⑧「闇への序曲」

第九十二話 セリナの憂鬱。

 夢見が悪かったようだ。

 どんな夢かは覚えていないが、胸の中に渦巻く不快感が残っているのは間違いない。

 セリナは少し不機嫌なため息をもらした。

 胸の上に横たわっている男の腕を押しのけて、セリナは身を起こした。午前4時43分。まだ起きるには早い。

 だが、もう一眠りするにはシャワーを浴びたかった。シャワーなど浴びてしまったらしゃっきりと覚醒してしまう危険もあったが、それよりもこの不快な汗を流したい。

 それに、ここから先は一人で眠りたかった。

「悪いけど、起きて」

 セリナは隣で眠っている男に声をかけた。男は鍛え上げられた上半身をゆっくりと起こすと、無言でうなずいた。いつもの事なのだ。

 セリナはベッドサイドに落ちていたバスタオルを裸体に巻きつけると、シャワールームへ消えた。


 バスタブにぬるめの湯を張りながら、セリナはまず熱いシャワーを浴びた。

 このもやもやした気持ちは何だ。現状に対する不満か。先日の筑波奪還作戦における評価は思った以上に高かったと言える。自分達の待遇についても文句はない。ただ、心に正体のわからぬ穴がぽっかりと開いているだけだ。

 シミュレーション訓練の成績がアインやドライと比べて伸び悩んでいるという問題もあるが、それはセリナにとってはさして重要な問題ではなかった。

 何かが今までと変わってしまっているのだ。

 光が丘の地震まではこうではなかった。もっと充実して、楽しく生きていたような気がする。

 上司に目をかけられ、さらに上の立場の者に好かれ……。

 一足飛びの昇進などはなかったが、現場にいる同僚からも「経営陣とのパイプを持つ存在」として一目置かれ、最初に目をかけてくれた上司はいつの間にか自分を遠巻きに眺めている「その他大勢」の仲間入りをしていた。

 あの日もそうだ。しばらく会っていなかった事業部長に呼び出されてあの喫茶店に行ったんだ。もう興味を失っていた相手だったけれど。

 あの地震が起きたのは、約束の時間の20分近く前だった。彼はあの地震に巻き込まれたのだろうか。私も時間通りに行っていれば巻き込まれずに済んだのかも知れない。

 あれからもう2週間以上経つのに、会社からは何の連絡もないようだった。当初軍から入れた連絡だけで、それ以降は全く問い合わせなどもないと言う。

 専務は心配していないのだろうか。いつも「君が必要だ」と言っていたのに。

 取締役会の人たちも、事業部長だって、何とも思っていないのだろうか。

 最近会社の中でやたらと聞くようになった、新人女性社員の名前をセリナはちらっと思い出し、すぐに頭を振って打ち消した。

 シャワーのお湯を止め、荒っぽいため息を一つついてバスタブのぬるま湯に身を浸す。

 今の方が充実している。そうに決まっている。

 セリナは自分に言い聞かせるようにそう思った。

 何しろ自分の手で日本を守っているのだ。自分の安全を犠牲にして、人々の暮らしを守っているのだ。

 だとしたら何故。

 会社に入ったばかりの頃のように、わからない事だらけなのがこれほど私を苛立たせるのか。

 もっと組織の事情を知り、何が起きているかを把握してコントロールしたい。

 いや、実際にコントロールするのが私じゃなくても、そのコントロールしている人物に影響力を持ちたい。

 だとするなら、今近づくべきは。

 大榊と宮司、そして五十畑の顔が浮かび、セリナはまず五十畑の顔を消した。

 近いうちに自分達はこの朝霞分屯基地から筑波基地へ異動になる。大榊や宮司は筑波所属となるが、五十畑は朝霞に残るそうだ。なら五十畑に近づくことは困難になるし、意味も薄い。

 続いてセリナは宮司の顔を消した。宮司はハユにめろめろな状態だ。既に男性である事より保護者である事に重きを置いている感がある。このタイプは落とし甲斐はあるが、技術的な事にしか興味のない宮司を落とした所で得る物は薄いだろう。

 大榊なら。

 セリナと同年齢と言う若さで、実質佐官クラスの権限を持つに至った彼の有能さは驚異的だ。だが同時に、彼はセリナが最も苦手とするタイプだった。

 堅すぎるのだ。隙がなさ過ぎる。

 結局セリナは、新しい筑波基地で出会うであろう高位軍人に思いを馳せるしかなかった。

 そう。今の方が充実しているはず。会社にいた頃はあんなに有能だと思っていた男達だって、今私の周りにいる軍人達には全く敵わないじゃないか。

 ……じゃあ、この心の穴は。

 セリナは両手ですくったぬるま湯をばしゃっと顔にかけた。

 彼女は気付いていなかった。ずっと前からその心の穴が存在していた事に。ただ、その穴を刹那的に忘れさせてくれる人物が途切れなく現れていただけだという事に。

 シャワールームの外で、身支度をした男が部屋を出て行く物音が聞こえた。こんな時、出て行く前に声をかけるなどという無粋な真似をしないのは、彼の美点と言えた。まだ公式には発表されていない筑波基地への異動をセリナに漏らしてくれたのも彼だ。彼の立場では知り得ないはずの情報まで持っていたりするのは、彼もまた有能な人物である事の証左であった。

 だが、しかし。

 セリナは水音を立ててバスルームを出ると、身体の水気を拭き取って、鏡に映る自分の身体を眺めた。衰えなどあるわけはなかった。どう見ても20代初頭の肉体だ。引き締まったラインに滑らかな肌。贔屓目ではなく、凶器と言っていいレベルの蠱惑的な肉体。

 セリナはベッドサイドに戻ると勢いよくシーツを引き剥がした。男の香りが残っていた。

 真新しいシーツに取替え、羽毛布団カバーも取り替えると、セリナは裸のまま布団にもぐりこんだ。

 ……あの男は、もう私を満たせない。

 セリナは、自分が同じ階級になってしまったその男の痕跡を五感から消し去ると、身体を丸めて眠りについた。

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