第3話:入学式、起こったこと

 あの日。入学式の日。

 私は今そうしているのと同じように、朝早くに登校した。教職員駐車場にも車はほとんどなく、我ながら早すぎたかと失笑したレベルだった。

 誰も居ない学校。これが夜ならば気持ち悪いのかもしれないけれど、朝のそれはとても神秘的だった。

 だから私はワクワク、ドキドキして、散策することにした。


 この学校で目立つのは、なんと言っても講堂だった。

 そろそろ潰されるのかなんて噂されている、公営の音楽ホールとは勝負にならないくらい。

 私はまず、そこに入ってみたかった。

 中に人の気配はなくて、入学式の準備は終えられていた。案内一つを取っても、オペラコンサートかなにかですかというような装飾に驚いた。

 贅沢にもここに通わせてもらえるんだなって、大げさでなく、少しばかり涙がこぼれてしまった。


 せっかくだから、迷惑にならなそうなところまでは見せてもらおうと思って、一階をぐるりと回る。

 一番見たかったのは舞台袖だったのだけれど、そちらにはもう作業をしている人が居るようだったので、遠慮した。

 それならばと、座席側を見せてもらおうと思って、三階に上った。

 入学式でどうせ見るのだけれど、自由な位置から見ることは出来ないし、誰も居ないのは今しかないと思った。


 私が上った階段に近い扉は、まだ鍵が掛かっていた。それで諦めれば良かったのだけれど、通路の真ん中にある扉だけは開いていた。

 扉を開くと、中から外へ解放された空気で、僅かに押し返されたような感覚がある。

 広い――落ち着いた木の色の空間。暗幕の黒と、緞帳の臙脂と金色。床に貼られた赤い布が調和していた。


 その空間に、音羽くんが立っていた。いやもちろんその時は、名前を知らなかったけれど。

 私の立っている扉から三、四メートルほどの短い平面。そこから舞台まで傾斜のきつい階段が降りる、その端に立っていた。

 音羽くんは両腕を掲げて、顔も上向いていた。有名な漫画で、みんなから元気を分けてもらう、あのポーズだ。まさか気を感じているとは思わなかったけれど、なにをしているのかな、とは思った。


 ああ――でもそうしてみたくなる気持ちは、分かるかもしれない。

 例えばここでお芝居をやっていたら、オペラを演じていたら、その世界観を全身で浴びることが出来るのは、その位置だと思うから。

 邪魔をしてはいけないと思って、そのまま見ていた。

 でも音羽くんは動かない。なにかあったのか心配になって、声をかけてみた。


「あ、あの――」


 声が小さい。この静かな空間でも、聞こえていない可能性が高い。自分の引っ込み思案に、「もう」と歯噛みする。

 と、音羽くんの腕が下がってきた。顔も俯いてきて、どう見ても体調が悪いんだと思った。


「大丈夫ですか――」


 すぐ後ろまで近づいて、声をかけた。まだ声が小さい。でもさすがに聞こえているはずだった。

 けれども音羽くんの様子に変化はなくて、もしかしたら意識を失っているのかと思えた。今度はちゃんと確かめないと。


「大丈夫ですか!」


 精一杯大きな声を出して、肩を叩いた。

 男性に、というより家族以外に触れた経験がなくて、自分でびっくりして手を引っ込めてしまった。


「あ……」


 小さく呻くように、音羽くんの声が聞こえた。

 その時はもう、彼の体は前方に傾いていた。咄嗟に手をつかんだけれど、私の力では全く支えにならなくて、するっと手から抜けていった。

 音羽くんが階段を落ちていく姿は、やけにゆっくりに見えた。実際にはそんなことはなくて、相当の勢いだったはずなのに。

 ずるずると滑り落ちるなら、まだ良かったかもしれない。でも音羽くんの体はごろごろと転がっていった。

 首を基点にして、格好だけは柔道の受け身のようにも見える。でも腕や脚がぶらぶらと揺れるあの状態で、衝撃を受け流しているとはとても思えない。

 人と接することの少なかった私は、バランスを崩している相手に触れれば危険なこともあると、そんな簡単なことも想像出来ていなかった。

 自分にその意図はなくても、私は人を突き落としてしまった。



 怖くて、怖くて。私は酷く、叫んでしまった。



 一つ叫んでから、大きく息を吸って、倒れている音羽くんを見た。

 このままじゃいけない。そう思って、階段を駆け下りた。

 擦り傷はあるけれど、大きな傷は見えなかった。腕や脚が、あらぬ方向に曲がっているということもない。


「あの! あの!」


 名前も知らない男子生徒へ、それ以上になんて声をかければいいか、思いつかなかった。揺り起こそうともしたけれど、頭を打っていたら動かすのは危険だというのを思い出して、それも出来なかった。

 それからすぐ、私の声を聞いた人たちが舞台袖から来てくれて、救急車で運ばれた音羽くんは入院した。


 その日のうちに、病院に行った。お見舞いは出来なくても、なにか出来ることはあるかもしれないと思って。

 すると、ちょうど帰宅するところだった、音羽くんのご両親に出会った。


「なんてことをしてくれるんだ。ただで済むと思うなよ」


 私がどういう立場であるかを説明すると、音羽くんのお父さんは怒気を隠さずにそう言った。それでも声を抑えてくれたのは、病院だからだろう。

 お二人は、すごくやつれた顔をしていた。大事な子どもを傷つけられたらそうなるよねと、私はとんでもないことをしてしまったんだと、その表情を心に深く刻み込んだ。


「事情はともかく、今日は居てもらっても悪いからお帰りなさい。出来ることも本当にないの。だから私たちも帰るのよ」


 音羽くんのお母さんは、疲れた顔に笑顔を湛えて言ってくれた。ほっとなんかしてはいけないと思うのに、心が緩んでしまう顔と声だった。

 連絡先だけは交換して、いつもより大分遅くに家に帰った。

 悲劇のヒロインになるつもりなんてないけれど。悪いのはもちろん私なのだけれど。耐えきれなくて私は泣いた。

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