05/A smorking memory《1》

 そこは戦場だった。

 肌に染みついた硝煙と血の臭い。火を放たれた街は黒灰色の崩れ落ちそうな空に向かい、高らかな赤を立ち昇らせている。

 どこからともなく悲鳴が、あるいは怨嗟が聞こえた。それはもはや人の言葉の体を為してはおらず、どちらかと言えば獣の唸り声に近い。

 すぐ目の前には敵兵士の死体があった。銃弾に穿たれて穴だらけになった身体。千切れかけた腹からは内臓がはみ出し、半分吹き飛んだ頭からは脳漿がこぼれている。

 少し離れた建物へ視線を投げても、目に入るのはやはり死体。見開かれた眼窩から眼球を溢している死体。千切れ飛んだ誰かの手。あるいは脚。とにかく目に入る景色の全てに死が転がっている。

 ほんの数時間前まで、人が普通に生活していたはずの街は今や現世に降臨した地獄と化していた。

 アルビスは肩にかかる小銃の重さを確かめる。人差し指をかけた引き金の重さを確かめる。そのどちらよりもずっと、ここにある命は軽かった。

 足音が聞こえた。不規則でよろめくような、あるいは感情的に逃げ惑うような足音。

 アルビスは機敏な動きで振り返り、肩にかけていた小銃を構える。路地の奥から走り込んでくるのは少女だった。

 まだ一四、五歳だろう。アルビスとだって五つ程度しか変わらない。

 そこまで思って、アルビスはこれが現実ではないことに気づく。だが根も葉もない悪夢というわけでもない。

 これは記憶だった。紛れもなく、アルビスがかつて渡り歩いた戦場の一つだった。

 だが訪れた現状への理解とは別に、アルビスの身体はほとんど自動的に染みついた動作へと移行。一抹さえ躊躇うことなく、この地獄ではあまりに軽くなってしまった引き金を引く。


「たす」


 放たれた銃弾は真っ直ぐに少女の額を貫き、衝撃で後頭部が爆ぜる。突如として制御を失った少女の身体は一度大きく痙攣し、地面に膝をつき、それから前のめりに突っ伏す。糸の切れた人形じみた少女の身体は想像よりもずっと軽く、静かに動かなくなる。爆ぜた後頭部からはまだ成長途中の頭蓋骨とたくさんの知識を吸収するはずだった脳ミソが花を咲かせていた。

 アルビスの感情が揺れ動くことはなかった。

 戦場では迷えば死ぬ。特に市街地でのゲリラ戦法相手ともなれば尚更だ。女子供の身体に爆弾を巻きつけ、敵の兵士や陣地に特攻させることも珍しくはない。

 今撃ち抜いた少女がその人間爆弾だったかは、確認する意味も時間も必要ない。

 アルビスは周囲をぐるりと確認する。制圧は完了だ。少なくとも五感で感じられる範囲内で動くのは揺れる炎と煙だけだった。


「クリア」


 内耳に埋め込んだ端末に短くそう告げる。応答するように回収地点の座標が告げられ、アルビスは静かに速やかに、燃え盛る地獄を後にする。


   †


 街の外れにある荒野にはアルビスの到着を皮切りに傭兵部隊の面々が集まってきて、間もなく回収用の輸送機が砂煙を蹴立てながらゆっくりと降下してくる。アルビスたちは輸送機へと乗り込んで装備を解き、ハッチの粗末で固い椅子に腰を下ろした。


「今回も楽勝だったな! ハハッ!」


 輸送機が離陸するや口を開いたのは刈り上げた金髪に緑色の瞳が印象的な男だった。その男の言葉を合図とするかのように、各々が本日の戦果を自慢げに語り出す。

 アルビスは会話の輪には加わらず、小窓から地上を見下ろす。まだ火の手が上がっている街は既に人差し指の爪くらいの大きさにしか見えなくなっている。もう戦場の現実感リアリティは感じられなかった。もうあの思わず息を止めたくなるような不快な臭いも引き金の軽さも、何一つとして思い出せそうにない。


「おい、アーベント。お前が今日のMVPだ。今回は譲ってやる」

「今回の間違いだろ! ぐははっ!」


 金髪の男に肩を組まれ、別の誰かが下品な笑い声を上げる。アルビスは肩に回された男の腕を解き、勝手にしろという意味を込めて小さく頷く。

 アルビスが組み込まれている傭兵部隊はスタンドプレーを是とするエリート集団だ。共通点は凄腕かつ金で雇われた兵士という二点だけで国籍も素性もばらばら。だが戦闘能力だけは間違いなく一級品揃いであり、戦場に投入されるや連携を取ることなく個人の力だけを存分に発揮して敵勢力の重要拠点を制圧してみせた。

 そういう事情もあって、アルビスたちは互いについてよく知らない。もちろん界隈のなかで名前が知れ渡っている者も少なくないが、銃弾同様の消耗品である傭兵についている名前など鳥のフン程度の価値しかない。

