境界線


 ジロは魔界に行く直前にこの家を訪ねている。家の様子に特に変わった点はない。部屋の一角にある棚が、ジェリウスの体調不良が公になって以来の常で、今日も見舞いの品で溢れかえっていた。


 ジロの視線に気づいたジェリウスが棚へと歩み寄る。ジロも一緒に棚へと向かう。

「これは……確か何とかっていうモンスターの干物だ。こっちは魔界ミミズを乾燥させて粉末にしたやつらしいぜ。こいつぁなんたらとかいう有名な薬士が作った秘薬で、これが……なんだっけな、飲んでみっか」

 濁った色をした粘泥にしか見えないドロドロしたものをジェリウスは時間を掛けて咀嚼するように飲み込んでいく。


「クッソ! まじぃ……。本調子に見えるようになったか?」

「全然。相変わらず、死にかけのままかな」


 ジェリウスの容態が悪くなっていく中、ジロが辛気くさい態度を見せると容赦ない拳骨が飛んでくる。

 ジロの言い様に対し、カカカッ! っと笑う声もジロがよく耳にしていた以前の頃のジェリウスの高笑いよりも随分と弱々しい。

 笑い方が変わらないだけ、その強弱が際だち、ジロの心をズンっと重くする。

(こんな身になっても……やはり)

 突然、ジェリウスの手が振り上げられる。

(しまった。……来た)

 手は拳骨げんこつとなって、そのままジロの頭に振り下ろされた。

「俺とてめえはそんな関係じゃねえだろう?」

 ジロのわずかに滲み出たであろう悔恨かいこんの念を察したジェリウスが、ジロを拳骨でしかった後、今度は楽しげな口調でジロをいつものように叱った。


「あの穴蔵世界樹の根の中で誓ったろう? これはテメエの責任じゃねえ。俺様がやりたいようにやった結果よ。こんな状態だが楽しいんだぜ? とんでもねえ呪法祝福にあらがい続けてるんだからよぉ俺様は」

「この棚の見舞いで、……師匠の体に効くような物はあるのかな?」

 ジロ自身よくは覚えていないが、前回の訪問よりも品数は増えているように見えた。


「さぁな。……なんともならねえだろうな。テメエも知っての通りにな」

 ジェリウスがジロに向かって見舞いの薬を放り投げ、ジロはそれを受け取り一瞥する。一点の曇りもない透明なビンが中の薬が呆れるほどに高価な物だという事実を物語っている。

 ジロはそれを同じように高価な薬や薬品で溢れかえった棚の中へと無造作に戻した。


「俺とカルラテメエ以外はこの体の事情を知らねえからよぉ。プー公やらワン公、ジャイロにアンナにティン、死にたがりのルースまでもが。皆が皆、色んなモンを好き勝手に置いて行きやがる。

「そうそう、エースの奴も来やがったんだぜ? 近くを通りかかったからついでだとよ。『利用しがいがあるように回復してくれないと、先行投資が無駄になる』だとよ。あれは本心だろうが、いっそあっちの方がよっぽど清々しいぜ」


(エース。本名は俺どころかティコ・ティコの全員さえも知らないらしい。その性根はプーセルが言うには悪だが、常識はあるからプーセルも重宝しているらしい……。でも、その言い様は……、俺の師匠に向かって、その言い草は……なんなんだ)


ジロの心の奥底でマグマのように煮えたぎり始めた感情が湧いて出る。軽口だというのは理解できる。先程ジロがジェリウスに死にかけと言ったのと同じ事だ。


 だが……魔界行以外のメンバー外であったエースの言い様に対しジロは明確な殺意を持った。


(エースとは一度だけ作戦行動を共にした事があったな。確か……師匠やウーさんほど強くは無かったが、あの頃俺よりも数十段は強さの高みにいた……はずだ)


