08/On the border《1》
捜査を再開してから早三日。アルビスも銀も〝賢政会〟の名前にまでは辿り着いたものの、それ以降、有力な手掛かりも手に入れられず、ジェリーらの行方も一向に掴めないまま時間だけがいたずらに空転を続けていた。
〝六華〟の存在と、賢政会の関与に関して証拠がない以上、憶測で行動するわけにはいかなかった。もし銀からの報告が真実の一端を捉えているとするならば、迂闊な行動は賢政会のみならず、政府や国を敵に回すことになりかねない。
証拠――。何よりも証拠が必要だった。
「今日も行くのか」
ふと思考を中断したアルビスに呼び止められ、クロエが足を止める。振り返り、自らの意志を示すように強く頷く。もし止められても行くぞと、表情が物語っていたが元より止める理由などなかった。それに完全に塞ぎ込んだ様子のクロエを見ているのも、いい加減に心苦しい。
「これを持っていけ」
読んでいた書類を執務机に置き、アルビスは立ち上がる。意外だったのか、少し驚いた様子で立ち尽くしているクロエに手渡すのは円形に八つの突起が生えた蜘蛛のような小型の機械。
「身に着けておけば、私のほうで居場所を把握できる。もしものときは赤い突起を押せ。子供の力でも簡単に押せるはずだ。私の端末にアラートが繋がるようになっている」
皮肉なことに、ジェリーによってスサーナを奪われたことで奇襲に警戒する必要はなくなっていた。もちろん無警戒というわけにはいかないが、それで行動を雁字搦めに制限するほど、アルビスはクロエの保護者であろうとするつもりはない。
アルビスが差し出した
何で行くつもりかとアルビスは思ったが、クロエが公龍の
「気を付けて行け。それと、あまり遅くはなるな」
クロエは頷く。今度は意志の顕示ではなく、柔らかな感謝の提示だった。
クロエが事務所を出たあと、アルビスは汐へと連絡を入れる。あまり積極的に連絡を取りたいはずもなかったが、背に腹は代えられないので我慢をする。
おそらくは着信を見て用件を判断したのだろう。
汐は何コール待っても通話には出なかった。
†
ウロボロス解薬士事務所のある二二区から目的地のある七区までクロエはタクシーに乗る。目的地をメモに書いて伝えれば、だいたいいつも同じルートを通るので、窓から見える景色はすっかり見慣れた風景だった。
運転席には誰も座っていないのに、ハンドルだけが独りで動いている。公龍が前に、《東都》ができる前は運転席に制服を着たおっちゃんが乗っているのが当たり前で、他愛のない世間話をしたもんだと言っていたことを思い出す。
名残り、というやつだろうか。
公龍はクロエのせいで重傷を負った。
公龍は強い。クロエに何か戦うための心得があるわけではなかったけれど、公龍の実力が他の誰より抜きん出ていることは何となく分かる。戦ってほしくはないけれど、いかにも強そうな雰囲気を醸しているアルビスにだって負けはしないだろう。
だけどその公龍が負けた。何もできずに。
最初から公龍は分かっていたはずだ。突然に現れたあのバケモノが、何から何まで異常で異質だということに、気付いていたはずだ。
それでも公龍は戦った。後ろにクロエがいたからだ。
公龍一人ならば逃げられた。確実に追ってはきただろうけれど、きっと逃げ延びることができた。でもクロエを抱え、追撃に中途半端な対応をしながら逃げることはたぶん無理だった。
だから戦った。
そして公龍は潮臭い地面に沈められた。
それをクロエのせいだとせずして、何とするべきだろう。
また、だった。
クロエがただいるだけで、周りの人が傷つく。得体の知れない思惑や、クロエには想像もつかないような悪徳に巻き込まれ、いなくなっていく。
おねえちゃん――母である
命を懸けてクロエを逃がし、もう二度と会えなくなった。
あのときはよく分からなかった。見たこともないような怖い顔で怒鳴るおねえちゃんを前にして、言われた通りに逃げるしかなかった。
だから今度は変わろうと思った。変わらなくちゃいけないと思った。
でも結局、クロエにできたことは何一つなくて。この世界への絶望と恐怖を一緒に背負おうとしてくれた公龍を傷つけた。
そんな自分が許せなかった。
そんな自分を消してしまいたかった。
ただいるだけで、誰かを傷つけてしまうなら。
きっとわたしなんていないほうがいい――。
もし声が出れば泣き叫んでしまいたかった。でもそれすらもできなかった。
決して吐き出せない思いは、クロエの小さな身体にまとわりつき、じりじりと締め付けていく。
身も心も引き裂くようなこの苦しみが、終わる日はいつだろうか――。
やがてタクシーが緩やかに停車する。完全にぼーっとしていたクロエは停車の拍子、窓に軽く額をぶつけた。
目の前には、白亜の城塞が聳えていた。
帝邦医科大学病院――公龍が眠る病院である。
もちろん小児病棟もあるので子供自体が珍しいわけではない。でもたった独り、タクシーに乗って見舞いにやってくる少女となれば話は少し変わる。
