第77話:音羽優人の義理人情(第五部 終)
屋上で話して以来、織紙と野々宮たちの距離は離れてしまっている。
悲しそうに織紙を見る視線と、寂しそうに二人を見る視線。それが交差することはなかった。
おかしな事態は織紙の家の問題だと分かった。だから、口を出していい話じゃない。
そう思って、なにも言わずに居た。織紙も、そう言っていた。
ある晩に、夢を見た。演出家になりたいという話ではなくて、眠っている時に見る夢を。
爺ちゃんの夢だった。仕事一すじだった爺ちゃんの、唯一の趣味は時代劇を見ることだ。
仕事が終わったあととか休みの日に、録画しておいたのを見るのが好きだった。娯楽的なやつより、殺伐としたリアルな感じのが好きなんだと思う。
俺もよく一緒に見ていた。
「義を見てせざるは、勇なきなり」
時代劇を見ながら、爺ちゃんはよくその言葉を口にした。俺に向けて、ということでもなかったと思う。
でも「男ってのは、そうでなくちゃな」とも言っていた。今にして思えば、俺に同意を求めていた。小さな俺を、男として見てくれていたんだろう。
「俺は──クソ野郎だな」
いつだって気付くのが遅い。手遅れになってから、しかも誰かに言われてやっと分かる。
それでも、そのまま放っておく理由はない。その辺に投げ捨てていた服を適当に着て、自転車の鍵を取った。
時計は──九時前。両親はもう、店の準備をしている。織紙が休むから、婆ちゃんもなにかしているかもしれない。
いつもなら、手伝わないという選択はない。
ひとつ深呼吸をして、階段を下りる。まだ開け放たれている、店との境の扉。その敷居に立って、母さんに声をかけた。
「ちょっと出かけてくる。遅くなるかもしれない」
「ええ? 忙しいのに、どこへ行くの?」
「今日、織紙が家のことで大変なんだ。自分が犠牲になるつもりで──放っといたらダメなんだ」
俺はどんな顔をしているだろう。焦って余裕がないだろうか。自分の情けなさに、悔いた顔だろうか。
母さんは織紙の名前を出したせいか、次の言葉が出ない。
短い時間だったけれど、黙ってにらめっこをしているうちに、父さんがやってきた。
調理場を区切っている暖簾をくぐった父さんは、菜箸を握ったままだ。
母さんは父さんの顔を見て、「優人が──」と言いかける。
「急いでるみたいだな」
「うん。行かなきゃいけないことに気付くのが、遅すぎた」
「人さまの家のことだって?」
父さんは昔気質の人だ。それを織紙にぶつけてしまって、かなり険悪になったこともある。
またここでもかと、俺は覚悟をしなければならなかった。
「お前が行ったら、どうなるっていうんだ」
「なにが出来るかは分からない。でも行かなかったら、間違いなく織紙は居なくなる。そうなったら俺は後悔する」
織紙が居なくなると言えば、多少なりと聞く耳を持ってくれると思った。もちろんハッタリではなく、事実でもある。
母さんは明らかに驚いて、表情を変えた。話しているのが父さんでなければ、なにがあったのかと聞いているだろう。
でも父さんは、表情を変えない。黙ったままじっと見つめて、最後ににやっと笑う。
子どもがなにを言っているのかと、バカにしているのか。そうだとしても、俺は行く。
店の手伝いを、たかだかとは言わない。けれども一生の後悔を抱えてまで、優先することじゃない。
「お前、織紙さんのことが好きなのか」
「──は、え?」
「ハエがどうした。惚れてんのかって、聞いてるんだよ」
冷やかしみたいなことを言われたのは何度もあるけれど、はっきり聞かれたのは初めてだ。
というか、普通聞くか? そんなこと恥ずかしくて──
「お前、それでも先代の孫か」
「父さん?」
「惚れてるなら惚れてると、はっきり言え。それも言えないような半端なことなら、やめておけ」
そういえば、父さんの趣味は知らないな。まさか任侠ものとかが好きなのか。そうだとしたら、血も繋がってないのに似た者親子だけれど。
「そんなの──好きに決まってるだろ」
「じゃあ早く行け! いつまでグズグズしてるんだ!」
くそ、恥ずかしい。絶対に映画かなにかで、ああいうシーンを見たんだ。俺にやらせるなよ。
それでも行かせてくれるなら、気が変わらないうちに行かなければ。慌てて「行ってきます」と言った背中に、父さんの声が追いかけてくる。
「事情はあとで聞かせてもらうからな! 恥ずかしいことをするんじゃないぞ!」
恥ずかしいのは、こっちだ。