 そこまで考えた所で、ジロはどうしてもエースの顔が思い出せない事に気がついた。

 ジェリウスの先ほど口に出した名前を一つ一つ思い出していく。

(エース……憶えていない、ティン……憶えていない、ルース……思い出せない。

 ジャイロ……プーセルの右腕……顔は……思い出せない)


 奇異な事であったが、ジロは魔人化が進む自分にとって、大事な存在の区別する方法が解ってきた気がした。


(アンナ……黒ずくめの姿と……)

 ジロはアンナの端正な顔をおぼろげに思い出す。そして声や口調も覚えているような気がした。


 ジロは内心首をかしげたが、得心した。

 アンナとは幽界で数週間、一緒に過ごした事実がある。

 奇抜な方法で厳重な国境封鎖の警戒網をかいくぐり幽界入りを果たし、プーセルに貴重な情報をもたらした事を今さらながらに思いだした。


 アンナ以外のメンバーとは、帰国後、プーセルの雑用を手伝うようになってティコ・ティコ本部や作戦現場で顔を合わせたに過ぎない存在であった。


 時間的にはアンナよりもジャイロと過ごした時間の方が圧倒的に多かった。


 幽界で受けたティコ・ティコへの恩を返すべくジロ・エリカ・リーベルトはプーセルの提案により準構成員でもなく非構成員となった。

 そして時々、プーセル肝いりの作戦などの時、信頼を置ける手駒として、ティコ・ティコの小間使いのような役割を時々与えられる事となった関係上、ジャイロとは帰国後ティコ・ティコ内で一番時間を共有してきた存在であった。


 だが、それでもアンナを憶えていて、覚えているはずのジャイロの容姿を思い出せないというのは、やはり自分が守護する対象選択に幽界の事が大いに関係しているのだとジロは確信した。


 ジェリウスは今、ご機嫌で仲間達の見舞いの様子をジロに語って聞かせている。


 ジロの中で、声も顔も体格も憶えていない、知識だけでしかジロの脳内に残っていないエースに対する憎悪の念が加速し、段々と強くなっていく。


 しかしジロの顔は笑っている。


 本気になれば、ジロは誰にも心の内を読まれない自信があった。

 幽界行の苦痛、麻薬に侵された体の治療により苦痛に耐え抜き、それを隠す術を嫌というほどに体得していた。


(心配顔は隠しづらいみたいだな……。……もっと練習が必要だ)


「……エースさんらしいね」

 誰とも知れない人間を語る口調に違和感は一切ない。


「あん? あぁ、まぁな。それよりも、おもしれえ事にウーなんかは最新式の化学やら魔法技術の粋を集めたようなポーションを、どっかからか仕入れて持って来やがる。あんなナリで獣臭を撒き散らしてるくせによぉ」


 ジロの脳裏にウーの姿、声、仕草、癖、考え方などが次々と雪崩をうって溢れかえる。


 ジェリウスは楽しげにウーの最近の様子を語り始めた。

 それを見るジロも心が浮き立つ。例えその数瞬前までエースを殺す現実的手段を考えていたとしても、幽界行のメンバー達の様子を聞くと心が瞬時に切り替わる。


「それに比べてマリアの奴は、さっきの干物とか、胡散臭ぇもんばっかり持って来やがる。元高位の神官様がだぜ?」

「でもマリアならすんなり納得できるよ。ウーさんも……考えてみれば、ティコ・ティコいちのインテリだから納得だね」

「おうおう、俺様を差し置いて一番のインテリ様とは良く言った。よし、殴ってやる」

 ジェリウスの拳を今度は手の平で受け止めて、ジロは声を出して笑う。

 それは作ったものではなく、自然と出てきた笑い声であった。


「ゾゾ出の小汚い出身の師匠が、いくらインテリぶっても、ウーさんの足元にも及ばないよ。師匠だってそれを自覚するから俺に怒るんだろう?」


 ジェリウスのつま先が即座に飛んで、机の下のジロの向こうずねを強打した。

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