だった。だがどうやってかその存在を《リンドウ・アークス》は嗅ぎつけた」

「それでF計画ごと医薬特区を吸収したのか」

「その通り。F計画を《リンドウ・アークス》が引き継いだ旨を記した証拠もある」


 アンリの操作で今度は別の画像が拡大される。日付は《リンドウ》による医薬特区の吸収後。第四部門フォースパワーの特別研究員に肩書きを変えたレナート・ウルノフの報告書レポートだった。


第一部門ファーストラボではなく、第四部門フォースパワーが管轄していたのか?」

「言っただろう? 元は生体兵器の開発、万能臓器は軍事利用が目的だった」

「そういうことか」


 おそらくこの宅間ファイル。元々の出所は第四部門フォースパワーなのだろう。そう考えれば、第四部門フォースパワーの責任者である竜藤将厳が宅間ファイルの回収にいち早く動き出した理由もおおよそ説明がつく。


「それに、――結局、万能臓器の開発は《リンドウ》の下では成功しなかったようだけど――、面白い副産物も生まれていることが何よりの証拠だとも言える」

「副産物?」

「とぼけるなよ、アーベント。君たち解薬士が一番よく知っているだろう」


 アンリがアルビスに向けて懐から取り出した何かを投げる。地面を転がったのは回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターだった。


「まさか特殊調合薬カクテル

「何だ。分かってるじゃないか。その通り、君ら解薬士が戦うために用いる特殊調合薬カクテルの原型は、万能臓器の開発で生まれた副産物だ。医薬特区を吸収して間もなく、《リンドウ》の抱える医療軍だった《メディガンズ》は解体されて《東都》に民間の解薬士が誕生する。偶発的に生まれた超常の薬である特殊調合薬カクテルの使用例を、より多く、そして効率よくサンプリングするためだろうな。」


 三度突きつけられた報告書レポートが、アルビスにどうしようもない現実を告げていた。

 押し寄せたのは驚愕。失望。あるいは怒り。

 アルビスは何も言えずにただ青白いホログラムを睨む。

 何かが罅割れていくのを感じた。

 自分たちが戦うために行使してきた力の正体が非道な人体実験からあぶれたおこぼれであるという事実。それはこれまで幾度となくコードαに従事し、死線を潜ってきたアルビスにとって立っていた足場を失うも同然だった。

 アルビスたちが立っていたのは戦場ですらない。

 解薬士はただのモルモット。立っていたのは実験場。

 それは戦うことに身を置き続けてきた男への、最大級の愚弄だった。


「分かっただろう、アーベント。これが現実ってやつだ。もちろんこの現実が表に出ることはない。なぜなら万能臓器に関する事実は最重要機密。葬り去らなければいけない《リンドウ・アークス》の罪そのものだからだ」


 アルビスはにわかに抱いた眩暈に耐え、叫び出したくなるほどの怒りと憎しみを抑えつけ、思考を整理しようとする。だがこれまで振るってきた力が外道の実験からこぼれ落ちたものであるという事実は、その背中にまとわりつく死の気配がアルビスの思考を曇らせた。

 分かっていたことだ。その方法に関わらず、アルビスはこれまで多くの死を築いてきた。それは戦場で撃ち抜いた少女であり、外法の力を持った殺し屋であり、あるいはアルビスへの復讐心に駆られた一人の父親でもあった。アルビスが立つ場所は無数の死骸が積み上げられた大地であり、掌はこびりついた血に塗れている。

 分かっていたことなのだ。だから特殊調合薬カクテルが凄惨な実験の末の力だったからと言って、それが今更何なのだ。良心などとっくに死んだ。アルビスが今すべきことは、命を懸けて果たすべきことは、たった一つしかない。


「目的はやはり、《東都》の転覆か」

「これは是正デバック、あるいは再構築リコンストラクションだよ。破壊のあとにこそ、真の創造がある」

「この程度のカードで《リンドウ・アークス》を潰せると、本気で思ってるとしたら貴様は何も分かっていない」

「違うな、アーベント。敵を自分のなかで強大にしすぎるなと、俺に教えたのは君だ。それにあらゆるものはただの手札でしかない。あとは使い方の問題だよ。それ次第で、スペードの3も切り札ジョーカーになり得る。祝祭は、もう誰にも止めることはできない」


