第209話 ワデットの記憶

 途中、小さな公園によってベンチに腰掛けた。

 そうしないと、歩けないほどに疲れてしまっていた。

 ゼタに再会して、彼女の事を思い出すと同時にいろんな感情までが巻き起こって、動悸が高鳴る。

 僕がゼタの事を忘れていたのは、おそらくワデットの事を忘れたかったからで、いつも二人で一緒にいたゼタだけを覚えておくような器用な真似は出来なかったのだろう。


 魔法使いの教育機関に僕が生徒として在籍していたとき、ゼタとワデットは数少ない女性で、僕の債権奴隷という身の上も、今となっては信じられないけど、当時は珍しかった。

 この一年の間に、奴隷を冒険者にするケースが激増し、債権奴隷の魔法使い見習いも大勢増えたのだけど、それ以前は壮健頑強な奴隷を買い求めてから冒険者にするのが普通だったので、債権奴隷の冒険者はほとんど戦士職に限られていたのだ。

 それで周囲から浮きがちだった彼女たちと、僕は時々一緒になって食事をしたりした。

 ゼタはいつも怒ったような顔をしていて、怖かったので僕が話しかけるのはいつもワデットだったし、ゼタの方も僕をあまり好ましく思っていないようで、ワデットとしか話さなかった。


 喉の奥から吐き気がこみ上げてきて我慢できなくなり、僕は両手で顔を覆うと、ベンチに横になった。

 ダメだ。しばらく動けそうにない。


 教育機関を卒業してから、ゼタに会ったことは無かったのだけど、ワデットは一度だけ迷宮内で見かけた。

 シガーフル隊が初めて地下二階に降りた日の事だ。

 そのときには彼女は死んでしまっていたし、死体の損壊もひどくて僕は彼女の名前もその場では思い出せなかった。

 図らずも地下三階に降りてしまった僕たちは恐怖に飲まれてあやうく仲間割れをするところだったし、僕はそれを取りなすのに必死でワデットの事にそれ以上気を払う余裕が無かったのも事実としてある。

 ただ、地下二階から地下三階に落ちる落とし穴に彼女とその仲間たちが落ちて死んでいなければ、続いて落ちた僕たちがそこで死体になってしまっていただろうことは容易に想像がつく。

 彼女が死に、僕が生きているのは本当に些細な違いであって、落とし穴に落ちる順番がたまたまそうだっただけである。

 色素の薄い茶色い髪も、本人が気にしていたソバカスの顔も何もかもがすでにグチャグチャで、僕たちはそんな彼女を葬るどころか、死体を餌にして魔物を倒したりもしたのだ。

 大きなカエルが彼女の死体をむさぼる様を思いだし、僕はついに耐えきれなくなった。

 公園の隅まで行き、腹の中身をすべてその場にぶちまける。

 涙と、鼻水と、胃液が僕の顔をひどく汚した。

 手ぬぐいで顔を拭くと、僕は再びベンチに寝転がり空を見上げる。

 結局、ワデットは未帰還ということで一定期間の後に冒険者組合の名簿から抹消されたはずだ。同時に彼女の故郷には死亡通知が送られた事だろう。

 今でも余裕は無いのだけど、輪をかけて余裕の無かったそのころの僕は彼女の死を積極的に忘れる事しか出来なかった。

 でも、もしかするとゼタにとってはそうでは無かったのかもしれない。

 同期の連中の大半が死ぬか去るかした迷宮に潜りながら彼女はまだワデットのことを覚え、心にとどめ続けているのだろうか。

 結局、僕はワデットの死を弔ってもいない。そうして、今の今まで存在さえ忘れていたのだから、ゼタに友情を捨てた裏切り者と罵られてもしかたがない。


 もしかしたら余裕が僕の心を浸しているんだろうか。

 以前の僕なら誰に何を言われても、死ぬよりはマシだとして聞き流したはずだ。

 そうして、そのためなら何でも捨てられた。

 今となっては捨てられないものも増え、使える魔法は増えたにも関わらずとれる手段が減ってはいないか。

 ひょっとして僕は今、死の縁に立っているのかもしれない。

 迷宮に入ってくる中で、何より生き延びることを優先し、辛くも生き延びたことが何度もあった。

 余裕なんか見せている場合か。

 自分の態度に気づいて腹がたった。すべてを捨てて生きることのみに腐心するのが正しい。冒険者としては。

 しかし、同時にそれは人間を辞める道でもあり、邁進すれば戻れなくなる。

 死んだ友人を思い続ける彼女と、忘れる僕。はたしてどちらが正解なのだろうか。


 答えが分からず、僕はしばらく逡巡していた。

 

「よい、アイヤン。なんば黄昏とっとね?」


 雰囲気をぶちこわす特有の言葉に僕は少しだけ、ありがたみを感じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る