第三十話 桜

「はー、ええ天気やで」


 全国ニュースでは、今年の桜前線が日本列島を北上中とのことだ。九州や関西からは、美しい桜のニュース映像がテレビの中継で流れるようになった。松島まつしま基地のある東松島ひがしまつしまの桜の見ごろは、一ヶ月後というところだろうか。


 だが、今日の午前中、基地上空で一足先に桜の花が咲いた。青空に咲く大きな白い桜の花。ブルーの曲技飛行の課目の一つ『サクラ』だ。


「三月にしては珍しく暖かいやん。これはもう、絶好のバケツシャワー日和びよりやね」

「良かったですよ、晴れて。これも影山かげやま三佐とカゲ坊主の御利益ごりやくですかね」


 バケツを運んでいた神森かみもりが笑いながら言った。


「なんやねん、御利益ごりやくて。俺はお地蔵さんちゃうで」

「でも、三佐が松島に来てから、ラストフライトでも天気が悪かったことはないそうですから。間違いなく晴れ男の御利益ごりやくですよ。もしかしたら基地司令に、任期が終わってもここに残るように言われるかも」

「絶対に残らへんで、俺は。なにがなんでも築城ついきに帰るんや」


 これ以上とんでもない飛行をするのは、マジかんべんや。


「ま、あちらのマニアさん達も、三佐がブラックパンサーに戻ってくるのを、首を長くして待ってるでしょうからね。でも、それはまだ先のことです。三佐の松島ラストフライトの日までは、しっかり飛んでくださいよ」

「飛びたない俺に、なんちゅーこと言うねん」

「最近、三佐の〝飛びたない〟は〝押すなよ〟と一緒だと思い始めてるんで」

「ほんまに飛びたないのに、なんでやねん」


 午後ラストの訓練が終わり地上に戻ってきたところで、待機していた連中がバケツを持って一番機の元へと集まってきた。バケツの中には水と氷が入っている。季節が真夏だろうと真冬だろうと、場所が千歳ちとせ基地だろうと那覇なは基地だろうと、バケツシャワーには氷水と決まっているのだ。


 すでに今年に入って異動していったキーパー達も、その洗礼を受けていた。そして今日のバケツシャワーのターゲットは、飛行班長の吉池よしいけ三佐だ。


「おーい、坂崎さかざき、ポンプ銃は用意してきたか?」

「ありますよ。もー探すの苦労しましたよ、こういうのって、夏にしか売ってないんですかね」

「通販で買ったんやろ?」

「注文しようとしたら〝在庫切れ〟ですよ。今日に間に合って良かったです」


 そう言って坂崎が持ってきたのは、水鉄砲のでかいやつ。最初は子供が使うような小さなものを用意しようと考えたんだが、やるなら思いっ切り派手にと、大きいやつを用意することにしたのだ。


「これ使うんは誰や?」

「そりゃ、一番機組の機付長でしょ。足立あだち曹長と吉池三佐、何度も機体整備のことでぶつかってましたからね。今日こそ決着をつけて思い知らせてやるって、言ってました」

「誰がやねん」

「そりゃ、曹長に決まってます」


 普段は、非常に仲の良いそれぞれの機体のライダーとキーパーだったが、機体のこととなるといっさい妥協せず、互いに絶対ゆずることはなかった。


 以前に葛城かつらぎ宮嶋みやじまに食い下がったようなことはどの機体でもしょっちゅうで、特にベテランのパイロットともなれば、経験値が高いだけにキーパーに対する突っ込みも激しい。俺も、吉池班長と足立曹長がT-4のことで激しく言い合うのを、よく見かけたものだ。


 だからといって二人の関係が険悪なのかといえば、そんなことはまったくないのだが。


「もう一ちょうは?」


 用意されたポンプ銃は二ちょう


「それはお子さんにと思って」

「ああ、なるほど」

「もしかして先輩も使いたかったですか?」


 俺の顔を見ながら坂崎が聞いてきた。


「いや。俺はバケツでかまへんで」

「先輩~~、めっちゃ悪い顔してますやん」

「気のせいやろ」

「そうかなあ……」


 小道具を使わなくてもバケツさえあれば問題なしやで。ヒヒヒッと笑うと、坂崎があきれたように首を横にふる。


「もー、先輩ときたら~」

「なんやねん。班長と機付長の勝負を邪魔するつもりはないで?」

「そうじゃなくて。……もーいいですよ、とにかくほどほどにですよ~、班長の御家族も来てるんですから」


 そう言いながら坂崎は笑う。


「なんや坂崎、お前、青井あおい班長の口調が似てきてへん?」

「先輩と長くいるとそうなっちゃうんですよ。だからしかたないです」

「どういう理屈かさっぱりや」

「俺にもよくわかりません」


 かくして吉池班長を送り出すセレモニーが始まった。家族と一番機の前で写真を撮るところまではなごやかな雰囲気だったが、それが終わったとたんに、周囲のクルー達が臨戦態勢りんせいたいせいに入る。


「さあ、いよいよ本番やで」


 ポンプ銃を持った足立曹長を先頭に、全員が吉池班長を取り囲んだ。


「おい、なんだ、そのでかいのは」


 足立曹長の手にあるものを見て、吉池班長が目を見開く。


「今日まで散々、あれこれ文句を言われましたからね。今日はそのお礼をしようと思いまして」


 班長の問いかけに、ニコニコしながら答える足立曹長。おいおい、すでに二人の間でただならぬ空気が漂い始めたで?


