第305話 老調査官
与えられた個室は臭かったが、それでも悪い待遇ではなかった。
清潔に掃き清められていたし、布団もきちんと手入れされたものが置いてある。
僕はローブを脱いで布団に寝転がり、すぐに目を閉じた。
睡眠の不足を取り戻すように眠気は襲いかかってきて、僕の意識は途絶えた。
夢の中で、僕は女性に触れていた。
誰のものか、さわり心地のいい肌に鼓動は早まり、いざというところで目が覚める。
「キィ」
顔をのぞき込むようにコルネリが首をかしげた。
格子の入った窓から身を滑り込ませたのだろうオオコウモリに、僕は恥ずかしくなって股間を隠す。
「や、おはよう」
照れ隠しに言って、彼をなで回していると扉が叩かれた。
「失礼するよ」
入ってきた老調査官はベッドで巨大なコウモリとたわむれる僕を見てギョッとした表情を浮かべる。僕の気まずさが伝わったのか、コルネリもしゅんとした表情になってごそごそと僕の背中に回り込んだ。
「なにか解りましたか?」
僕はベッドに体を起こし、縁に腰掛けると本当はコルネリがくすぐったかったのだけれど、つとめて平静に質問した。
「センドロウ商会に確認したところ、ビウムというお嬢さんは顔を出していないとのことだ。しかし、それもどうだかな。明らかに何者かが暴れた後があったから、なにかはあったらしい」
老調査官は皮肉な笑みを浮かべながら頷く。
と、いうことはビウムに何ごとかあり、マーロが揉め事に巻き込まれたのだろう。
「誰が暴れたのかとか、解りますか?」
「さて、一応それも聞いてみたが、何も応えちゃくれなかったよ。まあ連中にも意地があるわな」
用心棒を大勢抱えて商売をしているのだ。
店の中で暴れた無法者を放り捨てておけば、周囲の者に舐められ、今後の商売に関わる。
マーロが捕まっていれば凄惨な拷問を受けて始末されるだろう。彼女が捕まっていないことを願わずにはいられない。
「そんな余録はどうでもいいんだ」
老調査官の表情はスッと厳しくなった。
「アンタが捕まったときに転がっていた死体、ありゃセンドロウ商会から前線に売られた奴隷だな」
「知らないですけど」
僕はうんざりした表情で答える。
なるほど、ノッキリスは国境の向こうで購入した奴隷を前線に売ると言っていた。しかし、それ以外の地区から集めないとは言っていない。
アーミウスで販売された奴隷なら顔見知りのある死体もあったのだろう。
「国の存亡にかかる大事な話だ。外国から来た学生風情が関わる事じゃねえ」
「僕も一方的に襲われて困っているんですけど、無縁でいさせて貰えますか?」
僕の言葉に老調査官は舌打ちをして頭を掻いた。
「それは無理だ。あの連中が考えることは俺たちにはサッパリわからん。場合に寄っちゃ旅人なぞひっそりと処分しちまえばいいんだろうが、それが連中の機嫌を損ねないとも限らないしな。アンタを拘留してこっちまで巻き添えを食っちゃ仕方ないという重要な観点も考慮しつつ、俺たちはアンタを解放することにした」
妙な言い回しに、彼らのプライドが透けて見える。
要はムーランダーのような連中と関わり合いたくないのだ。
つまり、あの怪人たちはこの国の守護者でありながら一般人には敬遠されているのだろう。
と、廊下から若い男が駆け込んできた。
「アナンシさん、こちらにいましたか!」
その男を見て、老調査官がため息をこぼす。
「なあ、センドロウ商会のお坊ちゃん。いかにアンタが御用商人の有力者でも男爵府に乗り込んでくる権限はなかろうぜ」
嫌味は並べるものの口調は弱い。
彼らの力関係に差があるのだろう。
「すみません、しかしこちらは僕の恩人ですので一刻も早く再会したいと焦っていました。どうぞこちらでお忘れください」
ノッキリスは革袋を懐から取り出すとそのまま老調査官に押しつけた。
老調査官はそれを受け取り、僕にチラリと視線を向ける。
「まあ、商会の坊ちゃんが身請け人なら滅多な事もあるまい。出て行っていい」
金を貰う前から決まっていた事を、さも特別に取りはからったかのように言って老調査官は顎をしゃくった。
僕に早く出て行けと言いたいのだろう。
別段、逆らう理由もないので僕は立ち上がってリュックを背負った。
「どうぞアナンシさんこちらへ」
先に立って歩くノッキリスについて歩きながら僕は建物を出た。
連れてこられた時に見たのだけど、男爵府は宮殿といえども質素でそれほど大きくはない。僕がかつて寝泊まりしたお屋敷と同じくらいだろうか。目見当でそんな当たりを付ける。
門の前には数人の男たちが屯しており、ノッキリスに気づくとワラワラ集まってきた。
「坊ちゃん、こいつですかい?」
いかにもな用心棒は頬が大きく裂けていて痛々しかった。
よく見れば彼らは皆、大小の怪我を負っている。片目が腫れてふさがっている者もいれば、前歯を折られている者もいる。
ノッキリスは僕の方を向き、先ほどの愛想が嘘のように冷たい表情を浮かべていた。
「アナンシさん、ほんの少し付き合ってください。彼らはあなたの連れにやられて気が立っています。逆らわない方がいいですよ」
マーロの暴れ具合がよくわかる被害者たちである。
彼女の雇い主として賠償を求めるのであれば、僕じゃなくてブラントに話して欲しいな。
なんてことをぼんやりと思った。
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