 アンリは淡々と言い放つ。この男にとって、《東都》を転覆させることそれ自体に仕事以上の意味はないのだろう。かつてアルビスが訳も分からないまま追われた故郷は、アンリにとってただ金で雇われ訪れた戦地でしかない。


「貴様は一体、何を望んで《東都》に牙を剥く?」

「静寂と平穏を求めて。だが今は、君と共に進むことを欲している」


 アンリは立体映像投影機ホロプロジェクターの電源を落とし、アルビスの前に立つ。まるで恋人を愛でるような手つきでそっとアルビスの頬へと触れる。黒々としたアンリの両目には、歪な親愛の情とともにアルビスの白皙の顔貌が映り込んでいる。


「俺は今回の仕事を持ち掛けられたとき、運命だと思ったんだ。そして宅間喜市を処分したのが君だと分かったときには震えたよ。神は俺を見捨ててなどいなかった。この無駄に広い世界で、俺と君を再び巡り合わせてくれたんだからな」


 恍惚とした表情を浮かべるアンリがアルビスの顔に近づく。吐息がかかるほどの距離で、アンリは自ら右手の甲に刻まれた十字架にキスをする。


「アーベント、君は俺の憧れの存在だ。あのとき、アルゼンチンのメンドーサで別れたあの日、俺はまだ弱かった。君に着いていくには相応しくなかった。だが今は違う。俺は力を手に入れた。そして君が進むための全ての道を整えた。あとはその道を共に歩くだけだ」


 アルビスが固く沈黙を守っていると、アンリの手首で腕時計型端末コミュレットが振動。アンリは不愉快そうに眉を顰めながら姿勢を戻し、不躾な通信に応じる。

 アンリは用件を聞いたあと、通信相手に短く指示を出して手早く通信を終える。再びアルビスへ向けられた表情はやや浮かない。


「何か問題らしいな」

「問題というほどでもない。どうやら竜藤の次男は、随分と機転が利くらしい」


 アンリはアルビスのシャツの襟を裏返し、いつの間にか仕込んであった発信機を摘まみ上げる。豆粒程度の大きさの精密機器はアンリの指の間で跡形もなく潰された。


第四部門フォースパワーのお出ましか。フォルター・ワークスのようにはいかんぞ」

「いいや。違うよ、アーベント。到着したのは君の相棒のようだ」

「公龍が?」


 思わず聞き返したアルビスの言葉には取り合わず、アンリはアルビスのベルトに一枚の紙片を挟み込む。それからアルビスを抱擁し、背中に回した手でアルビスの腕の拘束を外した。


「ここに次の行き先が記してある。もし俺と共に歩く気があるのならば、一人で来い。もちろん別の使い方をするとしても、それは君の自由だ。だが我々はいつでも君を歓迎する」

「貴様はこの軽率な行動を一生後悔することになるな」

「いいや。君はこの機会を無駄にはしないさ。目的を達成するためには手段を選ばず、最も合理的かつクレバーに行動を遂行できる。アルビス・アーベントとはそういう男だよ」


 アルビスの前に傅くように膝をついたアンリは拘束から解かれたアルビスの手を取り、自らの唇でその甲にそっと触れる。アルビスは逆の手で拳を握り、アンリの側頭へと叩き込む。殴りつけられたアンリの横顔には、ほんの一瞬だけ壮絶な笑みが深く刻まれる。


「話せてよかったよ、アーベント。また会えるのを楽しみにしているよ」

「悪いが次に会うときは、貴様が死ぬときだ」


 立ち上がったアンリは言葉の代わりに口腔の血を吐き捨てて踵を返す。椅子から立ち上がることすらできないアルビスは、薄闇に溶けていくアンリの背をただ見送ることしかできなかった。