「お礼って。どう考えてもお礼の装備じゃないだろ、それ」

「そんなことないですよ。では、覚悟してください、班長。総員、かかれ!!」


 その号令とともに、全員が手にしたバケツの氷水を班長に浴びせ始めた。もちろん後ろには放水車が待機ずみなので、水が途切れることはない。あっという間に、その場は氷が転がる水浸しの状態となった。その様子をながめなが、ら俺もバケツを手に班長のもとへ向かう。


「いやあ、吉池班長、お疲れさんでした。班長がおらんくなったら俺、めっちゃ寂しいですわ~」

「影山、寂しいって顔じゃないぞ、その顔」

「えー、ほんま寂しいでっせ。ほな、どうぞ~~」


 そう言ってバケツの氷水を頭にぶっかけた。氷が襟の中に入り込んだらしく、班長が変な声をあげる。


「氷、でかくないか?!」

「普通サイズでっせ?」


 実はこの日のために、大きめサイズの氷を調理室の冷凍庫で準備していたのは秘密だ。


「お前、絶対に喜んでるよな?!」

「いややわー、この人、なんでそんなひねくれた考えかたするんやー、ショックやわー、ショックすぎて明日から飛びたないわー」


 わざとらしく傷ついたような顔をしてみせた。


「お前の飛びたないはいつものことだろうが」

「今のはマジもんでっせ、知らんけど」

「どこがだ、どこが」


 班長のお子さんが、ポンプ銃を持ってやってくる。


「お、良いのがあるじゃないか。ちょっと貸せ」


 息子さんがニコニコしたまま、班長にポンプ銃を渡した。おい、これはちょっとヤバない? 班長の手に飛び道具が渡ったで?


「ここまで盛大にやってくれたんだ。こちらとしても返礼はしなくてはならんだろうな」

「返礼て大袈裟おおげさな。いつもの恒例ですやん」


 ヤバいでヤバい。じりじりと後ずさりをして班長と距離をとる。


「それにだ。ここはやはり、足立ときっちり勝敗を決めておかないとな。おい、足立! 覚悟はいいか!」

「お、最後の最後でまた俺に負けにきますか、班長」


 声をかけられた足立曹長がニヤッと笑った。


「どんな減らず口だ。俺がお前にいつ負けた?」

「班長が俺に勝てたことなんてありましたっけ?」

「それはこっちのセリフだ」


 お互いに牽制けんせいしあいながら、ポンプ銃に水を補給して満水状態にする。


「うわあ、本気やで、この二人……」


 全員が二人を遠巻きに囲んだ。


「なんや、えらいことになったような気が」

「なにをいまさらだろ。あんなものを用意したんだ、二人にやれと言っているようなものじゃないか」


 俺の横に立った隊長がニヤッと笑う。


「いやあ、まさか二人が打ち合いをすることまでは、想定してなかったんやけどね」

「二人だけですむと思うのか?」

「え?」

「ん?」

「……え?」


 かくして俺達は、吉池班長と足立曹長の打ち合いに巻き込まれることとなり、その場にいた御家族をのぞいた全員がずぶ濡れとなった。


 その状況にヤバいと察し、早々に退避しようとした基地司令の後頭部にもあたってしまい、〝なんで俺までが。俺、基地司令で偉い人なのに〟と司令がぼやいていたとかいないとか。



+++++



「へ……へ……っくしょいっ!!」

「大丈夫ですか?」


 派手なクシャミをした俺の横で、葛城が心配そうな顔をした。


「大丈夫なわけないやん、もー、なんや寒気がするで」


 あれから、フェンス外でカメラをかまえていたマニアさん達に挨拶をすませると、全員が急いで屋内に退避した。いくら季節が春だろうとここは東北。水遊びをするにはちょっとばかり早すぎた。


「それは大変。風邪をひかないようにしないと」

「ほんまやで」


 俺のことを心配している葛城だったが、こいつがほとんど打ち合いの被害にあっていないのがせない。俺は上から下までずぶ濡れだったと言うのに。こいつ、間違いなくあの渦中にいたんやけどな……。


「ここはビタミンCですよ。タンカン、まだ残ってますか? ないなら持ってきますよ」

「あんなん、とっくに食べてもうたわ。なんで葛城んちにはまだ残ってんねん」

「あの時に持って帰ったタンカンはとっくにないですよ。あれから二度ほどお取り寄せしたんです」


 なんとまあと驚いた。しかも二度ほど?


「どんだけ食べるんや、葛城家。食べすぎて足の裏、黄色うなってへんか?」

「そんなことないですよ。でも、もし食べたかったら遠慮なく言ってください。今年度分の最後のタンカンを頼んだので、そのうち二箱ほど届く予定ですから」


 しかも二箱?!


「どんだけ好きなんや、タンカン」

「俺じゃなくて妻と子供がですよ」

「ほんまにタンカンの妖精さんやな……っくしょいっ!!」

「あー、それはいよいよ風邪かも」

「ほんま、かなわんで。これ、労災おりるやろうか?」


 なかば本気で申請してやろうかと思った。


「まあ無理でしょう。ていうか、風邪だと認めてもらえないような気が」

「なんでやねん。これ、ぜったいに風邪のひきかけやろ。あかんで、こんなんやったら明日から飛ばれへんわ」


 ブツブツつぶやきながら葛城と廊下を歩く。


 そしてその日、帰宅しようとロッカーに行くと、なぜか俺のロッカーに紙袋が貼りつけられていた。


「なんやねん、これ」


 中に入っていたのは、栄養ドリンクと風邪薬だった。


「……なにがなんでも半日で治せってことかいな。ほんま、容赦ないで、うちの隊長と班長……」


 誰がこれを貼りつけたかなんて、聞かんでもお察しってやつや。

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