五章 珠玉の子供
一話 見える恐怖と頼もしい手
1-1 ひそむ毒
あの方はまさに世界の中心だった。
世界はあの方のために存在し、全ての命はあの方に捧げられるべきである。
そう私は心の底から思っていた。そう思うだけの価値が、魅力が、あの方にはあったのだ。
だからこそ、認められなかった。
世界に愛され、世界の中心で、気高く美しく全人類の上に立ち続けるあの方が、ただ一人の卑しい人間に対し情を抱くのが。
きっと慈悲深い魂が、可哀想な境遇に同情したのだろう。そう分かっていても、あの方の貴重な時間が、一分、一秒であろうと卑しい人間に使われることが我慢できなかった。
あの方にとってアレは不要である。
だから私はアレを処分することにした。
世界に愛され、世界に必要とされ、私の神と言えるべきあの方に、アレは必要ないのだ。
それなのに、それなのに、あの方は私を拒絶した。
きっと卑しい者に触れたから、可笑しくなってしまわれたのだ。
あの方の美しき魂を犯したアレが悪いのだ。
それでも、いずれ気づいてくれる。私が正しく、アレは不要。私こそがあの方を愛し、あの方の真の姿を知っているのだと。
きっといつか気づいてくれる。
だから私は待ち続けよう。
あの方が過ちに気づいて、私に会いにきてくれるまで。
私を迎えに来てくれるまで。
待ち続けるのだ。この場所で。
あの方が迎えに来てくれる、その日まで。
この身がたとえ朽ち果てようと、いつまでも。
私が世界で一番、あの方を愛しているのだから。
***
高校に入学して、私――香月七海の人生は大きく変わった。
中学生から高校生になる。家を出て寮で生活する。子供のころから暮らしていた地元を離れる。全て私にとっては生活を変える大きな出来事だ。
しかし、私を何よりもかえたのは環境の変化ではなく人との出会い。
佐藤彰との出会いが私の価値観、人生、選択を大きく変えた。そう私は断言することが出来る。
彰と出会ったことでさらに多くの出会いがあった。彰と出会わなければ会う事がなかっただろう、私とはまるで違う世界を生きる存在達。
そんな存在と出会い、話し、互いを少しずつ知っていく過程で、私はさらなる出会いをする。
正確にいうのなら、出会ったというか、出会っていたことに気づいたというか……。最初から存在していたものに、初めて目を向けたというか……。
細かいことはともかく、私の人生に新たな転機が訪れたことは間違いない。
私の意思を無視して。
本当にこれっぽっちも、かけらも私の意思を尊重せずに、好き勝手に蹂躙する存在が目の前に現れたのである。
あと一時間を耐え抜けば放課後。
そんな一番気が緩んで、気だるい時間。よりにもよって授業は眠くなると評判の日本史。定年退職間近の先生が間延びした口調で教科書を朗読している。
落ち着いた声と、ゆっくりとつむがれる言葉。現代人にはなじみのない単語が私の耳を通り抜けていく。これは人名か、それとも何か別の物か。何らかの事件の名前か。その区分すらも理解できない。単語の切れ端だけが耳に残って、結局はすべり落ちていく。
一言でいうなら、ものすごく眠い。
先生の言葉が子守歌にしか聞こえないし、何なら人間の言葉を話しているかどうかすら分からない。いきなり先生が英語をしゃべりだしたとしても、私は気付くことが出来ないだろう。そのくらいに思考は鈍っている。
あと一時間。それを乗り越えたら放課後。そう分かっているのに、その一時間が長い。私は閉じそうになる目を何とか持ち上げようと力を入れる。
だが、私の抵抗空しく瞼はゆっくりと落ちていき、頭も力なく下を向く。
ダメだ。このままでは寝てしまう。そう冷静な自分が警鐘を鳴らす。だが、とろけ切った思考は別にいいんじゃないか? と私を誘惑した。
ノートは後で香奈に見せてもらえばいいし、日本史の先生は寝ている生徒を一々起こして回る性格でもない。このまま睡魔に身をゆだねたって、誰も怒らないし、周囲も皆似たような状況だ。私だけが悪いのではない。
言い訳を何度か繰り返すうちに、冷静な部分の抵抗が小さくなる。