家を出て、自転車に乗るまではそう思っていた。でも漕ぎ始めると、まんざらでもない。
「グズグズするな早く行け、か」
父さん、なかなか格好いいんじゃないかと思った。
しかし出発したはいいものの、どこに行ってなにをすればいいかが分からない。
それを知るための当ては三つ。
確実なのは織紙のお兄さんだ。しかし妨害しに行くのを、すんなり聞いてもらえるか。それに連絡先も知らない。
次には野々宮たちだ。だけど昨日までの様子からすると、素直に話を聞いてくれるか少し怪しい。
それでも他に当てがなければ、聞くしかない。でも俺にはもう一人、頭に浮かんだ人が居る。
その人に会うために、俺は自転車をかっ飛ばした。のろのろと走る車くらいは、置いていく勢いで。
いつもの半分くらいの時間で、目的地に着いた。そこは俺たちの通う高校。
今日は日曜日だけれど、居てくれるだろうか。
たくさんの部活が活動していることだし、生徒である俺は堂々と校舎の中を歩く。
私服だと咎められるかもしれないが、忘れ物を取りに来ただけだと言えば怒られることもないだろう。
そんなことは余計な心配に終わって、目当ての部屋の前に立つ。まだ少し切れている息を整えて、ノックをした。
「どうぞ」
良かった。居てくれた。
安堵のため息を吐いて、引き戸を開ける。正面には、椅子に座ったままの与謝野先生がこちらを向いていた。
「あら、音羽くん。どうしたの、日曜日に」
「すみません。教えてほしいことがあって」
与謝野先生は、いつもの白衣を着てはいなかった。グレーのスカートにニットっぽい服が、目に新しい。
与謝野先生を交えた話は、先日の屋上でだいたい聞いた。でもその時に漏れていた内容があるかもしれないし、またそのあとで織紙が相談に行っている可能性はあると思った。
「今日、織紙がどこに行っているのか知りませんか」
「織紙さん? 知らないけど──どうしたの?」
聞いていなかったか……。
いや話してみれば、なにかヒントになることくらいは知っているかもしれない。
「ええと、織紙の件は聞いてますよね」
「──ええ。難しいことになっているみたいね」
「それについて、今日話すはずなんです。どこでなのか、先生が聞いていないかと思って」
先生は「そうなのね」と驚きを含んだ答えを返した。やはりなにも聞いていないらしい。
織紙は、あのあと誰にも頼らなかったみたいだ。織紙らしいとも思うけれど、悲しいような悔しいような、自分への腹立たしさが込み上げる。
「そうですか──すみません、お邪魔しました」
「待って。どうするの?」
「分かりません。どうにか調べて、言われるままにするのを止めに行きたいんです」
奥歯を軽く食いしばるように、先生は口を結んだ。それから目も閉じて、なにか考えごとをしているみたいだ。
一分ほどだろうか。黙って待つ身としては、微妙に長い時間だった。
「まったく。本当のここの子たちは真面目ね。そんなこと、私にも頼りなさい」
「え、いいんですか」
「もちろんよ」
与謝野先生は養護教諭だ。他の先生たちとは、少し立場が違う。その辺りになにかあって、葛藤したのがさっきの時間なのだろう。
けれども結論を出した先生の返答に、もう淀みはない。
「ちょっと待ってね。調べるから」
「はあ。え、調べる?」
あまりに簡単そうに言うので、聞き流しそうになった。でも調べるって、どんな当てがあるのだろう。
先生は壁際のキャビネットに行って、鍵を開けた。そこからそれほど厚くない、ファイルを取り出す。
「あの──」
問いかけようとする俺のことは横目でいなして、先生は鼻歌混じりに椅子に戻った。
なにをするのかと思えば、ファイルをぱらぱらとめくり、電話機を手元に引き寄せる。
「どこに──」
「ちょっと当てがあってね」
名簿かなにかを見ているのか。いったいどこにかける気だ。疑問には思うけれど、やはり答える気はないらしい。
何度も慎重に確認しながら、先生は番号を入力する。
「あ、もしもし。テツくん? 久しぶりね、与謝野です。養護の。覚えてる?」
テツくんて誰だ。
しばらく会わなかった友だちとでも話しているような感じだけれど、その人といま話す理由に想像がつかない。
「え? うん、そう。言乃さんのこと。今日、なにかあるんでしょ? どこに行ってるのか教えてもらえる? 二回目ってなによ」
直球か。
そんなことに答えられるなんて、本当に誰だ。俺が悩んでいる間にも、先生はあれこれ言って聞き出したらしい。