 アルビスは再び小窓の外へと視線を投げる。もう街は見えなかった。


「どうした? 気分でも悪いのか?」


 ハッチ内を満たす騒がしい笑い声に紛れて再びアルビスに声が向けられる。振り向けば隣りに腰を下ろした黒人の男がトニックウォーターを差し出している。アルビスが小さく挙げた手でそれを断ると、男は水を脇に置いて空の掌を差し出した。


「俺はアンリ・ノワール。ムッシュ・アーベント、高名な貴方と戦場を共にすることができて嬉しく思うよ」


 アルビスは差し出されたアンリの分厚くて硬い手を握る。闘争心や凶暴性をこれでもかと滲ませる者が多い傭兵業にあって、アンリの表情と物腰は弱々しく感じられるほどに柔らかく思えた。


「どうして俺のような男がこんなところに、という顔だね。まあ当然だ。この見た目通り、銃を抱えて戦場を駆け回るような才能はないからな。ここに集められた誰よりも、だ。元は母国の陸軍で工兵科に所属していたんだ」


 アンリは頼んでもいない自分語りを始める。命懸けの戦場から解放されて気が緩んでいるのだろう。アルビスは聞く素振りを見せずに腕組みをして目を閉じるが、それでもアンリは喋るのを止めなかった。


「これでもね、爆発物の扱いや火炎放射器の使用には慣れているつもりだよ。だが、火炎放射器、あれは良くない。人を焼き払うなんて、同じ人間のすることじゃない。おかげで俺はとっくに神に見放されてしまった」


 言って、アンリは胸の上で十字を切った。右手の甲には十字架の刺青が彫られている。


「それでも俺には戦場に身を置くしかなかった。他に何の才能もなかった。もちろん人を殺すことに特別秀でているわけじゃない。単に他よりマシというだけだ。つまり俺は、生まれた瞬間からいくら祈ろうとも救われることのない魂を宿していたってことになる。哀れだろ?」


 アンリは自罰的な笑みを浮かべている。アルビスは何も答えなかったが、アンリの言葉の節々、表情の端から滲む辛気臭さにうんざりしていた。

 この世界には神など存在しない。もしいるとしても傍観者気取りのクソ野郎は向精神薬よりも役に立たないだろう。

 もし祈る人々に救いの手をもたらすような神がいれば、アルビスは今頃こんな荒れ果てた空気を吸って小銃など担いではいないし、アンリもまた持って生まれた自らの才能を僻むようなこともなかった。何より、美しく健気で気高い女性である母が失意のなかで人生を終えるはずもない。

 だがアンリの祈りを無碍にするつもりもない。人には神であれ薬であれ、縋る何かが必要なのだ。事実、アルビスも母の面影に縋り、過去に縋って生きている。

 人間のどうしようもない脆さに思いを馳せていたところで、機内に響いたアナウンスが思考を中断させた。ハッチに一つだけある小さなモニターには、雇い主である政府高官のバストアップが映し出される。


『諸君の活躍、既に報告を受けている。ご苦労だった。一度補給地点に帰還した後、早速だが次の戦場へと向かってほしい。報酬は契約金の倍上乗せしよう。文句はないだろう? 詳細は貸与している端末に送る』


 映像は一方的に用件だけ告げて切れた。

 全く人使いが荒い。どうやら雇用主たちはアルビスたちを徹底的に使い倒す腹積もりらしい。アルビスは内心で溜息を吐き、隣りではアンリがあからさまな溜息を露わにしていた。

 今回はアルビスを含め、ここにいる傭兵の多くが戦場単価アラカルトではなく期間契約リースを結んでいる。契約期間内であれば、正規軍の軍人と同等以上の待遇を受けられるが、命令の拒否は契約の反故と同一視される。期間契約リースの場合、軍規が適用される内容であることも多いので、命令を拒否すれば失うのは傭兵としての信用だけに留まらない。

 しかしアルビスの反応とは裏腹にハッチ内は歓声と雄叫びで満たされる。報酬が上乗せされることが嬉しいのだろう。つまるところ傭兵は、雇用主の考え通り、硬貨コインさえ入れれば律義に動き続ける玩具でしかないのだ。


「ムッシュ・アーベント。実のところ俺は自分が死ぬのも、他人を殺すのも、もううんざりなんだ。だが俺にできるのは自分が死ぬかもしれない戦場で敵を殺すことだけなんだ。こんな俺にも、救いはあるんだろうか」


 アンリは盛り上がっていく喧騒のなか、一人喋り続けている。アルビスはようやく氷のように冷たい薄青の瞳をアンリへと向ける。


「アンリ・ノワールと言ったか」

「ああ。アンリ・ノワール。それが俺の名前だよ、ムッシュ・アーベント」

「アーベントでいい。それから、自らを語るのも程々にしておけ。私たちは自分自身が商品だ。武力や肉体だけじゃない。傭兵は命まで含む、自らの全てに値札を貼って戦場を渡る。不必要な弱味を見せていいことはない」


 アルビスは小さく息を吐き、アンリの反応を確認することもなく目を閉じる。

 とにかく次の行き先は決まった。傭兵たちの野性味あふれる騒音を締め出し、アルビスは束の間の休息を得ようと微睡みに身を委ねていく。

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