第203話 結婚前夜

 ガルダはご主人に因果を含めると意気揚々と帰って行った。

 残されたご主人は顔の前で腕を組んだまま渋い表情を浮かべている。

 横で聞いていたのだけど、この小心な男が今後、ガルダの無茶な計画において中心に鎮座する事になる。

 明らかに胡散臭い計画なんて度胸がないのなら聞かなければよいのに、馬鹿にされるのは我慢ができないのだから救いがなくなるのだ。

 馬鹿にされるだけされた方が相手の油断も仏心も引き出せて便利なのだけど、なまじ育ちがいいからそれを許容できない。

 そうして、半端な男気で食い物にされてしまう。

 だけど僕だってご主人に食い物にされている訳だからあまり同情していても仕方がない。

 

「じゃあ、僕もこの辺で失礼します」


 ガルダが去り、十分な時間が経過した事を見計らって、僕も席を立つ。

 道中二人きりというのはどうあっても避けたかった。

 

「待て、お前も一杯付き合っていけ」


 ご主人はご機嫌とは言えない口調で言うと、キャビネットから高そうな酒瓶と大ぶりのグラスを二つ取り出した。

 透明なグラスは遙か西の方で生産される貴重な工芸品である。具体的な価格は知らないけれど、少なくとも奴隷なんかに触らせる物ではないだろう。

 ご主人は気にせず、二つのグラスに酒を注ぐ。

 その色は酢を濃くしたような色で、透明のグラスに映えた。

 だけどそれを飲むか飲まないかは別である。


「あの、僕ちょっとお酒とかは……」


 思い返せば酒に弱くて、ろくな目にあわない。

 はっきり断った方がいい。

 だけどそれを聞いたご主人の顔は見る間に萎れていき、今にも泣き出しそうだった。

 なんだよ、奴隷の前でそんな表情をするなよ。

 断りきれず、差し出されたグラスを受け取る。

 ご主人は苦そうな顔をして杯をあおった。

 僕も一応手に取って匂いを嗅いでみるのだけど、鼻がツンとして飲めそうになかった。

 だいたい、ご主人だって酒に弱いんだからこんな強そうな酒を勢いよく飲んだら駄目だろう。

 だけどご主人はすぐに自らのグラスに酒を満たし、半分ほどを飲み下し、熱い息を吐く。


「俺はな、商人の端くれとしてやれるだけの事をやらずにはおれんのだ。だが、法を犯してまで成り上がりたいとは思っておらん!」


 そういうのはガルダに向かって吐けばいいのに、今になってから僕に言われてもどうしようもない。

 ご主人のグチを聞き流しつつ、何度かグラスの匂いを嗅いでいると、思ったよりも早くご主人の頭には酔いが回ってきたようである。

 潰れるのを待つか、あるいは前後不覚になれば帰っても怒られないだろう。

 果たして、間を置かずに目の焦点が定まらなくなったご主人が出来上がり、僕は席を立った。

 一階にいる店員にでも任せればいいだろう。

 

「ちょっと待て」


 ドアノブに手を掛けた僕の背中に声が掛けられる。

 振り向けば、応接ソファにだらしなく横たわったまま、ご主人が呻いた。

 

「俺の手駒で、アイツに対抗できそうなのはお前しかいないんだ。絶対に死ぬんじゃないぞ」


 言われるまでもなく、死にたくはない。

 しかし、ご主人はいざと言うときには僕をガルダにぶつけようとしているのだろうか。ガルダと僕では搦め手の手管でも劣るし、正面から込み合えばノラに斬られて終わりだ。過大評価はやめて欲しい。

 僕はなんと言っていいのかを少しだけ考えたのだけど、結局わからなかったので黙ったまま部屋を出た。

 ご主人はわずかの間に眠りに落ち、既にイビキをかき始めていた。

 


 結局、空腹のままだという事を思い出し、店舗で五、六個のパンを貰うとルガムの家に足を向けた。

 玄関を開けると、ルガムは真っ暗な食堂のテーブルに座っていた。

 ルガムの視線が無言のまま僕を追い、やがて僕たちの視線は正面からぶつかる。

 僕は机にパンを置きながら話しかけた。


「子供たちは?」


「もう寝た」


 ルガムは萎れた口調で答える。

 とはいえ、部屋が暗い時点でわかっていたことでもある。

 僕やルガムにとっては十分に動ける暗闇でも、子供たちにとってはそうではない。

 金がかかる灯りを節約して早く寝るのは困窮した家では当然の事でもある。


「昨日は遅くまで起きていたしね。ルガムは寝なくても大丈夫?」


「胸が苦しくてさ、眠れないんだ。なんていうか、上手く言えないんだけど、まだ胸に穴が空いたままのような……」


 胸の穴から生気が抜け続けているような彼女の顔が元に戻るまでどのくらいの時間が必要なのだろうか。


「全部忘れてゆっくりしなよ。ほら、パン食べない?」


 僕は持ってきたパンを勧める。

 しかし、ルガムはゆっくりと首を振った。

 

「腹は減ってるんだけどね。なんだか煩わしいんだ。面倒くさい」


 僕はパンを齧り、飲み下しながらその返答を聞いた。

 死を経験したこともない僕に、彼女の苦痛は計りきれない。

 心に着いた傷はおそらく回復魔法も癒せないだろう。

 

「あのさ、延び延びになってたんだけど、結婚しようよ。明日にでも」


 奴隷の立場を脱してから、と思ってはいたのだけど、どうもいくら待ったって僕の借金は返せないようになっているらしい。

 それならいっそのこと諦めて先に進んだ方がいいし、早い方がいいのではないか。

 僕の提案を受けて、しかしルガムは微妙な表情を浮かべていた。

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