第31話:黒いあくあ、暗いあくあ
夜中に目が覚めた。時計を見ると、三時を少し過ぎていた。
こんなことはあまりないのに、どうしたんだろうと思って周りを見た。
「あれ……?」
純水ちゃんが寝ているはずの布団が空だった。
布団と言っても、うちにはお客さま用なんて用意していない。だから、使っていないマットレスと肌掛け布団で我慢してもらっていた。
純水ちゃんの行方は、すぐに分かった。
掃き出し窓の網戸から入ってくる風で、レースのカーテンがなびいている。その向こうに人影があった。
「純水ちゃん」
「──あ、ああ。ごめんね、起こしちゃった?」
「ううん。たまたま目が覚めたの」
部屋の中から声をかけていると、祥子ちゃんまで起こしてしましそうだった。だからベランダ──というか物干し場に出て、純水ちゃんの隣に並んで外を見た。
「ふうん。いつも?」
「違うよ。本当に今日は、たまたま」
「そうなんだ」
純水ちゃんは最初にちらと見たきり、私のほうを見なかった。
いつもは誰に対しても、どんな時にも、まっすぐに相手を見る彼女らしくない。それくらいは、鈍い私にも分かる。
でも、なんて聞けばいいのか分からなかった。
悩みでもあるの?
一番簡単なのは、そう聞くことだろう。
でもそれは悩みの内容を話せと言っているわけで、私なんかがぶしつけに聞いていいものとは思えなかった。
「コトはさ……」
少し先に、見慣れた真っ黒な海の見える風景を視界に入れながら、頭を悩ませていた。
でもいい考えなんて全然浮かばなくて、純水ちゃんが先に口を開いた。
なにを話せばいいか私が困っているみたいだ、と彼女は気付いているらしく、すごく切ない。
「うん? なあに?」
「今までに、ちょっとでも好きだって思った人が居る? 小っちゃな時でもさ」
「うーん──」
昼間のお話の続きかなと思ったけれど、それともちょっと違うらしい。なんにしても真面目に聞いているのは分かったので、一応は記憶を辿ってみた。
「ごめんなさい、ないと思う。あったかもしれないけど、覚えてない」
「音羽のことは、本当になんとも思ってないの?」
「なんとも思ってなくはないけど……好きって、お付き合いしたいとかってことでしょう? 私なんかがそういうのは、想像も出来ないよ」
どうして私のことになると、すぐに音羽くんの名前を出すんだろう。音羽くんだって、選ぶ権利はあると思う。
「そっかー。まあ嫌いじゃないなら、縁もあるかもね」
純水ちゃんは、困ったような顔で少し笑った。けれどもすぐに「でも」と継ぎ足した。
「自分のことを、私なんかなんて言っちゃだめだよ。コトは可愛いし、いい子なんだから」
「そんなことないけど。ええと──?」
質問に答えられるような記憶もないのに、ほんとそんなことないと思ったけれど、それは言わなかった。
それより純水ちゃんに、まだなにか話したいことがあるんじゃないの? と促した。
「うん、そうだね。あたしが聞いたんだった。コトが恋愛経験あるんだったら、話すのやめようと思ったんだ」
「んん? それは逆じゃなくて?」
経験があったところでアドバイスなんて出来るとは思えないけれど、話の筋としてはそうじゃないんだろうか。
「誰でも自分の経験で判断するでしょ。あたしのは、そういうんじゃないから」
「うん…………ごめんなさい。純水ちゃんがなにを話したいのか、まだ分からない」
純水ちゃんのほうを向いて、頭を下げた。すると彼女は慌てて「やめてやめて」と頭を上げさせる。
「あたしが分かんないように話してるんだよ。話したいけど、話したくないの。分かってんだよ」
純水ちゃんは、手すりに置いた自分の腕に顔を埋めた。そのまま「はあっ」と、大きめのため息が出る。
私は、どうすればいいんだろう。
私は、なにを言えばいいんだろう。
いつも助けてくれる純水ちゃん自身がこうなってしまって、きっと祥子ちゃんにも今は聞かれたくないんだろう。
話したいけど話したくない。
矛盾するその気持ちを、私は持ったことがない。ここまでの話からすると、恋愛の話には違いないんだろう。
私はそれも、自分の体験としては分からない。
でも純水ちゃんは、そんな私だから話すのをやめなかったと言った。
……ああ、それなら分かる。理屈っぽい私のために、純水ちゃんはちゃんとヒントをくれていたんだ。
「純水ちゃん。私は聞きたいよ? 純水ちゃんが私になにを話そうとしているのか、どうしても教えてもらいたいよ?」
「コト……」
純水ちゃんの潤んだ目が、私に向けられた。
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