仕方ない。眠いから仕方ない。先生が眠くなるような説明をするのが悪い。そう他人に責任を押し付けて、ゆっくりと目を閉じようとした瞬間。
目の前に真っ青な瞳が見えた。
「うわぁあ!?」
閉じようとしていた私の瞼が急激に持ち上がる。同時に鈍くなっていた五感が勢いよく動き出した。
驚きと衝動のままに立ち上がってしまい、大きな音を立てて椅子が倒れる。その音で教室中の視線が私へと集まった。教卓の前で教科書を読んでいた先生が驚いた顔で私を見る。
「香月さん? どうかしましたか?」
私はそれにすぐに答えることが出来なかった。
ゆっくりと目を閉じて、開いて、自分がいるのが教室であり、今は日本史の授業中だと吹っ飛んだ情報を再認識する。
そして教室中から集まる、驚きにみちた瞳を見る。その中には心配そうに私を見る幼馴染の香奈、何してんの。と呆れた顔をする彰も含まれていて、いたたまれない気持ちになった。
「いや……その、すいません。寝ぼけてました」
そう教師に謝るといくつかの笑い声があがる。
先生は「ちゃんと話を聞いてくださいね」と少しだけ注意をして教科書へと視線を戻す。
私も少々の恥ずかしさと気まずさを覚えながら椅子を起こし、席へと座り直した。
集まっていた視線が私から離れた。香奈と彰も視線を外し、教科書、先生。人によっては再び眠りの中へと戻る。
そんな中、ただ一つ、先ほどと変わらずに私を凝視する瞳があった。
クスクス。とすぐ近くで子供の笑い声があがる。
高校の教室には不釣り合いな、性別が不確かな子供の声。
その声は私の少し上、頭上から降ってくる。そのありえない状況に、私はいい加減なれるべきなのだが、未だになれる兆しがない。
チラリと視線を向けると、子供が空中に浮いていた。
それに気づいているのは教室の中で私だけ。他の誰も、空中に浮く子供。正確にいうなら子供の幽霊の存在に気づいていない。気付いていたなら、こんな風に当たり前に授業を受けることなどできないだろう。
幽霊がいる。それだけでも衝撃的な状況だ。それに加えて目の前にいる幽霊は、クラスの中心人物――佐藤彰に似ているという無視できない特徴がある。
「ダメなんだよー。ナナちゃん。授業中に寝るなんて」
クスクスと子供にしては含みのある笑みを浮かべて、彰に比べると高い、子どもらしい声で幽霊は話す。
ナナちゃん。という呼び方は彰と同じなのに、この子供がいうとまるで違う音に聞こえる。
彰のナナちゃんは親しみがあるのに、この子供がいうと刃物をちらつかされるような恐怖を覚える。だから呼ばれるたびに小さく体を震わせてしまうのだが、それを見ると子供は満足げに笑うのだ。
それは自分の毒がゆっくりと浸透するのを確かめているような、とにかく恐ろしい笑みだった。
チラリと彰へと視線を向ける。
皆が眠気と闘っている中、彰は真面目にノートと教科書に向き合い、参考書を眺めながら、何かを真面目に書き留めていた。
先生の話を聞いてはいなさそうだが、日本史という学問には真剣だということが見ているだけで伝わってくる。
「アキラは、真面目で勉強熱心。素晴らしい人間だよね」
私と同じく彰を見ていたらしい幽霊が、やわらかな口調でいった。
見上げれば先ほど私を見ていたときとはまるで違う、うっとりとした表情で彰を見ている。大人が浮かべるような熟成された表情と、小さな体の違和感は何度見ても不気味だ。得体のしれない物を前にしているという恐怖と緊張感に、私は思わず下を向く。
私に興味が失せたのだろう。幽霊はふわふわと生徒たちの頭の上を移動して、彰の目の前へと移動する。
彰のすぐ近く。彰が顔を上げれば頭がぶつかりそうな距離に陣取った幽霊は、愛おし気な顔で彰を見つめた。何よりも誰よりも、世界で一番大事な存在。そう全身で語る幽霊を前にしてもノートに向き合う彰の手は止まらない。
彰には見えていないのである。
彰の双子の弟――トキアを、双子の兄である彰は全く認識できていなかった。
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