   †


 銃弾の驟雨が怒号とともに吹き荒れる。公龍は慌てて飛び退き、柱の影に身を潜める。

 賢政会の連中がさしあたりの拠点としていたのは、纏め役の佐藤曰く、周囲の水没具合が激しいせいで地下の人間も滅多に立ち入らないという地下鉄メトロの廃駅。マップデータを確認する限りでは、アルビスが囚われているのは駅に併設された商業施設の駐車場のようだった。

 腐りかけの柱が襲い来る銃弾によって容赦なく削られていく。いつまでも隠れているわけにはいかない。

 いくら荒事が付きものの解薬士と言えど、銃火器の前ではただの人も同然。生身の身体で銃弾を防ぐ術など存在しないし、当たり所が悪ければ当然のように死ぬ。


「畜生ッ! 奴らが武器しこたま仕入れてんの忘れてたぜ」


 公龍は銃声に負けじと声を荒げ、回転式拳銃型注射器ピュリフィケイター洋紅色カーマインのアンプルで血の盾を生成。さらに唐紅色カメリヤのアンプルを二度打ち込み、食い千切った親指の腹から流れる血で拳大の砲弾を形作る。


「アルビスの馬鹿野郎が……泣いて詫びさせてやる」


 公龍は意を決して銃弾の雨に身を晒す。血の盾に銃弾が殺到し、激しい火花を散らす。公龍はそのまま突進。隙を見て小銃を構えるチンピラどもの頭上へ向けて砲弾をぶっ放す。

 血の砲弾が命中した天井は元々崩れかけていたこともあって呆気なく派手に崩壊。チンピラどもの何人かは瓦礫の下敷きになり、直撃を免れた者のほとんども掃射の手を緩めざるを得なくなる。

 公龍は五指の先に弾丸を生成し、弧を描く起動で一斉に発射。思わぬ反撃に面を食らったチンピラたちは最初の威勢を明らかに削がれ、装備の優位はあっという間に崩れ去る。


「邪魔なんだよ、てめえらっ!」


 公龍はチンピラどものなかへと切り込む。蹴飛ばした盾でチンピラを吹き飛ばし、同時に打ち込んだ珊瑚色コーラルレッドのアンプルの効果で掌に血の刃を形作る。振り返りざまに放つ峰打ちを相手の首筋に叩き込み背後の階段へと突き落とす。水音が響くのは既にこれより下の階層が水没しているからだろう。

 左右のチンピラがそれぞれに短刀ドスを抜いて公龍に襲い掛かる。対する公龍は刀とは逆の手から放つ血の銃弾で的確に膝を撃ち抜き制圧。苦鳴とともに倒れたところにすかさず蹴りを見舞い、あるいは拳を叩き込み、揃って意識を刈り取っていく。瞬く間の逆転劇を前に、残り一人となったスキンヘッドのチンピラは小銃を放って尻もちを突いた。


「じゃあな。てめえも寝とけ」


 ボールじみたチンピラの禿頭を蹴り上げる。折れた歯を吹き飛ばし、白目を剥いたスキンヘッドは黴の生えた地面に倒れ、泡と血を噴いて気絶する。

 公龍は静寂のなかで息を吐く。不意に立ち眩みが訪れるが、刀を杖にしてなんとか踏み止まる。仕方なかったとは言え、少し血を使い過ぎた。

 もちろん悠長に休んでいる暇はない。

 公龍はマップデータで位置を確認。既に発信機は敵に勘づかれたらしくアルビスを示す光点は消えている。何の目的で拉致したかは知らないが、急ぐべきだろう。ここでさらに連行されてしまえば、今度こそ足跡を追うのは困難になる。

 しかし満身創痍の身体に鞭を打ち奥へと踏み出す公龍の前に、濃密な狂気が立ち塞がる。

 薄闇から浮かび上がるのは四本腕の異形――ラプチャー=リッチ。


「……ま、いるとは分かってたけどな。ようやく真打のお出ましか」

「ドル!」


 両者は視線を交錯させるや、開戦の合図を待つまでもなく弾かれるように駆け出した。

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