13/Tragic truth《1》

「……いつから、気づいていたの」


 仮面を外すともはや〝脳男ブレイン〟の声は不気味な合成音声ではなくなった。それは、公龍が愛して止まない声だった。

 声を聞いて尚、信じることができなくて、公龍はちらと横を見る。

 だが、どれほど公龍が否定しようとも、フードの中にあるのは桜華の顔だった。

 左端に腰かける桜華と、中央通路のすぐ右脇の席に座る公龍。二人の距離は遠く隔たっていたが室内の静寂がしっかりと声を響かせる。


「そう、だな。確信したのは、今だ。君の顔を見るまでは、信じていたかった」

「そう」


 桜華は求めているのはそんな答えではないと言いたげに、つまらなそうな返事をした。


「どうしてこんなことをした。俺の知っている君は、人を道具みたいに扱ったり、まして殺したりできるような奴じゃない。何が君を――」

「知った風な口利かないで」


 怒鳴ったわけではなかった。ただ桜華の言葉は、公龍の心に鋭く重たく突き刺さった。

 ずっと避けてきたのだ。目を逸らし続けてきたのだ。生まれてくるはずだった子供も、職も、何もかもを失い、現実に背を向けてきた。二年半前のあの日から、公龍はずっと逃げてきた。桜華と向き合うことをしてこなかった。

 その結果が、今だった。


「公龍。私ね、お腹の赤ちゃんが死んで、貴方と別れて気づいたの。この社会は歪んでいると」


 桜華は、公龍が知ろうとして来なかった二年半を語り始める。


「泣いたわ。それはもう、気が狂いそうなほど。私が退院したあとも秘書は毎日のように私の自宅へやって来た。取締役会では私の解任案まで浮上したわ。もう粟国桜華に業務に携わることはできないって」


 桜華の口から語られるのは痛々しい過去だった。当時、公龍も同じような状態だったから十二分に伝わった。自分の無力さに打ちひしがれ、犯した過ちを責め、どうすべきか分からずに酒と薬を馬鹿みたいに呷った。だが、どれだけ忘れようとしても、たったの一秒だって頭から離れてはくれなかった。

 しかし、そんな過去を語るというのに、桜華の声はまるで感情が抜け落ちたように平坦だった。


「泣いて、泣いて、泣いて。もう一生分泣いたんじゃないかってくらい泣いて。ようやく涙が枯れたときにふと思ったわ。どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないのってね」


 桜華は過去の自分を嘲るように薄く笑った。公龍は黙っていた。


「笑えるでしょう。独りよがりな恨みよね。それで終わってくれていたならば、どれだけ良かったのかしら。でも事実は違った。歪んでいたのは私の憎悪ではなく、この《東都》そのものだったわ」


 突如として桜華の声が冷徹さを帯びる。


「どういう意味だ?」

「あのパーティに乱入してきた過剰摂取者アディクト。別にあの薬の治験を受けていたわけじゃなかったのよ」

「……そうだったのか」


 今度は公龍が素っ気なく相槌を打った。治験を受けていなかったからと言って、あの男がチートマルを服用したことであんな姿になり、そして命を落としたという事実は変わらなかった。だから公龍の罪の意識は微塵も減じることはない。


「彼は単なる廃区の人間で、地下決闘場の上位者トップランカーだった」


 冷徹さのなかに、黒く燃える憎悪。公龍は息を呑む。


「チートマルは多量の動物性たんぱく質と一緒に摂取してはならない旨を記した説明書とともに医療機関へと流通していったわ。もちろんその説明書は、起こり得る副作用を十分に記しているとは言い難いものだったのだけど」


 それは公龍も知っていた。副作用の事実を知った公龍自身がそうすべきだと進言したからだ。問題はないが、こういうこともあるので注意を――程度のやんわりとした注意書き。利益に影響しないように十分な配慮がなされた、ささやかな文字列。


「流通した薬が廃区へと流れることはよくあること。もちろん非認可薬物デザイナーズドラッグ製造に加担することもあるし、ただごく普通に薬として用いられることもある。そしてチートマルは廃区の決闘場の拳奴グラディエーターたちに特に好まれた」

「ドーピングか」

「そうね。あの男は副作用について知っていながら、それをあえて起こした。薬の力で強くなった自分に酔ったのか、一度ならず何度も何度もね」


 そして、異形と化して公龍の前に現れた。あるいは公龍を妬んだ誰かの手で送り込まれたのかもしれない。それは不運の一言では片付けられない因果であり、だがそれ以上考えても意味のないことでしかなかった。


「それが廃区を憎悪した理由か」

「違うわ。不思議よね。それを知った途端、私のなかの憎悪は消えた。代わりに、この《東都》はまだ理想郷には程遠いことを痛感したのよ。公龍。人にはね、善性もあれば悪性もある。性善説も性悪説も、どちらも人間の一側面だけを捉えているにすぎない」

「哲学でもする気か」


 公龍は軽く笑ったが、桜華の言わんとしていることはごく当たり前に理解できた。要は、聖人君主だって不満に声を荒げるし、極悪非道の犯罪者だって路傍の花を愛でるということだ。善にせよ悪にせよ、どちらのベクトルにも完全に振り切れた人間などいない。


「ならばその不安定な人の性質を、限りなく善い方向へと傾けておくためにはどうすべきか。悪性という負の側面を孕んだまま、それと決別するには何が必要か」


 問いのかたちをとって放たれた言葉はしかし、公龍の答えなど望んではいなかった。だから公龍の思索を待たず、すぐに答えが示される。


「それはね、公龍。社会、という装置なのよ」


 冷たい声音から一転、慈愛に満ちた教師のように、ゾッとするような優しい声。公龍がちらと桜華を見ると、視線に気づいた桜華が柔らかく微笑む。それはついさっきまで人を錆へと変え、無垢な市民を殺し合わせていた元凶とは思えないほど温かな微笑。

