③「それぞれの確執」

第三十一話  華夕の悪夢。

「……イライラすんだよ」

 耳に残った声がリフレインしていた。

 誰の声だろう。聞いた事あるはずなのに、思い出せない。

 その声は、私の心に小さな傷をつけた。それも、今まで傷ついたことのなかった部分に。

 もうほとんど残っていなかった、私の心のまだ血を流せる部分に。

 小さくても、確実に、傷をつけたんだ。

「華夕ちゃん、お買い物行くけど、お留守番してる?」

 ママが部屋のドアを開けて顔を出した。

「はぁい、ママ」

 にっこり笑って返事をする私。この頃はまだあの人を「ママ」って呼んでいた。三歳の娘を一人で留守番させる母。帰りが遅くても私が泣くことはなかったし、怪我をするような事も私はしなかった。私はお留守番をするのが大好きだった。お留守番をしている間は家にある本を勝手に読める。それが何より楽しかった。大人向けの文学全集。新聞。この頃はまだ学術書の面白さを知らなかった。家になかったから。

 おとなしくお留守番が出来るいい子。本を読むのが好きな賢い子。父も母も、そんな私をかわいがってくれていた。私はそう思っていた。いや、今でもそう思っている。

「……イライラすんだよ」

 声とともに聞こえる、心が凍るような舌打ち。

 どこにいても私を追いかけてきて、打ち据える断罪者。私は悪い事していないのに……。 

「ねぇお母さん、このご本買って!」

 初めておねだりをしたのはあの本だった。【見える物理・見えない物理】。本屋で偶然手に取ったのは、運命だったのかも知れない。奇跡的な出会いだった。

 幼稚園に入った頃から、私はあの人を「お母さん」と呼ぶようになっていた。買い物に出る時も、私に声をかけることがなくなっていた母。私は家の中にある本は読みつくしてしまっていた。毎日新しく送られてくる読み物――新聞は、この頃には私の興味の対象から外れていた。内容がよくわからなくなっていたからだ。

 書いてあること自体は理解できる。しかし書いてある事実からなぜその結論に到達するのか、その根拠がはっきりしなかった。書いていない事実の中にその根拠があるのかも知れない、とも思った。しなしそれなら何故それを書かずに結論を述べるのか。

 さっぱり意味が解らなかった。ひどい時は、書いてある事実が本当なら、そこから導き出されるべき結論とは全く逆の結論が書いてあることさえあったのだ。その時の私は、大人の考える事はわかんないや、で済ませていた。

 私は読むべき本のない家でお留守番する事をやめ、母が買い物をしている間本屋で過ごすようになっていた。

 そう。あの本。小学校に行くようになったばかりの私が生まれて初めてしたおねだり。

 その瞬間からだった。父と母の、私を見る目が変わったのは。

「……イライラすんだよ」

 舌打ち。そして、聞こえよがしのため息。

 はっきりと私を拒絶していた。取り付く島もない。私が完全に無力である事を思い知らされた。

「お母さん。東京に行ってもいいですか?」

 小学二年が終わる頃突然降ってわいた、春休みを利用しての東京行き。夏休みの宿題で提出したプレゼンを、学校の先生が学会に送付したことが全ての始まりだった。国際的な学会が私に注目し、コンタクトを取って来たのだ。

 この頃には、私は両親に対して敬語を使うようになっていた。私が読みたい本をお願いすると、父も母も、いつも一瞬奇異なものを見る目になった。一瞬の変化だが、私は見逃さなかった。私は、出来る限り両親へのお願いを我慢するようになっていた。本は、図書館で読む事もできる。

 東京行きの理由が、国際的な学会からの招聘だと知った時の両親が私を見る目は、奇異の目から畏怖の目に変わっていた。

「耳障りだ。黙ってろ」

 とどめの一言が頭の中でぐるぐる回っていた。エコーがかかったように、がんがんと響き渡っていた。私の身体がどんどん冷えていくようだった。

「華夕ちゃん、今日は大学連合会物理分科会での公演と、雑誌の取材、それから政府関係者との会食よ。学校は13時に早退してね」

 母は顔中を笑顔にして言った。

「……はい」

 私もにっこりして返事を返す。私が「ママ」とも「お母さん」とも呼ばなくなっている事に、この人は気付いているんだろうか。

 この人は、私が自分に対して「はい」しか言わなくなっている事に気付いているんだろうか。

 私のプレゼンが学会で評価され、マスコミが取り上げるようになってから、私の家はみるみる裕福になった。東京に引っ越した。有名な私立小学校に特待生で転入した。大人たちは私を引っ張りまわし、そのたびに家には贅沢なものが増えていった。

 私がどう話せば大人たちが喜ぶか、手に取るように解った。私は自分を必要としてくれる人のために、喜んでもらえるように演じていた。

 でも、大人たちの大半は、両親と同じ目をしていた。

 私は、本当に私を必要としてくれている人達のためだけに生きたいと思った。でも、そんな人がいるなんて思えなかった。

 親でさえ、私を「金のなる木」だと思っていたのだ。他人がそう思わないわけはなかった。

 やっぱり私には、本の中に書いてある宇宙の真理だけしか、心の支えはなかった。

「……イライラすんだよ。耳障りだ。黙ってろ!」

 そんな言葉は言われた事がなかった。想像した事もなかった。そんなはずはないと信じたかった。頭の中で繰り返すその声に、やめてと叫ぼうとした時、私は一筋の涙を流しながら、悪夢から目覚めた。

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