第15話:兄と本とコーヒー
いつも、おとはのお手伝いが終わると、寄り道することもなく家に帰る。遅くまで開いているスーパーに行くことはあるけれど、それは寄り道じゃないよね。
でも今日行った、大きなスーパー。これは寄り道だったかもしれない。
集合住宅の狭い階段を昇って、玄関の重いドアを開くと、板張りの狭い廊下がダイニングまでの短い橋渡しをしている。
一応はフローリングなのだろうけれど、いわゆる安普請で、板張りと呼んだほうがしっくりくる。
そもそも狭い廊下も、下駄箱の上も、ありとあらゆる空間は本で埋め尽くされている。
古本屋さんとはまた違った紙の臭い。それが私の家の臭い。
「お兄ちゃん、帰ったよ」
引き戸越しに言った。お兄ちゃんへは声をかけたりかけなかったりだけれど、玄関のドアは金属製なので派手な音を立てる。そっと出かけたり、帰ってきたりというのは出来ない家だ。
「――ん、お帰り」
なにか考えごとでもしていたのか、少し間があってからお兄ちゃんの返事がある。戸が開くこともない。これもいつものことだ。
お兄ちゃんはこの家の中でも最も紙密度の高い自室から、出てくることがほとんどない。
小さなキッチンを見ると、作っておいたおかずの皿やらが綺麗に洗って乾燥機に置いてあった。三角コーナーにもほとんどゴミはないし、今日はきちんと食べたらしい。
こんな生活をしていると、健康面が心配ではある。でもお兄ちゃんにはお兄ちゃんのペースというか、ルーティンというか、そういうものがあるらしい。
一度それを崩してみてはとも思うけれど、それで色々改善するものか、あるいは改悪されるかも分からないので言い出せない。
「お兄ちゃん、私、明日は朝から友だちと出かけるから。夜も遅くなるし、ご飯はコンビニでいい?」
「ああ、いいよ」
お兄ちゃんは、お酒も煙草もしない。その代わりというのか、コーヒーは大好きだ。豆から淹れた物でも、缶コーヒーでも、コンビニメイドのコーヒーでも。
これと決まった銘柄を飲み続けるんじゃなく、毎回違う物を飲みたいらしい。
だからそれを買うためのコンビニへは日に一、二回は出かけている。
「二千円でいい?」
「いや、自分の財布から出すよ」
食費を管理しているのは私なので、そこから出すことを提案した。でもお兄ちゃんは断った。私が食事を作れないといつもこうなるので、気が引ける。
でもまあ、明日はたまにのことだし、大目に見てもらおう。
たまにというか、初めてのことなのは棚に上げておいた。自分で断言してしまうのは、なんだか悲しかった。
たぶん昼ご飯になるに違いない、朝ご飯くらいは用意しておいてあげようと、エプロンを纏う。
卵と、スナップエンドウと――ベーコンでいいか。
材料をキッチンに並べたところで、引き戸の開く音がした。別に避けられているわけじゃないけれど、私が居るタイミングで、お兄ちゃんが出て来ることは珍しい。
トイレかな?
「言乃――」
「どうしたの?」
お兄ちゃんは急に立ったからか、顔が白かった。無精ひげも生えていてあまり清潔感はないけれど、細い体格で体毛も濃くないから、暑苦しくはない。
そのお兄ちゃんはトイレでも冷蔵庫でもなく、私を見て目を丸くしている。
「友だちと出かけるって言ったか? 一日中?」
「うん、そう」
「この間言ってた――ええと、まりん――」
「純水ちゃんだよ」
私が言うとお兄ちゃんは笑って、縦に小さく頭を振った。張り子のトラみたいだった。
お兄ちゃんがなにを考えているのか、大体は分かる。でもそれは、今ここで口に出さなくてもいいことだ。
「あと、祥子ちゃんだったか。気をつけてな」
「うん、ありがとう」
それでお兄ちゃんは戸を閉めた――と思ったらまた戸を開けて、冷蔵庫まで来ると、中から買っておいたらしい大きな缶コーヒーを取り出した。
それからなにも言わずに部屋に戻って、今度はそのままだった。
簡単なおかずを作って軽くラップをかけて、大きめの付せんに手紙を書いて貼り付けた。
手紙と言っても、朝・昼ご飯だよというだけだけれど。
冷めないと冷蔵庫に入れられないので、先にお風呂に入る準備をした。
着替えを持ってお風呂場に入ろうとすると、お兄ちゃんに呼び止められた。
「泳ぎに行くなら、波とか深場とか気をつけてな」
「分かった。お兄ちゃんも寝る時は寝てね」
返事はなかった。
でも、テーブルの上に置いたスーパーの袋から、水着やバスタオルが覗いているのに気付いたんだと分かって、私は少し嬉しくなった。
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