12/Dancing with the blood《4》

「ぬぐぅううううううあああああああああああああああああああああああああああああああッ!」


 アイアンスキナーの絶叫が響く。頬がどろりと溶け、左眼球が零れる。胸に突き立てられたアルビスの腕を掴んだ右手はミイラのように干からびていく。

 打ち込んだのは無色のノンカラードアンプル。あらゆる特殊調合薬カクテルの効果を無効化する、数多ある特殊調合薬カクテルのなかでもことさらに特殊な薬だ。

 アルビスは、以前に汐に確認した通り、アイアンスキナーはキチン質の肉体の維持に多量の薬物を用いているはずだと踏んでいた。ならば無色のノンカラードアンプルによって投与されている薬の効果を解除できればアイアンスキナーの肉体は崩壊する。

 賭けであることに変わりはなかったが、勝算は高かった。

 アイアンスキナーの右脚は火傷を負ったように爛れ、左脚はキチン質を突き破って中の組織が膨張している。もう戦うことはできないだろう。肉体全てが朽ち果てるのも時間の問題だ。

 アイアンスキナーの手を振り解き、腕を引き抜く。いつの間にか緋色クリムゾンのアンプルの効果が切れて血塗れの姿に戻っている公龍と身体を支え合いながら、倒れ込むように地面へと座り込む。

 紙一重の勝利だった。おそらく一〇回戦えば九回は負ける。アイアンスキナーはそれほどの強者であった。

 隣りでは公龍がアルビスに向けて拳を掲げていた。


「……何だそれは」


 アルビスの冷たい視線に、公龍が露骨な嫌悪に顔を歪める。


「お前と一瞬でも通じ合ったと思った俺が馬鹿だった。アルビス、てめえはやっぱり血の通わない冷徹クソ野郎だ」

「気味の悪いことを言うな。それにまだ、終わってないだろう」


 アルビスは言って、天井を見上げた。アイアンスキナーは結末の前に立ち塞がる障害に過ぎない。本当の目的は、まだ果たされてはいないのだ。


「早く行け。お前にはまだやるべきことがあるんだろう。私はここで一足先に休みながら、ミス・アスカと共に警察でも説得しておく」

「けっ、全部お見通しか」

「お前の態度を見ていれば、なんとなくな。…………公龍、ケリをつけて来い」


 アルビスは懐から、残しておいた鉄灰色アイアングレーのアンプルを投げ渡す。


「……言われなくても、そうするよ」


        †


 公龍は満身創痍の肉体に鞭をいれながら、止まったエスカレーターを上がり切る。アルビスに渡された鉄灰色アイアングレーのアンプルの効果でなんとか保っているとは言え、公龍の歩いてきた後には血痕が色濃く尾を引いている。

 辿り着いたのは一八階。授業以外では学部会議や学会発表などでも使われる大きめの部屋が並ぶフロアだった。

 内装は公龍が学生だったときと変わらない。壁に埋め込まれた掲示板には、サークルの勧誘や研究室の紹介などの映像が次々と流れていく。壁際の自販機には、相も変わらず全く売れないだろうマムシジュースが桁違いの値段で売られている。

 突き当たりの通路を右に曲がる。そこに一八〇二番室――かつて新薬の研究発表会が行われ、公龍と桜華が初めて出会った大教室がある。

 扉に手をついて、荒れた呼吸を整える。心臓が早鐘を打っているのは、何も肉体が疲弊しきっているからというだけではなかった。

 ようやく、辿り着いた。

 あの日から壊れ、動かなくなってしまった時間を、再びここから刻んでいくために。

 公龍は最後に深呼吸をして、重たい扉をゆっくりと押し開けた。



 室内は暗かった。電力供給は落ちていたが、薬学部棟らしく独立したシステムで稼働する空気清浄機だけは動いているらしく、空気は息を吐くのが申し訳なくなるほどに澄んでいる。どういうわけか誰もいない檀上だけはまばゆくライトアップされていたが、乱反射して可視化される埃や塵の類は一つとして存在しない。

 公龍はゆっくりと室内を見回す。

 最下手の前から三列目。ついに追い詰めたローブ姿が見えた。

 他にはどんな姿もない。予想ではあともう一人、姿が見えてくれればと思っていたが、この再会にノイズはいらないというのが〝脳男ブレイン〟の描いた筋書きらしかった。

 まあいい。この棟の何処かで拘束されているだろう残りの人質は、警察なりアルビスなりが放っておいても勝手に救出してくれるはずだ。


「「「――やはり君が辿り着いたか、九重公龍」」」


脳男ブレイン〟は公龍の方を振り返ることなく、例の不気味な合成音声で言った。

 公龍は何も答えず、通路を進む。


「「「君がここにいる、ということは、あれは死んだのかな」」」


 奇異な合成音声のせいで感情は読み取りづらいが、〝脳男ブレイン〟の声に落胆や哀しみは一切感じ取れなかった。死力を尽くし、その結果としてアイアンスキナーが倒れることもまた、描かれた筋書きなのだと言わんばかり。

 沈黙が降り、公龍の足が床を擦る音だけが響く。部屋の中央通路を進んだ公龍は、〝脳男ブレイン〟が腰掛ける列まで来て立ち止まった。


「「「さあ、君の勝ちだ。《東都》最強の名に恥じない振る舞いで、この私を止めてみせろ」」」


脳男ブレイン〟が立ち上がり、ゆっくりとこちらを向いた。フードの奥に覗くのは、脳を模した仮面。抵抗する気はないとでも言いたげに、あるいが優雅に挨拶をするように右腕を横へ広げる。あるいはその様は、ここで公龍に殺されることを望んでいるようにも思えた。

 いや、事実としてそうだった。

 ここで《東都》の平和という大義名分のもと、公龍によって殺されることで〝脳男ブレイン〟が描いた筋書きの全ては完成を迎える。

 公龍は気の抜けた溜息を吐く。


「お前の目論見は全部分かってる」


 立っているのも限界だったので、投げ出すように座席に腰を下ろす。そして、無意味に照らされる檀上を見つめながらこう続けた。


「――もうやめにしようぜ。桜華」

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