 彼女は変わってなどいなかった。

脳男ブレイン〟への違和感を最初に抱いたのは、廃倉庫群の埠頭で対峙したとき。自らの目指す先を語り、あろうことか〝脳男ブレイン〟は公龍を呼び捨てで呼んだ。

 桜華が〝脳男ブレイン〟であるという悍ましい予感が明確に脳裏を過ぎったのは、東都アリーナの地下駐車場でキティ・ザ。スウェッティに奇襲されたとき。正義感が強い桜華が、騒ぎのなか一緒にステージにいた天音聖來を置いて逃げたという違和感が、独力で公龍の行動を読めるはずなどないキティ・ザ・スウェッティの登場でかたちを帯びた。あの場で、桜華が攫われる、あるいは攫われたことになることは決まっていた。無用な危険に善良な市民を巻き込むべきではないからこそ、天音聖來を置いていったのだ。

 そして朧げな予感が自分でも認めがたい疑念へと変わったのは、あの動画だ。天音聖來がワクチンの効果を証明するための見世物とされ、〝脳男ブレイン〟はカメラの前に現れた。たぶん無意識のうちだろうが、桜華はカメラや聴衆に姿を晒すとき、僅かに左側を向く癖がある。それはもちろん二年半前に負った皮膚移植の微かな痕を隠すための行為に他ならない。

 いや今思えば仮面をかぶっているのだから、痕を隠す必要はない。桜華は公龍に気づかせるために敢えていつもと同じように顔を背けていたのかもしれない。

 公龍を理解し尽しているからこそ、公龍が真っ先にここに辿り着くと予想し、実際にそうなるようにヒントをばら撒いていった。桜華と公龍にしか分からない秘密の符号。それは甘美に響く言葉だったが、それ故にあまりに破滅的で痛みを伴うものだった。

 そして桜華は今、正体を暴かれ、ここでこうして過去を語っている。その優しい微笑みは、二年半前までの幸せな時間と、どんな些細な違いさえもなかった。

 桜華の歩んできた時間に、断絶はなかった。それは地続きで繋がっていた。公龍の愛した桜華の延長線上に、史上最悪のテロリスト〝脳男ブレイン〟としての桜華は立っている。

 だからこそ、分からなくなった。

 世界でたった一人、愛したはずの女が、何か得体の知れないものに思えて仕方がなかった。


   †


「…………イイ気分、なのダよ」


 半ば崩壊を遂げた顔貌で、アイアンスキナーが呟いた。アルビスは顔を上げ、戦いを終えた今となってはもはや敵でも何でもない男へと視線を向ける。


「戦イのなかで生き、戦いのナかで死ヌ……これ以上の幸福ナど、考えらレないのだね」

「そいつは良かったな。……私は全身激痛だらけで最悪の気分だ」


 アルビスの皮肉に、アイアンスキナーが微笑む。表情筋を動かしたせいで目尻の皮膚がべろりと剥がれて床を汚す。


「それは、生きるかラなのだよ、アルびス・アーベント。生きるコとは痛み。肉体も、精神モ、痛みに生かサれ、痛ミによっテ、朽ちて逝ク……」


 アイアンスキナーの言葉に、今度はアルビスが笑みを溢す。単なる妄言、変質者の狂った思想と断じることはできない。アイアンスキナーの言葉は、何よりアルビスにとっては真実に他ならなかったから。

 アルビスの薄青の瞳が遠い過去を映す。忘れたくても忘れられず、今なお胸のうちを黒い炎で焦がし続ける忌々しい記憶だ。

 震災が起きるよりも前、アルビスは母と二人、この国から放逐された。生きる術もなく、貧困と病のなかで母は死に、アルビスだけが生き残った。だが生き残っただけで、生き抜くには何もかもが足りなかった。

 アルビスは力を求め、武術の門を叩いた。戦う術を学ぶとすぐに出奔し、生きるために戦場へと赴いた。傭兵として戦場での経験を積み、生き抜くための力と術を手に入れた。

 そして二年前、医薬至上社会として発展を遂げた故郷へと戻ってきた。

 思えばアルビスの人生のこれまでは、痛みばかりだった。

 擦り減り、切り刻まれ、嬲られ、そのたびにアルビスは力を求めて強くなり、自らを固く研ぎ澄ませていった。

 ただそれだけの人生。

 それはきっと、今目の前で朽ちようとするアイアンスキナーの人生とそう変わらないのだろう。

 単なる運命の巡り合わせで今の立ち位置があるだけで、朽ち果てるのがアルビスだったとしても何も不思議はないのだ。


「生きルのダよ、アるビス・アーベんト。私と、同ジ目を、シている者なノダよ。痛みヲ、負うだケの生を、ソの身が朽ちル最後の瞬間まデ、生きるノだ……」


 それはまるで呪いのようだった。だが同時に救いでもあった。痛みを抱えて進むしかできない不器用な男の、背をそっと押すような言葉だった。

 その先に待つのが安らぎの眠りか、どす黒い奈落かは分からない。あるいは進んだ道の先に、果てなどないのかもしれない。


「……最後に一つだけ、貴方の名を、聞いても構わないか?」


 もう二度と、返事がもたらされることはなかった。

 雨の音に紛れて、サイレンの音が響いていた。

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