「なんの用か? 私じゃないわ。言乃さんの友だちがね、黙っていられないみたいなの。あなたと同じね」
なんだか気になる話もしながら、そのあと挨拶的なことをいくらか言って電話は終わった。
「さ、行きましょう」
「あれ、先生も行くんです?」
「なによ。必要なのは情報だけで、私は要らないの? まあそれでもいいけど、引率くらいはさせなさい」
いたずらっぽく笑う先生は、車の鍵が付いたリングをくるくると回している。
遠いところなのだろうか。それなら連れて行ってもらえるのはありがたいし、もちろん心強い。
私用につき、本日不在。と書いた紙を扉に貼って、先生は下足室に向かう。俺が入ってきたのは別の入り口なので、一旦は別れないといけない。
「音羽くん。彼女たちも呼んであげなさい」
「彼女たち? 野々宮とかですか」
「そう。早くしなさい」
返事をする前に、先生は行ってしまった。俺が連絡先を知らなかったら、どうするのだろうか。
まあともかく、連絡はしよう。情報を聞き出すのは気が引けたけれど、もう行動は決まった。
一緒に行くか聞くくらいは、容易いことだ。
『今から織紙のところに行くけど、一緒に行くか?』
アプリを開いて、チャットを打つ。グループとかは作っていないので、野々宮にだ。
反応がないようなら、電話をしようかとも思った。でもすぐに既読マークが付く。
『どこに居るの』
『学校。与謝野先生の車に乗せてもらう』
『駅まで行ってて。二人で行く』
よし、天海も誘ってくるみたいだ。俺は安心して駐車場に向かった。
先生は、もうエンジンをかけて待っている。助手席に乗り込んで、野々宮と連絡がついたと話した。
「駅って、そこでいいの?」
「あ、そうですね。駅に行っててと言ってるから、そうだと思います」
学校からいちばん近い駅に着くと、もう二人はそこで待っていた。
いやに早い。ちょうどどこかに行くところだったのか?
「ああ、やっぱり。行き先を聞かれるのは今日二度目だってテツくんが言ってたけど、あなたたちだったのね」
「そうです。ちょうど電車に乗るところだったので、ここまで来てもらってすみません」
あちらは話が通じているらしい。まあ俺もだいたい分かるけれど、やはりテツくんが誰なのか分からない。
「あの、テツくんて誰ですか?」
「ん? ああ、ごめんなさい。織紙さんのお兄さんのことよ」
二人も乗せて走り出した車の中、俺は驚いた。先生とお兄さんが知り合いなのはまだしも、なんだかすごく親しげだ。
「いやいや、そういうのじゃないわ。織紙くんも、うちの高校の卒業生なのよ。たまに保健室に来てただけ」
「へえ──」
聞いてみればなるほどと、そんなこともあるだろうと納得の内容だった。
それで話は終わってしまって、車内が静まる。まさか雑談をするわけにはいかないし、織紙のことをどうこうと言ったって気が重くなるだけだ。
「大丈夫よ。あなたたち、こんなに織紙さんのことを思ってるんだもの。きっとなんとかなるわ」
気休めではあっただろう。それでも与謝野先生の言葉は、少なくとも俺の気持ちを持ち上げてくれた。
車は三十分ほども走った。着いたのは──どこだろう。幹線道路沿いだから、建物を見たことはある。でもなんの施設なのかは知らない。
車を降りると、先生は駐車場に止めてくるから待っていろと言った。
区役所とかそういう公共の建物っぽいな。などと眺めていると、ずっと黙っていた天海が震え始めた。
「どうしたの、寒いの?」
野々宮が心配してかけた声にも、返事がない。無視しているのでもないと思うけれど、視線は建物に向いて、睨みつけるような雰囲気があった。
天海は幼い顔立ちをしているので、どうにも迫力に欠けているけれども。
おもむろに、すうっと大きく、天海は息を吸った。
「コトちゃあああああん! 迎えに来たよおおおぉぉぉ!」
どこからそんな声が出たんだ。小柄な天海が全身を声帯として使ったような、バカでかい声。
「ちょ、祥子──焦っちゃダメだよ」
さすがに窘める野々宮だったけれど、そんなことをするなとは言わない。
気持ちは分かる。俺だって、誰に向ければいいのか分からない気持ちが溢れそうだ。
周りを通っているのは車だけで、こちらに注目している人は見えない。建物の中に人は見えるけれど、そちらも意識している感じではない。
それがこのあとを暗示しているとは、考えたくない。俺は唾を飲み込んで、奥歯を噛み締めた。
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