すれ違う患者たちは驚いたような、怪訝そうな眼差しを向け、何人かの看護師は立ち止まって声を掛けてくる。予め書いておいたメモを使って事情を説明。クロエがあの天常汐の患者の見舞いに来たと分かると看護師たちは例外なく笑顔を引き攣らせるが、公龍の眠る集中治療室へと連れて行ってくれる。
公龍は昨日とも一昨日とも、その前とも変わらない様子で、分厚いガラスを隔てた部屋のなかで眠っている。
こんなときですら、自分には呼びかける言葉さえないことが歯がゆく、そして情けなく思う。
「何度来ても答えは同じだがね?」
不意に声がした。クロエは反射的に振り返れば、廊下をゆらゆらと歩く汐の姿があった。。
便所サンダルでリノリウムの床を擦り、薄汚れた白衣とよれよれのジャージに身を包む魔女。ぼさぼさに伸び切った髪の奥で、落ち窪んだ眼窩が類まれな理知を湛えて不気味に光っている。
クロエは本能的に身構えた。生き物ならば当然抱く種類の恐怖に近い。
だが汐はわざわざ近寄りたくもないとでも言いたげに、クロエを見下ろすように一瞥し、小さく鼻で笑う。そしてクロエが立つ側とは反対の壁際にあるベンチへと腰を下ろした。
「よくもまあ、こうして毎日毎日ただ眺めに来るもんだ。君が眺めたところで九重の容態は変わらない」
汐の言うことはもっともだ。クロエが公龍のもとへ毎日見舞いに来ることは、彼の容態にとって無意味だ。もし意味があるとすれば、責任を感じるクロエ自身の自己満足とか、その程度の身勝手なものでしかない。
分かっている。それでももう嫌なのだ。大切な誰かが傷つき、いなくなっていくときに、何も考えられず、ただ何もできずにいることは。
クロエはメモを手に取り、汐に向けて言葉をつづる。クロエの悲痛な願いを突き付けられた汐は肩を竦めて溜息を吐く。
「言っただろう。答えは同じ。駄目なものは駄目だ」
クロエのいつもの願いは、いつものように却下される。だが汐はほんの少しだけいつもより、苛立っているようだった。
「僕はね、子供が嫌いだ」
真正面に向けられた嫌悪――もっと言えば害虫でも見るような冷たい目つきに、クロエは身体を強張らせる。
「理由を挙げればキリがないが、大きなものとしては前頭葉の未発達だね。前頭葉、つまり子供でも分かるように説明すれば理性とか推測能力を司る部分のことだ。要は子供というのは非理性的で、膨大にある未来に思いをはせることもなく、ただ目の前の現実だけを貪って生きている。実に不可解で不愉快な存在だ。ああ、あとあれだな。子供だから、という破綻した論理で様々な現実から守られる点も解せない。気持ちが悪い」
汐はくどくどと、いかに子供が嫌いかを話す。話している内容のほとんどはクロエには分からなかったが、汐がどれほどに子供が嫌いなのかということだけは十分に伝わった。
「――というわけで、僕は子供が嫌いだ」
再三に渡って嫌いと言われ、クロエはもはや頷くしかない。
「だが。それを踏まえた上での話だ」
汐が立ち上がり、固まったままのクロエへと詰め寄る。
「君が考えていることはほんの少しだけ分からなくもない。九重が君を守ってああなったというなら、やはり君にはあの九重に向き合う義務があるのだろう」
見下ろされる。不健康に充血した眼差しが、降り注ぐ。
クロエは動けずに、汐を見上げ続ける。その言葉の真意は分からなかったし、もし勝手に動いたりすれば食べられてしまいそうな、そんな気がした。
やがて汐は一歩後ろに下がり、白衣を翻す。サンダルを擦って歩き、集中治療室へと繋がる扉の前で立ち止まると、苛立たしげにクロエを振り返る。
「察したまえよ。特別に一度だけ、会わせてやると言ってるんだ。気が変わらないうちに早く従っておくんだね」
汐が恩着せがましく言う。クロエは深く礼をして、汐の丸まった背中を追う。
†
全身の除菌消毒を済ませ、クロエはついにガラスの向こう側へと足を踏み入れる。
一瞬で鼻孔を満たす薬品の臭い。静かに駆動し続けている機械の音。数値化された公龍の命が奏でる規則的な電子音。
クロエは一歩一歩を確認するような足取りで前へと進み、公龍のベッドまで辿り着く。
腫れ上がった顔面は青黒く変色し、繋ぎ直された腕は血が上手く通っていないのか不気味な白さを帯びている。肋骨が飛び出していた胸は包帯とギブスで固定され、クロエの手首くらいの太さはある無数の管が公龍の身体のあちこちに突き刺さっていた。
執拗に痛めつけられ、変わり果てた姿。
辛うじて生きているのだというのが不思議にすら思えてしまう。
自然と涙が溢れた。手が震えた。その場に立っていることすらできなくて、クロエは眠る公龍の腕に縋りつく。
抑え込んでいたはずの感情が破裂した。流れる涙が止まらないどころか、涎が垂れ、鼻水が垂れた。口からはひゅうひゅうと不恰好な空気が漏れ出た。気にせずに泣いた。
どこにも行かないで。
一人にしないで。
何にもできなくて、ごめんなさい。
叫ぶように祈った。祈るように泣いた。泣きながら悔やんだ。
切実で、だけど声のないクロエの祈りは、無機質な電子音に溶けていく。
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