第五部:しのびつついつつのころ

第60話:むかしばなし

 私たちの教室に時々、詩織さんが訪れる。

 大抵は彼氏の早瀬くんを連れ出して、廊下やどこか他のところでお話したり、お昼を食べたりしているのだと思う。

 早瀬くんが、たまたま音羽くんと話していたりすると、そのまま混ざることもある。

 前からそうだったのだとは思うけど、そんな光景に気付いたのは最近のこと。


 三人は幼馴染。思い出は共有されていて、今もそれは更新され続けている。

 そういう相手が居たら、私もまた性格とかなんとか違っていたのかなと思う。妬ましいとかはない。居なくなってしまったものは、今さらどうしようもないし。今の私にも、親友が居る。


 ただ、ああなっていなかったら。あれがなかったらと、過去に疑問を投げかけることはある。

 私にも、幼馴染は居た。


 その女の子は、香奈かなという名前だった。名字は覚えていない。たぶん近所に住んでいたんだろう。気付くとそこに居た、という感覚。


 具体的にどんなことをして遊んでいたとか、どんな話をしたとか、そんな記憶もほとんどない。

 そんなことよりも私に取っては、ずるい女の子という印象ばかりが表に出てくる。


 薄い記憶しかないのに、どうしてそんなことを感じてしまうんだろう。

 どんな顔だったかも朧げな小さな女の子に、私は罪悪感を覚えて思考を閉ざす。いつもその繰り返しだ。


 香奈ちゃんのことを覚えているか、お兄ちゃんに聞いたこともある。


「ああ……よく言乃と一緒に居たよね。でもどんな子だったかって言われると、ちょっと覚えてないなあ」


 気の毒なことだったねと最後に付け足されて、私の胸にちくりと針が刺さる。


 香奈ちゃんは、よく私の持ち物を欲しがった。いやそれも覚えているのは断片的なので、ほとんどは印象で言っているだけなのだけれど。


 唯一と言ってもいい、彼女との記憶。よりにもよって、どうしてそんな場面をと考えなくはない。

 でもそれだけ、私には重大な出来事だったのかも──。


 私が好きだったぬいぐるみを、香奈ちゃんは会うたびに持たせてと言った。一緒に居るうちは、絶対に離さない。

 香奈ちゃんのお母さんが迎えに来ると、「今日も貸してくれてありがとう」と、にっこり笑う。それからぬいぐるみに向かって、「またね」と名残惜しそうにする。


 そんなことが何日も続くと、私のお母さんも「その子、香奈ちゃんにあげれば?」と言い出す。

 私は嫌だったけれど、「会った時に持たせてもらえるだけでいいの」と言う香奈ちゃんが褒められるのを見て、もう要らないと思った。

 だからその場で、ぬいぐるみはあげた。「言乃は優しくていい子ね」と、お母さんが褒めてくれるのも喜べなかった。


 香奈ちゃんとは、毎日のように一緒に居た。彼女も私も、幼稚園なんかには通っていなかったのだろうか。

 彼女は私以外に、友だちとかは居なかったのだろうか。


 お兄ちゃんに質問した時、それも聞いた。

 するとどうやら、香奈ちゃんは母子家庭だったらしい。お母さんが働いている間、こちらはずっと家に居る私のお母さんが、預かっていたそうだ。

 それからいくつかの話を聞いて、それまで自分でもよく分からなかった気持ちに説明がついた。


 私が五歳の時だったらしい。

 その日は私の両親が、香奈ちゃんと私をお買い物に連れていってくれるところだった。たぶん香奈ちゃんのお母さんは、そんな日にも働いていたんだろう。


 でも私は、両親と一緒なのに、どうして香奈ちゃんまで居るのかと駄々をこねた。

 困った両親は、それでも約束したからと香奈ちゃんだけを連れてお買い物に出かける。私はお兄ちゃんと一緒に、家で待っていた。


 この日のことを、私は全く覚えていない。お兄ちゃんは、私がそんな我がままを言うところを初めて見たと言った。

 初めて我がままを言った日。それからずっと、両親は帰って来なかった。


 私はそれ以前の記憶のほとんどを失くし、自分の気持ちを発することが、恐ろしくて堪らなくなった。

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