第131話 『老人』
エランジェスの右腕、『老人』ハンクは目の前で行われる残虐な日常を眺めながらため息を吐いた。
また手間がかかる。
場所はエランジェスが経営する商会の執務室、通称謁見の間である。
置かれた家具はエランジェス用の大きな机と椅子しかない。
都市でも有数の富豪が居座る部屋としては簡素すぎる。
部屋の広さも大きなものではない。
そのなかでハンクはエランジェスからもっとも遠い壁を選んで寄りかかる。
『老人』の名が示すとおり、ハンクの年齢は組織内でもっとも高い。
横幅があり、いかつい顔は眉間も目尻もシワだらけである。
しかし、手入れを怠らない艶のある長い黒髪を後ろに束ね、派手な柄物の開襟シャツと丸太のような腕には小じわのひとつも存在しない。
ハンクを後ろから見れば誰も彼を『老人』とは思わないだろう。
そのハンクの眼には三人の人間が映る。
縄でぐるぐると巻かれ、身動きできないようにされて転がされた男女。
それから彼が仕えるエランジェスである。
引き締まった細身の長身を高価なスーツに納め、緩やかにウェーブが掛かった黒髪と浅黒い肌。
切れ長の目と並びのいい真っ白な歯。
女衒としてはなるほど、これ以上はないだろう。
いつも浮かべている気味の悪い薄笑みを差し引いても、彼に従いたくなる女は多い。
涼しげなエランジェスとは対照的に縛られた男は顔面をボコボコに腫らして脂汗を流している。
「ああ……と。なあハンク、コイツの名前はなんといったかな?」
不安そうな男女を見下ろしたままエランジェスが尋ねた。
「ムーフイです。エランジェスさん」
ハンクは恭しく答えた。
言動には細心の注意が必要だ。
長く付き合っているハンクでさえ、エランジェスが何に噛みつくのかわからないからだ。
「ほう、それでこのムーフイ君が俺の執務室で哀れに転がされているのは何でだったかな、ハンク?」
言うが早いか、エランジェスのつま先がムーフイの鼻面を蹴り飛ばした。
ムーフイの口から歯が飛び、遅れて大量の血が吹き出る。
「勘弁してくださいエランジェスさん、金は払いますから!」
哀願するムーフイを再度蹴りつけて黙らせると、エランジェスは薄ら笑いを浮かべたままハンクを見た。
ハンクはその顔を正面から見る度に背筋が寒くなる。
「ムーフイがその女を使って客をとっていたからです。エランジェスさん」
ハンクはできるだけ淡々と答える。
エランジェスの前で喜怒哀楽を示すのは避けたかった。
「ほっほう。この都市で俺を通さずに街娼の真似事をしていたわけか。それで、何度警告を入れてやった?」
「二度です。エランジェスさん」
ムーフイは余所から来たゴロツキだった。
女をたらし込んでヒモに収まり、それだけでは飽きたらずその女に身を売らせていた。
さらには、同じ様なゴロツキ仲間を集めて徒党を組んでもいた。
当然、この都市でそんなことをすればハンクの耳に入らないわけがない。
万事平和主義を旨とするハンクは早急に配下の者を派遣して街娼をやめるか売り上げの何割かをキュードファミリーに納めるよう告げたわけだが、ムーフイはこれを拒否。
遣わされたチンピラを叩きのめして追い返し、ボスを連れて出直してこいと啖呵を切ったらしい。
ここに至っても事を荒立てる気のなかったハンクは部下を引き連れムーフイの元に出向き、誠心誠意をもって説得をした訳であるが、それでも拒否されたのでしかたなく彼を連れて帰ってきたのだった。
「コイツの仲間はどうした?」
「全員処分しました。エランジェスさん」
ムーフイが率いていた十名ほどの男女はその場で殺し、近隣でファミリーが営む農場に送った。
明日の朝にでも解体され豚か鳥の餌になるだろう。
「ふん、じゃあ後はこの二人だけか」
エランジェスの長い足の、その革靴のつま先がムーフイの顔面を蹴り飛ばす。
ムーフイが獣の様なうめき声をあげるのを見てハンクはやりきれない気持ちになった。
眼球を潰されるのが嫌ならばなぜ、そうされない様に行動できなかったのだろうか。
そうしていればまだ若い男女が十名も死なずに済んだ。
なかにはハンクの孫といってもおかしくないような幼さの残る少年も混ざっていたのだ。
強者に逆らうべきではない。 そうすれば皆が平和に暮らせる。
それは強者の独善的な意見だとハンクもわかっているのだが、それでも現実である。
もはや愛人の醜態を見て泣くしかできない情婦の方にとっては不運だったと思ってあきらめて貰うしかない。
「それで、おまえはどうするべきだと思う?」
エランジェスの問いは、実のところただの確認作業に過ぎない。
ハンクはエランジェスの望む回答を返すだけだ。
「見せしめにするべきです。エランジェスさん」
エランジェスの喉が動き、クックック……と一際楽しそうな笑いが漏れる。
エランジェスは自らの顔を手で押さえながらひとしきり笑い続けた後、笑いながらクローゼットを開けた。
中から柄が長い両手持ちの金槌を引っ張り出すと、振り上げたときには笑みの代わりに憤怒の表情が浮かんでいた。
「どいつもこいつも、俺のことをなめやがって!」
金槌は男の腰に振り下ろされた。
武器ではなく建築用の金槌である。
頭を殴らない限り即死はしない。
悲鳴を上げる男の足や腕、背中に金槌が降り下ろされるのを見ながら、ハンクはこの死体の大通りへの運搬とこの部屋の片づけ、それから各種役人に配る付け届けの手配で頭が痛くなった。
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